19






父の顔は知らない。
残っている一番古い記憶でも、共にあるのはいつも母の顔だけだった。
幼いころに、何度か尋ねたことがある。どうして自分には父親がいないのか、いるなら何故ここにはいないのか。
狭い室内で一所懸命に薬を混ぜたり、炊事に掃除と走り回る母は一切こちらを見ず、けれど都度丁寧に、はきはきと答えをくれた。
いらっしゃるよ。けれど一緒には暮らせない。父さんはご立派な方だから。だけどのことはちゃんとご存知で、大好きで、とても気にかけてくださってるよ。
薬研に手をかける母の両手は荒れていて、けれども途方も無く白く、薄暗がりの中でさえ、いつもぼんやりと光って見えた。
明るく快活で、だけど同時に、とても厳しい人だった。怒りも喜びも、誰に対してだって分け隔ても遠慮もなく訴えかけてくる、荒々しい嵐のような人。
その母が、暗闇の中、じっと黙ったまま、眠るわたしの頭を無心に撫でている。
目は覚めていた。
ふと降りた感触を確かめるために、二、三度と瞬きをしたから、母だって気づいている筈だ。
けれど、あの騒がしい母が、何も言わない。柔らかくて温かな手のひらが、決まった速度と一定の間隔で、何度も何度も、髪を撫で付けている。

「…どうしたの、母さん」

訊いても、答えはすぐには返らない。
もう一度、母さん、と呼んだところで、ふと、髪を撫でていた手が滑り、頬に降りる。
やがてぽつり、は父さんに会いたいかと聞こえた。
丸みの感触を確かめるように添えられた手は微かに湿っぽい。形は華奢なのに、火を扱う所為か少し肉厚でもある。わたしはなんと答えたか、それは覚えていない。頷いた気もするし、不安から黙ったままだった気もする。
空には月が無く、室内は囲炉裏に盛る僅かな点火だけの暗闇。不安になって目を凝らしても、翻る母の恐ろしいまでに白い肌しか見当たらない。眉根を寄せて懸命にその先を辿っても、やがて見えるのは僅かな影だけ。果たして、目の前の女は本当に母だったのだろうか。
城に上がる前日の夜だった。






一度は危ういと思われたの容態は、その後何とか持ち直して、一番の山場を越えるには至った。今は浅い眠りを繰り返し繰り返し、この先長くかかるだろう療養に、身を預けたままである。
背に負った刀傷は袈裟型に一尺ほど、出血の割には深く肌を裂いていた。筋や内腑、骨を痛めてはいなかったものの、裂けた皮膚同士に着いた血の所為で、手をつけるのも躊躇う酷い凍傷になっていた。
背だけではない。防寒も何も儘ならぬまま、冬の、しかも平時より遥かに凍える夜の闇の中を走ったのである。男より脂肪の多い女の身とはいえ、そんなものは気休めでしかない。
その手も足も、末端は全て凍傷に侵されており、白く美しい筈の彼女の肌は、あちこちが赤だったり黒だったりと、見るも無残の状態だった。
初見、医師は助かるために四肢の切断もやむなしと見た。だが、周囲の手厚い看護と、若輩とはいえ医術を心得る己が己を守ったのだろう。絶えず温めたり擦ったりと、付きっ切りの治療が功を奏し、僅かに残っていた小指の盛り上がりがもげ落ちただけで、あとはきちんとくっついたまま、それは以外はどうにか、彼女のものとして残った。
しかし、長い間溜め込んだ疲労が弱った身に追い討ちをかけたのか、当初は食事も治療も満足には受け付けず、ただただ眠りを欲するばかりの日々が続いた。たとえ目覚めても喋るも禄に儘ならず、水だけを摂ってはまた眠る。医師より断言された絶対安静の禁は中々解けず、何人たりとも、延命を望むなら気安く口を利くことは許されなかった。
現在は落ち着きを取り戻しつつあるものの、最初に運び込まれた城下の仮屋から動かされることも無く、現在も隔離され続けている。そのさもしい身の上に加えて、とりわけ、肉の落ちきった無残な寝顔は、世話をする女人や医師の同情を誘った。
他を圧倒し魅了したあの娘らしい瑞々しさと、女らしいしどけなさはすっかり失われていた。今は見る影も無く、これが同じ人間かと、疑わずにはいられない。窪んだ眼窩に濃く落ちる陰りを見下ろして、うわべはどのような造詣をしていても、皆、皮の下は須らく骸骨なのだと思い知る。乾いた唇から漏れる吐息は本当に幽かで、全身全霊を傾けなければ、とても聞き取れやしなかった。
が安置されているのはだから、人の気配が全くといっていいほど絶える、奥まった一室であった。
ざわつく忙しない人いきれとは無縁ながら、代わりに、かそけき森羅万象の声音が身を包む。積雪が幽かな寝息を吸い込んで、時折吹くそよ風だけがささやかに障子を揺らす。
その程度の、静寂が満ちる空間である。
只中にて、彼女もまた、無心に瞳を閉じている。
健やかではないが、安らかな、このまま消えてしまいそうに深い眠り。
夢を見ていた。






双方の後詰が完全に撤退したのを証として、武の戦は終わりを告げた。雪原を埋め尽くすようだった大軍も潮のように引き、あるものはこれ幸いにと、あるものは悔しげに歯噛みしながら、それぞれの所領を目指して退く。胸の内はやり場のない燻りと、足取りは真綿の雪に絡められて、どちらも重い。
途中、やり場のない鬱憤の発散させるためか、それともまた別の理由か、些細ないざこざが其処彼処で発生した。やれ夜襲だ、やれ暗殺だと、規模に反して唱える論は物騒で喧しい。故意にせよ過失にせよ、誤報や誇張が錯綜していた。だが、それもそのはず。共通の目的を失えば他人同士、いや最早領土を奪い合う敵同士だ。手ぶらで帰る皆が皆、隣を歩く他領主の首が欲しい。野営を共にする道中は絶好の狩場なのだ。
進むだけと見込んでいた道を戻らざるをえない彼らの頭から、肝心の怨敵である男の影はすっかり形を潜めていた。
勿論、少しはそう仕向けていたのだが。
奥羽全土に根強く蔓延る厳冬は、相変わらず気紛れに日々外を荒れ狂っている。ふと穏やかに藍を溶いた空を見せたと思えば、振り向いたその鼻先に視界を覆うほどの降雪を見せ付ける。
今夜は少し風が吹くが、比較的大人しい。只ひとひたと、骨身や創に染みる寒気が室内にまでにじり寄っていた。
この面子を揃える為に日を空けたというのに、暫く、誰も何も言わない。
座には只、ぱちん、ぱちんと、扇子を開閉する規則正しい音だけが続いた。
だが不意に、扇が一際甲高く啼いて、音は止まった。
後には微かな、喉での笑い声が生まれる。

「軍神、ねぇ……愛しの武田に掛かりきりかと思えば、なかなか余裕の浮気性じゃねぇか」

言い終えて長い息を吐き出せば、不自然な白が軌跡を彩った。そのまま中々解け消えずに、仄かに甘い香りが宙に残る。
伊達政宗は腹心の片倉小十郎景綱らと、遅れてやってきた伊達藤五郎成実と共に、談義に耽っている。
すっかり健常者の面持ちで上座に居座って、滔々とのたまうその姿に、負傷の面影は垣間見られない。銀鼠の着流しに墨が垂れたような黒の羽織姿とは、聊か略式された簡素な出で立ちだが、いつも以上に鋭利な面持ちと、流れ出た深く重い声音に良く似合っていた。
彼の網の目のように繊細な根回しが功を奏して、急場を無理に凌がなくてもよい日々は、痛手を負った身に満足な休養と思考の海を与えた。元々、血の気と生気が多い体である。多量の出血は同時に、大いに溜まった毒素も盛大に放出したらしい。手厚い看護と確信的な静養を続けること数日、はや身を起こし、歩き回れるようにまで回復する。
並行して、粗方の情勢や事実は次へ次へと耳に届く。加えてそれらを纏めて、租借し、これから先を考えるまでの時間もあった。
そして漸く顔ぶれを揃えての、密談に近い内々の会合である。人払いは済んでおり、音といえば互いの吐息と時折揺れる障子の震えだけ。ぼそぼそとした低い男同士の声も相俟って、全く静かな夜が満ちている。
戦場とは打って変わって大人しい彼ら直参を代表して、綱元が語った内容とは、草が持ち帰った報告を纏めたものに、戦中戦後、伊達政宗不在の間に見聞きした事を混ぜた、実に血なまぐさいものであった。
黒脛巾を十人ほど使って、十分に吟味した上での報告である。彼らの言上によって、上杉方からの横槍は疑いがたいものとなった。
明確であればよいのは真実ではなく、事実だ。
政宗が事前に承知していた分と照らし合わせてみると、これはなかなか、用意周到に仕組まれた無粋な差し出口という事もわかる。
敵は随分と耳と手が速い。驚くべき機敏さで奥羽への介入を果たしているのだ。
まさか、旅僧や農民に化けた草どもの手助けだけでは、こうも易々と事が運ぶ筈がない。
手にした黒金の煙管を、扇子を持つ手とは別の二本の指で器用に回しながら逡巡に耽っていれば、粗方を言い終えた綱元が、仕舞いとばかりに息を継ぐ。

「解せぬのは、我らの背後ではなく、よりにもよって北条などに手を差し伸ばす事。しかし、伊達の忍には注意を払っていたようですから、まるきり我らと無関係でもない。一体何が目的なのか………」
「回りくどいな」

宗時が頷くのへ、不意に、それまで静かだった成実が顔を上げた。

「戦最中、俺が一番前にいた。まぁ、知ってると思うけど」

突然上がった声は主語が不明確で、彼が何を言いたいのか誰もわからない。
自然、視線が集中し、二の句を待つ。
その間も、彼は一心に政宗だけを見ていた。

「小十郎たちと別れて、…殿とも別れてから、予定通り奴等の援軍を蹴散らしに、それこそあちこち走り回った。初めは佐竹の連中だけだったけど、そこいら中で、暗闇の所為か同士討ちが始まってたよ。旗印を失くした連中なんて、酷いもんだった。他所の軍同士ならまだしも、同じ旗本勢が切り結んで、討ち合って」
「何が言いたい」

滔々と語り続ける従兄弟の口を一先ず押し止めたのは、視線を向けられたままの政宗である。見返す眼光と同じままに、一閃のような鋭い差し口。
成実は一度口を噤めど、やはりじっと政宗を見つめたままである。

「そんな中でも、一向に見なかった旗印がある。闇が引けても、残党の中にも、一向にだ。わざわざ、殿が土産つきで逃がしてやったのに、以後連合に少しも加担しなかったなんて、おかしな話じゃないか」

暫く、誰も何も言わなかった。

「…相馬か」

言いにくい一言を担ったのは、場に居座る最年長者である。

「義胤公ではないだろう。御一人で動いていたというのなら、わざわざ我らの陣所までは来るはずがない。万が一露見でもしたらば、危険すぎるからな」
「では、恐らくご隠居………成る程、ならば一旦兵を引き、以後動きがないのも頷けるか」
「隠居が工作し、当主がその道を只歩く? …傀儡ではないか」
「まぁ、普通はそう嘲るわな」

宗時が零したついの言葉に、政宗は半分笑って取り合った。
至極尤もな感想である。通常、父親とはいえ、第一線を次期当主へ完全に明け渡しているのなら、そう易々と独自に動いてはならないものである。
意見を言い、融通を利かせようとするのとはまるでわけが違う。儀礼的なものとはいえ、一度は必ずお伺いを立てねばならないのだ。
そういった意味では、彼らもかなり特殊な一族だ。破天荒振りでは伊達が一番だろうが、形態の不明瞭さには時折虚を突かれる。
政宗は黙ったまま、扇の先端を無為に少し弄くって、無造作に床へと落とした。立てた方膝に腕を置く。
結わないままの柔らかな髪が首筋に落ちていて、流れるような陰を作り出していた。
それを鬱陶しげに跳ね除けながら、しみじみとして首の付け根を揉む。

「憶測、推測の連続だが、あの面見た限りじゃぁ、隠居の行動は寝耳に水だろうよ。俺は成実の策しか奴には明かしていない。北条方を唆すにしたって、事前に承知してりゃ、俺らを畳み掛ける最大の好機だからな。二枚舌なんて器用なもん、持ち合わせてそうにもなかったし」
「西へ降られたと」
「十中八九な」
「……どういうことか、お判りですか」
「ああ」

事も無げに頷いて、相変わらず扇子を指先で器用に弄ぶ。黒檀か紅木か、色の着いた添木に和紙の白きが目に染みる。開かなければわからないが、表面にはまるで紅梅のように熟した巴旦杏が描かれている。梅や桜に鳳凰などが好まれる扇にしては、少し珍しい趣向品だ。しかし、"軽快"という花の意を込めて、扇の表面に描くという敢えての選別ならば、奇抜というよりは妙案でもある。
相馬が何かしらの思惑を持ち、上杉と親交を持って、北条に接触した。
恐らく北条方との遣り取りは上杉が担ったのだろう。北条と相馬に直接的なつながりはないし、何より、名門の誇りばかりが高い北条家は、奥羽大名のことを田舎侍と少し睥睨している節がある。西国に名を馳せる伊達や佐竹はともかく、総規模で明らかに見劣る相馬家が直接交渉を試みたところで、色好い返事が返るとは思えない。その点、関東管領上杉家は申し分ないのだ。
結果だけを見れば、上杉・相馬間の連携により、伊達家はなんとか九死に一生を得て、当主は深手を負いつつもなお健在である。本来ならば狂喜して襲い掛かってくる筈の連合軍も、頭目である佐竹が動きを封じられたせいか、頭数だけの烏合の衆に変えられてしまった。次点勢の芦名が黙している事が奇妙ではあったが、恐らく予想以上の伊達軍の奮戦に、すっかり懲りてしまったのだろう。これ以上二本松に味方をして、不要な火傷を招くのもいけない。向う方にも意地があるから何度か小競り合いは起こるだろうが、そんなものは戦後には何時だって付きものだ。細々とした後片付けのうちに入れてしまえば如何と言うことはない。
しかし、これでこちらの当分の動きが筒抜けになったということである。
伊達と北条が連携していたという事は、上杉が北条と接触した時点で、相馬方にも伝わっているだろう。ならば彼ら三者間にて、伊達の情報をある程度を共用されてしまったことになる。発端である相馬が何をするつもりだったかは不明だが、何も告げず、何も示さぬまま、第三者に伊達の内情を明け渡したのだ。
しかし、こちらからは迂闊には手を出せない。実際、成実の言うとおり、あれだけ混戦を極めた戦場にあって、彼らは一切伊達軍に対して手は出さなかった。思惑は判らねど急場を救われた恩がある。恩があれば兵が迷う。これは、認めざるを得ない恩なのだ。
連合対伊達の、痛みわけを想定した上での根回しならば、成る程、奇抜と言うかは妙案である。
火鉢に預け、燻るに任せるままだった煙管を荒れた男の手が握る。剣胼胝に慣れ、激戦に疲弊しながらも逞しい武士の指は、殊更繊細に黒金の鋳金を撫でる。毒を持って毒を制す五毒符の一、銀の百足が煙口に這い、唐草を模した七宝と相まって、今にも動き出しそうだった。鏤めた瑪瑙も目に優しい、けぶる如くの彩色である。
暫し、しみじみと眺め、如何と言う風もないとでも言いたげに、政宗は軽く息を吐いた。

「相馬が上杉と一連なのは明白だ。だが俺の首が欲しけりゃ、今この時を逃す筈はないのに、もう何日、静かなもんだ。おかげでのうのうと沈んでいられたが、こうまで大人しいと逆に不気味だな。奴らにも、何か手違いがあったと見て、間違いないだろうよ」
「相馬家は、我らを喰らう心積もりなのでしょうか…」

じっと目の前の虚空を見据えたまま、ぽつりと言う小十郎へは、政宗の無造作な肩竦めが返る。

「さぁな。ま、今回ばかりは奴等の一人勝ちってことに間違いなさそうだ」
「……よろしいので」
「いいも何もねーだろ。俺も、お前らも、策に策が重なっての五体満足だ。今はそれで御の字、後の手は追々考える」
「殿、しかし…!」

何処までも軽妙な政宗に、憤りを抑えかねた宗時が喰らいついた。

「これは明白なる宣戦布告と見て相違ございませぬ! 歴とした、伊達家に対する狼藉ですぞ! それでも尚捨て置かれると申されるので!?」
「がなるな、傷に障るぞ」
「殿…!」
「あーあーもー、わーったわーった、安心しろって。…ったく、ほんと相変わらずだなお前はよ」

詰め寄る男を面倒そうに手で追い払って、翻した同じ掌でがりがりと乱暴に頭を掻く。

「…ま、正直、詳細は聞かずとも大体の見当はつくさ。奴等の考え方は、ある程度は身に染みてるからな」

爪と指の間に刺さった己の髪の数本を、ふっと息を吹きかけて宙に散らす。
隻眼が左の五指全てをじっと見下ろして、瞬いた。

「恩があるのは確かだし、抜かった俺の当然の責だ。それに、良い機じゃねぇか。ここいらできっぱり袂を分かつのが上等だろうよ。俺に擦り付けた恩は、俺の礼儀で以って、いずれ奴らに返してやる。それまでは黙っといてやろうぜ。だがこれっきり、ただ一度だ。二度目俺に舐めた真似をするなら、容赦はしない」

殺伐とした声音に、前屈みだった原田宗時が、はっとしたように少し後退する。
その様には喉だけで笑い返し、また他所を見て、得体の知れない面持ちのまま、続ける。

「まず人は遣る。問い質して、口上を述べるならよし、だが白を切るのもよし。どっちみちこれで綺麗にお別れだ」
「それは」

ぽつり、と、突如成実が割り込んだ。
じ、と逸らさない、逸らせないかのように、黒い両眼はただ政宗だけを見ている。

「相馬に対して、全部徹底するの」

政宗は何気ないとでもいう風に見返して、一度軽く頷いた。

「ああ」
「この先手も貸さないし、徹底して殺し合ってた何年か前みたいに戻るんだね」
「奴らが望んで、俺が承知したんだ。全部合意の上での、成れの果てだろ。これで元鞘だ」
「……本気で言ってるの」
「じゃあ、なんて言や満足なんだよ」

言いたいことがあるなら言ってみな、と、政宗は胡坐の膝に片肘をつき、頬杖をして、伊達成実の正面を見据えた。
その尊大で不遜な態度に、成実は暫しじっと視線を返していたが、やがて静かに目を伏せた。
いや、と立ち上る吐息のように口端から漏れ出でる。

「俺の殿がそう決めたんなら、俺はそれで満足だよ」
「そう思うなら、何遍も言わせんじゃねーよ」
「うん、ごめ……、いや、出すぎた真似を致しました」

畏まった彼を暫しじっと見つめて、やがてそれも飽いたか、一度軽く肩を竦めて視線を外した。
強張りを取り去って、気が抜けたように掌を振る。床に手をついて背を逸らし、揃った男どもに向かってぞんざいに顎をしゃくる。

「Whew…, ま、粗方はわかったぜ。後は俺がもう少し考える。なんかあればまたお前らに言う」
「は……」
「今日のところは以上だ。ご苦労だったな、下がって休みな」
「畏まりまして」

全員が全員、それぞれに確りと頭を下げる。
やがてゆっくりと身を起こして、普通に、何事も無く、去ろうとした。

「ああ、そうだ。おい成実」

まるで今思い出したように、今思い立ったように、ごくごく軽く、城主は従兄弟の背に声をかけた。
振り向いた先に、相変わらず気だるげな竜の姿。握ってた煙管を火鉢に戻しながら、言う。

「ツラ貸しな」






初めて目の当たりにする沢山の人や立派な建物。何より、明らかに自分たちとは異質な態の暮らしぶりに、宛ら桃源郷を訪れた心地だった。
踏み入れた城内なぞはもう圧倒の一言で、瞳に映る全てが豪華で、美しかった。
床から天井、人から獣に至るまで、皆、目映いほど綺麗に着飾っている。植えられた松の木が不思議な形に刈られ、つつじはこんなに大人しく花を咲かせるものかと驚く。興味は溢れるばかりだったが、騒いでは怒られると空気が物語っていたので、忙しなく目だけをうろつかせていた。
そうこうする間に連れられたのは湯殿。着ていた襤褸切れを剥がれ、全身を痛いほど擦られて、やっと終わりかと思えば、今度は何枚も何枚も衣を着せ掛けられる。括るには短い髪を梳かれて、どうにか結われ、ようやく解放された頃に太陽を覗き見れば、先ほど昇ったばかりだった筈なのに、いつの間にかぼんやりとくすんで傾いていた。
母は何処へ行ったんだろう。疑問に思いながらも大人しく知らない女たちに手を引かれて、途方も無い廊下を進む。黒光りする木床は足音さえ吸い、周囲は恐ろしいほどに静謐に満ちている。
やがて一つ、大きな部屋に連れられた。
促され立ち入った室内には、知らない女が一人、ポツリと端座している。
目が覚めるような緋色の内掛けと、長い黒髪を涼やかに背に流すその人が母と気づくまで、少し時間が掛かった。
女たちが静かに去り、一体どうしてこれほど広いのか見当もつかない室内に、二人きりで取り残される。隣にいる母はきっと前だけを見ていて、難しい表情のまま黙り込んでいた。

「母さん、綺麗だね」

そう口にして初めて、母はわたしがいることを思い出したかのように、ふと振り返ってこちらを見る。
衣よりも景色よりも、美しい白い手を持ち上げて、結われた髪をそっと撫でつけ、微笑んだ。
誰かを待っていることはわかっていた。母が痛いくらいに緊張していることも、薄々と感じている。わたしは父に会えるのだと、そればかりを考えて、母の緊張の意味も同じだと思っていた。
実感が沸かない。ただ、漠然とした期待だけがあった。
話だけで聞く父とは、実際どんな人なのだろう。
父さんは頭を撫でてくれたり、肩車をしてくれたり、一緒に遊んでくれたりするのかしら。
その呟きに返る声は別方向。望んだ答えでもなかった。
固い女の声が響くと同時、髪を撫でていた母の手に力が篭り、そっと床に向けて押さえつけられる。何が何やら判らぬまま額を床に押し当てていれば、伝わった振動と音が前方を通り過ぎ、やがて少し豪快に腰を落ち着けた。
顔を上げろと一声。知らない男の声だった。
母がゆっくりと起き上がる気配。次いで、頭に載せられていた馴染んだ掌が退く。恐る恐る顔を上げれば、少し離れた所に人。鷹のような目が真っ直ぐにこちらへと向いている。
やがて、肉のくせに硬そうな唇が釣り上がり、凄惨な笑みと共に低い声。

「お前か」

何を言っているか判らず、しかし射るような視線から目を逸らす事ができない。
笑みは崩れることなく、唇は次の言葉を継いだ。

「名は?」
「………」
「口が利けぬわけではないだろう。答えろ。名はなんと言う」
「…………人に」
「ん?」
「人に名を訊く時は、自分から名乗れと言われてます」

、と母の鋭い声が飛ぶのと、目の前の男が目を見開くのは同時だった。
頭の中が真っ白で、自分が何を言っているか理解出来ていなかった。
どうしよう。
けれど、間違ってはいないのだ。
硬直していれば、代わりに、止まったままだった男の顔が動く。
――怒られる。
竦んだ身に、豪快な笑い声が反響した。
鋭利だった顔は愉快そうに皺を刻み、広い肩を盛大に揺らして爆笑する。
一頻り笑ったあと、少し涙の滲んだ目を擦りながら手を振って取り成す。

「いや、悪かった。そうだ、お前の言うとおりだ。名乗らす前に名乗るのが礼儀と言うもの」

母が少し息を吐いた気配がした。何とも言えないまま黙っていれば、あらかた笑いを収めた男は少し座りなおす。

「申遅れた。俺は孫次郎と言う。改めて、お前の名は?」
「…です」
か。…いい名だな」

語尾のほうで視線を変え、男は静かに母を見た。つられてわたしも母を見れば、彼女は少し視線を下げ、黙礼するに留まっている。暫くして視線を外した男は、おいで、とわたしを手招いた。
母を見て、伺い、また前を向く。
この人が、父さんなんだろうか。
躊躇いながらも淡い期待と共に立ち上がり、恐怖と歓喜を引き連れて、恐る恐ると側に寄る。
途端、素早く力強い腕が両脇に滑り込み、抱え上げられた。
間近からあの鋭い瞳が覗き込んで、直にゆったりと笑んだ。

「いい面構えだ。だが弟には似ていない」







「…大丈夫か」

小十郎が遠慮がちに言うのに、蹲ったままの成実は、声も顔も上げやしなかった。
先ほど、全員で話し込んでいた部屋の、そのまま外側の土の上である。辺りは行燈のぼんやりとした灯りの所為で、尚一層薄暗い。
灌木の茂みに身を預けて、手足を投げ出している成実が、僅かに見える程度である。
小十郎もそれ以上は何も言わず、黙して見守る。
やがて、蹲ったままの影がのそりと左手を持ち上げて、自身の左頬に宛がった。
いってぇ、とぼやく声が上がる。

「手加減ぐらい、しろよ。あの馬鹿」
「…お前が反撃するからだろう」
「当たり前だっつの。俺が一番働いたのに、いきなりこの仕打ちだぞ。一発ぐらい殴ったって罰は当たんないだろ」
「それで五倍返されていれば、世話は無いな」
「うるさいな」

憮然の声が返るのに苦笑して、小十郎は影に向かって歩を進めた。冷やした手ぬぐいを無造作に渡せば、一応は礼を言いながら成実が受け取る。あー痛い痛いと、大して堪えてもいなそうな声に向かって、冷えるから立つように促した。
手ぬぐいを折り畳んで頬に当て、成実は大人しく従う。

「そりゃあ、まぁ、先に手を出したのは俺だよ? 悪いとは思ってるし、この程度で済んだって感謝しなくちゃなんないのかも知んないさ。でもさぁ、場面が場面じゃん。こっちだって必死だったんだから、多少の強引さは仕方が無いと思わない?」
「…なんとも言えんな」
「現場を見てないから、って? でも、お前が俺なら多分もっと動揺してたね。血塗れだったんだから、あいつ」

俺のおかげでもあるっしょ、五体満足なの。
空いた片手で体を払う乾いた音を聞きながら、今度は小十郎も頷いた。

「半分はな」

音が一度乱れて鈍った。
その後で、少し彼は笑う。

「…買被りだよ。三割もあれば良いほうだ」

語尾は皮肉げな微苦笑に震えている。
小十郎はそれには何も返さず、腰を曲げる彼の見えない視線を無理に追うようにして、続ける。

「殿が拳だけに留めた理由、解っているな?」
「勿論。それも俺の所為だもん」

へへ、と力なく形だけで笑って、成実は振り回していた片腕を止めた。まだ彼方此方が痛む身体を見下ろして、見上げる。天は暗闇。それに吹きかけるようにして、長い息を吐いた。

「とんだ貧乏籤だよ…ほんとに。あの子が来てから、俺、とばっちりばっかり受けてる気がする」

肩を竦めながら重い足を動かし、身を投げ出すようにして濡れ縁に座り込む。
軽い運動どころか、本気で強かに殴られた身は発汗し火照っていた。硬い拳に襲われたあちこちが打ち身となり、熱を持っている所為もあるだろう。厳冬の簀子は常ならば堪えるはずのなのに、今は存外心地よかった。
遅れて、付き合うらしい小十郎も倣って隣に居座る。
暫く迷ったようだったが、やがて端正な口元から、酷く静かな声が漏れた。

「お前が、殿の御身を様に預けたのだと聞いた」
「ああ」
「無茶をする。…結果的に、殿は無事だが」

続く言葉を遮るように、成実が頷いた。

「喜べないね。なんでだろう。ほんとは、ただ喜ぶだけで良いのにね」
「………」
「俺、もっと殿に殴られるべきだ」
「十分だろう。酷い顔だぞ」

小十郎が少し痛そうに笑えば、成実も口端だけで笑った。青痣と腫れが酷い、無残な面構えだ。
指を痛める勢いで真剣に突きを繰り出した城主は、やるだけやって早々に姿を消した。
戦は、始めれば長い事、身の休まる暇など無い。今頃どこかで、草の報告と、分析と、これからの策にと、一人静かに思案に耽っているのだろう。それ以外にだって、これから怒涛のように政務が雪崩れ込んでくる。
戦後、最も頭を悩ませるのが、分け隔てや依怙贔屓無く、活躍した武将それぞれに勲功と恩賞を与える事である。この綿密で繊細な作業の合間にも、各地で起こる小競り合いの後始末や、臥せっている間に溜まっていた報告の見聞きも熟さねばならない。
一度激流の中漕ぎ出すと決めたのならば、物事はこちらの勝手に付き合ってなどくれないのだ。
月の無い夜空を見上げていた成実が、ふと視線を下ろして暗闇に沈む山茶花を見る。雪に映える紅の花弁が闇を吸い、仄かな明かりを反射して褐色に沈黙している。
見つめたまま、ぽつりと、唇から呟きが漏れた。

「怪我が酷いなんて、思わなかったんだ。……本当に」

小十郎は視線を返さず、ただ黙っている。

「逃げるだけなら平気と思った。一回見たきりだけど、馬の扱いはかなりのもんだったからね。追手も食い止めたし、護衛もつけたし、只逃げて、領内に戻るだけなら、大丈夫だと思ったんだ。あの時は」
「……そうか」
「俺、忘れてたよ。あの時。あんまりにも格好よかったから、一瞬忘れた。あの子が女の子だって」

視線と首が動いて、成実が小十郎を見た。無残な顔が一心に、泣き出しそうな瞳のまま、傅役の静かな無表情に縋る。

「俺は、あんな華奢な子に、血濡れの男を抱えて走れと、言っちまったんだ」

小十郎は何も言わずに、只静かに目の前の青年を見返していた。この男は当主より一つ年若い。一角の武士ではあるが、立場が違う所為もあるのだろう。よく似た顔で、だが驚くほど素直に感情を露呈する。それがそのまま、多くを語らない伊達家当主の胸の内を代弁しているかのようで、小十郎には殊更、痛く映った。
正視に耐えかねる真摯な瞳に抗うべく、小十郎は掠れる喉を無理に捻る。

「あの方は、聡明でお優しい御方だ。お前の気持ちも、行動の理由も、きっと解っていらっしゃる。…無事、快復なされたら、いの一番に謝って来ればいい」
「…一等最初に顔を見なんかしたら、今度こそあいつに殺されるよ、俺」
「それも、そうだな」

小十郎が鈍く笑うのに、成実もやっと判るくらいに笑って返して、左頬に当てていた手を剥がした。熱を持った表面を内側に折り畳んで、まだ冷えの残る別方面を出す。
暫く、どちらも無言だった。
そうして長い間黙ったままでいて、ふと、成実が少し青痣を拵えた手だけを見つめながら、でもさ、と平坦な声で呟いた。

「大体、さっさと認めてりゃ、話は早かったんだ。変な意地を張るからこんな事になってさ。結局、とっくの昔に決まってたんだよ、あいつの中で。じゃなきゃ、大事な大事なこの従兄弟殿を、手前の腕がイカれるまで殴るもんか」

返事を望んではいないのだろう。虚空に向かい、ひたすらにぶつぶつと零す一方である。忙しなく口を動かすと傷が引きつるのか、あいて、と自分で合いの手を挟んで、溜息を吐く。
片腕に体重を預けて、城主とよく似た仕草で背を逸らす。尖らせた唇を突き出して、まるきり心配性の弟分のような顔つきで、広がる闇を見つめたまま、独り言のように彼は言った。

「心底惚れてんだったら、俺らみんな、理由なんてそれでいいのにね」

小十郎は何も返さず、只静かに、しかし少し悲しげに、笑った。







遠くで、烏の声が聞こえた。
その老女の嗚咽のような鳴声に、少し気を逸らされて障子の外を見遣ると、天は既に淡紅から藍色へと段々に変化している頃合だった。
地から生えるようにして、足元に長い影が生まれている。室内は早速蒼茫とした影に包まれ始めていた。視界は既にほの暗く、橙の光が外から照らしても、その色が逆に影を濃くして、辺りはすっかりと重く揺蕩っている。

「もう戻った方がいいわ」

すぐ傍からかけられた優しい声に振り向くと、丸い目を細めた柔和な視線にかち合う。
母はにこにこと、いつものように微笑んでいる。
この声の前では、この瞳の中では、どんな静寂も侘しさも、途端に一面の花園へと変貌する。どんな不安や悲嘆や混沌でさえも、成す術なく消え失せてしまう。
幸せだと、思える。

「もう少し、いる」
「そう?」

母は一言だけ返したきり、また沈黙に戻り、柔らかく微笑んだまま空を見る。
宛がわれた豪奢な一室に篭りきり、めっきり外に出なくなった彼女の肌は、白いを通り越して青く透き通り、血の色を見せなくなった。
言動や挙止に変化はない。だが覇気が無くなった。日がな一日部屋へ閉じこもっている所為だと思って、懸命に外へと誘うのだが、彼女は静かに首を振り、いつも決まって頑なに固辞する。そして今日は何をしたの、とか、何があったのと、ただ尋ねてくるのだ。



ふと、母が手招いた。
真黒い、美しい瞳。けれど何時からか、薄い染みのようにどこか虚ろを宿すようになった。
招かれるまま、側に寄った。
細い腕が肩を抱く。

、戻りたい?」

それが先程の言葉とは違った意味を含んでいることに、気づいていた。
ちょっとの間黙り、少し小首を傾げて考える。しかしすぐにかぶりを振って、笑った。

「母さんといる」

その、自分の言葉に大きく頷き、噛みしめる様にもう一度繰り返した。母は夜の泉のような瞳で、じっとわたしを見つめてくる。
そのまま、流れるようにして、目の前の鼓動する胸に項垂れる。
不均等に大きく丸みを帯びた、温かい腹に耳を寄せて。

「わたし、母さんと一緒ならどこでもいい」







月日は無常に過ぎてゆく。
けれど相変わらず、溶けない雪は深く重く、積もるばかりの日々である。
諸氏が予想したとおり、表面上の戦が終わった今、事後は文字通り天手古舞いとなった。
規模自体は小さいものの、旧領の彼方此方で大火の残り火とも言うべき小競り合いが何度か起こり、その度に兵卒を見繕って鎮火に努めるべく奔走が重なった。
とはいえ、自身で指揮を取るほど名分のある戦でも無し、雪の固い内の戦に心身ともに懲りた双方はそう深入りせず、お互いが儀礼の様に淡々と押したり引いたりだけである。
無論、敵方の中には真剣に向かうものもいたが、先の戦の風聞がものを言い、最初から逃げ腰の将兵どもなど、物の数ではなかった。
外戦での大きな痛手はそれ以上無く、次に、溜まった自国の内政である。
追い腹にて不在だった城代を新たに選定し、据えて、己が不在の間の本城の報告を聞き、遠くに居を構えた母に挨拶をして、やっと諸侯の武功勲章に取り掛かった。
一番骨の折れるものを後回しにした分、他に手をやっていた諸氏が己の手持ちを片付けた頃合と重なって、実際これは隋分と楽に片付く。
その、まるで片手間のように、至極義務的なようにして、伊達政宗は本懐である二本松打倒の段取りを進めていた。
しかし、伊達勢は直接に兵は出さず、遠くも無く、近くも無いところから、ぐるりと周囲を囲むだけに留まっている。
二本松勢は不気味に黙り込む伊達勢に戦々恐々としていたが、かといって己からは決して手は出さない。勝ち目も見えず、終わりも見えない状況に暗鬱とし、堪らず周囲に援助を求めたが、当然色好い返事は無く、状況は遅々として進まない。
膠着は暫く、不可解で持って続いているように見えた。
だが一方、水面下にては、濁流の如く物事は更新を見せている。
夜な夜な間諜が暗躍して、二本松内にて穏便派の何人かを懐柔し、和睦の話が進められているからである。
実際は和睦という名の脅しであるが、逃げ場も隠れ場も潰えた二本松勢には、逆らって万一の生を得るか、服従し孤城落日の余生を送るか、二つに一つの選択しか残されてはいない。
苦し紛れで中途半端な何処ぞの使者などは脅して追い返した。周囲への牽制も済んでいるし、このまま時を稼げば、じき怨敵は屈服せざるを得なくなる。
面白いように、裏で画策した人間の、思い通りの事運びとなっているのだろう。
息抜きがてら、政務室の外へと出て、伊達政宗は雪景色に沈む庭の橋上に佇んでいた。灰の空から淡雪がちらちらと降り、墨色にけぶる視界に妙なる綾を施している。視界一杯、色らしい色は見当たらない。呼吸の度に吹き出る吐息も白、掌を添える丹塗りの筈の欄干も、今は明暗を見せるだけの無彩色である。平服に羽織を羽織っただけの簡素な出で立ちだが、最早凍てつく寒気に慣れた身は不満一つ漏らさない。乾いた肌はちらとも粟立たず、身じろぎ一つとてせずに、思考は深い逡巡に落ちていた。
何処で何が狂ったのか、何度も反芻し、何度も組み立て直している。だが、何処を如何辿っても、辿り着く結論は一つしかない。結局のところ、己自身できっちりと、結論も起因も、疾うに判りきっているのだ。
認めざるをえない。激昂に身を任せるだけ任せての体たらくである。無理を承知で押し進んで、結局残ったものは酷い徒労感と犠牲だけ。それでもあの時、あの場で下した判断と決意に後悔は無いが、改めて、己の意思の重さというものを噛み締めるのだ。
行くも戻るも、沈むも浮くも、すべては己自身、己だけで築城も瓦解もなる。なんと脆くて、なんと強固な椅子だろう。王座につくものが東といえば、日の出は日没にすらなりうるのだ。
傲慢で、緩慢だった。為政者として時に必要な要素ではあるが、今回はここを巧みに突かれた。ただ領土と支配者の首を狙うなどという浅はかさからは程遠い、一戦の勝敗など歯牙にもかけずに先を見て、まごう事なき先手を打たれたのだ。
だが不思議と、怒りはなかった。
ただ、代わりにあるのは、手前勝手な哀れみだった。
現在、の容態は小康状態になり、順調とはいかないまでも、ゆっくりゆっくりと快方へ向かっている。まだ身体の彼方此方に凍傷の爪痕が残るが、直にそれも快癒するだろう。もう少し経てば、居住を城内へ移すことも可能になる。
そういう報告を、聞いている。
己自身は、最後の日から一度たりとて、彼女の顔を見ることは叶っていない。何も、避けているわけでも、後ろめたいわけでも無く、心配には違いないのだ。折を見て会いに行き、直接状態を確かめたい気持ちも無いことは無い。
けれど、それが己の優先順位の中で、非常に低位なのだ。
この身体は考えることに追われる身である。胸の内頭の内は常に二手先、三手先の想定で忙しない。ここ最近は頓に、彼女に就けた草が時を見て状態を簡単に告げにくるだけの日々である。或いは稀に、目覚めていたりして、赴けば言葉を交わす機会を得ることもある。だが何よりも優先するは、疲弊した国の内政なのだ。己には、あの娘より大切なものがいくらでもある。
そしてそれはきっと、彼女も同じなのだ。
だから戻ってきた。泣きながら傷つきながら、好きでもない男のところへ、ただ勝つために。我が身を犠牲にしてまでも、敵の国主を生かしたのはただそれだけ。恐らく、このまま斃れても本望なのだろう。伊達政宗も、相馬家も、生きているのだから。
雪へと触れていた指先に、何時の間にか融けた雫がか細く伝う。ひんやりと皮膚を撫でる感触と温度には似たような覚えがあって、思わず水気に薄く光る掌を取り上げた。水滴は玉の緒のように連なり、灰空の下でも光を吸う。瞼の淵を落ちていくあの光は、けれどどうしてこんなにも頭に焼き付いて離れないのだろう。そこに感情は含まれてはいない。含んではならないはずなのに、寄る辺ない思考は大雪のように、日々胸の内へ深く積もってゆく。
思い返せば、お互いがお互いとして交わした言葉は少ない。差し出し投げつけた問いかけに返るのは大抵、決まり切った相馬家室としての答えである。そこに少しだけ混じる、解せない声音が耳に蘇る。
今にして、乱暴したあの夜に彼女が吐いた「ごめんなさい」は、人の死を悼むことの出来ない身上に対して向けられていたのではないかと思う。前後の脈略無く響いた言葉。「悲しめなくて、ごめんなさい」と。
それは同じだ。どれだけ掛け替えなくとも、どれだけ胸を掻き乱しても、彼女の存在が王道を阻害することなど決して有り得ない。秤にかける事自体ない。この身が伊達家当主である以上は、あの娘を唯一無二として掻き抱くことはないのだ。
それは、同じだ。
"わたしと、同じ"

「…お前は、俺か」

お前もまた希みの果てに生まれて、宿命の内に生きるか。
呟きは雫とともに雪上に落ちた。羽根のように軽い僅かな水滴の筈が、淡雪には鉛の雨が降る如く、点々と深い窪みを刻む。
女の身で、余地を許されないこの道行は辛かろう。けれどお互いこの他に、生きる術などは知らない。本当に、手前勝手な哀れみだ。どうしようもない己への悲嘆を、彼女への同情に摩り替えている。
ふっと、思わず吐息に寄せて自嘲気味な笑みが落ちた。幽かな仕草でも明確な軌跡が色づいた靄となり、宙に舞う。
―――ただの妾の筈だった。
その時ふと、背後に幽かな音。垂りとは異なる雪固の響きはしかし、とても軽い。
見知った唐突さと距離感である。

「殿………」

独りの時を惜しむように振り向けば、雪上に膝を着き、頭を垂れる忍の姿。脛に巻かれた濃い濡羽色の布が、足元に落ちる淡青い影が、静かに沈む墨景色を現実だと思い知らしめる。
次、彼女の顔を見て、己は何を思うのか。気づいてしまった以上、あの幽かな慄えを拒める自信は無い。許すだろう、生かすだろう。ただの同情として。
そして、あの黒瞳は俺に何を言う。
忍が息を吸った。

「ご報告申し上げます。午後の回診の折、最後の当て布が外されました。背の傷以外は、完治致して居られます。薬が切れたか……今は、お目覚めに」






―――ご無念なり御方様。

嗚咽を漏らしながら告げる初老の女が一体誰なのか、それすら知らない。
ただ、何がそんなに悲しいのか、皺の深い目尻から大粒の涙を落として、むせび泣いていた。
血刀は清められ、頭方に鎮座している。家紋の刻まれた柄は取り払われたのか、剥き出しの鋼に白紙が巻かれていた。磨かれた刃の端に差す陽光が反射して、執拗に目を射た。残像が輪になり、いつまでも残る。
突然の報せだったので、身形は泥を跳ねて馬を駆っていた袴姿のままだった。何時の間にか伸びて長くなっていた髪が乱れ、視界の中に幾筋もの目障りな線となっている、その中。横たえられた身体は何処も彼処も真っ白で、顔隠しから僅かに覗く髪だけが黒い。一体これは何だろう。
老女はまだ泣いていて、嗚咽がひどく耳障りだった。
切れ切れに聞こえる喘ぎ声は、終わりに近づくにつれ小さく、遠くなっていった。きっと、誰かが見かねて、どこかへ運んだのだろう。辺りからはっきりした音は消え、葉擦れの音のような人の声が、何処からともなく流れてくるのみだった。

「御自害でござりまする」

低い男の声。頭にまで届かず、首筋にまで這い上がって、止まった。

「母君は御自害成された。心より御悔やみを。我々とて、非常に無念な事」
「どうか御心お静かに………御仏顔をご覧になられますか」
様」
「御労しや」

陽が、急速に翳ってきた。茜色は部屋の隅から、紺青と漆黒へ変わりつつある。目が眩んで、何も見えない。闇、闇。聴覚だけが勝手に働き続けて、知らない声をたくさん拾っていた。雑音は潮のよう。押し寄せて何も残さない。
だがやがてその声も、ふと気づけば消え去っていた。あたりは全くの無音で、冬に閉じ込められたあの懐かしい里山のように、無の筈が鬼気迫る静謐として耳を犯している。
少し、呼吸を忘れていた。
酸素が足りずに頭が痛む。意味が無いと決め込んで、瞬きも怠けていたから、目が乾いて霞んでいた。
唇も、喉も、張り付いたように乾涸びている。
視界だけで見回せど、周りには誰もいなかった。相変わらず夕闇だけが辺りを取り囲んでいる。牢とはこのようなものなのか、細い針の如く、辺り全ての畳井草一本一本が、鈍く赤く光っている。
けれど直に、それも消えた。
月は出ているのか、いないのか。物の影が見えるか否かの明暗だった。そのままゆっくりと、闇は沈殿してゆく。見えないけれど、少し先に、きっと母。今はもう手も足も髪も、何もかも、黒色。
でも、知っているのだ。
耳鳴りのような声が遠のいたのも、恐ろしい光が消えたのも。
明け方まで、一人、母の側についていられたのも。

(あの時…)

振り返ればきっと見える。
手を伸ばせば、届く。
あの時、背後で、無言のまま戸を閉めてくれたのは―――






まず、天井に向けて突き出された腕の白さが目に飛び込んできた。
薄闇さえ透かしそうな、静脈の見える蜻蛉の肌は色づかずに床から伸びている。迷い無く真直ぐな軌跡。先は宙で何かを掴むよう、掴もうとしたあとの形に似て、止まっていた。
政宗が襖障子を開け室内に入ってきても、は身体を横たえたまま、微動だにせず視線を宙に固定させていた。
質素な造りの一室だった。狭くも広くも無い、薄暗がりの室内には火鉢が一つ、白磁に藍で鶴が羽ばたいている。暖は万全で、長い炭が幾つも石榴色に煌々と燃え、肌寒い暗闇を許していない。パキンと爆ぜて、少し灰が散る。
その響きを合図として、腕は凝固を解き、ゆっくりと綿布団の上に落ちた。

「…残念です」

久しぶりに響く声音は、恐れていたよりも掠れてはいない。
政宗は膝を着かずに、立ったまま彼女を見下ろす。

「生きてることがか」

答えは無い。
彼女の視線も、彼の身体も動かずに、そのまま暫く無音が続いた。
周囲には人影も、物音も無い。凛々と降る回雪が時折影を寄越して、壁方に浮かんでは消える模様となっている。斑は淡、濃と繰り返し重なって、一度として同じものはない。結べない焦点同士を慰めるにも、またと無かった。
顔を見るのも、言葉を交わすのだって、もう随分昔のことに感じる。こんなことが言いたくて、わざわざ逢いに来たわけではない。けれど何を舌に乗せても、言葉は音となる前に、苦く重く消えてゆく。落胆と哀惜の色濃い細面に、これ以上何を重ねればいいのか、躊躇う。
やがて、黙り込む政宗の前、は静かに目を閉じた。かつて眦を伝った涙の轍は疾うに姿を消している。
せめて、と小さく声がした。

「殺して下さらないなら、死なせて呉れればよかったのに」

ひゅう、と細い咽喉が鳴って、布団に押し込められた胸が一度、虫のように上下する。唇は幽かに開いて、温んだ大気を静かに食んでいる。
相反し、矛盾する摂理から目を離さず、政宗は黙って立ち尽くしていた。
彼に今、帯刀は無い。

「…

少し下がって、支柱に背を預けた。杉の木が軋んで音を立てる。

「俺が許すと言えば、お前は好きに生きるのか」

娘は返事を返さず、代わりに、閉じるばかりだった瞳を、またゆっくりと押し広げた。長い睫毛に囲われて、何者よりも濃い色が薄暗がりの室内に現れる。
風が少し吹くだけ、雪が未だに積もるばかりの室外。炭の明かりが舞う灰の影を揺らす。外はもう暮れ始めていた。

「いいえ」

やがては呟いて、その言葉に政宗は目を細める。

「でも、少し、夢を見ていました」
「夢?」
「ええ、夢です」

醒めない夢を、夢見ていた。
柔らかい微睡の後には、いつだって灰色の現がある。掠れた呟きが現実を強くして、またの指先が持ち上がった。何処へ行こうとするのか、白い人差し指が掬い上げるように宙を撫で、撫で、空を切る。
繰り返すうち、力が奪われて、骨の在り処が容易に判る腕先は、肩口からくず折れるようにして、彼女の上へと降りてくる。行きとは違って、掌は顔先に向けて降った。蛇骨の突起が鼻面に当たって、鈍い痛みを引き起こす、それすらも疎ましい。瞳を開けていても尚薄暗いその視界を、更なる陰が暗きを落とす。
諦めて、はまた瞳を閉じた。
夢だったのだ。
夢を、見ていた。








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 BGM:The Rose(Bette Midler), Burden Of Sacrifice (Full Blown Rose),春のかたみ(元ちとせ)