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響いた声音に、がバッと目を見開いた。
途端目に飛び込んでくる眩しい太陽。思わず眇める視線の先、弾けるような陽は覗き込む彼の後方から照っていて、その顔は良く見えない。
ただ、面白そうに弾む声音と、この香り、この感触。
間違えるはずがない。

「とっ、!」
「おっと」

それで呼ぶな、と笑い含みの声が言う間にも、唇を覆う手と反対の腕は彼女の躰を支え、立たせる。
ふがふが、と塞がれたまま抗議の声を上げるには構わず、突然の闖入者に驚き立ちすくむ両商売人に向かい、現れた若者はゆったりとを振り返った。
髷を結わない薄茶の猫っ毛は右側だけが不思議と長く、本来伺える筈の視線を片方だけはぐらかしている。だがそれで十分なほど鋭い目つきに、幅広い肩と長身の背な、それを覆う気安い着流しは孔雀青。帯刀はないが、準じるようにして武家羽織の簡略式を小粋に被いているので、一介の町人にはとても見えない。何より、彼を覆う気質それ自体が常人とは一線を画している。
大店の跡取りか、山族どもの首領か。
そんな大袈裟な二択を思い浮かべる群衆の前にてゆっくりとぐるりを見回した後、青年は容よい唇をぐり、と三日月形に吊り上げて、思い切りよく声を上げた。

「ちっと見ない間に、この辺りも随分物騒になったもんだなァ、ぁあ? こりゃなんの騒ぎだよ」
「なっ、なにを…、今度は一体何処のどいつだ! いちいち割り込みおって!」
「ど、どちらさまで…あ、もしや、御嬢様とお知り合いの方!?」
「ah? "御嬢様"?」

胡散臭そうに聞き返す彼の視線が、そのまま、頭を抱きかかえるようにして口を塞いでいる娘に向かって落とされる。
目と目が合った。
一拍の後、がうろたえ、若者は実に愉快そうに口端を吊り上げて笑う。

「御嬢様、ねぇ。ははァん、成る程」
「はが、ふがふがへが!」
「また俺に黙って勝手をしやがったわけだな、お前は。へぇ、そうかい、okey」

覚悟しろや、と呟いて、青年の空いた片手がゆらりと持ち上がる。
次いで、がっちりと捉えた彼女の頭の脇に降り、そのまま、白く透徹した頬の頂を捻り上げる。
外野もなんのその、声なき声で絶叫を上げもがくを離さず甚振る若者に、暫くたってから漸く我慢の限界を迎えた安部屋主人が両手を突き上げて憤慨した。

「ええい、なんなのだお前らは! 関係ない連中は口出しせず大人しくしておれ!」
「煩ぇ達磨、引っ込んでろ」
「な、だ、達磨ぁ!?」

一刀両断、切り捨てられた安部屋の代わりと、次いでまだ物腰の柔らかい伝七がおろおろとしつつもを慮って歯向かう。

「し、しかしあの、御嬢様に乱暴は…!」
「oh, お前が元凶か」
「は、はっ!?」
「このふうてん娘を連れ出しやがったのはお前かって聞いてんだ」
「い、いや、その、それは…!」
「ふが、はがふ…ぷあっ、違います!」

漸く口を取り戻したが即座に否定した。そのままもがき、なんとかかんとか拘束から抜け出して距離をとる。桃色に染まった頬を摩りつつ、身振り手振りで必死に伝七を指し示した。

「この方は、植木屋のご主人で、今は商売敵さんと対決の真っ最中なだけです!」
「おお、そうかい。じゃお前はここで何してんだ」
「わ、わたしは、ただの…」
「ただの?」
「と、通りすがり……」
「yeah, 懲りてねぇみたいだな」
「いやっ、まっ、うう嘘です嘘です! なし、今のなし!」

ごきごきぼきぼき、と物騒な音を立てて拳を鳴らす青年に向かい、娘は必死で取り繕ってあとずさる。しかし無駄な抵抗、つかつかつかとなんの躊躇も無く詰め寄った青年に襟首をとっ捕まえられ、ついでにごくごく微力なゲンコを喰らう。

「いたい!」
「ったく、何処ほっつき歩いてンのかと思えば、また訳のわかんねぇことに首突っ込みやがって」
「な、なんで此処にいらっしゃるんですか!?」
「ぁあ? 手前の土地に居ちゃ悪いかよ」
「わ、悪くなんか、ないですけど…!」

は、話が違います、と躊躇うの前、目つきの悪い青年は何事かを言いかけたが、その前に達磨呼ばわりされた安部屋主人が復活、憤慨に煙を上げながら吼える。

「このぉ、若造が! 誰が達磨だ、誰が! 言っていいことと悪いことがあるんだぞ!」

先手を封じられて青年は不機嫌極まりない様子で振り向いたが、怒り心頭中の中年男性を見、打って変わって面白そうに片眉を吊り上げた。

「おお、I'm very sorry, あんまりにもそのままだからな、わざと真似してんのかと思ったぜ」
「なななな、なぁっ!?」
「ああほら、その顔だよ、その顔。なぁ、お前もそう思うだろ」
「…………どうなんでしょう。似てますかね? どっちかっていうと、なんか、下駄っぽい感じがするんですけど」
「そりゃ顔だけだろ。俺が言ってンのは全体像だよ、全体像。見ろあれ、酒焼けか? 高血圧か? 真っ赤じゃねぇか。哀れなもんだな」
「うーん、言われてみれば、ちょっと怖い感じもします」
「晩年は見えたな」
「お気の毒」
「お前らなんの話をしとるんだぁあ!」

どんどんどんどん脱線していく会話の流れに、口角泡を飛ばして達磨主人が吼える。それを如何受け止めたか、がはっとした様子で口元に手を充て、恐る恐るととりなした。

「大丈夫ですよ、安部餅さん。野菜中心の食生活に切り替えればまだ間に合うかもしれませんから」
「喧しいわ! 私がいつ自分の食習慣の慮ったくれといった!」
「んじゃ、置物らしく黙って引っ込んでな」
「なんだとうぅ!?」
「まあ、殿、それは少し言い過ぎ…」
「殿!?」

あまりの事態に我を失っていた伝七郎が、のその一言ではたと我に帰った。
しまったと思っても、もう遅い。

「殿、殿! 御嬢様、今確かにそう仰いましたよねっ?」
「あ、いや、その、あ、あだ名? みたいな…」
「ということは、もしや、この方は…!」
「…ah? なんだよ」

の無茶な言い訳は無視して、伝七は胡散臭げに振り返った青年にきらきらとした瞳を向ける。
慌てるのは、存外平穏を望む娘の方である。
今にも身を乗り出して青年の袖を掴み、離さず、しかし平伏しそうな伝七の前に割り込み、バッと両手を広げて青年の前に立ち塞がる。

「で、伝七さん! 違います違います違いますよ! この方は、あ、あれです、あの、ね! そうですよね!」
「………」

必死で取り繕う娘を見下ろして、暫し。青年は何も言わずにふいと考え込む仕草を見せる。
その間をどう取ったか、いやいや、と伝七が笑いながら首を振るのに更に慌てて、は青年の腕を引いて両商人から間合いを取る。
ヒソヒソと、雰囲気だけの小声で囁く。

「あ、あわせてくださいよ! ばれたら如何するんですかっ!? 大騒ぎになりますよ!」
「別に、俺は構わねーし」
「あなたが構わなくても! 小十郎様やお屋敷の皆さんにご迷惑が掛かるんです!」
「そいつらの主人がこの俺だ」
「じゃあ! 如何して! その物凄く偉い御方がこんな処まで態々いらっしゃるんですか!」
「お前が此処に居るからだろ」

事も無げに言われ、感情のまま言い募っていたの口がぽかんと止まった。
二の句が告げないまま固まる彼女に以上は重ねず、彼は一度掴まれた腕をやんわりと振り解いて、今度は逆にの二の腕を取る。

「おら、とっとと戻るぞ」
「え、あ、いえ、でも…」
「お待ちを、お武家様…!」

戸惑うに、ギョッと慌てる伝七郎。そのどちらにも耳は貸さずに、青年はなんの躊躇もなく娘を引き摺ってその場をあとにしようとしたのだ。
そこに響く、安部屋主人の余計な一声である。

「そうだ待て、そこの無礼者めが!」

ピタ、と青年の足が止まる。取り成す間もあればこそ、ゆっくりと踵を返す彼の視線は飛来する矢より正確に相手を捉えた。

「ぁあ?」

地より響きそうな声音と、触れれば切れそうな眼光である。
まずい、とが何かを言う前に、空気に気づかない安部屋主人はずんぐりした指を怯むことなく相手に突きつける。

「この期に及んで逃げるなどと叶うはず無かろう! この儂に対する須くの狼藉暴言、万死に値する! 覚悟せい、畳んでくれるわ!」
「あの、お餅さん、どうか一つ穏便に…」
「やかましい小娘! お前から先に始末するぞ!」
「いえ、ですからなんていうかそういう肉弾戦的な事は脇においてですね…」
「HA,上等、達磨の分際でこの俺に楯突くってか。へえ、そりゃ滑稽だ」

くつくつと笑う仕草とは裏腹で、彼の雰囲気そのものは燃え上がる火よりも苛烈で、荒々しい海よりも底冷えする。
だがまだ気付かない安部屋主人は、本日三度目になる達磨発言にとうとう残りの緒もぶち切った。

「ぬぅう、許さん! おいお前たち、そのぼろ屋は一先ず後回しだ、こいつから痛い目にあわせてやれ!」
「そうこなくっちゃな!」
「ちょ!と…、!」

よ、呼べない。
青年に捕まれていた腕は一旦引かれ、そのまま緩く突き放されると、騒動からは押し出されるようにして遠くなる。
よろめきながらまだ無事な建物の壁に手を着いて、振り向けば、先程まで鉄球を振りかざし店舗の倒壊に力を注いでいた巨漢の男どもが、寄って集って一人の人間に拳を振り上げていた。
青年はといえば、丸腰である。帯刀していたところでまさか抜きはしないであろうが、それでも悪漢に比べればよっぽど細身の拳一つ、如何せよというのだ。
思う間にも、乱闘は繰り広げられる。

振り上げられた丸太のような手が、唸りと共に容赦なく青年の身体めがけて振り下ろされる。気軽に避けても、また同じ手が今度は右手、次は左、更に背後ときりがない。それでも彼は不敵な笑みは消さぬまま、まるで子猫とじゃれるような素振りで、むくつけき大男どもを難なく往なしては反撃もせず立ち回るのだ。見ている方はハラハラするし、相手にとってはこの上ない侮辱だろう。次第、苛々を募らせてゆくのがにもわかった。
止めるべきだ。どちらが怪我をしても、仮令それで騒動が治まったといえ、素直にめでたしとは思えまい。
大体、どうしてこんなことになるんだろう。どうして皆、きちんと話し合って、双方納得の上で物事を改めるというような、殊勝なことが出来ないのだろう。だからこそ悪人と呼ばれるのだろうが、それにしたってあんまりにも自由すぎるじゃないか。
彼女が悶々として頭を抱えている間にも、事態は容赦なく転がり進む。
青年を打つべくとして空打った獲物が新たに鉢植えを叩き割り、素焼きの鉢が派手な音を立てて砕け散る。力み過ぎてたたらを踏んだ悪漢の背後を素手で気安く突くが、その一撃は見た目よりも重いのか、巨体は大きく弾き飛ばされ、軒先を潰すようにしてまたしても伝七があげる慟哭の元となる。黒瓦が割れて降り、群集が悲鳴を上げて退く。勿論も咄嗟に身を庇って後退した。そしてまた目を上げた先、陽光に厭らしくぎらつく、鋼の照りに釘付けとなる。
青年は気付いていないのか、正面と脇の相手を挑発してふんぞり返り、余裕の態だ。じりじりと機を伺いつつ近づく刃物。
の咽喉が熱くなる。
殿、そういいかけてまた飲み込んだのはほぼ奇跡だ。自分くらいは確りと律したい、そう思っていたのだろうか。兎も角、声が出なかった。しかし呼ばねば。刃を手にする男の目は暗い喜びで脂ぎっている。
御武家様?御主人様?上様? 駄目だ違う。もっと、呼んでも憚らない、名を。
そう、彼のもう一つの名は、確か―――

「とっ、藤次郎様っ、うしろ!」

必死に叫んだ声が届くか否か、それと同時に男は潜めていた懐剣を振りかざして突進した。ぶつかって刺そうとしなかったあたり、まだ躊躇か良心はあったのだろう。ただ、目当ての青年が既に脇をすり抜けて不在という誤算、仮令丸腰でも強靭な四肢は十分凶器であるということの失念、それが水月に容赦ない拳を貰っての昏倒に結びついた。
どう、と巨体が地に臥す重い音。固めた拳を解いて気安く振る青年は不満げに唇を尖らせている。

「なんだ、だらしねぇな。獲物使ってこの様かよ」
「そ、そうだぞお前ら、なんて様だ! やる気がないのなら金は払わんからな!」

とんだ見掛け倒しだな、と鼻で笑う彼に、安部屋主人も上乗せして憤慨する。侮辱か報酬か、どちらにせよ蜂起したのか、残る悪漢どもはもう形振り構わずと一応は遠慮していたであろう獲物を固く握り締めなおした。
鉄球に槌にそのあたりに散らばる植木の破片など、徹底的にやる気である。さしものも今度はこらえず抗議の声を上げた。

「駄目駄目、駄目ですよそんなの! 暴力は良くない、絶対良くない! お餅さん、あなただって、幾らなんでもこんな騒動は本末転倒でしょう?」
「むっ…!」
「大体、どうして此処までするんですか! 幾ら商売敵だからって、明らかにやりすぎです。衆目もあるんですよ? 証文がどうこうなんていう前に、早く…」
「そ、そうだ、証文だ証文!アレが有ったわ!」
「"証文"? なんだそりゃ」

ガリガリと後頭部を掻きながら青年が言うのへ、安部屋主人は今度こそ会心の笑みを見せつけて、懐をまさぐるのだ。

「フフッ、この無礼者どもめ! この儂に逆らうなどという貴様らの愚行の数々、後悔しながらとくとご覧じろ! 恐れ戦け、あと謝れ!」

ばばっ、とひらかれた、相変わらず目に沁みるほど眩しい白紙、墨が走るように流麗な流れを象って意味を成し、終いには朱で署名を成す。伊達家代々の印は押下式であり、別様態で簡略化した鶺鴒がふうわりと羽を広げ、きちんと隅に収まっていた。
も横手から覗き込んで、もう一度確認したが、首を傾げて困惑する。
今まで彼女自身も何度か目にしたことが有るから、間違いない。これは紛れもない伊達家の押印である。模倣であれば罪、実印であればもっと大罪であるが、ここで一体なんと言ってこれを偽者だと証明すればいいだろう。彼が正体を明かせば容易い。だがそう簡単にいくだろうか。一体全体、何処の誰が、いきなり現れた着流しの若者の発言を鵜呑みに出来るだろう。
しかし、の懸念もなんのその。見せ付けられた当の御本人さまは胡散臭げな視線を隠そうともせずに目を眇めて覗き込み、よく見てから、鼻で笑った。

「なんだこの紙屑」

も含め、あんまりなその態度に、誰も最初声が出せなかった。
その隙を突いて、"藤次郎"がひょいと容易く安部屋の手から証文とやらを取り上げる。

「なっ、お、おい、なにを…!」
「ここ」

トントン、と食指が動いて、鮮やかな朱の花押を指し叩く。

「伊達の花押は鶺鴒だ。そりゃ皆知ってる。だからこそよく真似られるんだ。んで、その偽の証文と区別するために、"伊達政宗"は紙一枚の中に色々仕掛けててな。一番判りやすいのが、この鶺鴒」
「え?」
「目があるだろ」

目を瞬かせるに傾け見せてやりながら、ニヤニヤと笑って宣う。

「本物はな、此処に穴が開いてんだよ」

が息を呑む気配がして、真っ黒な瞳がまじまじと赤い鳥の目を覗き込む。
呆気に取られてか、しんと静かな一同の中、やがて彼女は呟いた。

「…本当」
「なっ、!っで、で、でで出鱈目だ!」
「おっと」

慌ててものを引っ手繰るべく伸ばされた安部屋の手は虚しく宙を切る。
ひょいと腕を翻して、ついでにに件の紙を押し付けつつ、"藤次郎"は意地悪く笑って腕を組む。

「残念だったな、アンタの虎の子はこれでナシだ。しかしまぁ、とんでもねぇこと仕出かしやがるな。こりゃ立派な不敬罪だぜ? よくて俺……、ここいらから追ン出されるか、悪くて斬首だ。覚悟は出来てんだろうな?」
「どちらにせよ、店の修理代はきっちり出してもらうからな!」
「すごーい、へぇー、細かいんだなぁ」

三者三様に好き勝手なことを口にして、安部屋主人の赤い顔を青く染め替えてゆく。わなわなと震えるずんぐりした体を見て、事態を見守っていた手下どもがうろたえ、じきに我先にと逃げ出した。

「あっ、こら、逃げるなお前らぁ! ももも戻れぇえ!」

怒鳴りつけても誰も止まらないのを見て、安部屋主人も走り出しながら叫ぶ。

「お、おお、覚えてろぉ!」

しかし、

「いーや、忘れてやる」

春陽を弾き、音もなく出現した第四の拳が、安部屋主人の鼻先に命中した。
声もなく吹っ飛ばされて、半壊した伝七の店先にぶつかって倒れる。突き出した腕をそのままに、ふう、と疲れきった溜息を吐いたのは、"藤次郎"とよく似た風貌を持つ青年だった。
成り行きを大体悟っていた"藤次郎"は、その彼に向かいぞんざいに声をかける。

「よぉ、大分遅かったな」
「気安く言いやがるよこんちくしょう……誰の所為で人がこんなに走り回ったと思っ」
「成実さん、酷い! 大丈夫ですかお餅さん!?」
ちゃん………超マジ正気?」

ひいひい言いながら立ち上がろうともがく安部屋に、慌てて駆け寄るの背に向け、遅れてやっと駆けつけた成実はひくっと頬を吊り上げた。
四、五人の帯刀した従者が次いでわらわらと駆けつけて来、その彼らにひっ捕まえられた安部屋の配下が口喧しく騒ぐ。成実が片手で耳を塞ぎながらしっしと手早く追い払うのへ、"藤次郎"が半目になりながらのんびりと訊いた。

「で? 一体全体何がどうしてこんな下らねぇ騒ぎが起きンだよ」
「それがねぇ、発端は下らないことのような、そうでないような…」
「ああ、貴方様は先程御嬢様と一緒にいらしゃった方…!有難うございます、有難うございます、これで手前どもの店は救われます…!」
「はは、もうボロボロだけどね」

乾いた笑いで伝七郎をかわす成実の背後、がなんとか安部屋の巨躯を抱き起こし、忙しなく背を摩ったり声をかける。甲斐甲斐しいそれを見止めた"藤次郎"が、苛立たしげに舌打ちして足を動かした。

「おいこら、いいからそんな達磨なんぞ放っとけって。簀巻きにして転がしときゃいンだよ」
「まあ、またそんな事を! 大体ですね、何でもかんでも殴れば解決するって言うその考え方からし、て、………」
「? どうした」

突如固まる。訝る政宗が覗き込めば、見た目よりもはるかに重い一撃を顔面に享け、呻いてもがく安部屋主人の手が、何の間違いでか、膝をつくの背後に回り込み、腰元よりも下、つまり、女性相手には無闇に触れてならない箇所を掴んでいる。
状況を察した"藤次郎"が一瞬固まり、次いで今度こそ怒髪天を衝くその一瞬前に、が振り上げた白い掌が霞む速さで翻る。
凄まじい殴打音。尾を引くそれが宙に融ける中、成実が一言。

「説得力ないねー」

だそうである。






我に返って必死に謝り倒すの声も虚しく、とどめの一撃を受け、今度こそ確実に昏倒した安部屋主人は、"藤次郎"の足蹴も甘んじながらそのまま速やかに連行されて行った。何だかんだで穏便な一件落着の態を見せる傍ら、「あんな奴は市中引き回しの上打ち首獄門だ」と目つきの悪い青年が殺気も垂れ流してごちるものだから、周囲は強ち冗談だろうと流せない。

「で、結局の原因はね、そこの彼…えーっと伝七郎だっけ? 彼の店が小十郎の屋敷の手入れを仕切ってたってのが発端だってさ。あの餅屋は純粋に商売敵としてアンタのことが憎かったみたいだけど、この怪しい紙切れの大本はさ、どーももっと複雑な思惑があったみたいで……って、ねぇ、聞いてる?」

成実の視線の先では、首根っ子をしっかと捉えられたと謎の若者が、喧々囂々と言い合っている。

「つくづく懲りない女だなお前は! わざわざこの俺が帰ってくるときくらい大人しく待つって事ができねぇのか!?」
「や、だ、だってですね! それを聞いたのって今しがたついさっきの話で、まさかこんなに早くお着きになるだなんて、夢にも思わないじゃないですか! 成実さんだって今日中に如何こうはないって仰るし、約束の順番で言ったら伝七さんのほうが先でしたし…」
「ほぉお、言いたい事はそれだけか?」
「いいい、痛い痛い! や、やめてください!」
「ふらふらふらふら出歩くな、っつってんだよ、ぁあ? 判ったか!?」
「………」
「黙んな!」
「うう!」
「やめなよもー人前でさァ、みっともないってー」

進歩ないなぁ、と思う成実が一応は止めるが、一向に前進しない二人には届いていないようだ。そのまま、やいのやいのと果てのない応酬を続けている。
相変わらず散乱する残骸、慌しく走り回る警備司たちの喧騒の只中、よく判らない会話を広げる男女に今だ遠巻きに伺うばかりの群集は微妙な雰囲気に包まれている。
とうとう、思い余った劣悪な五指が逃げようともがくの頭部を捉えて握り締めるのへ、おずおずとした伝七郎の声が掛かった。

「あ、あの、お二方とも、本当にどうも有難うございました。そしてお手数をおかけしてしまい、申し訳ありません。町人同士の争いに、まさか武家の方々がお出でくださるなど、本来ならば赦されないことでしょうに…」

二人揃って振り向く前、深々と頭を下げる伝七郎へ、がなんとか身を捩り、慌てて彼の顔を覗き込もうとする。

「伝七さん、そんな、お気に為さらないで下さい。元はといえばわたしが勝手にやったことですからって痛い!」
「やっぱりお前の所為じゃねーか」
「い、今はそういうことをとやかく言う場面じゃなくて…!」

感動の締めくくりをぶち壊しつつ、また勃発しそうになった不毛な言い合いを華麗に受け流して、伝七は更に、身の置き場もないといったように、恐縮仕切りの態度で身を捩る。
そして、周囲を憚ってか、ぐっと小声でこう言いきった。

「それにまさか、片倉家ご当主が自らお取り成し下さるなぞ、夢にも思わぬ僥倖でございました!」

ああ、と震える体を二つに折り、最敬礼。

「………………は?」

二人同時に呟くのも、呆気に取られた表情も、平身低頭の若者には通じない。

「いや、流石は伊達公一の家臣、片倉様であらせられる! 流石のお裁き、流石の博識! 手前は心底感服致しました!」
「あの………どこをどうとればそういう結論に行き着くのでしょう………」
「いえいえ、ご安心下さい御嬢様。存じておりますとも、存じておりますとも。こんな騒動に今をときめく御方自らがお出でくださったなどと、世間の目がございますからね。この伝、口は鉄より固うございます故、滅多なことは申しませぬ」
「………」

閉口する二人の前、少し離れた所で構えていた成実だけが大爆笑している。

「なるほど、これで謎が解けました。御嬢様の正体は"片倉様が恩自ら駆けつけなさるほどの方"というわけですね。なるほどなるほど! 殿、殿ですか、フフフ! お熱いことで!」
「いや、いやいや、な、何をお考えかさっぱり判りませんが、とりあえずそれ絶対に違」
「しかし御嬢様は、手前が考えていたよりも、よっぽど位の高い御仁で有らせられたのですね。いえ、何も疑っていたわけではございませんよ! ただ時折お忍びでこの界隈を散策されるなど、手前が知る高貴な方と何処か違うものですから…」
「ちょっ、!」
「さて、では私めは安部屋まで女房を迎えに行って参ります。ついでに向こう方から店の修理代もきっちり取り立ててまいりますよ!」

失礼致します、と再び慇懃に礼をして、つかみ所のない商売人は颯爽と去っていく。あとには半壊した軒先、その破片を忙しなく片付ける奉公人。三々五々の微妙な空気に、しんしんと渦巻いていく劣悪な気配。
ひゅう、と軽い口笛の音がした。

「…ふぅん。お前、出歩いてンのは今回だけじゃないみたいだな」

が咄嗟に唇を噛み締め、両耳を塞ぐその刹那、雷鳴のような怒号と一緒に、遠くのほうで「いいから早く帰ろうよー」という成実の気の抜けた声が聞こえた。






(………最悪)

もうすっかり夜となってから、漸くは今日一日をそう評した。
その後、頭ごなしに叱られどつかれ引き摺られ、有無を言わさず登城させられた彼女は今、宛がわれた仮部屋の端にて、ぼんやりと霞む上弦の月を見上げている。
まさに、寝耳に水だったのだろうか。城内も当主御本人様の帰還がまさか本日だとは聞かされていなかったようで、が登城した直後は、まさに内外を揺るがす大騒動であった。
その所為か、夜になって漸く準備の整った祝宴はしゃちほこばった形式道理の儀礼ではなく、無礼講も無礼講の大酒宴である。
礼節を重んじる儀礼の場であれば、勿論も末席に参列せねばならない。けれど宴となれば話は別、逆に、居てはならないのだ。
名目上であれ、この城で暮していた頃は、出たくなくても出なければいけなかったから、どちらかというと、今のほうが嬉しい。しかし、ならばどうして今、自分は此処に居るのだろう。
壁に組まれた連子窓から眺める先は暮天のような闇で、この時分というのに、庭先の造りが多少見渡せる。普段は釣り下がるだけの燈篭が豪奢にも煌々と燃えている所為である。灯りは貴重なのに、この贅とは、それだけ城内が深い歓喜に沸きあがっているのだろう。
夜分においても随分と温かくなった風が吹き、障子紙を揺らす。何をするでもなし、髪だけ解いて座り込んでいただったが、ふと思い立って、渡廊に出た。
素足裏に感じる板敷きの感触はひんやりと冷たく、春の夜と相俟って具合がいい。そのままふらふらと当て所なく滑り出て、やがて何気なしに簀子縁へと落ち着いた。腰掛けた膝の上に両頬をつき、おっとりとした闇に沈む庭木を眺める。僅かに見えるのは馬酔木か満天星か、白雪の花弁が僅かに照らされ、桃色に相俟って風に揺れている。
等間隔に燃える火に、羽虫や蛾が群れ飛ぶのもよく見える。ジジ、ジジという幽かな音に紛れ、尾を引く野太い笑い声が何処からともなく木霊してくる。

(退屈…)

思いながら溜息をついても、慰めるてくれるのは視界だけ。先程から随分長い間此処にいる気がするが、食事を運んできた幾人かと、湯浴みに着いて来た小間遣い以外、気配すら差し掛からない。
此処には滅多に人は来ない。そういうところ、なのだろう。
馴染みの女中は片倉の屋敷で留守を預かっているというので、いっしょに来ては呉れなかった。まぁ、着いてきてくれたところで、今頃の頃合になれば、何処へと下がってしまうのが落ちだろう。
寝てしまえれば、楽なのに。
それが出来ないのには勿論理由がある。というか、ひとつだ。
もう一度盛大な吐息を御見舞いしかけたところで、ふと、背後から複数の足音が響く。女と女と、異なる一人。ゆっくりと首だけ振り返るの目線は、揺れる灯りと、その先で少し驚いた風の隻眼を捕らえた。

「何やってんだ、こんなところで」

少し呆れた風に言う彼は、もう気安い着流しなどはさっさと脱ぎ去って、彼をして彼らしい格好に改まっていた。相変わらず強烈な個を示す黒鍔の眼帯、薄茶の猫っ毛が、方々から照る僅かな灯りの反射で様々な色を見せている。
改めて、その姿をまじまじと目に入れたからだろうか。の記憶の中での彼とは違って、幾分か穏やかな印象に見えた。波乱の日々の所為か、少し痩せたようにも見える。それでも、相変わらずの眼光だけは記憶と同じで、何だか無性に気後れするのだ。
悩んだ末、問われた事については、当たり障りない風に答えることにする。

「…涼んでました」
「まだそんな気候じゃねーだろ。ほら、いいから中入れ、中」

途端、ばっさりと切って捨て、顎をしゃくってそう促す。まさか面と向かって溜息を吐くのも憚られたので、彼女は大人しく立ち上がり、黄桃色の灯りを惜しむように伺ってから、ゆっくりと踵を返した。
数人の侍女どもを随えて、次いで室内に入ってきた城主、伊達"藤次郎"政宗はそのまま、勝手知ったる自城の構造と、ほぼ初めての室内にてさっさと居場所を決め込んで、腰を下ろす。
何やら大層な包みやら行李やらを抱えた女たちに小首を傾げるを手招いて、傍らに呼び、積まれてゆく荷を手振りで差した。

「やる。土産だ」
「へぇ………って、えっ?」
「なんだその反応」

気安く言うものだから適当に受け流そうとして、驚く。
目を丸くするだけで別段はしゃごうとしない彼女の反応に、政宗は心外そうに唇を尖らす。

「折角小田原くんだりまで足を伸ばしたしな、ついでに色々見てきたんだよ。流石、あの辺りは街道筋がちゃんと成立してる分、物の流通も立派だな。質はいいが、お前の好みなんかしらねぇし、適当に見繕ってきた」

言いながら手振りで指示をし、女たちが静々と荷を解いてゆく。呆気に捕られたままのの目の前には、そんなご大層な土産物が次々とその姿を顕にしていった。
正絹の反物、黒漆の碗一式、紫檀の卓に彫りの見事な文鎮や硯、螺鈿の手鏡や色とりどりの絵札まである。正月の餅のように気安く積まれてゆく生地を一つ取り上げ、どうだ、とに宛がう本人は上機嫌だ。

「好い柄だろ。色味も良く出てる。これで小袖でも仕立てりゃいい」
「……こんなに沢山、頂けません」

お気持ちは嬉しいのですけれど、そう呆然と呟く彼女に、政宗は片眉を吊り上げた。

「なんだ、気に入らねぇか」
「そ…、いえ、だから、そういうことじゃなくて…」
「じゃ、他に欲しいモンでもあんのか?」
「ですから、違います。頂く理由がないからです」
「理由?」

その言葉を聞いて、独眼の彼がしたことといえば、挑戦的に鼻を鳴らすのみである。

「damn, 関係ねぇよ、俺が好きでやってんだ。理由もクソも有るか。つべこべ言わずに取っとけ」

そういわれても、困るのだ。本当に。
困惑顔のまま、ぼとりと手元に落とされた反物を眺める。淡い萌黄地にはじまるぼかしの上、大輪の藤が一筆奔るようにして咲いている。素人目にもわかる、実に見事な京友禅だ。春先に似つかわしい軽やかな色合いは見事で、仕立てればさぞや、だろう。
しかし、一体、これを着て何処へ行けというのだ。
暇を持て余す日々、装うことなど不必要で、無意味だ。頂いたとしても、純粋に利用価値がないのである。折角の一級品だ。このまま、誰にも見初められず、褒めそやされもせず、箪笥の肥やしになってしまうのは、どうにも哀れじゃないか。
難しい顔で考え込むを見つめて、やがて、専売特許のような溜息が終いを括る。

「いいから、とっとけよ。それでも必要ないなら、俺の見てないところで捨てりゃいい」
「そんな失礼なこと」
「しないだろう。しないなら使え。使わなくても邪魔にゃならねぇだろ。お前にやるために俺が考えて、選んで、運んだんだ。それを無碍にしてくれるなよ」

そう言って、今度手を一振りしては、待機していた女たちに、広げられた荷を逆戻しするようにして片付けさせてゆく。が握ったままの絹はそのままに、あっという間に披露された品々は元の鞘に納まっていって、じき、運び出されていった。何を言う間も皆無の隙無い所作を見送る先で、何時の間にか用意されていた酒器を突き出して、ほら、と政宗が促してくる。
複雑な思いは尚も胸中を支配していたが、嵐は既に去っていってしまった。辺りは再びしんとして、二人分以外の気配は感じられない。
仕様が無く、纏め直した反物を傍らに置き、徳利を手に取る。気分は先程よりより一層重い。
乞われるまま酒気を傾けつつ、視線は合わさずに、がぽつりと零した。

「わたし、前も申し上げましたよね」
「何を」
「こういったものは身に過ぎるものですから、受取れませんって」
「言ったか?」
「言いましたよ」
「覚えてねぇな」
「………」

正月からこちら、方々を跳ね回る忙しさだった彼は、稀にこうしてに会うたびに、今回のように様々な品を寄越してくれるようになった。まさに、色とりどりといった具合で、毎回毎回、違った趣向が凝らされている。しかし、そのどれにも共通して言えることといえば、決まっていかにも若い娘が好みそうな反物であったり、装飾具であったり、お菓子や化粧道具なのである。
こんなこと、この城の一室で暮していた頃には、まずありえなかった話だ。
彼は本当に、変わったのだ。
兎に角、最近では何につけても「」、「」と連呼する。
もう随分と昔にさえ感じるあの日、あの庭先にての、衝撃的な一言を貰って以来は、それまでにあった妙な隔たりでさえ消え失せてしまった。
遠慮や物憂さなく名を呼ぶのや、必要以上に物を呉れるのは、そのほんの片鱗である。誰の入れ知恵だろうと思えど、素直に喜ばない自分も中々に可愛くない。その自覚は有る、だからこそ余計に気まずいのである。そしてそれを、どう言葉で表してよいかも判らない。
隙無い所作とは裏腹に、悶々と思い悩む面をちらと認めて、杯の中を舐めながら、やがて「あのなぁ」と呆れがちに政宗が続ける。

「つくづく頭の固い女だな。別に、お前が悩む必要なんてこれっぽっちも無いだろ。はいそうですかと受取りゃいンだよ」
「…そういう問題では、無いと思います」
「じゃ、なんだ」
「……勿体無いなぁ、とか」
「着りゃいいだろ」
「普段にですか? 無理ですよ絶対、万が一汚したら…」
「ほぉ、汚すようなことをするつもりなんだな」
「………」

思わず明後日の方向を見て目を逸らすの額を、神速の五指が閃いて弾く。
ぺちん、と軽い音がした。

「いたっ」
「何時まで経っても直ンねぇな、お前の放蕩癖はよ」
「放蕩って……、あの、今日のは、あれですよ、ちょっとした手違いがあっただけで、ちゃんと時間通りには戻る心算だったんです」

想定外のことが色々起きたから、ちょっと遅れただけであって。
もごもごと呟くの手から中身少ない徳利を取り上げ、手酌で注ぐ政宗は「ふぅん」と呟いて、特に何も言わない。まだ怒っているのか、もしかしてまたゲンコを貰うのか、と警戒していたは、その何気ない態度に逆に拍子抜けする。
そして、以前の疑問を礑と思い出した。

「そういえば…、今日中にはお着きにならないって伺ってたんですけれど」

恐る恐ると伺うに、左側に座る伊達政宗はちら、と視線を寄越してから、「そりゃ、建前だよ」と零す。
飲み干してしまった杯を置いて、今度は煙管に火を着けている。脇息にも垂れ、緩慢に寛ぐその口元に指が動き、やがて、白い煙が上がった。

「今回の相手が相手だからな。これ見よがしに凱旋なんてしてみろ、余計な連中まで煽っちまう。だから、実際は後ろに影と何人かだけ置いて、俺は先に着く予定だったんだよ、元からな。あの莫迦はそっくり勘違いしやがったがよ」
「な、成る程…」
「それが、お前の所為で水の泡だ」
「…え?」

ぱち、と瞬く彼女を見遣ってから、再び虚空に視線を擲って、呟く。

「お前がのこのこ何処ぞへ消えた所為で、余計なところまで面が割れてな。おまけに此処の連中がわざわざ気を廻して、城に一報入れちまいやがった。本当なら、今頃はお前が今居る屋敷、あそこで今日一日はゆっくりできる筈だったんだよ。それが今、こういうこった」
「………ちょっと待ってください。え、じゃあ、わたしが今、此処に居るのって…」
「勿論」

煙を吐き出しながら、彼独特の、ニヤリとした斜な笑み。

「仕返しだよ。俺が動けないんだから、お前が動くしか無いだろ。二、三日は此処で窮屈な思いでもしてな」
「ひっど…!」
「自業自得だろ」

ふっと軽く白煙を吹き付ける。途端、けほと軽く咽るにもう一頻り笑ってから、今度は他所を向いて嗜む。
まだ鼻先に麝香の香が強い煙が残っている気がして、袖と一緒に目前を仰ぐの柳眉が自然に寄る。
眉間に可愛らしい皺を刻み、不本意なこの状況をようやっと理解した彼女は、一方で少し苛々として、もう一方では、場違いな安堵もしていた。
夜、である。主賓の彼がここでこうしてぼけらと酒と煙管を嗜んでいるという事は、大宴は御開きとなったか、終息の態を見せているのだろう。つまり、この後は、ただ朝を待つだけの時間なのだ。
そのときに、彼はこうして、此処に居る。何だか厭な汗が背中を伝ったのは言うまでも無い。
けれど、どうやら違うみたいだ。
明日はきっと堅苦しい儀礼や挨拶が目白押しだ。そうすれば、暫くは顔を合わす時間も無い。彼の言葉どおり、名目の二三日を何気なく遣り過ごせば、後はさっさと、あの仮住いに戻ればいい。
ということはつまり、今日を乗り切ればいいのだ、今日、今、このときを。
段々と作戦を練っていく過程で、の瞳に点となって光が宿る。その雪白の顔つきが静かなまま妙に輝くのを、人の姿をした独眼竜がみすみす見逃す筈が無い。
ふと、政宗はすいすいと動かしていた指先を止めて、無言のまま思惟に沈むを真正面から見止める。

「…そういや、
「? …はい」

改めて名を呼ばれて、目を瞬かせたが現実に戻ってくる。カンと高い音を立てて、政宗が煙管の灰を落とした。

「お前、傷はもういいのか」
「ああ、はい。もうすっかり。すみません、後手になってしまいましたね。その節は本当に、ご迷惑をおかけしました」

深々と改まって頭を下げる彼女に、政宗は何ともつかない複雑な表情を返していたが、やがて「医者から聞いたんだがな」、とぽつりと落としてくる。

「なんでしょう?」
「痕が残ってるって?」

言われて初めて合点が言ったが、ああ、と事も無げに頷いた。

「らしいですね。自分じゃ見てないので、よくは知らないんですけれど」

刀が悪いのか運が悪いのか、何せ、馬上で貰い受けた刀傷が膿んだ結果、醜い引き攣り痕として今もの背を斜めに奔っている。
それほど大きくは無い、だが、小さくも無い。貝殻骨を通り、腰元に届くかどうかという規模で、聊か明瞭に、繊維が絡み合うようにして、再生しきれない皮膚の断層を補っている。
恐らく、生涯消えることは無いだろう。
それを、医師から残念そうに告げられて、周りのものはひどく狼狽していたようだが、本人は別段気にしていなかった。
生きていれば、生傷の一つや二つ、拵えて当たり前なのである。現に、彼女の膝や肘には、うっすらと往年のやんちゃ盛りを忍ばせる傷跡が見えたり見えなかったりする。
それに刀傷が加わったとて、一体どれ程のことがあるだろう。
事も無げに頷き、淡々と告げるに心底呆れ、眉間に皺を寄せるのは、独眼竜と呼ばれる彼も他の面々と変わりなかった。

「お前なァ…、仮にも女だろ。ちょっとぐらいは傷つくとか泣くとか後悔するとか、そういう素振りってもんはねーのか」

心底厭そうにそう言われて、思わずもややムッとして反論する。

「だから、別に気にするようなことでも無いでしょう? 痛いとか痒いとかなら兎も角、本当に、何とも無いんですもの。困ることなんかないじゃないですか」
「困れよ。傷跡だぞ、傷跡。有って誇ンのは男だ。女にゃ恥にしかならねぇよ」
「そんなこといわれたって…大体、背中ですよ、背中。何処の誰が見るんですか。見ませんよ誰も…」
「俺は見るだろ」

事も無げに言われて、一瞬、なんのことか判らなかった。
やや間抜けな間をおいて、暫し。怪訝な顔をしていたの面が、途端、ぼんっと鮮やかに紅葉する。
さて、この娘はいったいどういう反応を示すのだろうか。そんな聊か他人事のような気持ちでの出方を伺っていた政宗は、彼女のこの反応におやと意外そうに左目を見張った。
こういう、あからさまな雰囲気に陥ることは、実ははじめてなのである。大半の理由は成り行きや馴れ初めもあるが、とどのつまりは彼女自身が忌避して、彼も何となく先延ばしにしていた結果、である。だから彼は、いざこうして示してみれば、相手は怒るか不貞腐れるか、盛大に嫌悪を顕にするか、恐らくどれかだろうと思っていた。それが、意外にもこの態だ。全身を火達磨にした娘は、ほっそりとした無意味な指先を翻して、う、だの、その、だの、なんとか話題を変えようと必死である。相変わらず濡れがちな黒瞳は宙を泳ぎ、最早こちらを見ようともしない。
やがて、政宗は彼を以って彼らしい、皮肉な口角で思い切り哂う。
そうか、そうか、成る程なるほど。どうやらこの娘は、案外に晩生であるらしい。
さて、こうなってはもう万事休す。此処からは彼の真の本領である。容姿端麗、唯一無二、その所為でいかにも傍若無人なこの男は、上手に女を扱い踊らせる方法を、疾うに心得きっているのだ。
手始めに動いた無骨な掌が、の髪を一房取り上げ、くっと引き寄せる。
髪を取り上げられたこと自体視界に入っていなかった彼女は、不意をつかれて勿論よろける。思わず手を着いた先は彼の膝横で、顔を上げればぐっと間近になった隻眼にぶつかる。煌々と照る灯りの中、しんと澄んだ瞳である。その中に、間抜けにうろたえる娘が映る。
ち、近い。
開いた唇が意味を成さない。音はどうしたって漏れてこない。
こんなこと、今までなら信じられないことだ。
重ねて言おう。彼は変わったのだ。
本当に、変わったのだ。
本当に、本当に、それはもう、色々な意味で!

「あ、あの、えっと、その、と、殿……」
「藤次郎」
「え」
「昼間そう呼んでたろ」

伊達政宗は心底取り乱す濡羽色の髪を絡めて梳かし、放そうとはしない。微力とは知りつつも、何とか逃げの隙を掴もうと躍起になる彼女は、支えの手を持ち上げて彷徨わせ、気を紛らわせるようにして無意味に振る。

「ご、ごめんなさい、すみません、あ、あの時はもうその必死に咄嗟で…」
「別にいいさ。まぁ、最近は聞きゃしない響きだがな。けどお前なら、まぁ、な。好きに呼べばいい」
「す、好きにって、金輪際口にしないように努めますよ…!」
「…ふぅん」

毛先を弄んだままの彼の回答は不明瞭で、片方しか窺えない眼光は相変わらず、得体の知れない光に包まれている。前後不明の恐怖に囚われるの唇はこの窮地と闘おうとして必死であった。しどろもどろの言葉が勝手に飛び出しては散らかってゆく。

「だから、えっと、それにその、ほら、なんだっけ……、せ、背中だって気にします! すっごく気にします! だから、だから、その」
「なんだよ」
「な、何ってその……、あの…あの……」

切れ切れの細い声で、やがて、が何とか咽喉を絞る。

「は、放してください」

ようやっと、言い切ったのに。
彼は暫く無言で、眼前で羞恥に堪えれず赤面し、加えてそれを悟られまいと無駄すぎる努力と演技を必死に続けている娘を眺めていたのに、また突然である。
髪を離して、今度は二の腕を握る。そのまま引いて、倒れようとしたのか、圧し掛からせようとしたのか。
とにかくその瞬間、に訪れたのは絶望だけだった。
ああ、どんな言葉も届かない。この男は、やると言ったらやる男だ。やらなくて良いと言ったらもっとやる男だ。やめてくれと言ったら嬉々としてやる男だ。
音を立てて血の気が引く。目の前が真っ暗に、咽喉が詰まって、息を忘れる。
次の瞬間、娘は男の腕の中に―――

「ひ、ひぎゃあああぁぁ!!」

そして、渾身の一撃が政宗の顎を直撃したのである。








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BGM:ショートケーキのサンバ,ポルターガイスト,ハートに火をつけて(小島真由美), カフェ・ド・鬼 (電気グルーヴ ),流行(椎名林檎)

………え? 
わたし、漸く間違って無い方向性に踏み込めてますか??

そんなわけで今回もお疲れ様でしたー!何処でぶった切ればいいか相変わらず曖昧な24話目、お楽しみいただけたら幸いです。筆頭のターン!なってないが!
イヤーホント好き勝手やりたい放題な展開ですが笑、当初の予定通りやっとキター!というかんじです ワー時間カカター英雄外伝とっくに発売してらー!笑
自己爆走路線はまだまだまだまだ暴走しますぜ! マッとりあえず、明るいと見せかけて暗いッつーのはデフォだよ!(オイオイ)

たまに、「ちむさん何処までも突っ走ってください!だいじょうぶ!」(←すでに笑うところ)とかいうおてがみを頂くのですが、ウーン多分大丈夫じゃない気がする笑