25
対の館では今まさに騒々しくも奇怪な騒動が行われているというのに、知るべくもない城主の閑所は静々としたものだった。用心のために締め切られることが多い風通しの窓は豪快に開け放たれ、弱々しくも暖かい春風が細やかな塵を巻き上げ、射す陽光に反射させる。雪明りに似ているが、やや劣る鈍い燐光である。もっとも、膝を突き合わせ、ぼつぼつと言葉を交わす男二人には気取られることの無い、ささやかな季節の変化だった。
場内の廊下全てを奔って余りあるのではないかという量の半紙。書き付けてあることを順に確認しながら、二人は淡々と話を進めている。終わるのだろうか、という政宗の懸念はとっくに放棄されて、今は「終わるといいな」に変換されていた。要するにやや投げやりである。ただしその分無駄口も減る。巧遅より拙速、何よりこの傅役にはそれがいい。
「…以上が、現時点で整えた全てです」
「I see, 上々だ。莫迦どもに気づかれちゃいねぇだろうな」
「油断はなりませぬが、大丈夫でしょう。野盗の動きがやや活発化していたのが幸いでしたね。小隊が動いても討伐としか見ぬようです。間諜も泳いだままですし」
「間抜けな奴らだ」
鼻で笑って言い放つなり、立膝に預けていた状態を後ろへそらせ、伊達政宗はまさしく猫のように大きく伸びをした。不穏な音が鳴るが、それが逆によい刺激なのだろう。当人は気にした様子も無く今度は肩を回している。
片倉小十郎の目線はちらと主に向かい、またすぐ書面に戻る。
「成実が発ったことはご存知ですね」
「ああ。…アイツも大変だな、明日から適当な人数背負って山賊狩りだ」
「そうお思いになるなら、もう少し優しく扱ってやればよろしいのに」
「何言ってんだ、信頼してるからこそ、だろ?俺は十分優しいご主人様だよ」
ハン、と笑いきって、柔軟をやめた着流しの城主が身じろぎし元の姿勢へと落ち着く。
「貴方様がそう仰るなら、私はそれで構いませんが」
含みある小十郎の一言に主がギロリと隻眼を持ち上げたが、それと同時に彼はこれ見よがしに手元の半紙をすいすいとたたむ。
「ひとまず裁量をお伺いしたい条項は以上です。今日は此処までと致しましょうか」
「そりゃ有難い。酸欠で死ぬかと思ったぜ」
器用に肩を竦めてくる主の嫌味なぞ物ともせず、小十郎は脇に積み上げた書誌から、これから己が必要なものだけを抜き取ってゆく、その傍らで口を開いた。
「手筈は万事予定通りに進んでおります。今日、明日ではないにしろ、殿が出立なさるのも先見通りとなりましょう」
「…だから?」
「私はいつでも構いませぬが」
端的に言うだけで突き放して、確信は寄越さない。
この男はいつもそうだ、と政宗は遠くで思った。物見櫓のごとく高みから見下ろすように端くれだけを投げつけて、受け取ったものが何であるかは相手に考えさせる。不快感は無かった。それぐらいでちょうどいい。それにきっと、こちらの性格を己以上に熟知しているからこそ、そうならざるをえなくなったのだろう。
暫く黙っていたが、小十郎が何気ない雰囲気で後片付けを進めてゆく様を目で追って、頷いた。
「早いほうがいい」
「私が決めてもよろしいので?」
「任せる」
鷹揚に告げてやれば、今度は少し薄い笑みが返ってきた。
「では、そのように」
今日という日なんて、無くなってしまえばいいのに。
二の丸に宛がわれた客間の縁側にて、は一人頭を抱え込み蹲る。
彼女はまるで真冬に川に飛び込んで万歳三唱する人間を見たような顔をした男二人から、命からがら逃げ出して漸く得た穴があったら入りたい余暇真っ最中なのだ。
今日といわず、昨日から、いやいっそ生まれ変わって出直してやりたい。それができないのはよぅく分かっているから、だからせめてどうか、丸一日は誰にも会わないで済むよう、放って置いてはくれないだろうか。
「…無理だ…」
立膝の衣に唇を押し付けたまま呟いたので、声音はもごもごと感情のままにまごついた。
落胆する前に、トドメは自分で刺すべきである。
「どんな顔して、これから…」
皆の前に出ろというのだろう。
話したことは全て本当だった。だからこそこんなにも負傷しているのだ。何故、問われるまま口にしてしまったのか、それが一番不思議で、口惜しい。誤魔化せればもっと傷は浅かっただろうに、全て引きずり出されて、嬲られて、この様。あの奉行は役職のみその力を行使すべきなのだ。
すん、と喘いだ所為で苦しい洟を啜って、両膝をぎゅっと抱きしめる。
でも、分かっている。
「…悪いのは自分ね」
誤魔化せればよかった、ではない。誤魔化さなければならなかったのだ。
勿論、一番触れられたくない部分を抉られて、羞恥で全身が火照るほどなのだが、時と共にそれが少し落ち着けば、今度は比べるべくも無い衝撃と動揺が胸を貫く。
何故誤魔化せなかった?
確かにあの奉行の手腕もあろう。此処まで詰問されるのもほぼ初めてである。
だけど、あの男に相対していたときの自分は、いったい何者だった?
あの時、あの場で、無様に動揺を晒した自分は、"伊達家内にその身を置く相馬の人間"だったか?
それに気づいて、とても恐ろしかった。
わたしは一体、何をしているのだ。
胸を掻き毟るくらい恥かしい出来事だったけれど、それは""としての話である。こんなところで、こんなにありありと、晒してよいものではない。そんな場所ではないはずなのだ。それは、自分が故郷として定めたところで、見せていたものではないか。
此処は、違う。
奉行に示すべき態度ではなかったのだ。否、そもそも、どれほど動揺しても、あの男の手を甘んじて享けるべきだったのだ。
それが、相馬の人間としてここにいる自分の真っ当だったのだ。
そんなことすら忘れかけている自分、乞われるままに口を開いている自分、装いを捨てて、思うまま素直に、感情を動かす、自分。
そんなものは必要ないだろう?
「失礼致します」
突如響いた女の声。はっと顔を上げると、次の間の障子紙がすらりと開き、端座した小袖の女が見える。
「姫様にお逢いしたいと、軍師殿がお見えで御座います。お通ししても?」
「軍師殿?」
「片倉様ですわ」
いま、このときに。
僅かに瞠目したにちらりと視線を寄越しはしたが、結局女は何もいわず、そのまま伏せて黙るに落ち着く。
その姿をじっと見つめながら、口を噤み思案した、その間は一瞬だったろう。
試してみようと思った。
「お会いしましょう。…お通しして」
「畏まりまして」
一旦障子紙を閉め、立ち去る女。
擦るようなその足音を聞きながら、はゆっくりと瞑目する。
自分がした覚悟は、この程度のものではないはずだ。
「突然お邪魔して申しあけありません。もしや、お休み中でいらっしゃいましたか?」
「いいえ、お気になさらずに。日和を眺めていただけですから」
即座に返事を返したにしては、片倉小十郎は少し間を空けて室内に姿を現した。おかげでは少し身支度を整える間隙を持ち、案外にすっきりした顔付きで男に相対している。もしかしたら、先程の女が気を使ったのかもしれない。なにせ彼女もまた、昨夜の一騒動に巻き込まれた人間であるのだから。
「改めてご挨拶申し上げましょう、お久しぶりで御座います。その後は恙無くお過ごしで御座いましたか?」
「ええ、大層よくして頂いてますわ」
先程もよく似た台詞を受け取った。流石混じる血は違えど兄弟だと、の唇がほんのりと弛む。
「わたしこそご挨拶もせぬままで失礼を致しました。ご無事にお戻りになり、何よりでございます。片倉家の隆盛は貴方様を持って極まれリ、といったところでしょうね」
にこやかに告げるの顔を、滅相も無いと恐縮しながら、彼も笑んで見つめていた。その後はしばし近況を語り合い、互いの不在の間起きた細やかで些細なことを口にした。端的に言えば、は客人寄りの人質の身として、片倉家の世話になっている身。共通の話題は多く、くどい説明事は必要ない。屋敷を取り仕切る婦人の豪腕さなどを肴にして、一時花を咲かせた。
流麗な会話だった。
「ああ、すっかり話し込んでしまいましたね。申し訳有りません」
先手を打ったのは男のほうだった。変わらない穏やかな顔のまま、苦笑して頬を掻いている。
「肝心の件を忘れかけておりました。いや、危ない危ない」
「…と、申されますと?」
「わたしがお伺いした本題で御座います」
が笑顔のまま目を細めても、男の雰囲気に変化は訪れない。
少し座りなおし、男は「まず、ですが」とあくまで軽妙に切り出す。
「先の騒動の発起人、あれがどの者か判明致しました」
「…騒動?」
「おや、もうお忘れですか? 貴女様が中心に居られたのに」
「と仰いますと…、町人同士の諍い事でございますか?」
「ええ。あの最中、恐れ多くも伊達家花押が押下された証文とやらを掲げた商人がいたでしょう。あれに加担した不届き者ですよ」
ああ、とが思案顔で頷いた。喉元過ぎれば何とやら、すでに大騒動を引き起こした裕福そうな商人の顔も、彼女の中では"思い出"という一括りに分類されつつある。
「確か…小姓の遠縁に当たる方のご署名を拝見しましたけれど、もしやその方が…?」
「いいえ、別の者でした。今仰った者は今回の件に巧妙に巻き込まれた方でして、寧ろ被害者と呼ぶが相応しいでしょう」
「では…」
「様は恐らく、名など存じ上げないでしょう。貴女様に目通りする事の叶わないほど、城内では下の者です」
ですが、と男は一度間を置いた。
次瞬には笑みを消し、真っ直ぐにを見る。
「その者等の終の目的は、どうやら貴女様にお会いすることだったようです」
「…は」
の眉間にうっすらと皺が寄る。解せない、とありあり浮かぶその感情に何を見出すのか、しばし眺めて、やがて小十郎は唇を湿らせる。
「直接如何こうする気が有ったかどうか…何せ火急に探り、吐かせましたので、それはまだ明らかにはなっておりませぬ。しかし、私の邪推するところによると、是と見て間違いは無いでしょう」
「わたしに会うために、わざわざ新たに植木屋を立ち上げ商売敵を潰す? …無茶苦茶でしょう」
「そうでしょう。正直、私もそう思います」
「………」
「ですが、だからこそ抜け目となるのです」
「…仰る意味が」
「分かりませぬか? 本当に?」
切り返しは鋭い。しかしは黙ったまま、静かな瞳を受け止めるに留める。
「貴女に助力を仰いだ男…伝七郎、でしたか」
「……ええ」
「あの者は、度々貴女様に花を手渡していたそうですね」
「!」
は今度こそはっきりと瞠目した。一言で全てを察したであろう娘を眺め、小十郎は浅く二度頷く。
「恐らくどこかで手違いがあったのでしょう。…若しかしたら、それも計算の上か、商人側にも相容れぬ野心があったか…、いずれにせよ、商売敵を潰すほど、派手なことはしなくともよいのです。成果を挙げ、繁盛し、頃合を見てあの屋敷へ剪定を乞いにゆく。屋敷の切り盛りはあそこに住まう者共に一切を任せておりますゆえ、私の判断などは一々仰がず、良いと思えば、いや思わずとも、そんなに評判が高いのなら試しに一度位…、そう考えるのが常套」
滑らかに動く口元は、慄然とする娘を捕らえつつも、軽妙さを崩さない。
「あとは、貴女が庭先に出る頃合を計ればよいのです。…珍奇な、だからこそ恐ろしい策で御座いました」
「………」
「私どもの落ち度で御座ります。誠にお詫びのしようもありませぬ」
言うなり小十郎は改めて居住まいを正し、その場で深く腰を折る。はっとしたが慌てて押し留めた。
「お止め下さりませ、小十郎様にお詫び頂く事ではないでしょう」
「あの屋敷は私の屋敷。御身は私が責任を持って預かっております。ならば、事は全て私の咎」
「しかし貴方様は不在でした」
「見えざる、聞こえざるからといって、それがどれ程のものとなりましょう」
「小十郎様!」
「今回は何事もありませんでした。しかし次回は? 次はどんな手段で? 誰が、何処から? …私は恐ろしいのです」
懇願するの前、小十郎がゆっくりと顔を上げた。
「"小高相馬家の姫君"が」
相対した軍師の瞳は、どこか痛みをこらえる切実と哀願、あとは、小さな怒りが見えた。何に対してか、過ぎったのはごく一瞬の所為か配慮を促すには不足だった。の心は目まぐるしく、先程己でも自問していた問いに戻り、引くか往くか、論ずるか押し黙るか、次瞬取るべき行動と、それゆえに齎される結果にどう対応するかに終始している。
そうだ。忘れてはならない。考えねばならない。
相馬家の人間としての答えを。
「貴女様がこの屋敷にいる限り、この米沢にいる限り、…伊達家に御身を置く限り、不埒なことを考える輩はあとを絶たないでしょう。血を分けた兄弟でさえ平然と喰らう今の世、いわんや他者をして、でしょう。その実も不確かな人質という身、捕らえて土産とするか、火種とするか…、どちらにせよ、貴女様も今度こそ無事では済みますまい」
「…そんなことは」
「どうでもよろしいですか?」
重ねて響く声音が重い。
「貴女はすぐ、わが身を呈する。それがどれほどの者か、まるでお分かりになっていらっしゃらない」
「お言葉ですが、それが質というものでしょう。少しでも波紋が起これば、すぐさまに滅ぶ身の事こそ」
「このような"質"が本当に成り立ってらっしゃるとお思いか」
の言い分を遮る小十郎の声は、その時までで一番鋭い響きだった。
「登城を許され、客間を整えられ、剰え殿の寝屋に招かれ、意思で持って其処を辞する、…そんな質が存在すると、本当にお思いか?」
「………」
「貴女は其処まで愚かな方か?」
が歪んだ笑みを漏らした。
「先程までは、そうではないと自負しておりました」
すると、いやにきっぱりと小十郎が首を振る。
「そのような弱気では困りまする。片倉家は元々武神成島八幡を戴く神道の家系。己を信じずにどうして御仏が信じられましょう」
違和感が首を擡げた。つられるまま、伏せがちだった娘の視線も、見開かれながら持ち上がる。
「片倉家の者として、まず守らなければならない志です。以後お忘れ下さりますな」
「え…?」
「単刀直入に申し上げます、様」
その先には、穏やかに笑う男が待っていた。
「私の娘になりませぬか」
夕暮れ。
初春は逢魔が時までも霞みがかるように柔らかい。燃え盛る残り火が端くれを山間からせり出して、闇に最後の抵抗を試みる、それすらも穏やかである。相対する端くれはだんだんと藍が競り上がり、織り成す色の妙が何とも言えず美しかった。彼は、一日の中で暮れが一番好ましかった。
迷った末に向けた足はやはり少し重く、だが進まなければという叱咤と折り合いをつけたのか、木目の美しい廊下ではなく、迂回路を辿っての庭先を歩いている。
色づき始めたばかりの庭園は色彩に乏しく、緑ばかりが茂る。それでも橙の斜陽が葉裏を捉えて、まるで燃え盛る紅蓮のようだった。
城内において、建造の存在しない箇所を庭と定めているのが現状である。よって廊下を行くのとは全く異なり、歩数は倍となり、時間は無為に過ぎてゆく。だからこそ、その間にあれやこれやとわずらわしい障害を打破する手筈だった。たとえば、庭先から室内に向け、どう声をかけるか。
妙案は浮かばないまま、とうとう目的は目前に迫った。しかし結局その懸念は杞憂で、庭先を進軍した己の判断は裏目に出たのだ。
足音を聞きつけて顔を上げていたのだろう。視線の先にいる影は縁側に腰掛けながら、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「…殿」
雪にも勝る白皙が夕日を透かしている。見張る瞳に赤が灯る様を見つめながら、呼ばれた城主は大きく息を吸い込んだ。
「まず俺に言うことは」
ふんぞり返りながら語尾荒く言い切れば、娘は目を見張り、動きを止めた。
どこか思いも寄らぬ驚愕に支配されたその瞳が、今度は答えを求めて思案に耽る。
「えっと」
考え込むその姿こそが癪に障るのだ。
瞬時に思い当たるべきだろう。
「ご、ごめんなさい……?」
その疑問系は何なのか。
少し釈然としないながらも、その不快感はため息を吐いて押し流す。彼はそのまま足を動かして、彼女が腰掛ける板敷きの上へ倣った。
拳三つ分の隙間を空けて。
「それだけか」
そっけなく告げてやれば、うろうろとさ迷う黒瞳。
「その………だ、大丈夫ですか」
「何が」
「…咄嗟の事で、わたし、思いっきり……」
恐らく殴打したことを言ってるのだろう。
細腕に殴られたところで特筆すべきことではない。だが、その行動はこの優位を保つには絶好の餌と成り得る。
「そうだよなぁ、そりゃぁ思いっきりのいい拳だったな、まさか日頃聖人ごかした奴から殴られるなんて思っても見なかったからな、この俺でも膝に来たぜ。いい右を持ってんじゃねーか、お前。いっそそのまま鍛えてみるか?」
「め、滅相も無いです」
ぶんぶんと青い顔をして首を振り、もう拳一つ分ほどあとずさる。片眉を跳ね上げてやれば、娘の喉がひくっと鳴った。
「今度やりやがったら承知しねぇぞ」
犬歯を見せて唸る劣悪な悪人面に、今度娘は頷かなかった。
躊躇いがちに顔を伏せたのだ。
「おい」
まさか納得しかねるのか、政宗が返事を求めたところで、娘が短く深呼吸。
「先程、わたしの元へ小十郎様がお訪ねになられました」
「………あの野郎、わざとか…!」
早い方がいいと確かに言った。だが、限度があるだろう。
前後不確かな政宗の怒号に、の肩がびくりと跳ねる、しかし娘はすぐさま己を取り戻して、神妙な顔をして居住いを正した。
「あのお話はそもそも、殿がご提案なさったと………誠で御座りますか」
迎え撃つ政宗も表情を改め、娘をじっと見下ろしていたが、やがて鷹揚に頷いた。
「…ああ」
「何故?」
「不服か?」
「そうではなく!」
言い募るをかわす様にして政宗がついと視線を逸らし、浅葱の着流しのまま立ち上がった。
春に差し掛かるとはいえ、流石に今この時分は冷える。彼は裾に簡素な流水紋が刺繍されている黒に近い青褐の羽織を肩にかけたままで、暮ゆく陽光を眺めた。
「…益のないことでしょう」
追いかけてくる娘の声は頼りない。
「そうだな」
振り返らぬままで、彼は言った。
「最初からこうできれば話は早かったんだがな、流石にはいそうですかといくほど簡単な事じゃないだろ。連中はお前を生かしていると知って、最初は大人しいもんだったがな、近頃じゃまた怪しくなってきやがった。まあ、当前かとも思ったが…こうも考えた。向こうも一枚岩をやめたのかと」
漸く首だけ振り向いた青年の顔は、逆光に侵されていてよく分からない。
右目を覆う黒鍔の眼帯が煌々と緋を煽る。
「連中が唯一お前の屍こそを望むようになれば、状況は変わる」
「………」
「今のままでは、俺はお前を守りきれない」
告げるだけ告げて押し黙り、両者はしばし向かい合った。
は硬く焼しめた心に、まだ小十郎が己に告げた言葉が固く反響しているのだと、改めて思い知らされて、唇を噤む。
やがて青年は体をも返して、確りとした足取りでもまた彼女の傍らに腰を落ち着けた。決まりきった三つ分の距離、視線は先程と同じく燃え盛る春の夕暮れへ。
「お互い、親には苦労するな」
しみじみと告げられた言葉だった。それが、どれほどの重みを持つのか、近からず、しかし遠からず顛末の一切の中にいた娘はしみじみと受け止める。
ややあって、の唇は薄く微笑を模った。
「あの方は、わたしの父には決して成っては下さらなかった」
懐かしむような、蔑むような、突き放すような、
どれにも似て、どれとも違う不確かな視線が、政宗の後を追って、爛れる空へ投げられる。
「幼いころから、…母が居た時も、居なくなってからも、そう言い聞かされて育ちました。あの方は、わたしの父の兄上。叔父上。わたしは生粋な相馬の娘では無く、弟が土民の娘に勝手に生ませた下賎の子」
「…へえ」
政宗の視線が、僅かに見開かれながらへ移される。
この娘が自ら己のことを語るのは、初めてかもしれない。
「そりゃまた数奇な人生だな。生まれは城外だろう? よく城まで乗り込めたもんだ」
あけすけな政宗の物言いは、逆に胸の内のささくれに引っかかることも無く通り過ぎてゆく。も政宗の目を見た。今度はきちんと微笑んで。
「もう朧げなんですけれど、何処か山間の、とても小さな村で、ひっそりと暮らしておりました。幾つだったかな…多分、五つかそこらの時分でしょうね。ある日、母に、迎えが来たのです」
「城から?」
「はい」
ゆっくりゆっくりと思い出すように、娘の目が右の虚空を見上げた。
「わたしは目を回して、ただ驚いているばかりでした。だって、それまで目にしたことの無いものばかりが自分の周りを取り囲むんですよ? 馬すらはじめて見たわたしはすっかりはしゃいで……その時叫んだ言葉で、成長してからもよくからかわれました。"母さん、あの足の速い牛は便利ね、坂沿いの畑だってあっという間に耕してくれるわ!"」
幼子の声を真似たのか、歌うようにが言う。政宗はたまらず噴出して、「そりゃ合理だ」と軽妙に笑う。穏やかに笑んだまま、彼は立てた膝の上で頬杖をついた。
「そこで怯えずにはしゃぐのがお前らしいな」
は答えず曖昧に笑う。背に流すだけの髪筋が暮の夕風に浚われて、穏やかに景色の中で舞い上がった。
武家の娘、それも妙齢であれば、長い髪は香油を使い結うのが常套だ。垂らしたままの髪は惰性の証として密やかに厭われる。この娘は、この辺りから既に他とは違う。けれど不快ではない。指に絡むでも粘りつくでもない感触は水のように心地いい。
流れに随い緩やかに掌から逃げてゆく髪先を追うでも無く、政宗は持ち上げていた指先を持て余しながらを見た。
「お前に兄弟は居ないのか」
「そう聞いております」
「へえ…だからか? 外腹のガキなんて火種にしかなりゃしねぇだろうに、わざわざ迎えまで寄越すなんてな。よっぽどお前が可愛いか、女が恋しいか、何せ、熱心なことだな」
「父の、今際の際の懇願だったそうです」
長い髪を揺らし、が静かに瞬いた。
「わたしと母が城に上がったとき、既に父は身罷っていて…、ですが結局母は最期まで小高の城で過ごしました」
促すのを待っているのだろうか。途切れ途切れに終わるの言葉。
政宗はなんとなく、この話の顛末を予想していた。だがどういうものを投げつけられたからといって、己の結論に水を注すものとは成り得まい。こちらの答えはもう出ているのだ。後は彼女の答え。
譲ってやる気はさらさら無い。
政宗は静かに口を開いた。
「土民が武士の後家として?」
「いいえ」
緩やかに首を振り、彼女は落日を追う様に視線を変える。
「相馬家当主の妾として」
夕日の陽光が黒瞳を紅く染め抜いても、それでも彼女の瞳は黒々として、全く底が伺えなかった。塗りつぶせない。上書きもできない。美しく豪奢な箱に押し込められた面影。
「わたしは母に、とてもよく似ているそうですよ」
振り返って、一度微笑み、はまた前を向く。その横顔を見つめ、平素のまま政宗が追い討ちをかけた。
「母親は何で死んだ」
「自害と聞いております」
「聞いた?」
「ええ。わたしが駆けつけた時には、既に母は清められ寝かされておりましたから」
「…お前はそれを鵜呑みにしたのか?」
が俯いた。僅かに苦味が過ぎり、しかしすぐに、微笑んだ。
「難しいものですね、武家の機微とは」
今はもう、野山で暮らしていた頃より長くこちら側に居るはずなのに、それでも尚、判らないものが多すぎる。
「あの時、母は身篭っておりました。日に日にやつれて、でもとても大事そうにお腹を抱えて微睡んでいたのを、よく覚えております。その母が自害した。残りはわたしだけになりました」
がまた振り返った。残照が形取る娘の顔は、既に端から闇に呑まれつつある。その中でもよく判るほど、痛みに歪んでいた。
「わたしは残ったのです。あの泥の中で、母でも、生まれる前の子でも、他の誰でもないわたしが、叔父上が姪といい、孫次郎様が従妹と呼んでくださり、血の本流から遠ざけて」
他人と呼んでも差し支えない娘を、それでも黙って育て上げた。
唇をかみ締め、眉根を寄せながら、だがしっかりと政宗の隻眼を見つめて、は喘ぐ声をなだめ、言い切る。
「わたしは、あの方の姪以外にはなれない」
政宗は何も言わず、切実ながら苛烈な娘の視線から目を逸らさず、ただ黙って受け止めていた。終いを押し出した娘はそれきり黙りこみ、もう何も言わない。
二重の意味があるのだろう。
姪以外にはなれないという、その言葉に。
「だからこそだ」
低く響いた竜の声音に、娘の肩が一度揺れた。
「今のままで、お前に何ができる? 癒しか、挑発か? 違うな、何も出来やしねぇよな。判ってるんだろう、だから迷う」
「…迷う…」
「迷ってるさ。じゃなきゃなんだ? お前がこの俺に、益にもならない話をする理由は」
その通りだった。
自分は迷っている。だからこそ、その事実に吐き気がする。
揺らぎ無く居たかった。透明な一本の芯のようでありたかった。なのにどうしてうまくいかないのだろう。
望みは一つのはずだったのに、いつからこんなに欲張りになったのだろう。
「迷えばいい」
拳三つ分の距離は呆気ない。ゆるりと伸びた手が、俯きがちだったの肩をつかみ、引き戻す。
「もがいて足掻いて、最期まで迷ったままだっていいさ。俺はもう決めた、あとはお前だけだ」
「わたしが…」
「俺の右目は二度と戻らねぇ」
高ぶりも何も無い静かな声。長い影がもうすぐ消えかけるだろうに、右の目元を覆う眼帯は決して埋没しない。
「代えは利かない、二度目は無い。お前も、俺も、そういうもんだ。だから迷えばいいさ。それは俺が砕いてやる」
「…………」
「今生お前があの男のために生きると決めたンなら、生まれ変わらせるしかないだろう?」
言い切って、華奢な両肩を掴み、青年は鼻で得意げに笑う。
は暫し、その顔を見つめて呆然として、やがて俯いて唇をかみ締めて、そしてまた、顔を上げた。
娘は何も言わなかった。
ただ、目端に溜まる雫を落とすまいと懸命に堪え、じっと目の前の青年を見つめている。
政宗は長いこと、その顔をつくづくと眺め、やがて、唇を寄せた。そのまま倒れ、二人とも板敷きの上に身体を投げ出した。
「…え?」
呆然と聞き返してくる娘の顔が可笑しくて、小十郎は思わずくすりと笑いを漏らしていた。
「言葉どおりの意味ですよ。私の養女にならぬかとお訊きしたのです」
呆けた顔はいつも何処か凛とした雰囲気を醸している彼女には似つかわしくなく、その差がまた可笑しくて、小十郎はくすくすと立て続けに笑った。言葉を飲み込んだが、凝固を解き、すぐさま思案に耽り言葉の意味を縦横無尽に探る気配がする。小十郎はとりあえず唇に微笑を含んだままに留め、彼女が何かを言う前に言葉を継いだ。
「向こうがはいそうですかと頷くとは考えにくい。よって、貴女には一度死んでいただく必要が御座います。名を捨て、私の娘になれば、"相馬家の姫御"は身罷られたことになる。そうなれば、煩わしい事に巻き込まれる可能性も随分低くなる。こんな所に押し込まれる必要も無くなる」
「お、お待ち下さい、それは!」
「全て殿が画策されたこと」
侍従はいい、穏やかな目つきで瞬いた。
「私はただ了承しただけ。あとをお決めになるのはあなた方。当事者同士、よく話し合っていただきたい」
「そんな……待って、そんな………、そんな馬鹿げたこと」
「馬鹿げた事、でしょうか?」
小十郎が含んだ笑みのまま、気安く首を傾げる。は咄嗟に前のめりになって言い募った。
「だって、そうではありませんか! あなた方にも、小十郎さまにだって、何の得分も無い…!」
「おや、得ならありますよ」
心外そうに言葉を遮った男が、驚愕に取り乱す娘を見つめ、ゆったりと笑う。
「この私に、念願の娘ができるのですから」
それから十日ほどしてまもなく、またどこぞで戦があるのか、はたまた凱旋か、城主や主だった武将が本拠を離れることとなった。
留守居のものに重々守備を言い置いて、颯爽と去る青い陣羽織。すっかりと春めいたまっさらな陽光の元、出立の見送りに参じる事の無いは、人伝に様子を聞き、ただ胸中で見送った。
「それほどまでにご心配なさらなくとも、すぐ戻っていらっしゃいますわ」
いつもの片倉別邸にて、何をするでもなし、ただぼんやりと日向で微睡んで居たは、馴染みの侍女の一声にぱちっと素早く瞬いた。
顔を上げれば、袖元で淑やかに口元を隠した女が、片方の手に何やらを抱えて此方へ歩み寄るところである。
「噂によると、先に平定なさった小田原界隈へ再び赴かれるそうですわ。戦という戦でもないでしょう。必ずご無事に戻られますとも」
「…別に、あの方の事を考えていたわけではありません」
「おや、では何を思い耽ってなさいましたの?」
「……特に、何も」
「左様で御座いますか」
ほほ、と軽く笑って流す女に、は暫し唇を尖らせたが、やがてふっと一つ息を吐き、また虚空を見るに戻った。女はそんな彼女を苦笑と共に見つめていたが、やがて、傍らに携えていた荷をゆっくりと置く。
「さあ、姫様。仮縫いが済みましたので、少し羽織ってみてくださりませ」
そういって広げられたのは、いつかの夜、政宗から送られたあの藤の絹だった。仮縫いとはいえ、もうほぼ立派な小袖の呈をなしている。が細く息を呑んだが、やがて、黙って立ち上がった。
すかさず、真新しい布の匂いが身体を包む。
「本当、よいお見立てで御座いますこと。姫様は蜻蛉の如く透ける肌をお持ちですけれど、お顔立ちがはっきりと為さっておいでですから、このような淡い御着物姿もまた可愛らしいのですね」
「…褒めすぎでしょう」
「いいえ。貴女様をよくご覧になっている証ですわ」
女は笑いながら、簡素かつ素早く仮初の衣の具合を確かめ、の姿を眺め、満足そうに頷いている。も微笑んで、袖もとの布をそうっと撫でた。
大輪に咲き枝垂れる薄紫の花。春の終わりか、初夏の始まり頃に咲く花だ。
その頃には、戻ってくるのだろうか。
「よろしゅうございますね、寸法はこのままで大丈夫でしょう」
「そう、ありがとう」
素直に礼を言うに、侍従はにっこりと笑って返す。
「本当にお似合いだこと。長く着ていただきたいけれど、そう願うのも酷な事で御座いましょうねぇ」
「?どうして?」
「ややこが宿れば腰上げでは追いつきませぬゆえ」
「…やや」
やや?
「…う、えっ!?」
「ほほほ」
ぱくぱくと鯉のように口を動かす娘に向かい、婦人はからかいが強く出た笑いを遠慮なく向けてくる。そしてまだ固まっている娘の襟元を正しながら、独り言のようにゆったりと呟いた。
「何をお悩みかは存じませぬが、世の中は大抵、人があれこれと気に病む前に巡って行ってしまうものですよ。男女の仲は特にそう、お子が出来れば何となく落ち着いてしまいますわ」
「な、な、何を仰ってるのか! わたしにはさっぱり!」
「あら、それは失礼致しました。年寄りの戯言ですわ、お聞き流しくださりませ」
からからと笑う女には、もう何を言っても無駄だろう。
人生の大先輩に遊ばれ、目を回していたは、やがてあきらめて嘆息し、目を閉じた。
―――そんなものだろうか。
ふんわりと漂う花の匂い。日向に焼かれた畳の薫りと一緒に、緩やかに流れる風に巻き上げられ、頬をくすぐる。
こんな風に悩んで、躊躇って、二の足を踏んだままでも、いずれどうにかなる日が来るのだろうか。
想像もつかない。だから迂闊に期待も出来ない。
それでも、藤の花が咲くことが、ほんの少しだけ待ち遠しかった。
「…姫様?」
「はい?」
穏やかな時が流れて、恙無い日が繰り返されていた、そんなある日だった。
手持ち無沙汰だったが申し出て、屋敷の女たちと談笑しながら針仕事をこなしている最中、よりは二つ三つほど年若い、まだ此処に来て日の浅い法である侍女が、躊躇いがちに声をかけてくる。
おずおずとした態度に少し首を傾げながらも、は針を仕舞う傍ら、微笑んで促した。
「何か?」
「あの…お客様で御座います。お目通り願いたいとの事で」
「わたしに?」
きょとん、と瞬いて己を指差すに向かい、侍女がこくんと頷く。
「どちら様でしょう。御名は伺いましたか?」
流石に口を挟んだ先輩女中に向き直り、若い侍女ははい、とやや緊張した面持ちで告げる。
「伝馬、と伝えていただければ判ると…」
「…本当?」
言いながら、はもう腰を上げていた。裾を直し、現れた侍女に案内を請う。
「お知り合いですか」
「ええ、友人のようなもの…大丈夫、怪しい方ではないわ。正面から尋ねてくるのがよい証拠でしょう?」
「それは…まぁ、そうですわね。ですが…」
言い募る侍女を遮るように、急いたが踵を返す。
「話が積もるようなら部屋にお通し致します。その時には同席して頂戴。…どちらに?」
語尾は傍らの娘に渡して、「此方です」と案内されるまま、背後の声は振り切って足を動かす。応接間へ通そうとしたところ、相手は辞して庭先に下りたらしい。今の時期、邸は咲き誇る潅木で埋め尽くされるようだった。蘇芳と海棠の、僅かに異なる紅色の中、その人物は愛でるように細長い指を伸ばし、大降りの花弁を撫でていた。
「―――"伝馬"とは、中々よい名を考え付くものだ」
そこに居たのは、思い描いた人物とは似ても似つかない、見知らぬ痩身の男だった。
彼はに気づいているはずなのに、一切の視線を虚空にて紗よりも儚い花弁を翻らせる花々に向かわせ、微動だにしない。
「古代律令制において、使者や物資を馬で運ぶ交通制度の名称。この制度のみの特性として、国も領地も無きものとして扱う…成る程、間者を模るには穏便な形容だ」
その声音は深く、重い。壮年を幾らか過ぎた頃合に見えるが、纏う雰囲気はいっそ覇気といって差し支えないほど烱々たるものだった。
裏柳に染められた落ち着いた色合いの衣が、やがてゆったりと揺らめいて、へと向き直る。
「それとも、無敗の騎馬兵を有する御家の洒落、か」
「…あなた様は」
どなた、と続くはずのの言葉は、男が恭しく腰を折ったこと、そして続いた言葉により、見事に遮られた。
「申遅れました。唐名は霜台、官位におきましては弾正少弼如元を賜る―――松永久秀と申します」
BGM:サイケな恋人(モーモールルギャバン),spider (capsule),落日(東京事変),世界は平和島(進行方向別通行区分)
さー黙るぞー
此処から一気にラストまで駆け抜けれればいいな
なげーんだけどね…