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春の白い朝が明けるやいなや、まだ暗い内から起き出していた城内も、方々からの目覚めの活気を得て俄に爽やかな喧騒に包まれだしていた。朝靄はすでに払われて、上天に広がる青は斑一つなく、美しい。今日も快晴である。
無礼講極まりない大酒宴が開催された大広間も既に忙しない女人たちにより盛大に整理整頓され、酔いつぶれて雑魚寝していた諸侯も明方前には叩き出され、すごすごと各々の領分へ戻っている。
すっかりと元の雅な雰囲気が戻った黒光りする木目の上には今、ほっこりとした湯気が立つ朝餉が並んでいる。
久方ぶりに馴染みの全員が揃う座である。続々と姿を現した男どもは昨日の酒など既に忘れ去った表情で席に着き、和やかに談笑している。ややあって、米沢城主が最後に現れた。上座に座り顎をしゃくれば毒見役が厳かににじり寄って箸を取る。間も無くそれが終わって、漸く食事の開始である。
朝食は元より近しいものと取る習慣がある彼。目覚めは快活で、昨日の揉め事や酒など、勿論持ち越さない。一同がそれ相応に畏まって朝の挨拶を告げるのにだって、鷹揚ながら機嫌よく応じるのが常だ。話題も軽妙なものから重厚なものまで幅広く、また尽きず、この時ばかりは歳相応らしい仕草や表情を覗かせる。
その筈なのだ。
「…なんかあったの?」
「……さあ」
小声で交わす会話は成実と小十郎のもの。視線を合わせれば囁き合っていると露見するからか、両者とも視界は膳の範囲を出ていない。しかし先程、彼が室内に入ってきたときに、確かに全員が見たのだ。そして今も変わらない。煮付けを頬張って思い切り租借する、その、憮然とした表情。
「さあっておまっ、小十郎がわかんねーならお手上げじゃん! どうすんだよアレ、すっげーしかめっ面だぞ」
「そう言われてもな……、今朝の初めに御会いした時から既にあの調子なのだ。こちらから尋ねて素直に答えて下さる方ではないし…」
小十郎がそう言うのへ、成実は味噌汁の碗を傾けながら神妙に頷く。
こういうときには、余り直接的に触れてはいけないと、付き合いの長いその場の誰もが痛感している。宛ら捨て置いても逆効果なのだ。話題を逸らし、気を逸らし、徐々に徐々に自己回復させるしかすべは無い。
現に今だって、年嵩の鬼庭綱元が一番気を使って何事かと言葉を重ねてはいるようだが、一応は返事を寄越すものの、気の無いものばかりである。「ああ」だの「そうか」だの、何にでも対応しうる相槌を使う内はまだ駄目だ。ここは一つ、盛大に可笑しな話でもして、気持ちを切り替えて貰うのが一番である。でなければ巡り巡って八つ当たり、などという落ちも、大いにありうるのだ。そしてその矛先は、一番歳も近くやり込めやすい相手……消去法にて流麗に決定される。
己自身の平穏のため、意を決した成実が大げさに嚥下する。
「いやぁ俺さぁ、昨日呑み過ぎちまった所為か、物凄い変な夢みたんだよねー」
ちら、と鋭い隻眼が一瞬だけ持ち上がり、朗らかを苦心して演出する従兄弟殿を見た。しかしその後はまた何事もなかったかのように箸を動かす。
しまった、明るい声を出しすぎたか。
笑顔を貼り付けたまま、成実の背を妙な汗が伝う。
脇手に居る小十郎が微妙な視線を送ってくる。向かいの原田宗時に至っては、目を瞬かせて成り行きを見守るだけに過ぎない。助け舟は仕様がなく、といった具合にて、綱元が寄越してきた。行儀の良い奉行は律儀に箸を置いてから合いの手を入れる。
「珍しいな、大酒豪のお前が酔いつぶれるなぞ」
「でしょ? 俺も自分で意外だったもんなぁ、何年ぶりだよ、みたいな」
「それで、妙な夢というのは?」
「いやーそれがさぁ、ホント脈絡無いんだけどね」
これは作り話などではなく、本当に昨夜、夢うつつに見たものである。
「鬱憤溜まってんのかなぁ、俺。夢の中でね、すっげー好みの女の子が出てくるの。もう超可愛くて、見た目なんか欠点一つなくてさ、中身も…なんか知らないけど、まぁ凄くいい子って思ったんだよ。で、その子といい感じの雰囲気になって、やったー押せ押せ!ってなったわけ。したら突然さぁ、腕ン中でその子がボンッつって鶏に化けてさ! しかも物凄い声で鳴くの! もううるっさいのなんの、しかも暴れて蹴られるわ突付かれるわ、散々でさァ……」
ザクッ、と音がして、成実の言葉尻が宙に融けた。全員が音のした方を見遣れば、立派な煤竹の箸をやや肉厚に切られた沢庵に突き刺し、それからゆっくりと持ち上げ、口元に運ぶ城主の姿。がりがりばりぼり、と奥歯が大根の成れの果てをすり潰し、噛み砕いて、容赦ない蹂躙を続ける。
暫く、物々しい静寂の中で、静かな食事が続けられた。まるで通夜か葬式か、音といえば陶器の擦れであったり、汁物を啜る僅かな齟齬。少なくとも城主その人意外は、成実の懸命な健闘を心中だけで讃えている。
ややあって、今度の音は酷く繊細で、控えめな箸の着地音だった。
盛られた献立を余すところなく綺麗に平らげ、ふっと吐息を逆巻いたのち、隻眼がゆうるりと持ち上がった。
「成実」
自責と後悔で散々下を向いていた彼の視線は、その一言で持ち上がる。
その先には、彼が今まで滅多に見たことのない、伊達政宗の爽やかな笑顔が待ち構えていたのである。
「…うむ、やはり解せぬな」
のんびりと麗らかな空を見上げて暫く熟考していた綱元が、ふと瞳を瞬かせて告げたのがそれだった。本当に考えていたのだろうか、という尤もな疑問が小十郎の咽喉をせり上がったが、結局は音になる前に霧散した。余計なことを言うと疲れるだけである。
「機嫌が悪いことなど日常茶飯事だが、あれほど表に出されることは嘗て無い。余程腹に据えかねたのだな」
「根が真面目な方ですから……、しかし、昨夜までは本当に普段道理でいらしたのですよ」
「では、それから先、今これまでだな」
「そうそう問題が起きそうに無い時間帯ですが」
「まあ、な」
悶々と考えあう男どもの前では、虫の居所が最悪のままである城主と結局貧乏くじを引いた従兄弟殿の二人による、情け容赦の無い掛稽古が繰り広げられている。
模造刀の竹光とて、六爪を操る強靭な筋の前では藁人形でさえ真っ二つに両断する凶器と変わる。いくらなんでも、と半泣きで許しを請う成実に欠片も耳を貸さず、伊達政宗は的確に急所を狙う剣戟を縦横無尽に繰り出してゆく。襷がけの袴姿で汗一筋見せず、両手に一刀を携えての体裁き。加えて、それはもう見慣れない、妙に艶然とした笑みが余計に怖い。
気を抜けば確実に殺られる。
そう確信を抱かざるを得ない気合なのである。
傍観者は心の中で合掌しつつ、原因を探ることに精一杯だ。雁首揃えて立ったまま、あれやこれやと憶測を並べてゆく。
「一先ず、整理してみるか。退席されるまでは全員が居たな?」
「ええ。私も佐馬助も久方ぶりに深酒致しましたから。ご挨拶申し上げたところまでははっきり覚えております」
「間違いありません」
原田佐馬助宗時がぶんぶんと頷くのを見、またしても綱元が熟考する態を見せる。その先にて、いよいよ鍔競に持ち込まれた成実の絶叫が高らかに上がった。見遣れば、既に彼は獲物を弾かれていて、執念の白刃取りにて命を繋いでいる。やめろばかしぬ、と本気で言っているが、向かう相手は相変わらず鼻歌でも聴こえてきそうな笑顔だ。恐ろしい。
「ならば、考えられるところは、あと一つだな」
「………まあ」
「そうでしょうね……」
何処か人事のようにのんびりと結論を紡いでゆく綱元。実際、人事なのだが、小十郎と佐馬助は顔を見合わせて何となく微妙に頷いた。薄々、わかっていたことである。しかし確信してしまえば火の粉どころか火炎球が飛んでくる。それほど、気を使う話題なのだ。
両膝まで着き、ぐぐぐっと鼻先にめり込んでくる刀を捌こうと躍起になる成実、その相手として地獄の鬼も斯程はすまいという所業をやってのける城主は、何処か機嫌を取り戻しつつある。一人の犠牲によって多数が救われるとは、厳かながら尊い話だ。
「昨夜は確か、端部屋にご宿泊されたのだろう。御呼びになったらどうだ」
綱元がすいと動かす指先で庭越しのあらぬほうを示すが、それには小十郎が首を振る。
「既に人を遣りましたが、…どうも、ご不在のようで」
「それはいよいよ解せませぬ。城内にもうあの方の御部屋は…」
宗時が首を傾げるまさにそこへ、きし、という軽い床の軋みが響いた。
「…あの」
男三人が一斉に振り返る。果たせるかなそこに、何だか疲れきった様子の娘がひとり、所在無げに佇んでいた。
彼女は寝不足が一目で見て取れる相貌に気まずさを加味し、それを悟られまいとしてか、それとも常の癖か、丁寧に腰を折って挨拶する。
「おはようございます。あとその、御久しぶりです……」
「様」
「勿体無い、どうかお顔を」
慌てて膝を折る三人に促されて、がやや縺れの見える黒髪を散らしながら、再び顔を上げた。視線が男三人の顔を順番によく確認して、五体満足なのを見て取ると、そこだけ少し安堵したようにほっと息をつく。しかしすぐ、その背後にて今だ行われている一方的な虐殺を目に留めた。
成実を見て、政宗を見る。うっと詰まるが、やがてすぐに打ち消して、「一体何が」と呟いた。
「ご心配なく、只の日課にござります」
「に、日課ですか」
「ええ。それより、今までどちらへ? 御探し申し上げました」
実際に探す手筈を整えたのは小十郎なのだが、綱元はしれっとそう言い切ってに向き直る。娘は少しうろたえたが、流石、動揺は即座に始末したようで、溜息一つで間合いを計る。やがて目を伏せ、まずは自身の勝手を詫びた。
「許可なく出歩いたことを、まずはお詫び申し上げます。昨夜は…その、以前に懇意だった女中の方の、お部屋に」
「なんと……、では、遣い女の相部屋にお泊りになったと?」
「ええ、その、…すみません」
決まり悪そうに謝るへ、流石に佐馬助も小十郎も呆れを隠さず目を見張った。それもその筈、一体全体何処の世に、上女中といえど小間使いに過ぎない女たちの詰め所に押しかける姫君が居るというのだ。元々、武家の常識など歯牙にもかけない節は有ったが、それにしても今回は度が過ぎている。
「一体全体、何でまた」
当然のように小十郎が訊いた事に、何故かは更に動揺して視線を泳がせた。言葉を捜しているようだが、でてこないらしい。
「お気に障るようなことでもありましたか? 誰かが無礼を働いたのであれば、私からきつく申し上げます故」
「いえ、まさかそんな」
「では?」
「…………」
「様」
「う」
大きな幼子を叱りなれている小十郎が低く静かに繰り返すのは、流石に効果覿面である。
刹那抵抗したの唇が、やがて、観念の態を見せたところ、
「ちゃんっ!? 今ちゃんっていった!?」
小指の先分の境界にて、今だギリギリに命を繋いでいる成実が絶叫を上げた。呼ばれてそちらを見る、つられて視線を寄越す政宗、その二人の視線がかち合った。
「ちょっ、た、助けて! コレ多分絶対君の所為だよね!?」
無茶苦茶ながらぶっちゃ蹴る成実の後ろ、の前で並ぶ男三人は今度こそ、胸中で深く深く合掌した。その前後をして、死角から繰り出された握り拳の一撃が容赦なく成実を吹き飛ばす。間抜けな悲鳴が尾を引いて、頑丈な青年は転がりながら退場となった。
繊細に怒れる独眼竜相手に、決して確信を突いてはならない。つくづく学習しない男である。
「成実さん! だ、だいじょう…」
「成実ぇ、場所変えンぞ! とっとと立ちな!」
目を見張ったが下履きも無しに慌てて追いかけようとしたところへの、政宗の一喝である。の動きが滞る。それすら視界に入れようとしない。
「ったく、とんだ邪魔だな」
言い捨て、スタスタと成実が転がっていった先へ歩を進めるのへ、小十郎が見かねて声をかける。
「殿、お待ち下さい、一体…」
「昼過ぎまではあの莫迦と鍛錬だ。どうせそれまですることもねーだろ。気が済んだら戻る。ある程度はお前らで片付けとけよ」
「ですが…」
「あ、あのっ!」
澱みない指示に躊躇いながら反論する三者を遮り、は強張ったままそれでも盛大に声を張り上げ城主を引き止める。途端、幅広の背ながぴたり止まった。
「えっと、その……」
「…………」
「あの……」
「…言いたいことがあるならさっさと言え」
「あっ、はい! あの、おはようございます」
びし、と空気が固まる音がした。
「…オイ……」
「え、はい」
「他に言うことはないのか…」
ぎぎぎ、と音がしそうな動きで振り返った政宗が、地の底から響くような声音で言う。
慌てたが諸手を振りながら弁明した。
「や、あの、違います違います! ちゃんとご挨拶申し上げてからその方向へ持っていこうかと…!」
「ほお、じゃあ今すぐとっとと言ってみな! 今更俺にどんな言い訳をするか見物じゃねーか!」
「…言い訳?」
うろたえる一方だったがふと動きを止めた。
「言い訳だろーが! 違うってか!? 言っとくがな、俺ぁ例えお前が平身低頭謝った所で許してやれるほど、虫の居所が収まっちゃいねぇんだよ。安い謝罪なんかいらねぇ!」
「安い…?」
「ったく、こっちが下出に出てやりゃあいい気になりやがって、お前にゃ情緒っつーもんがねーんだよ、情緒!」
「情緒……?」
「大体なぁ、 何が"暴力はいけません"、だ! 手前で破ってんじゃねーか! よくもまぁそんな奴がこの俺に抜け抜けと偉そうごかして説教できたもんだ。いいか、この俺がいいっつーまで一切合財近づくな!」
「わかりました」
「ぁあ!?」
あっさり頷いた。そこへ更に噛み付く城主。
迎え撃つ女の顔には満面の笑みが乗っていた。
「殿がそう仰るのなら、わたくしは喜んでご命令に随いましょう。どうぞ、未熟で安い情緒知らずのわたしに、身をもって人情の尊さをお教えくださいませ。それを証明すべく、謝罪させて頂ける時分になりましたら、また改めてお教え下さりませ。謹んでお待ち申し上げております!」
語尾鋭く言い切って、終いにこれでもかと、それはそれはにっこり。
要するに、とうとう彼女もキレたのだ。
外野の四者が四様に空気となり、ただ顛末を伺う中、対する青年もよもやこれくらいで怯むような、柔な神経は持ち合わせていない。
しかし激昂が頂点になりすぎて言葉がうまく出てこないのか、はたまた彼女の言い分にぐうの音も出ないのか、口を大きく開けては閉め、開けては閉めを繰り返すが、結局何も吼えずに、ただ射殺せそうな視線を笑んだままの娘へ叩きつける。
まるで竜虎の睨み合いを髣髴とさせる構図は暫し続いたが、やがてお得意の鋭い舌打ちが一閃、家臣たちが何も言えず見送る先にて、城主はさっさと姿を消してしまったのである。
――――ああくそぅ、謝ろうと思ったのに。
先程から痛む頭を、思わず抱え込んでしまわないよう気を張りつつ、は苦心してただ瞑目するに努めていた。
今は先程より一先ず場所を変えて、何某かの私室か空き部屋へと移動した先である。特段、聞かれて困る事はないとのことか、はたまたその逆の思惑か、庭先に面する障子は開け放されたまま、長閑で麗らかな初春の庭風景が広がっている。時折小雀が群れ飛んで、可愛らしい小さな羽根を羽ばたかせて囀るのが見え聴こえた。
ああ、でも何故だろう、何だかとても恨めしい。
「で」
「…は」
短く切り出した鬼庭綱元に、どこかへ飛んでいきかけていたの意識が戻ってくる。慌てて目を瞬かせ、焦点を結べば、己の倍ほど生きている若奉行は何故かニコニコと微笑んでいた。
は思わず怪訝な顔をし掛けて、いけないいけない、と何とか自制心でそのままの真面目顔を取り繕う。
片倉小十郎は所用があると辞して、原田宗時は茶を用意すると一時席を外した、その間隙である。今は二人きりで、差し向かって座るのみ。他には誰も居ない。
笑みのまま、鬼庭が口を開いた。
「何やら随分とご無沙汰を致しておりましたね。片倉の屋敷へ移られてからそう日も浅くはありませぬが、息災でございましたか」
「ええ、恙無く。皆様よくして下さいます」
「それは重畳。あれに言い難い事があればどうぞこの私に。微力ながらお力添え致しましょう」
「…ありがとうございます」
は顎を引きながら固く頷いた。
正直、居心地が悪かった。
片倉小十郎、伊達藤五郎、原田宗時、そして、この鬼庭綱元。が知る限り、伊達政宗が表立ってもっとも懇意としている近習であり武将である。先述した三名、特に片倉小十郎とは城内に滞在中の頃からあれやこれやと公私にわたり関わっていたが、この、鬼庭綱元と言う男とは、さほど記憶に残るほど話し込んだ事はない。御互い目が合えば会釈もする、話を振られれば請け負いもする。しかし、自身同士へとかけた言葉は少ない。勿論、こんな表情を見る事もほぼ初めてに等しかった。
その、未知との遭遇が、何故今このときなのだろう。
内心であれやこれやと葛藤しているを捨て置いて、彼の人はすいと視線を泳がせ、庭を見る。戸外が明るい分、室内はほんのりと翳っていて、差し込む光がうつろう水影のようである。
「良い日和ですね」
唐突過ぎて返事が出ない。
そんなに構うことなく、壮年の男は笑みも美しく視線もゆるがせない。
「何と穏やかな景色でしょう。ここの所は血腥い事ばかりで、このような気持ちになれることなどありませんでしたから、尚更そう思うのでしょうな」
「…ご活躍だったとお聞きしております」
「まあ、暇をしては居りませんでしたね」
語尾は笑みの響きでの耳へと届く。
「しかし私は元々どちらかと言うと文型でして、表立って槍や刀を振り回す事は得手ではないのです。戦が終わるたび、ああやれやれ草臥れたと、そのままの勢いでさっさと隠居したくなりますよ」
「ご冗談を…」
「悲しい哉、本音にござります。今この瞬間も湯治に行きたくって仕様がない」
肩を竦めておどけて見せる。湯治、つまり温泉? まだまだ若い外見なのに、なんて渋いことを言う人だろう、と思わずがしみじみ見つめるのへ、綱元は気付いてまたにっこりと笑う。
「ですが、長く城を空けるて帰ってくると、もう身動きが取れませぬ。留守居のものでは廻りきらぬと、あれやこれや理由をつけては面倒ごとばかり押し付けられて、あとはもう毎日毎日面白味の欠片もない紙や文字と睨み合い。元々ここには大人しく座って仕事をする、と言う気性の者が少ないですからね。仕方がないといえば、まぁ、そこまでの話ですが」
「はあ」
「だからこそ、少なくとも私が真面目に働かねば、穏便派の年寄りどもがこれ見よがしに言うのですよ。"若様は年寄りにちっとも楽をさせて呉れない"だとか、"伊達家の誇称はそもそも文武両道である"だとか。ああ、遣る瀬無い」
「それは、その…、お、お気の毒なことで」
「でしょう」
「ええ…」
「だから、これ以上の厄介ごとはさっさと片付けるに越した事はないのです」
花丸満点の笑顔で言い切られ、その視線の的であるは思わずひくっと咽喉を鳴らしてしまった。
そして遅れて悟るのだ。
そうか、これは説教なのか。
相手はそのまま笑い続けて、今度はの出方を待った。
無為な沈黙が響いて暫し、小十郎は今だ姿を見せず、相変わらず景色は長閑なまま、ひよりひよりと小鳥が鳴いている。息が詰まりそうになる少し前、先に動いたのはまたしても男の方である。
しかし今度は綺麗に笑みを退かせ、ふっと端的な溜息のおまけがつく。
「まあ、大体は察しが着きますがね」
「…と、仰いますと…」
「おや、私の口から申し上げましょうか?」
と、ここでまた極上に笑うのだから性質が悪い。目尻に溜まる皺は柔和なのに、には眉間のそれより深い絶望の渓谷に見えた。
「畏れ多いことですが、様の仰せならば、私の"察するところ"を御披露致しましょう。何、あくまで推測です。この先で枝を刈る庭師や下女中どもに聞かれたとて、あくまで想像の産物なのですからまるで後ろめたくは…」
「わ、わたしが悪かったです! わたしのせいですわたしがやりました本当にごめんなさい!!」
「ほう」
完膚なきまでに叩きのめされたがぴしゃ! と光の速さで淡い障子戸を締めるのへ、またしても掛かるは面白そうな感嘆符。
娘がぎこちなく振り返る先に、今度こそ穏便に笑む男が相変わらず行儀よく端座する。
「では、ご説明下さりませ。何があったか一から十まで、なるべく端的に」
「ぜ、全部ですか…?」
「ご不満ですか?」
「……いいえ………」
こ、こんな人だったのか。
神妙に頷きながら、は何故伊達政宗がこの男を重宝しているのか、少し判った気がした。
別段急ぐでもない細々した雑務を適当に片付けてから、片倉小十郎は漸く手のかかる城主の捜索を始めた。生贄を引き摺って消えて以来、姿を見ていない。普段はああだが根は真面目なので、早々頻繁に物事を怠ったりはしないが、何せ油断も隙も無い。流石にまだ意味の無いじゃれあいをしているとは思えないが、釘を刺しておくに越したことは無いのだ。
通りすがりにすれ違った侍女に行方を知らないか尋ね、先程見かけたと告げられた方へ赴く。長い廊下をほぼ瞑想する面持ちで無心に渡っていると、向こう側からやってくる人影によって意識が覚醒した。
げっそりと疲労の色濃い成実である。
「ああ、ちょうどよかった………何故身構える」
「おまえは本気でそういう事を言っちゃうやつだよね!」
小十郎に気づくなり、猫のように身をすくめた成実は、恨みがましい目つきで吐き捨てる。しかしすぐに肩をすくめ、脱力する。ゴキ、と首筋が物騒な音を立てた。
「いうほど長く遊んじゃいないだろ。梵ならもう御殿に戻ったよ。小十郎が探してたらそう言っとけって言われてたから、俺もちょうどいいや」
「何だ…そうか、入れ違いか」
「ざーんねんでした」
カラカラと珍しく年相応に笑い、身軽な彼は先程の疲労も何処へやら、すぐさま衣を翻す。
「んじゃ、俺もう行くね。明朝には発つから、何かあれば今夜中に知らせてくれ」
「ああ、気をつけてな」
「平気平気、大した事ありませんとも」
軽口を言って最後に一笑いする武人の背は、先程小十郎が渡ってきた廊を縮地の塩梅で駈け抜けた。
つっかえつっかえながら話し終えたときには、の口元は疲労困憊だった。何とか誤魔化せないかとあの手この手で話を引っ掻き回したり、脇道へ逸らしたりと手を尽くしたのだが、流石は文武両道と誉れ高い鬼の庭の番人、小娘の手管など初花よりも可愛らしい。無駄な尽力に精根尽き果て、仕舞いには口元を押さえながら俯き、押し黙ったを見ながら、遅れて茶請けとともにやってきた原田は頷きつつ、遠慮なく止めを刺した。
「要約するとつまり、痴話喧嘩というやつですね」
「身も蓋もないな」
本当にな、と心中で毒づくはしかし、もう墓穴は掘るまいと唇を引き結び無言である。
そんな彼女を眺めるともなしに目を遣りながら、綱元は一拍を置いてのち、しみじみと口を開く。
「まぁ、事情はよく分かりました。そういうことならば致し方ありませんね。この件については此処まで、お咎めなしと致しましょう」
「…ご厚意痛み入ります…」
「…しかし」
淡々と沙汰を進めていた綱元が妙に歯切れ悪く語尾を切るので、瞑目に近しいの双眸が光を戻す。
警戒を消さずに向けた視線の先では、顎に手を遣った彼が、口端に微妙さを貼り付けたまま、誰彼なしに呟くところだった。
「意外なものですね。鎧も纏わず戦場を生き抜いた姫君が、己に向けられる好意が恐ろしいとは」
「うっ…」
それを、言われると。
「私自身はあの場を目にしていたわけではないので、人伝に伝え聞いただけですけれどね、それは勇ましい手綱捌きだった、と」
「ああ、その話なら私も」
にこにこと悪気ない顔で挙手をした原田宗時が同意する。
「俊敏なること疾風のごとく、鈍色に光る太刀を物ともせずに詰め寄るや一閃、手甲に巻きつけた小太刀で鮮やかに雑兵を仕留め」
「こ、誇張されてる…!」
つらつらと続く原田の声に、とうとうが頭を抱えた。併せて笑いを収め切れなかった奉行も、細長い指を口元に遣り、淡く苦笑している。
「私が聞いたものはもう少し大人しいものでしたけど、大体は同じです」
「大体…?」
「大体です」
「…」
口止めしてくれたっていいじゃないか。奉行なんだろう。
「けれど、火の無いところに煙は立たず。多少の肉付きはあれど、大本は事実でしょう。現に貴女は馬を駆った、殿の前に躍り出て一太刀を貰いつつ、刃を返した」
「…あの時は、無我夢中で……殆ど覚えが無いのです…」
「ほう、火事場の莫迦力という奴ですね」
この人はわたしに何か恨みでもあるのだろうか。
流石に無礼者を睥睨してやれど、相変わらず美しい笑みが完璧に弾いてしまう。
「誤解なさらずに。私は貴女をとてもお慕いしておりますよ」
うそ臭い。
宗時が視界の端で目を剥いたが、の反応はごく一辺倒のままである。
「ですからとても知りたい」
促さずにはいられない流れだ。
「…何をです?」
「様は殿を好いておられるのですか?」
「…………は?」
呟いたのは聞かれたご本人様ではなく、傍らで傍観に徹している男である。
娘本人は酸っぱいものでも食べたかのような顔をしていた。
「これは是非確かめておきたいことなのですよ」
至極まじめな顔をして、端麗な美丈夫がかみ締めるように言う。そんな風に真っ当然としていることこそが、この男が面白がっている証拠なのではなかろうか。
の全身が焦燥ゆえの冷や汗に取り付かれ始めた。茶碗を倒しても、障子を蹴立ててでも、今すぐにこの場を逃げ出したい。
「殿は、まぁ、いいとしましても、貴女は寝屋から逃げられた。…これ自体看過すべきではないと私は思うのですが、殿の御性質上、ね……、兎も角、拒絶されたわけです」
「う、あ、えと」
「ですよね」
「…はい」
「それは殿を、男として拒否されたということですか?」
「…………」
「鬼庭様、流石に婦女子に向かってそのようなこ………いえ、なんでも有りません」
は自分の膝上に握り締めたこぶしを見ているので、原田の語尾が一旦萎み、だがやけにきっぱりと終いを終えた後押し黙った理由を理解できない。だが見当はつく。首周りの衣擦れをわずかに反響させながら、穏やかながら絶対凍土の視線が再び旋毛に戻ってきた。
「お答え下さいませ」
それは命令口調などでは決して無い。どころか、甘く懇願する胸焦げた切ない響きだった。
は、しばらく口を閉ざしたままだった。
男二人も押し黙っている。原田は呼吸すら押し殺し、綱元は穏やかに唇を微笑するに留めている。
恐ろしい人だと、破裂寸前の理性が頭の内を転げまわりながら叫んだ。
「…だって」
「…はい」
唇が勝手に押し出した苦悩の言葉には、促すでも急かすでもない穏やかな相槌。
「よ、よく、分からない、の、です」
「分からない?」
「………」
ああ、愛染明王様。
あなたが外気を憤怒で染めていらっしゃるのは、俗衆と同じにやはり羞恥からなのでしょうか。
「わ、わたし、そっ…、と…殿方から! 面と、向かって、そういう……そういう事を、言われたことが、なく………」
萎んでゆくの声。それが途切れてしまえば、室内はまたしても静寂に包まれる。
三者の息遣いが三様に聞こえ、前へも後ろへも進まない無為な時が淡々と流れる。相変わらず鳥が柔らかく鳴いている、うららかな春の日である。それなのに、こんなところで、障子を締め切って、こんな話なんて、何をしているのだろう。
堆積する沈黙に終止符を打ったのはだった。
そして、意を決して顔を上げた彼女が綱元と宗時の顔を見て、今度こそ耐え切れず絶叫を上げ、珍妙な三者面談にも幕を引いた。
BGM:ユキちゃん、琵琶湖とメガネと君(モーモールルギャバン), シャングリラ
(チャットモンチー),ナウロマンティック(KOJI1200)
お久しぶりです!推敲途中で温度差激しいけど出す!もう出す!いつまでたってもおわんねーもん!!
いつか…チョコチョコ直してたら許して…
次回との確執に悩むわたしマンセー!