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長い長い夜が明けて、暁の空は浅葱を混ぜて白に照る。
雲は頭上だけを綺麗に避けて流れ、源氏の末裔を誇る佐竹の旗印が陽を受けて白々と翻った。
俄かに慌しくなる戦場の中、前衛は既に決戦へ徒歩を進め始めている。
胎動の様な地響きが震えさせる本陣にて、昨夜確かに掲げられていた、細川九曜の葵旗は全て姿を消していた。
当たり前だが将兵は騒ぎ、相馬は何処へと狼狽するものが多かった。しかし、総大将は何も言わず、一番近しい重臣たちでさえ、特に言及も、明言もしない。
諾々としたその態度に、あれは此方を探りに来た間者なのでは、と声高に唱えだす者も現れ始めたが、敵軍が動き出せばその喧騒も、戦の興奮と死への恐怖へ推移して行った。
始まった、と誰もがそうと思う程、明確な切欠は無い。
なだらかな丘陵から見下ろしていれば、敵は三本の巨大な奔流となり、真白い野に黒く大群にして押し寄せてきた。
三万というのは、どうやら誇張ばかりでも無いらしい。あとから、あとから、怒涛の如き行進は途切れる事無く続いてゆく。
地鳴りのような騒音が大地を伝う。陣貝、雄叫び、馬の嘶きに軍兵の足音が一緒くたになった音は、脚から鼓膜へと這い上がるようにしてのた打ち回る。
伊達軍も猛々しく声を上げ、打って出た。
青田原が一大騒音に包まれる。
俄かに旗印が溢れ、縺れ、重なり合っては横薙ぎに消える。色鮮やかなそれぞれの誇示は、宛ら都の絵巻物のように、遠目には美しく、近目には血に彩られ禍々しい。
見える限り、佐竹・芦名は言わずもがな、岩城に二階堂・石川・白河、結城まで揃っている。よくぞここまで、というほど、普段はいがみ合い殺しあう街道諸家が一丸となり得たものだ。
彼らがどれ程伊達を疎み、恐れているか、その良い証拠である。
烏合の衆と言えど、数にものを言わせる精神的強みがあるのか、騎馬から歩兵に至るまでが躊躇いなく切りかかってくる。一族たる連携こそない。だが勢いは連合軍が勝る。少ないながらも兵士は善戦するが、じわり、じわりと敵方の群れは傾斜を這い上がり寄せてくる。
突如、まだ遠く間延びして聞こえていた銃声が明瞭に弾け返った。佐竹軍列の中間が乱れ、本陣にて未だ動かずに居た総大将周りの近衛兵がどっと歓声を上げる。

(早まったか)

これでは時期尚早すぎる。思わずの舌打ちを漏らし、政宗はものも言わず傍に置いていた馬に飛び乗った。
高倉城にはそれなりに勇名高い将を何人か置いている。故に、ただ脇を敵が過ぎるだけということが我慢ならなかったのだろう。兵は碁石や将棋の駒とは違う。それぞれが意思を持ち、考え、動く、生き物である。圧し進む時に打ち震え、控えるべき時に躍り出もする。その上、情勢は刻々と変化するものである。遠望したまま指揮するだけでは、到底戦場の流れを掴むことなど出来やしない。
だからこそ、大軍同士の激突では配置する将兵に絶対の自信がなくてはならないのだ。総大将は泰然と構え、ここぞという時に床机を蹴倒す。瑣末なことに一喜一憂をしてはならない。

「殿っ!」

しかし、小十郎の叫びも虚しく、激昂する主人を乗せた黒馬は、嘶きを遥か後方に取り残し、疾風のごとく去った。
総大将が駆け出しては供回りの者が留まっているわけにはいかない。
場は忽ちに乱戦の惨状へとその流れを変えてゆく。
高倉城へ押し寄せた連合軍に加え、動揺が駆け抜ける伊達軍本陣・観音堂山にも急速に雪崩が押し寄せてくる。遠くに飛んでいた矢が鳥の群れのように飛来し、足元へ突き立ち、銃弾が砂利を跳ねて雨の如く被さってくる。鋭く短い擦過音に絶叫が上がる。

「殿に続け! 使い番は疾く合図を! 死ぬなよ!」

小十郎でさえ思わず舌打ちを漏らしたい心地を寸での所で殺し、すぐさま政宗が消え去った方角へと馬頸を倒し駆け出した。
最早、兵法も何もあったものではなく、状況はどんどん伊達方にとって不利なものへと落ちてゆく。
山津波、海涛、怒涛。人海はうねりを見せて押し寄せ、また引き、寄せ手は返しと、確実に満ちてくる。城内から後詰めの将兵も加わり、更に敵側にも新手が加わった。伊達軍と連合軍、旗印を失った者は、どちらが味方か、どちらが敵か、わからぬ態でひたすらにぶつかり合う。
肩端や脇腹を幾度も槍の切っ先が掠め、固い鎧に飛来する矢が突き立ち、跳ね返る。
騎馬兵は盛大に歯を鳴らして馬を返し、刀を払って群がった何人かを一度に斬り捨てる。逆に足軽さえも死に物狂いで相手に取り付き、迫る馬の足を狙い、し止めた。倒れた将兵が騎馬に、歩兵にと踏み潰され、転がる。屍の山が俄かに堆く積まれ、散開する。
それにしても、やはり敵数は多い。伊達勢の周囲は既に敵勢に取り囲まれ、先程まで轟然と戦場を駆けていた片倉小十郎も鬼庭綱元も、原田宗時も、亘理父子ももう見えない。
獲物に群がる蟻の様に、気味の悪い黒山がそこ彼処に出来ている。あちらやこちらへと、無勢目掛けて助太刀に行くにも、切り抜けるにも術がない。眼前に立ち塞がる芦名勢の前には余所見をする余裕も、身を返す隙も無いのだ。
前衛は後退を余儀なくされている。雄叫びに絶叫、刃がかち合う音が途切れる事無く続く中、次第に空は低く重く、凛冽たる冷気を帯びて大地に迫ってきた。態を潜めていた雪雲が脇から低く垂れてにじり寄り、運ばれる風が僅かな湿り気を帯びだしている。
必死に耐えた競り合いの果て、とうとう、高倉城兵は城門に向った後退し始める。
今が機と押し寄せた敵勢になす術なく押し込まれ、逃げ込み、城門を閉めるより他になくなってしまった。
血と泥に汚れ、疲弊した伊達勢の目には、政宗の姿すらもが時折見え、消えを繰り返していた。
日の光を浴び返り血を浴び、それでも目映く目を射たあの兜も、天地が暗くなり風花が舞いだす頃合に、ついにちらとも見えなくなる。
総大将不在の本陣が本陣などと呼べるはずもなく、当たり前のよう観音堂は押し寄せる敵についには呑まれた。
激涛は返しては寄せ、決して滞る事無く確実に満ちてくる。
主戦場は次第に丘陵を超え、山を下り、人取橋付近へ移る。






手勢を引き連れ押しつ戻りつ、原田宗時が冬枯れの暗い川畔へと辿り着いたのは、淡暮れの空から舞い降りるものが淡い粉雪に変わった頃合であった。
幽かに白い微細な欠片が視界の端をちらつく中、未だ喚声が耳を劈き、やかましい。だが疲弊は伊達・連合、どちらの身にも等しく降りかかってきていた。荒い息で気力だけで立ち向かうものも居るが、炉辺に蹲る傷兵の方が圧倒的に多い。
進めど進めど、一向に政宗の姿は見えなかった。刀を握る手も僅かに痙攣を起こし、血で滑る。
裂いた布で掌と柄を縛りながら、畦道沿いに注意深く進んでゆけば、しぶとく旗印を掲げて小勢が喚声を上げて飛び掛ってくる。普段であれば取るに足らない雑兵であるのに、夕闇がもう背後に迫る野の中ではふとした瞬間に脅威になりえる。
乱れた息を荒々しく繰り返しながら、なるべく無用な力は使うまいと、立ち塞がる先だけを踏み越えてゆく。
しかし、手勢を連れた此方を新手と見るや、方々に散っていた軍勢が細々と集合し被さってくる。
早駆だった馬の足が徐々に濁足へ変わる頃合には、四方はすっかりと敵方に囲われていた。

「どう、どう!」

馬が尖端に怯え、捌く手綱の意のままに動かなくなりつつあった。漆を重ねた鎧、鉄兜を纏う人一人を載せての荒行脚だ。動きが鈍るのも無理は無い。
或いは馬を下りての応戦も否めないが、それでは移動速度が激減してしまう。如何するべきかと考えるその合間にも、繰り出される刃の数々に、馬は耳を伏せ、たたらを踏み、焦燥は敵に追い風を与える。
怒声と血走った視線に取り囲まれ、宗時がままならない苛立ちからついに理性の埒外へ踏み出そうとしたその時、新たな軍勢のかける轟音が幽かに彼方から響いてきた。
そうかと思えばもう近い。
新手か。

「佐馬助か!」

だが聞き慣れた鋭い声音に、呼ばれた宗時は繰り出された一文字の白刃に身を屈めながらも振り返る。
見れば、満身創痍とはいかずとも、決して無傷というのでは済まない片倉小十郎が駆けて来ていた。騎兵を従えてはいるが、彼が尤も多い駒を従えていたはずにも拘らず、その数は明らかに激減している。
しかし残る彼らの闘志こそ、尽きては居ないようだ。全員が既に抜刀し構え来る。激昂しかけた性質の悪い気概が抜けた。宗時が短く呼吸をし、焦る馬の隙を突いて操り、整え、反す。
叫び声は更に音量を増した。突進してきた新手に敵勢は慌て、一時散開し乱れるも、敵将の指揮も中々に巧みである。すぐさま陣形を建て直し、数に押して新手諸共四方からひっ包む。
一人倒れ、二人倒れ、刃が鳴り血が弾ける。行く手に塞がる芦名勢、加え小数の岩城勢と押しつ押されつ切り結びながら、それでも徐々に伊達勢二組は合流を果してゆく。
彼らは何を言うでもなく、直ちに手勢を方円に敷き、応戦していた。歴戦の勘ともいえる行動が功を奏したのか、そのままじりじりと進み、互いに互いを庇いつつ、やがてついには背中合わせに馬を並べる。

「無事か!」
「如何にかな!」
「殿は!」
「わからん!」

短い会話の合間にも矢は飛び槍は迫る。兜で弾き刀で叩き落し、一人一人と確実に屠る。
腕が飛び、首が飛ぶ。戦慣れしている二武者である。伊達切っての精鋭の名に負けず劣らず追走する敵勢をあしらい、小数になった味方の最早誰一人も漏らすまいと、痺れる重い腕に喝を入れ、ただただ刃を凪ぐ。血風が鼻先を掠める。泥と雪も混じる饐えた臭いだ。
お互いがお互い、十の人影を斬ったあたりで、劣勢は平行線へ、矢庭に勢力を盛り返した。いかさま戦場の魔物である。風向きはこうして気概一つで忽ちに変化するのだ。


不穏を悟った敵将の号令が飛び、足場であり弱きである二人が跨る馬が狙われだした。采配が空を切ってすかさず、遠くから弓が、近くから槍が迫り出される。殺ぎ落とし損ねた刃は馬体を掠め、裂き、人と同じく血を流す。痛みと恐怖に驚倒する馬の嘶きが捌く手綱の動きを遮った。
しかし、元より想定済みである。彼らはもうあえて抗わず、動物が須く抱く生への本能に任せ、握る指の力を抜き、辛うじての制限も全て元に還した。途端、強靭な前足が疾風の如く群がる歩兵を豪と蹴り倒す。鉄を纏うとはいえ、人の柔な身が獣の怪力に適うはずも無い。そのまま雄叫びと共に強行突破、馬は狂ったように人などには目もくれず、跳ね、吹き飛ばし、踏みつけ、進む。
跨る人も同じく、声の限りに吼え、感覚の消えかかる身に鞭を入れ、予想だにしない馬の狂奔に怯え始めた兵を退ける。鉄兜が幾度も矢を弾く。高い音。低い唸り。漸うとして、如何にか敵の包囲を突破に成功する。
まだ追随し、加え前にも構える敵勢を、殿軍が巧に集合し、離散しを繰り返しながら蹴散らし、最早限界近い馬を宥め賺して走り続ける。
どれ程経っただろうか。震えていた鼓膜が少し落ち着きを取り戻す。
吸い、吐き出す荒い息が僅かに整い出したころ、二人は漸く少し辺りを見回した。

「手筈を違えたな。予想より兵が纏まっている」

小十郎が言うのに、宗時は視線を返さずに辺りを忙しなく伺い続ける。

「大半が佐竹と芦名です、熱くもなりましょう…しかし殿とはぐれたのは、誤算過ぎる」
「何処まで見た」
「高倉まで左月殿と共に下ったまで…やも。あそこが一番酷い態です。小石よりも死屍が多い」
「殿が死ぬまい」
「無論」

純白であった筈の雪の野は無残な有様である。踏み散らされて茶け融け、土の野が枯れ草もろとも泥濘みに変わっている。散見する死屍は大半が泥に飲まれ、絶命の表情ですら薄汚く塗り篭められていた。その上に、はらはらはらと雪が散る。まるで散華、献花だ。
敵主力は、今のこの地ではどうやら芦名と岩城のようだ。彼方此方に囲まれた伊達勢が陣を組み、また散を繰り返し、死力を尽くして戦っている。
出来れば加勢に行きたい。しかし、宗時も小十郎も、残る兵力も体力も最早限界に近い。数に勝る芦名相手に防戦を構えては逆に面倒なことになる。
加えて、今優先すべきは政宗である。
一体何処に居るのか。

「申し上げます!」

体力尽き掛けているとはいえ、ひた走る馬の足に突如霧のように現れた足軽が並んだ。だが身軽なその身は鎧も着けず、槍も何も持っては居ない。
黒脛巾である。

「如何した」

碌な事ではない。
それは上げた声から容易に読み取れる。

「左月入道殿、殿軍指揮中に岩城軍の急襲を受け、討ち死にとのこと!」
「何!?」
「小物が遺骸を守り、今はあれにて応戦を! しかし」
「片倉殿!」

現状を終いまで聞かず、小十郎は宗時を残し、我を忘れて忍が指差す枯れ茅野まで馬を走らせる。
立ち尽くす家来は疾駆する獣の足音にはっと身を窄ませ槍を構えたが、馴染みある家紋にやおら肩の力を抜き、呆然の続きをし始める。

「左月殿の郎党か!?」

者供皆応えない。
裂傷し擦り切れた身の彼方此方から流れる血だけが止め処なく、小十郎は歯軋りして草むらの中央を見下ろした。
枯れ草と失意に取り囲まれ、果せるかな確かに七十を越えた老兵は、薄い脇腹に深い槍傷を受け、事切れていた。
甲冑もつけずの浅葱衣一枚で、頭には黄色頭巾を被っているだけである。鎧の重きを嫌って、敵の迫を真面に受けたのだろう。齢と比例した指揮の巧みさを武器に、隠居の身にも関わらずこの地へ駆けつけたのである。
馬から下りた小十郎がその顔に触れればもう冷たい。皺深い顔に、あとから、あとから、細やかな雪が覆い被さってくる。
鬼庭左月入道良直は綱元の父である。
死体、と軽々しく呼べない、けれど動かない肉隗を見下ろすうち、脳裏に嘗ての悲劇が蘇り、胸を鋭利な痛みが刺し貫いた。
小十郎はそのまま一度深く呼吸をして、唇を噛み、入道の穏かに閉じられた薄い瞼の上に掌を置いて、何事かを呟いた。
沈痛さが深く滲む横顔は、しかし一拍を置けばすぐさま身を翻す。
そのまま、まだ主人の死についていけずに、呆然と立ち尽くす家臣の胸倉を鬼の形相で掴んだ。

「しっかりしろ! この最中よく遺骸を守り通した! このまま敵に渡さぬためにも、早々にここから立ち去れ!」
「…ぁ……」
「わかったか!!」

瞳を揺らす相手を強く揺さぶり、殆ど投げ飛ばす勢いで手を離してから、小十郎は馬に取り付いた。
その時であった。

「殿っ!!」

橋上の敵味方に向け、跨った馬の頸を返した途端に上がった宗時の絶叫である。
見れば、彼は新手に取り囲まれまたもや刃を振るい、進退窮まっている。次いで叫んだ目線の先を負えば、黒山に群がる人影を真っ向から切り捨ててゆく烈しい殺陣が眸に止まった。
恐ろしいほど殺到した武装兵に囲まれて、跨るその馬は既に潰れかけている。だが構う様子もなく、前後左右から衝き立てられる歩兵の刃には頭上から容赦なく剥き出した刃を振り下ろし、群がる騎馬兵には突き、薙いでと、確実に一撃で仕留めてゆく。
やはり、強い。
六爪こそ構えていないものの、両の手それぞれに一刀ずつ刀を握り、当たるを幸い薙ぎ倒し、斬り棄てる。
防がれず、かわされず、動けば確実に相手は身を刻まれた。周囲に築き上げられるのは群がり来る敵の山ではなく、肉隗へと様を変えた屍ばかりである。
逸っていた敵は、その燦々たる惨状に尻込みを始めた。
じりじりと後退し、獲物を握る手が下がりかける。
だから、小十郎も油断をしたのかもしれない。
遭遇の安堵、敵味方の死屍が入り混じる橋上の景色に、一瞬息を吐いた、その視線が捕らえた。
新手である。遠目にも満身創痍で駆けて来る彼らの手の内に、政宗は気付いていない、否、気付けない。黒山の人だかりが壁になったその背後に一直線上に並び、混迷する味方連合軍に一切の注意すら払わず、構えた。
あともう少しというところまで追いついた重臣二人の目の前で、握られた鉄砲が粉雪ちらつく淡闇のもと、はっきりと火を吹いた。
甲高い破裂音がいくつも響いた。
紺碧の身が一度大きく揺れる。
続いて、意味の無い大声を上げた歩兵の槍が高く振り上げられ、下りた。
体も、思考も、一瞬痺れて動かなかった。
しかし、叫びすらも追いつかないその刹那に、脇手から鮮やかに駆け抜けた一騎がある。
速い。
駿馬は瞬きする間に殺到する人だかりに追いつき、屍を踏み、跨いで、刀を振り上げた騎馬兵の前に躊躇いなく割り込んだ。

「っ!」

背に熱い衝撃が奔る。
だが浅い。
次の瞬間には、突然の乱入者に瞬く騎馬兵の馬に向い、振り上げた拳を容赦なく叩きつけた。
人のそれよりも甲高い、獣の絶叫が次々と上がる。しかし微塵も構う事無く、乱入者は周囲凡ての馬に遮二無二腕を振り回して暴れまわった。
跨る馬が棹立ちになって兵が溜まらずに転がり落ちる。悶絶しながらもろともに崩れ落ちる獣も居て、殺到する人だかりの内に、俄かに血路が開かれた。
現れた時と同じく、巧みな手綱捌きですぐさま馬頸を反す。操り手も操り手だが、従う馬もまるで手足のように恐れなく主人の意に添う。黒金のようなその鬣が、もう相対する者の顔の判別すら難しい闇の中、俄かに吹雪く雪に囲われてはっきりと目に焼き着いた。
片手で跨る馬を急かし、もう片方の手で瀕死の黒馬を無理矢理に引き摺り掛ける。鉛玉を受けた人影の無事は、小十郎の位置からは確認できない。だが彼は、乱入者の我武者羅な立ち回りと、その背後に我に帰った敵勢が迫るまでの僅かの間にて、確実に己を取り戻していた。
鐙を踏む足に力を込めて馬上に上がり、黄昏と吹雪に負けじと腹の底からの大音声を怒鳴り上げる。

「小十郎、ご苦労だった! 後々はこの政宗に任せ、お前はとっとと引くが良い!」

敵味方の視線が一度に殺到する。
二頭を従える小柄な影が駆け抜け様に振り向いた。

「敵も味方もよぅく聞け! この伊達藤次郎政宗、佐竹義重、芦名義弘に相対せんがため、諸侯手勢引き連れて参上仕った! 我と思わんものは出会えや皆々! いざやこの場で人取ろう、人取ろうぞ!」

闇越しにその眸を睨みつけながら、周囲全てに向けて刀を振り上げながら呼ばわる。
敵勢は刹那迷った用だが、何しろ夜がその背を押した。人輪はなだれを打って小十郎に殺到し、彼は得ているのか、引き付け引き付け、疾駆する二頭とは反対方向へ手勢を翻す。
欄干は剥き出しの荒石、その粗末な橋上橋下に新たな白兵戦の喚声が沸きあがる。闇がその手を伸ばすも、何れにも引く気配は見られない。狂嵐は粉雪を巻き上げて錯綜する。






(死んではいけない)

息はある。意識もある。でなければ今、馬にしがみ付いては居ないはずである。
後は一刻も早く退き、態勢を立て直して、手当てを。

(っ!)

耳のすぐ脇を岩城軍得意の弓矢が翳め飛んだ。
力の限りに疾走する馬上越しに振り返れば、見破られたか執念か、僅かに追手が掛かっている。
見える限り、三騎。帯刀し鎧を着込んだ名のある武士であろう。到底応戦できる相手ではない。
番える弓矢が尽きるまで、また、闇がとうとう目を眩ませるまで、身軽さに勝る此方は脚力で駆け抜けるしかない。

(…でも)

併走する馬の足並みに徐々に力がなくなってゆくことがわかる。その膝が折れるまでに、追いつかれないという目方は危うい。
けれど疲馬の手綱を握る指は尚一層白く、その先に力を込めた。
鐙の上へ立ち、片手で竹鞭を操り更に前へ前へ、走る。
立て続けに三矢、身の端々を掠めて飛んでゆく。軽装に賭け武装を軽んじた衣の端は次々に裂け、夥しい冷気と殺気に肌が泡立つ。裂傷を帯びた背だけが異様に熱を持ち、熱い。
闇を打ち分けて空から雪が降る。身に当たっても溶けず、徐々に鈍くなる動きはこれが積もるためのようだ。
握る腕が段々と後方に下がってゆく。

「っぁ!」

突如、物凄い力で右腕が引かれる。とうとう馬が力尽き、倒れたのだ。
堪らずに右腕を振り解き、跨る馬の手綱を引いて立ち止まる。突然の静止に然しもの馬も嘶いて暴れたが、どうにかそれを牽制して転がるように飛び降りる。
余す所の無い矢傷や刺し傷に体力つき、ついに一歩も動けなくなった馬の横手、流石無様に落ちはしない人影が、それでも片膝をつき蹲っている。

「と」

縋り付いて叫びかける前、人影から伸ばされた腕に強く引かれ、倒れた。
その身のすぐ上を矢が過ぎる。

「…伏せてろ」

低い声音に言われるまま、有無を言わさず身は後ろに押しやられ、片手で押さえつけられる。
キチリ、と刃が鳴る音。いつの間に抜刀したのか、白々と反り返る一刀の先にすぐ騎馬の影。獲物は三方向からの刃。
迫る。

「っ殿!」

思わず叫べど、庇われた身は動かない。同時に高い音。反り返る刃の軌跡に咄嗟に目を瞑り、また開けば、全ては既に風のように横を過ぎていた。
鋭い舌打ちがすぐ傍で響いて、やがて背後に重い落下音。続けざまに主を失った馬は狂奔して去った。
けれどそれは一頭。刃を弾かれ一度は過ぎた残り二騎が態勢を立て直し、また馬を反して向ってくる。
身を寄せる、固い甲冑の背が一度ぐらりと傾きかけた。押さえ込む力が少しだけ弱まり、今度こそ身を起こして如何にか前を覗き込めば、捌ききれなかった新たな刀傷が胸上から鎖骨にと、迸るようにして赤い血を滲ませている。
それ自体は深く無い。だが荒い息は整う事無く、顰めた片目から色が失われてゆく。
掴まれていた腕を精一杯にもがいて振り解こうとするも、執念の如く此方を庇う背は細い腕を掴んで離さない。それでも無理に捩って、顔と身を背後に向けた。
背が痛む。馬の足並みが泥と雪を巻き上げ、まっすぐに此方へ来る。
自由な腕で、それでも握る拳に力を込め、翳した、その時である。
鳥の鳴き声に似た甲高い音と共に、白尾の一矢が眼前まで疾駆した騎馬武者の兜に当たり、一時馬脚が乱れた。そうかと思えば雨あられ、次から次に横手から降り注ぐ。
鉄鎧に守られたその身すら、関節の狭間、僅かに露出した身に突き立つ凄まじき矢の数である。馬は勿論堪らず、身の彼方此方に忽ち雁股の矢が突き立つ。
すかさず凄まじい絶叫が上がった。馬も人ももがき、暴れ、やがて悶絶しながら倒れる。
落馬した武者は転がりながら地に落ちた。しばらく汚れた雪の上で悶え、呻き、やがて反り返る矢ごと、動かなくなる。
何が起きたかわからない。
全身が痺れ、感覚が萎えている。気付けば荒くなっていた息をまだ整える事もままならず、呆然と目の前の光景を眺めていれば、いよいよ背後の背がくずおれる。

「殿っ!」
「っまさかその声、ちゃん!?」

懐かしい声が空気を裂いて、耳にやっと聴覚が戻ってくる。先程とは比べものにならない、重々しい轟音が唸りを伴って近づき、あっという間に蹲る二人の周囲を取り囲んだ。
安堵に脱力しかけた瞳が振り仰げば、奔馬数百騎を従えた成実が真っ先に此方へ駆けて来る。
逞しく馬を捌き、身軽に飛び降りて駆け寄る。に向い半ば身を埋没させていた政宗を、改めて抱きとめてくれた。

「成実さ」
「何でこんな処に! 梵が逃がしたんじゃ」
「それより今は殿を、殿が…」
「っうわ…!」

言われ、彼は血に染まる主君の身体を眺め、再び顔を顰めた。
身軽になったがぐいと覗き込んで傷を見る。初見どおり、よく手入れされた刃に切られて、ある意味綺麗な傷である。だが思ったより出血が酷い。が袖の布を裂けば、成実がそれを掠め取ってきつく巻く。
だがそれとは別に、橋上での銃撃痕が酷かった。殆どの弾は固い鎧の途中で止まっていたが、一発だけ、脇腹を貫通して止め処なく血を溢れさせている。
今は失血による一時的な気絶だろうが、もしこのまま何もしなければ、危うい。
固くきつく布を縛り終えれば、成実は改めて表しがたい顔でを見る。
緊張が走り強張る華奢な身は見慣れない戦装束に包まれている。鎧や兜、武具などの武装こそ無いものの、頭に布を巻いて長い髪を隠した姿は、遠目には確りと武人に見て取れた。
別れ際の彼女はこのような格好ではなかった筈だ。
隙のない軽装を睨みながら、裂傷ではなく穿孔に向け、彼は顎をしゃくった。

「この傷は?」
「敵勢に背後から…連合軍諸共撃ち抜かれて」
「何で此処にいるの」
「……殿が一時、お斃れになられたので、思わず」
「…!? 怪我したのか!?」
「平気」

咄嗟に肩を掴みかけた成実の腕を、が思わず払い除けた。今触れられるのは辛い。
思いも依らない断固とした拒絶に、成実は出しかけた手を彷徨わせる。
だがやがては引っ込め、片膝付いた身を改めて正し、何度か素早く頷いてみせる。

「…判った。とにかく今は二人とも、何処か手当ての出来る所へ」
「籐五郎様!」

騎馬の一騎が突如吼えた。
遥か彼方を指し示すその先を須くの目が追えば、地平にほんの端だけを覗かせる太陽に向かい、地煙を巻き上げる集団が見える。
数にしては此方と五分。先程が駆けて来た方向へ雪煙を蹴立てて進んでゆく。
此方には気づいていない。

「あの旗印、やはり佐竹でござりまする!」

成実の瞳が揺れた。政宗を見、次いでを見る。

「まさに殿の読み通り、あれを衝けば連合の中腹、一挙に砕けましょうぞ!」
「っ!」
「御命令を!」
「急がねば彼奴ら感づくやも知れませぬ!」

成実は歯噛みして政宗を見る。
揺り起こせば武人、隻眼の主は目を覚ますであろう。今のこの時も恐らくだが、無と有の狭間で幽かな自我が留まっているはずである。
だが、無理を如ける怪我ではない。それは乱戦に慣れた彼には一目瞭然であった。
唇に指を押し当てて逡巡し、やがて切実なの顔を見下ろして、成実は躊躇いながらもまた頷く。

「…仕方ない。ここは一旦退いて」
「ふざけんな」

絶え絶えながら、他を寄せ付けない鋭い声が上がった。

「殿…!」
「俺が出る。お前はこいつを連れてけ。邪魔だ」

情愛の欠片も無い、冷たい手触りの声音である。支えるの手を忌々しげに払い除け、穴の開いた胴体を無理に起こそうとして、呻く。
ぼたぼたと、新たな染みが白濁の野に華を描いた。
手負いの獣、そのものの息遣いで、血走り尚鋭い凄絶な隻眼が成実を見た。

「手を貸せ」
「……………」
「俺が行く。貸せ」

絶対的な決意を持つ、これは命令である。
成実は一度険しく歯を鳴らし、猛将の名に相応しい苛烈な横顔を垣間見せた。
だがその視線が蹌踉と彷徨い、ふとを見止めれば、更に顔を厳しく顰めて、だがやがてゆっくりと、苦く、幽かに笑う。
瞠目するもう見慣れた小さな顔をつくづくと見返しながら、成実は重々しい音を立てて立ち上がった。

「…ちゃん、悪い」

戦場には決して似合わない、繊細な百合の手が、拒絶された腕にそれでも伸ばされて揺れる。

「二人付ける。梵を連れてってくれ」
「っ!おい…!」
「無茶だろうけどね、ごめん。頼む」
「…何故………」

揺れる瞳が問うたのは絶望からではない。
今、この場で、己の兵ではなく、に託すという。その心からの困惑に、彼女の唇は色を失くしたのである。
けれどその問いに応えたのは、言葉ではなく苦い笑み。

「馬は?」
「如何して、わたし」
「俺の殿を生かしてくれよ。馬は何処だ!」

荒げた声にの肩が跳ねる。
しかし、もう問答する時間は無い。走りはためく敵勢を見止め、彼女は困惑しつつも咄嗟に高く短く二度指笛を吹いた。
やがてそれ程経たない内に、先程まで跨っていた馬が跳ねるように素早く現れる。
その足並みは重く低く、しかし速い。群れる郎党に目もくれず突進し、奔馬の集団を圧し避けての傍に止まった。
途惑いながらも頭を切り替える彼女に向い、成実はわからない程度頷いて、が梃子摺る政宗の身を抱える。
途端、主は衰えない眼光を叩きつけてきた。
成実はそれを黙って受ける。

「誰が、逃がしてくれなんて言った」
「今さっき、この場で、お前が言ったよ」
「…耳が如何かしちまったのか。俺は」

仕舞いまで言い切る前に、成実の拳が主君に飛んだ。
衝撃に傾ぐ顔。周囲が僅かざわめく。次いでが上げかけた声は、成実の素早い一瞥に先回りして殺される。
彼はぎりぎりまで力を抜いた拳を解いて、血に染まる政宗の胸倉を改めて掴み上げた。

「如何かしちまったのはそっちだろ」
「……テメェ」
「今のお前なんか、ただの足手纏い以下だ。そんなんじゃ赤ん坊にだって勝てない。さっさと退いて、静かに寝てろ。死ぬんじゃねぇよ」

言い終えるなり、現れた馬に大の男一人を担いで、乱雑に乗せ上げた。
もう政宗の返答は無い。成実も振り返らず、今度は確りとを見た。その鎧の彼方此方に、先程までは無かった血が付着している。
時間が無い。
成実がと視線を並ばせ、かつらと雪曇でぼやける山麓を指し示す。

「あの山を越えれば伊達領だ。何も考えずに、真直ぐ走って。奴らもそこまで深追いはしない」
「でも」
「後で必ず追いかける。だから、よろしくね」
「如何して!」

場違いなほど穏かな声に、が渾身を持って振り仰ぐ。
初めて見る、混迷し彷徨う瞳を、それでも彼は静かに見下ろしていた。女の指が固い具足に縋りつく。

「如何してわたしに!? わたしなぞに任せるくらいなら、何故! 何故あなたが来ない!」
「………」
「このまま続けても、どうせもう夜になるのです! なら今は退いて、それから」
「退けない」
「だから、何故!?」
「俺は、斬るしか出来ないからね」

どれだけ考えても、やはりそれが答えだった。
重い手が、の頭を二度、叩く。

「…今は、貴女だけが頼りだ」

成実はそのまま血で汚れたの掌を両手で取り上げ、その指先に冷えた額を押し当てた。
絶句する彼女をも軽く笑んでから抱え、半ば投げるようにして馬に乗せる。その後はもうすっかりと武人の表情に戻り、有無を言わさず悍馬の尻に力一杯の一鞭を叩きつけた。
鋭く甲高い嘶きが上がり、人二人を乗せた馬は重きなぞ感じないかのように、力強い脚ですかさずに地を蹴る。

「成実さん!」
「二騎続け! 残りは俺に付いて来い! 手筈どおりに行くぞ!!」

早駆ける馬上にて意識が揺れる政宗を必死で抱えるの背後、怒号に似た数百人の大喚声が背後から押し寄せ、吹きすさぶ風に加えてさらに背を押す。
ビリビリと地と肌が震え、馬は怯えて狂ったように只管に脚を踏締め、跳ねて、飛ぶように戦場から逃げてゆく。は振り返らない、振り返れない。背後に着いているだろう、味方の馬でさえ恐ろしい。
焦燥が追いかけてくる。景色は既に夜、粉雪は吹雪になったと言って差し支えない。疾駆する身に打ち付けられる一片一片が分厚く重く、布を巻いただけの手足は軋んだ。
重力、風、雪、吹雪、闇。何もかもが四方を取り囲む。








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 BGM:JOGA(bjork),High and low(HooDrum),Glam Bucket(Underworld)