17






そうしてすっかりと、雪と夜は満ちていった。
黒と群青、仄かな白。ささやかな色彩が、血に濡れて赤黒い大地全てを、静かに、静かに、埋めてゆく。
折り重なって斃れ、縺れ…弾け飛んだ四肢も内腑も雪化粧に隠れて、道端に転がる小石と判別が付かなくなった。凹凸は自然の起伏そのままを象るようで、温もりを失くし硬直した残骸は踏んでも肉を感じさせない。このまま、根雪が溶けて野晒しに朽ちるか、そうでなければきっと獣が喰らい、何れも綺麗に片付けてくれるだろう。世は、思っているよりも穏かに巡ってゆく。
どれだけ駆けたのか。最早、時と景色に意味は無くなっていた。
闇に慣れ始めた目が捉えるのは林立する冬枯れの木々のみである。冬の夜の中、濃密な辺りより、より黒く深く、ひっそりと、俄かに降り積もりだした新雪を湛え、佇んでいる。
限界だった。
力強く疾走していた馬の足並みは衰え、萎え、足掻くようにして前へ進むような体勢のまま、ついに泡を吹いて雪の上に座り込んでしまった。
そのまま動こうともせず、すっかりと体温を失くした身は小刻みにブルブルと震えている。
その馬首に凭れる様にして政宗が居るが、ぴくりとも動かない。

「殿…」

馬が蹲る前に、既に身を降ろしていたが声をかけても、返答は無い。
彼女の息も随分と荒い。深く、しかし乏しい、木枯らしのようなか細い音が喉元から漏れているだけである。
揺れそうになる意識に活を入れるよう、一度烈しく頭を振る。頭に巻かれていた布は早駆の所為で既に解け掛けていて、加えての衝撃に収めていた髪が漫ろと這い出す。
呼吸は、あるようだ。
僅かに上下する肩を見、次いで彼女は周囲を見渡す。
荒れ狂っていた冬将軍は去りこそすれ、その残り香の如く静かな降雪が続いていた。然程、多くは無い。しかし大仰な牡丹雪は音を吸い、風に浚われる事も無く、ひたすらに屑々と舞い落ちる。
まだ、只の林の中、只の森の中である。ここがどこかさえ判らない。混乱の最中、指し示された方向に忠実に走ってきた自信はあるが、確証は無い。果たしてここは本当に伊達領なのだろうか。集落も人影も、何も見かけない。
吐きだす息が視界を覆う。唇が割れてぴりぴりと痛い。
伏せられた顔を覗き込めば、その意識は既に闇へと落ちているようである。
馬の頸をささやかに叩いて、動かないように告げる。
次いで躊躇いがちな指先が彷徨って、重く頑丈な弧月の兜を取り、持ち上げた。両手で持ってもかなり重いそれを雪の上へ捨て、改めて、血飛沫で汚れ、疲弊した横顔を見る。
凹凸のはっきりした面に、血の気の失せた皮膚。触れれば冷たい。乾ききった唇から細い息が漏れ、大袈裟なほど白い靄となって指先に降りかかった。
前髪を振り分け、額に手を当てる。熱は無い。固く曝しを巻ききったの手がまた彷徨い、今度は首筋に宛がわれる。
脈も、ある。
窪みに溜まる黒い影。雪と共に降りて、留まり、ひっそりと此方を伺っている。
束の間、政宗を見つめていたが手を引っ込めて、指の爪先にまで巻いた曝しを解き始めた。
こんな処で、じっとしているわけにはいかないのだ。また何時敵襲があるとも思えない、ただ闇の中である。
何処か、腰を落ち着けるところを探さなければならない。何処でもいい、雪と夜を凌げるなら。
供周りについてくれた、勇敢な二武者ももう居ない。ここまでの道中、やはり敵襲に遭い、その際に身を挺して囮になってくれ、はぐれた。成実たちも、今は何処へ居るのだろう。追いついてくる気配は無い。
皆、殺されたのだろうか。
闇と雪が全てを圧し包んだ途端、視界も、喧騒も、煩わしいものは全てかき消されてしまった。今はしゅるりしゅるりと布の音、整わない呼吸音、馬の焦燥だけが微かに静謐を揺るがしている。
布が全て解けた。色の消えた白い肌は闇を吸って淡青く、ぼんやりと光る。
見下ろして、やがて政宗の腕を取った。
立派な篭手は刃を防ぐが、忍び寄る冷気を凌げはしない。指先だけでいい。気休め程度でも、ある程度は凍傷を遠ざけれる。
腹の傷も気になるが、如何せんこの寒さだ、血管は凍り出血も止まっただろう。鉛玉が内腑に残らず貫通していれば、当座で怖いのは失血と、感染症だけだ。後は純粋に、時間と体力の、勝負。
の息はなかなか静まらなかった。
くるくると単調に動き、冷たくなった指先を摩る手先と一緒に、何度も繰り返される呼吸。そこへ透徹した冷気が混じり、吸い込んで、吐けば、肺がじくりじくりと痛んだ。
布を巻き終え、手を止めると、ふと鈍い思考が瞬いた。
このままでは、内腑も傷める。
彼女は無意識のまま、残った己の袖に手を添え、勢いよく裂いた。
不意に妙な力を込めた所為か、途端背の裂傷が引き攣り痛んだ。思わず肩が一つはねる。吐息以外に妙な声が漏れ、慌てて唇を噛み締める。
食い縛って恐る恐る、肩口から見えない背をとりあえず覗く。やはり、状態はわからない。しかし先程までは火の様だった傷口が、今は不気味に沈黙している。血が流れる気配も、もう感じられなかった。やはり、凍結しているのだろう。具合からして捨て置くには深いと思うが、今は後回しだ。
軽装過ぎるの装備に余裕はない。腕の布を裂けば、先程と合わせて両の腕は文字通り剥き出しになる。
粟立つ己には構わず、蹲る人影の腹傷を一度確かに診て、判断が変わらぬと捕ると、は改めて政宗の頬に触れた。
―――冷たい。
人が、冷たくなるのは、厭だ。
乱れる呼吸が耳に付く。政宗の頭に手を添え、持ち上げて、口元に袖布を宛がった。
これ以上、此処でじっとしているわけにはいかない。凍気はいよいよ上り詰め、人も、獣も、枯れ木々すらも排他する。足の一歩でも動く限りは、なるべく人里に近づかなければ。
視線が彷徨い、枯野の森を改めて眺めた。右も左も似たような景色。此処まで走ってきた筈の足跡さえ、新たな雪に掻き消されつつある。

「…どっちへ行けば」

せめて、道があればいい。枯野に荒れた獣道でさえ、それは何処か、人の居る場所へと確実に通ずる。
だがどれ程目を眇めても、それらしいものは見当らなかった、真白い侵略者に覆われた静かな夜は何もかにもを内包して隠し、ちらとの慈悲も寄越さない。只管に降り、積もり、奪う。
不規則な呼吸。僅かな降雪。息をするだけの人一人。馬はまだ蹲る。
時間が、ない。
震える我と我が身を掻き抱いた、その時である。
悴んだ鼓膜が凛とした細雪の音ではない、確かな足音を捕らえた。
茫洋とした思考が一気に弾ける。ふらつきかけた脚は覚醒して反応し、蹲る一人と一頭の前に屈みこんで立ちはだかった。
握った右腕に力が入る。息を無理矢理に殺して、なるべく闇に埋没するようにと、深く深く身を沈める。
敵か、味方か、誰が来る。
さくさくとした軽い音である。夜に怯みもせず、真直ぐにこちらへと駆けている。
この暗きの中、此方の足跡を追われているのだ。
武士か、忍か。どちらにせよ、味方では無いだろう。追いつくといった成実達なら、きっともっと大勢で来るはず。或いは、獣だろうか。しかしそれらしい蛇行音も逡巡も無い。音程は一定。止まりも、逸れもしない。
逃げなければ、ならないかもしれない。
が馬を振り返った。変わらず憔悴しきった獣は、先程の言いつけどおり冷たい雪の中にじっと蹲ったままである。
真黒い瞳が瞬くも、そこに何も映っては居ない。鼻息荒く焦燥しきる。
如何すれば。
刹那、迷った。

「…姫様?」

一瞬の躊躇いが連れてきたのは、やはり敵でも、味方でも無い。

「……伝馬」

そこに、少年が居た。
黒布の上に手甲と脚絆を着けただけの身軽さで、口元にはが政宗にしたように、固く布が巻かれている。
雪夜にあって瑞々しい若木のような黒瞳が、蹲るの無残な姿を捉えて顰められる。次いで視線は背後に逸れた。
くしゃり、と眉間に皺が寄る。

「伊達政宗」






目は覚めていた。
元より、其処まで深く意識を失っては居ない。馬上にて朦朧と揺られ彷徨えど、駆けてきた方角と距離と時は、確りと計っていたつもりである。
そこへ現れた第三者の気配に、茫洋とした意識は一気に覚醒した。しかし身を起こさず、立ちはだかった小柄な背の奥から現れた少年を見る。
未だ伏せたまま、動かないのは何も億劫さのみではない。血を失った身体は相変わらず覚束無いが、蹲っていた分随分と回復した。獲物もあるし、雑魚と応戦する分にはもう問題は無いだろう。何より、こうも寒波が満ちる中、此処にこうしていつまでも、じっとしているわけにはいかない。
ただ、妙な燻りがあった。
正しくいえば、既視感。
何か、似たような景色を、何時か何処かで、見た気がする。

「なぜ此処に居るの」

女の声は固く、根底に深い混乱が見えた。
線の細い肩の上下が激しい。視線が剥き出しの腕から背に映れば、裂けた着物の端が見えた。
―――怪我をしたのだろうか。
黒布の軽装は闇の所為もあり、血の色も気配も掴めない。

「迎えに来ました」

少年の声も強張っている。油断ならない視線をこちらへと投げていたのに、へ逸らせば、途端に切実な色を宿した。

「戻りましょう」
「何処へ」
「小高に、城に、…相馬へ」
「如何して」
「御為にです」

がふと口を噤んだ。
苦手な、間の取り方である。
少年には尚辛いのか、切迫からか、黒衣に包まれたささやかな脚が、躊躇いがちに一歩を踏み出す。

「わたしは一度、お前に言ったわ」

途切れ途切れに織られた、諭すような声が後手を打った。

「余計な事はするなと」

少年は二歩を失ってたたらを踏む。
不規則な呼吸音と、伴う色付いた吐息が両者の間を縫って漂った。沈黙が寒気に乗って肌を刺す。

「義胤様は?」
「……領内までは無事に見届けました。御隠居の使とも合流され、その後は一度西へ下られた御様子です。手勢は連合の背後に残され、表面上は…」
「予定通り」
「はい」
「そう…」

ほう、と息を吐き、は少し視線を逸らし、雪深い地を見下ろした。伏せた睫毛に白きが下りる。
少年は少し、身を強張らせ、乗り出した。

「伊達忍がひっきりなしに暗躍しています。露顕はまず無い。あとの懸念は、貴女だけです。だから、だからおれは来ました」
「…あなた一人なの?」
「はい」
「そんな格好で、こんな所まで…」

鈍い瞬きを何度か繰り返し、彼女は再び深く呼吸する。
まるで租借するように、褪せた唇を開いては閉じ、開いては閉じ。決して再び目を上げようとはしない。

「出過ぎた真似だということは判ってます。不快なら、罰してくれたって構わない。けど、見てるおれは辛い。なら姫様はもっと辛くて、悲しいはずだ。なのに、それなのにどうして」
「……二度同じことを言わせないで」
「っ何故です!?」

遮って響き渡った声はさも少年らしい、まだ高さが残る清んだ声だった。
地団駄でも踏み出しそうに身を乗り出して、しゃがみ込む姫君に向い盛大に顰めた顔を向ける。

「お館は帰って来いと仰った! そこの、その男だって、姫様を不要だと言い切ったんだ! なのに何故、何故!? もういいじゃないですか!」
「何がいいの」

抑揚も感動も無い、平坦な声に少年が詰まり、うろたえる。しかし滾る視線は容赦なく更に食い込んだ。何時の間にか持ち上がった視線が正確に少年を貫く。燃えた瞳は猛禽の如く熱を持ち、怒気が陽炎のように揺らいでいた。

「知った口を利かないで。お前が何を言うの? お前如きが、他を差し置いて、このわたしにどうこうと指図でもするつもり?」

小さな顔が泣きそうに歪んだ。けれど彼女に容赦は無い。

「思い上がるのも大概になさい。主人の命なく勝手な行動は許しません」
「姫様…!」
「聞こえないの?」
「っ!」
「戻りなさい」

無残な身形に青白い面、これの、何処から沸き立つ力なのだろう。厳命が有無を言わさないまま、麗貌は雪に洗われて輝く。少年は根底の相違を痛感し、改めて唇を噛み項垂れて俯いた。軽装に雪が積もり、薔薇色の頬に淡青い雪闇が溜まる。だが、まだ動こうとはしない。
小さな背はいまだ呼吸が静まらず、整わない。少年を無言で見つめ続け、瞳は淡々と冷めた怒りを持ったまま、何も言わない。
膠着はそのまま動かないかに見えた。
暫くして、先に緊張を解いたのは女。強張った肩の力を崩れ折れるように弛緩させ、大きく息を吐き出す。吐息の軌跡がやはり白く立ち上る。
少しだけ顔を下げて、頬に落ちかかる解れ髪を拭った。

「今のは、"姫様"の答えね」

呼吸する口元は闇を吸い蒼い。少年が凝視する前で、音を発する度に罅割れるようだ。
構う事無い、餞のような笑みが雪に向けて浮かび上がる。

「…わたしは、最後にもう一度、よく顔が見れて、嬉しい。……秋から随分背が伸びたのね」

懐かしむ声音が紡いだ言葉に、沈殿していた記憶が競り上がってきた。
少年はしかし応えず、やはり長いこと黙っている。
相対する女と然程歳は変わらないだろう。まだ屈強さの備わらない、皐月の若葉の如く真直ぐに伸びた手足。首や肩など、まだ子供じみて薄い。しかし、背丈だけは一人前に高かった。鼻梁や頤は骨の在り処をやや明瞭に見せていて、血の気の失せたまっさらな肌が静脈を透かすかのようである。
口元から首元へずらした布を手で握り締め、雪野を睨んで少年は俯く。怒気の気配が立ち上る宜しく、単調に繰り返される呼吸に、蒸気のような、湯気のような白さが只管に付き纏った。
両者ただ息をしたまま、何も言わない。
背後の馬が僅かにむずがる沈黙の中、少年はやがて握り締めていた腕をだらりと弛緩させ、顔を上げた。
は見ない。彷徨わせた視線は適当に移ろい、ただの虚空、木々を縫う闇の先を見る。

「……あの時、やっぱり無理にお連れすれば良かったんでしょうか」

落胆が滲む声音と台詞で、一気に合点がいった。

「――成る程な」

呟けば、華奢な身の二人は跳ねる様に此方を見る。
億劫な身を起こせば、頭が随分と軽い。口元には布。憚るそれを毟り取りながら、途端警戒に身を低くした少年をひたと見据える。
思い出した。

「お前、寺に居た渇食の餓鬼か」

あの時、あの場、に駆け寄った身軽な少年の一人だ。
若い顔が眉間に皺を寄せて此方を睨む。威嚇に近い表情でも、政宗は気にも留めず、笑う。

「奇遇だな、こんな処で。お姫様のお迎えも大変だ」

揶揄するように政宗が言えば、が少し瞠目し、けれど俄かに視線を外して俯いた。
それを視界の端に収めながらも、ちらとも彼女を見ない隻眼の前、相変わらず少年は固い面持ちのままじっとこちらを睨んでいる。
まるきり警戒する獣のような気配と情景にそよとも心を動かされず、撃ち抜かれた腹の具合を確かめながら、政宗は完全に馬上から身を起こした。
やれやれと立ち上がれば、血を随分と失くした身体は案の定ふらついた。の手が咄嗟に出掛かるも、寸での所で失速し、やがてゆるゆると落ちる。
それに何も言わず、既に兜を脱いで身軽な首の付け根を揉み、構える少年に緩く凄愴な笑みを投げた。

「こればっかりは完全に俺がしてやられたか……義胤、盛胤か? 奴らとこいつの飛脚役はお前だったってわけだな」
「違」
「黙ってろ」

上がったの声を即座に斬り捨て、視線は変わらず目の前の少年を見る。立ち上る吐息に目の前が翳み、透通り、を繰り返す。
その間も、少年は動かず、口も開かない。重心を低く落とした身は獣の警戒に満ちている。

「寺を選んだ理由は?」
「……………」
「こいつが行くのを知っていたってわけじゃねーんだろ。俺も想定外だったしな」

そこに穴があった。絶えず付けていた見張りの網を離れ、あの時のはこれ以上も無く安全で、無防備だった。
様々なことを耳に入れたのだろう。郷里のこと、立場のこと、近況。懐かしみ、また怜悧に徹するその為に、彼女はあの場に居たのか。
思ったより、立っているのが辛い。体重を思ったように分散できずに、気を抜けば膝を着きそうだ。
それでも政宗は笑みを絶やさず、怯えの色濃い少年に向い、ぞんざいに顎をしゃくった。

「連れて行きたきゃ、勝手にしな。俺は別に止めねぇよ」

がどのような表情をしているのか、両者からはわからない。凪いだ気配は動揺の悲嘆もなく、ひっそりと雪に埋没しながら、ただ酷く静かにそこにいる。

「……そうやって」

細面が絞り出した声音こそ、深い怒りに彩られていた。

「見もしないくせに、縛る」
「やめなさい伝馬」

が立ち上がった。政宗に負けず劣らずふらつきながら、それでも凛と背筋を伸ばし、顔を歪めた少年をもう一度促す。

「もういい、行きなさい。夜が明ける前に早く」
「如何して、そこまで」
「伝馬!」
「あなたが帰る処は、その男の元じゃない筈だ!!」

降雪がどんな音もしめやかに閉じ込める。絶叫は雪に吸われ、すぐさま周囲は暗きに沈殿する。
静かすぎる夜は、高い鈴の音の幻聴が聞こえる。音は眠りを誘うように、少しずつ間遠になれど、琴線の如く張り詰めた冷気が放さず、許さない。
耳が痛くなるほどのその静寂を、一度、枝に積もった雪が落ち、破った。深い呼吸が一度上り、やがて真白く棚引く。

「そんなものは、何処にも無いわ」

立ち上り、消え、吐き出した全てはまた無へと帰る。その、闇の中でも、舞い落ちる雪片は確かに見えた。途切れることも無く白く、濃やかな一片一片は、しかし眼前に顕れてふと去り消える。視界の端を綿毛のように過ぎれど、足元に積もれば途端に夜へ同化し、滑らかな一枚の濃藍地になった。降り注ぎ、降り注ぎ、けれど消え、地に広がる。埋没する四肢は布地を通り越して体温を吸われ、最早何処までが己で、何処までが雪上なのか、全て曖昧になっている。真綿のような白い野が木々の間さえ縫い、果てしない。とうとう、少年が千々に割れた唇を湿らせ、開いた。幼い指が藪の向こうを静かに指す。

「……この先に、集落がございます」

ふいに向けられる視線を避けるように、少年が首元へ下ろしていた布をまた口へ宛がい、俯きながら続きを口にする。

「二十町程でしょうか…、戦騒ぎで家主は逃げ、空き家ばかり。粗末ですが夜は凌げる。……足跡は、残しておきます」
「…伝馬……」
「おれは、そこのその男に、生きて欲しくない。でも」

鼻先まで闇色に包まれて、ただ露出した目許の肌が雪に照らされて輝いている。
目端に溜まる淡青い影と、頤は紺を超えて搗色に近い。据えられた絞るような視線に、少年はふと大人びて、に向い一礼を返した。

「お館が悲しみます。…おれも、すごく、残念です」
「……………」
「さようなら様。お元気で」

仕舞いまで一息に言い切れば、あとは後ろも見ずに踵を返した。
身に着けた黒衣は何も阻害せず、少年はその伸縮の柔い身体を活かし、冬兎のように来た道を跳ねて駆け、去る。
その背は夜の雪に彩られ、長いこと陽炎のように揺れていたが、やがて立ち消えるように闇に溶けた。
は、その先を見ていた。
何時までも、見ていた。






「行きたきゃ行けよ」

突如冷淡な声音が、疲弊して無残ながらも凛然たる女の背に吹きつけた。
改めて、立ち尽くしていたが、ゆっくりと背後を振り返る。
そこに、手負いの獣がいた。片足に体重の大半を預けての斜な立姿は、緩慢ながらも決して無様ではない。千切れ、汚れた装束でさえものともせずに、王態は夜に埋もれずに淡青い影となっている。
交錯する視線は、本当に久しく交えたものである。だが、変わらない。両者叩き付けられたのは、初めてまみえた時と全く同じもの。触れれば切れ、合わせれば音が鳴る鋭さである。

「……立てたのですね」
「あ?」
「脚…折れては居ないでしょうけれど」

そう言いながら、彼女の目線は降り、雪の上に軽く添えられた屈強な左足首に落ちる。
彼女は見ていた。歩兵の槍が振り上げられ、彼の足首に振り下ろされたのを。
刃は当たらずとも、柄は直撃したのだ。安い樫の出来でも、当たり次第では侮れない。
そのまま、絶えずじっと注がれるの視線に負け、やがて政宗は溜息を吐いて漸うと膝を着き、腰を下ろした。
視界が揺れ、身の感覚が覚束無い。寒さの所為か、怪我の所為か、全身の感覚が妙にぶれ、水中に似た浮遊感を感じる。瞼が重い。眠いわけでも無いのに、気を抜けば項垂れそうになる。
大きく呼吸を繰り返す、大儀そうな気配を見下ろして暫し。次いでも、のろのろと政宗の傍に屈みこんだ。
殆ど無意識の内に、怪我の具合を診るべく腕を伸ばす。
だがその手は勢い良く払い除けられた。白い腕は儚く雪の地に伏せ落ちる。感触は積もった花びらのように軽いのに、冷気は剥き出しの肌に針が刺さったような痛みを寄越した。
追いつかない頭に、淡々とした声音が届く。

「何しに来た」

は応えないまま、白きに埋没した腕を持ち上げる。
緩やかさを忘れない動作を目で追いながら、政宗は一つ、然も可笑しげに鼻で笑った。

「まさか、俺に情でも沸いたかよ?」
「或いはそうかもしれません」
「ふざけんな」
「なら、くだらない事を言わないで下さい」

言い切ると同時、がまた立ち上がった。膝が妙にぶれるのも構わず、極寒の中に軽装過ぎる身形で、それでも政宗を睨み下ろす。
彼もまた見上げ、見返し、睨む。闇に沈む疲弊した女の顔を見、隻眼は俄かに細められた。

「何を考えてる」
「…立てるなら御立ちに」
「俺の質問に答えろ。お前といい、あの餓鬼といい、何をコソコソ動き回ってやがる」

鋭く遮る声音にも、は微動だにしない。ここにきても玲瓏たる面は僅かの温かみすら感じさせず、凍りきった瞳が隻眼を見詰める。
やがて、罅割れた唇がゆっくりと開いた。

「あなたが知らずともよいことです」
「…何だと」
「縦しんば今知って、一体如何するというのです。立つも走るも儘ならぬ今のあなたが、一体」

ちらとも動かない顔面とは違い、声音は僅かに譴責を含み棚引いた。独眼はそれを激昂はせずに受け止め、眦を僅かに上げた視線だけを寄越して黙す。
は相変わらず、静かに速く、呼吸を繰り返す。
白い。

「この、夜を越えるのが先でございます。余計な事は捨て置きませ」

この途端、彫深い眉間に凄絶な皺が寄った。

「それは、俺が決める事だ」

嘗て全身で浴びた痛いほどの緊張が立ち上り、駆け巡る。
それでも今、は動かず、逸らさず、淡青に染まる顔で政宗を見る。
男は犬歯を見せ、唸るように手負いの身体を動かさずに逆立てている。隻眼が俄かに光を持ち、眩んだ。雪隗が解ける灼熱が見える。

「お前が、俺に、如何こうと指図なんざすんじゃねぇよ。俺の事は俺が考えて、俺が、俺で決める。余計かどうかは聞いてからだ。お前が決めるな」
「……………」
「言え。お前ら何を企んでやがる」

が一際、長い、長い息を吐いた。

「…威勢は良いこと」
「ぁあ?」
「その元気があれば、まだ進めますね」

語尾が静かに宙を漂う。色の無い瞳が二度左右を見た。
政宗が二の句を継ぐ前に、の視線が戻ってくる。

「お話します。ですがまた後ほどに。これ以上、こんなところに居てはいけません」
「…それも」
「駄目です。…もう、眸が重いでしょう」

無感動だった瞳が、錯覚か、僅かに揺れた気がした。だが瞬きが残像を流し、女はやはり乾ききった頬と唇と、声音で、続ける。

「早駆は体力を吸います。血も、随分失くされた。その、そんな身で、御立ちになり話されるなぞは流石でございます。ですがこれまで。あなたは人です。必ず死ぬ」

区切り区切り、絶え絶えに言う彼女を胡乱に見る隻眼の元、薄い唇が裂け、曲がった。

「殺すの間違いだろ」
「…何」
「この俺を、お前が、あの餓鬼が言ったとおりの場所に、連れて行くってか?」
「それが」
「冗談じゃねぇ。何処の間抜けがそんな見え透いた罠に掛かる」
「…罠……?」

うっすらと眉を寄せるに、政宗は大げさに肩を竦ませて見せる。弱りきった具足が重々しくガチャリと啼いた。

「行きたいなら、お前独りで行けばいい。生憎俺も手負いだ。今なら只で見逃してやるよ」

白い喉が一度詰まる。

「……つまり、伝馬も、わたしも、一連全てが仕掛けだと、仰る」

明らかな嘲笑いが返った。

「現にあいつはお前の前に現れた。なら俺が考えるのは道理だろ? あんな身軽な態一人で、足もなくこんな所に居る訳があるか」
「殿」
「違うか」

ぶつかる視線が両者先を促す。
二対一で、やっと互角だ。政宗が隻眼でなければ、は恐怖で目も合わせられなかったろう。
依然として喧しく繰り返される呼吸が視界を遮りながらも、彼女は続けて乾いた唇を無理に動かす。

「あの子は、…伝馬は、夜と野に慣れた農民の子です。凍傷の防ぎ方も、獣の避け方も、生きるに培われたもの」
「だが俺の民じゃない」
「…只の子供でございます」
「相馬のな」

言い切れば、彼は雪の野を見て、一つ笑った。
そのまま彷徨う視線が、遠くない先に己の兜が棄てられているのを見止め、暫し黙して逡巡していたが、やがてふと肩をすくめ、鎧の留め金に手を伸ばした。鉄は防寒になりはしない。一先ずの危険が退いた今、加えて傷を負った身では、邪魔なだけである。固く布が巻かれている指先に一度訝りはしたものの、結局は何も言わずに頑強且つ重量のある黒金の鎧を解いてゆく。
暫く、単調な音だけが続いた。胸当て、篭手、縅に佩盾。順当に取り去り、中着の上に薄汚れ尚蒼い陣羽織を再び羽織って、ふと息を吐く。
ただ、黙って立つに、再び視線を遣ろうとはしない。

「話は終わりだ。とっとと消えな。お前一人ならこの馬もまだ走れるだろ」
「あなたは」

やがての声は、小さな声である。突風が吹けば攫われそうに、小さな。

「…あなたは、お一人で、如何されます」
「待つさ。夜は忍の領域だ。此処で留まってりゃ、直に俺の草が俺を見つける。それまで」
「見つけられなければ」

語尾を攫う白い顔にまた笑い、しかし彼は答えずに酷く退廃的な仕草で目を瞑り、肩を竦め、鬱陶しげに背を向けた。
の目に、夜の中でも見える広い背が映る。美しく鍛えられた筋をちらつく雪が滑り、撫で、落ちる。
細く、長い単調な呼吸の音。繰り返し繰り返し、瀑布のように濃く深い闇を破る。

「死にますよ」
「好都合だろ」

さくりと、雪が潰れる音。
一歩。

「…まさか」

一歩。

「……死にたいのですか」

政宗は笑った。

「或いは、そうかもな」

雪上を怒声が迸り、静寂は突如として破れた。
膨れた上がった確かな殺気に武人としての身体が反応したのに遅れ、付いて行かなかった思考が、やっと轟く喚声をが上げた絶叫だと認知する。その時にはもう白刃が煌いていた。一刀の太刀筋は何時見ても同じだ。今も雪明りを吸って白く、白く速く。頬を掠めて背を預ける地に刺さる。髪が切れ散った。目のすぐ下に何か生暖かいものが流れる。
血だと、思った。

「今、此処で、このわたしの前で、選べ!!」

月は出ていないのに、空から途切れることなく迫り来る六花全てがほんのりと燐光を纏っている。全ては共鳴し、照り返し、馬乗りに刃を翳す女の肌に吸い付いて、流れ、雫となって落ちた。
いや、温い。
雫が温度を持っている。

「伊達の為に生きるか、己のために死ぬのかっ!!」

長い髪が解けて垂れる。その漆黒に囲まれた仄白い輪郭を光が伝い、顎先を辿って、落ちる。水滴はあとから、あとから、雨の如く、止まない。頬骨、鼻先で弾け、衝撃に幽かな音が立つ。

「あなたの所為で、皆死んだのに! 全部あなたの為に、皆がこんなっ、無茶をしてるのに!!」
「……………」
「あなたが殺した! わかりますか!? 大殿も、基信殿も、畠山殿も兵も民も皆、皆! 皆あなたが殺した!! っその、あなたが、一人で楽に死ぬの!?」

ざくりざくりと雪が切れる。穿たれる。刃が埋まる。何度も何度も振り下ろすも、もう決して何処の身にも触れない。鳴いて、泣いて、濡れる。

「許さない、許さない、絶対に、絶対に許さない! 何の、為に!!」

咆哮は夜に唸りあがり、林に野に反響する。鼓膜を裂き、脳天を衝いた。耳が鳴る。頭が痛む。瞬きを、忘れる。
高い高いその残滓をやがて雪が吸えば、後はの呼吸だけ。相変わらず荒く、嗚咽のために唇を噛み締めている。夜以上に夜らしい瞳は水気に囲まれ、移ろい、所在がない。けれど美しい。爛と見開かれ燃える瞳に星が宿り零れ、落ちる。鏡より闇よりしめやかに、幽かな雪明りを湛え、溢れ、煌く。これ以上を、見たことが無い。
やがて、両手で構え、無理に突き刺した刀を引き抜き、が身体をのろのろと起こした。

「…違う」

膝立ちのまま、握り閉めて刃を見つめ、くしゃくしゃの顔を更に歪め、頸を振り、俯き、けれど更に手を握り締める。
白い指が、刃を直に掴んでいる。
確かに白い雪の上に、黒々とした染みが落ちた。

「こんな、ことの、ために…、……違います…」

言葉は無様に、白い靄と共に宙に融けた。次から次に溢れる涙に血潮。どちらも酷く温かい。
指先から生まれ剥き出しの腕をなぞり、肘から垂れて積雪を汚す赤黒い滴痕。政宗が我に帰り、が素手で握り締める刃に向け腕を伸ばし、掴んだ。無理に身体を捻って持ち上げた所為か、腹の傷が途端に喚く。
だが構う事無く彼もまた刃に直に触れる。巻かれた布は予想外に固く、怜悧な刃でも肉にまで達しない。しかし今、無理に引けば、この白く柔な指は削げ落とされるだろう。それほど、垣間見える白刃は燦然と雪灯りに煌いている。
整う事無く荒れた呼吸を漏らす彼女が、頑なに握り締める一刀。一本一本の指を慎重に引き剥がせば、刃はすっかりと血に塗れて汚れていた。改めて取り上げ、柄を握る。厭に手に馴染む、黒漆の手触り。軽い。
目を凝らす。表面はすぐさまに水分を弾いて、その表情を見せた。
九曜ではない。
金箔が事細かに彫り込まれた柄頭。袷の翼に囲む竹。葉の数、露の数、笹輪の節まで、鮮明に決め、象られている。

「…死ねと言われたのだと、思っておりました」

濡れた頬が冷えて赤い。呆然と溢した唇は幽かに震え、開いている。

「己が出来うる事をしないというのであれば、生きて長く恥を曝すより、余程、と。寧ろ、それが慈悲なのだと。…けれど違った。だってわたしは今生きてる。それが獣の肉を裂いて、道を作って」
「……………」
「でも、だからって…、知っても、もうどうしようもないのに。死んでしまって悲しいなんて、今更、今更わたしなぞが、何を言うんでしょう。こんな、ものは、要らない……」

語りかけながら、真実誰に言っているわけでもないのだろう。その証拠に、の目は政宗を見ていない。夜の瞳は星の代わりに雫を湛えて、揺らぎ、波打つ。
熟れた唇が短く速い呼吸を繰り返して、凍てついた冷気を何度も肺に溜め、出す。髪先が踊る、その度に緩やかな幕が二人の間を遮った。軌跡は素早く現れては消えを繰り返す。ささやかな線だ。ぼんやりと光る小さな輪郭のように。
繋いだままの手に、溢れる血とそのぬくもりが通う。途絶える事ない呼吸すら重なって、交わり、互いの気息はやがて一つのものとなった。泳ぐ瞳から沸き立つ泉を見詰める。長いこと、長いこと、何も言わずに、見詰める。
やがて、付着する赤きに汚れた指が這い、頤先に伝う滴ごと撫で、掴み、持ち上げた。指先から伝わってくる幽かな脈の働きでさえ、互いの鼓動が重なり、収斂しているように思える。こちらを向かせても、濡れた黒瞳は泥濘に沈み揺蕩ったままだった。水気を含んだ睫毛が影となって落ちている。雨上りの蜘蛛の巣のように、玉となって涙を溜めた。

「なら、何で此処に居る」

うっすらと瞼が震える。眉睫の先の淡青い影、頬の頂に出来た水の通り道が雪灯りを受け、呼吸する振動の度に光を吸って、吐く。瞳が動いた。潤んだ焦点が結ばれ、映る。黒きは井戸の底よりも深い。

「俺は戻れと言ったんじゃない。帰れと言ったんだ。選べただろ」

娘らしい口唇は雪に灼けて罅割れている。二度、三度、呼吸のためではなく開かれて、空気を音に紡ぎかけた。しかし、じきに漸うと閉じられ、結局はやはり引き結ばれる。沈黙は瞳に宿り、視線が誘うままに下げられた顎先は掴む指を振り解いた。項垂れて、肩を竦ませ、溜め込んだ息を一思いに吐き出す。
だが、いつもなら追わないその逃避も、この度ばかりは許さなかった。痛む身に力を込め、持ち上がった力強い腕が薄い肩を強く握る。反応の返る身を確かめた後、彼はまた白く映える細面を持ち上げた。残像と共に滴が散る。

「言えよ。それくらい、言ってもいいだろ。俺しかいねぇんだ。俺には言えないのか? 俺だから、言えないのか」

応えない。
相変わらず揺れる瞳が、湛える光と共に対峙する一つの視線に注がれるだけである。
ただ、絡めた指に力が返った。
ぬくもりも無い些細な指。大きな掌と、巻かれた布の感触を確かめるように、何度も、何度も、握り直される。

「…あなたは、選べたことがありましたか?」

か細い息が上がった。

「あなただって、何かを棄てて、何かを得るなんて、出来ない筈だ」

空いた手が持ち上がり、顎先と頬に添えられた無骨な指に覆い被さる。頬と手で存在を挟んで、は僅か、目を閉じた。水気を含む睫毛が重たげに伏せられる。
それはまるで哀れむように。

「きっと同じです。かかる重きは比べようも無いけれど……、わたしと、同じ。元より、選ぶことなんて出来ない」

だが、束の間だった。
やがてに、自我の強いそもそもの己を振り絞って、彼女は血に汚れきった無残な指で、最後まで流れる涙を掬い、払った。
飛沫は輝いて飛び、消える。瞬き、目を閉じ、吸って、吐く。手は離れた。
あとはもう、いつもの彼女である。

「…あなたはわたしに、その目で、その口で、領民を守るために戦って、生きるのだと、仰いましたね」

確りとした焦点を政宗に向け、平坦な声音が時を戻す。

「ならば、立って下さい。こんな処で、死なれては困ります」

睨むでも驚くでもない隻眼を前に、彼女は一人きり、棚引く細長い毛先の残像を後に残して、またゆっくりと立ち上がった。
指からの血は止まっていない。だが省みる気も無いようだ。流水紋の如く美しい緋を見せる掌を持ち上げ、口元に当てた。
鳥の飛来に似た高い音。響くなり伏せていた馬が途端に身を上げ、よろけながらも確りと立ち上がる。
萎えた四本足をもどかしそうに動かし、音の元へ静かに擦り寄る。馬首は主人を確かに嗅ぎわけ、逞しい鼻面を肩口に押し当てた。悲しく弱い嘶きが上がる。は目を閉じて、束の間その先を撫で、撫で、息をした。
汚れた指が静かに逸れて右頸を軽く二度叩く。馬が再び膝を折った。
が改めて政宗を振り返る。それはもう苛烈な瞳に戻っていた。

「鎧を御棄てになられれば、この子はまだ走れます。帯刀は一振り。後は全て御容赦を」
「…お前は」
「手綱はわたしが取ります」

すかさず開かれた口唇に反論を言う間も与えず、は政宗の隻眼を臆すことなく睨みつけた。

「無茶は判ってます。でも行くしかありません。殿は走れない。馬はまだ走れる。わたしも、まだ、走れます。行く道が御不審であれば、捨て置いて行かれればいい。今は、話す時間こそ惜しいのです。……選べません。あなたもわたしも」

言われれば確かに黙るしかない。腫れた足首は立つ分は兎も角、動かし走るには辛い。
舌打ちし詰まる政宗に目もくれず、は忙しなく左右を見た。空を見て、闇に溶ける森を見る。指先を舐めて翳し、また一つ二つ、深い呼吸を溢す。
西、集落、風が止んだ。

「早く」

胡乱と怪訝、焦燥と驚倒、充てられる視線が含む一切合財を無視し、は立ったまま政宗を見もせずに促す。その瞳は相変わらず、闇の先を見ていた。何かに怯えているのか、懸念しているのか、わからない。しかし垣間見える横顔に、一切の猶予が無いことは判る。
それ以上は言わず、政宗は膝を追った馬に慣れた仕草で跨った。途端、悍馬は役割を思い出したようにすぐさま体勢を立て直し、前足をもどかしげに掻く。その鼻面から、荒い空気が勢いよく吹き出た。
鞍と手綱しかない簡素な身形。これならば確かに速くもなる。
言葉は既に無く、ただ赤く変色した細い指が、むずがる馬の差縄を握った。








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