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女の体は嗜好品だ。
滑らかな曲線だけで象られた身体はどんな女でも美しく、肌理の細かい柔な肌はなぞる掌の形に合わせ、しっとりと馴染んでくる。皮膚の下に潜む脂肪の感触と独特のぬくもりも心地よく、白い丘陵に蠢く陰影は闇を吸って尚浮かび上がり、丸みを帯びるふくらみそのままに、ゆっくりと色を変えてゆく。女の上では全ての事が急激に変化する事はなく、なだらかな波のように、少しずつ寄せては返すのだ。
女は女というだけで、既に何か冒し難いものを持っている。同じような温度に、同じような感触、香り。
眩暈がした。






緩慢な眠りに落ちていた城内外が目覚めた。
澱みをみせた一連は流れゆく川の如く、しかし穏かならぬ気色を孕み、最早滞る事も無く狂濤へ向ってゆく。
伊達勢は兵卒を整えるなり、燻りは敵だといわんばかりに奔り尽くした。布陣も疾く、まるで時を取り戻すかのごとく性急に事を成してゆく。
須くの懸念である雪は、ここ数日降っては止み、降っては止みを繰り返している。踏み固めた地面の降雪は茶けて汚らしいが、夜間には自失するほどの大雪に見舞われ、朝になればまた真白く柔らかい障害となり、気ばかり急く歩みを浚った。
今の世は真に冬。正午の前だというのに、重く泥濘んだ空を持つ冷えた寂しい季節である。
本来ならば白銀の野には、僅かな光しか降らない為に、その色は唯々諾々と泥濘なる灰鼠色が関の山である。遠目の暗い松にも、ささやかな山茶花にも、分厚い雪が降り積もっている。重なり合う淡青い影が如何にも重々しく、垂れた花弁に雫を落とし、繁る葉を相反して黒く染めていた。
掌に落ちる雪一片は容易く溶け、消えるのに、寄せ集めればあのように、酷く重く、億劫なものへと変わるのだから、不思議なものだ。
取るに足らぬと侮っていた諸豪族もそう。一先ずの名目を掲げ馳せ参じた彼らも、寄せ集めとはいえ、その数は最早脅威となり戦場に集結しつつあった。
各地に放たれていた伊達方の諜者が続々と戻り、軍者に伝えたその数、総勢三万。つい今しがたまで、奥羽の戦では一万も集まれば目を剥く大群であった。
その三倍。出るか出るかと思っていた膿が、一気に噴出したかのような有様である。
ここぞとばかりに「反伊達」の音頭を取ったのは、常陸に居座る佐竹義重である。諸侯の中で最も多い五千の手勢を引き連れての参戦に、関東の鬼と呼ばれる二つ名通り、ある種烏合の衆ともなり得る多勢をよく纏め上げている。
そのほか、駆けつけた芦名、岩城らの諸氏も含め、彼らが一様に叫ぶのは、父御を無残に切り刻まれた国王丸への同情であった。
世間の目に、これは道理と映る。
事実だけを直接的に見つめてみれば、惨劇とは呼べども悲劇とは呼べない。伊達家においては輝宗も死んだが、畠山家においては義継も死んでいる。
しかし方や凄絶な討ち死に、方や討ち取られての辱めに加え、残滓は犬の餌より無残に打ち棄てられるという非業。世間の目は残された長子の年齢差も相俟って、比較にもならない何れを見せる。
政宗は既に仇を討っている。ならば次は国王丸こそ、蹂躙された親の敵と、死兵一丸となり相対する番なのだ。
着慣れぬ緋縅の鎧に身を包み、後見となる老臣に付き添われながら、士卒を励まし廻る健気な幼君。
取り巻く諸大名が、この憐れで甘美な餌を捨て置くわけが無い。篭城を続ける一方でひそかに繰り出された密使に、内心舌なめずりする思いであったろう。
伊達政宗が奥羽平定、ひいては天下統一を狙っている事は、最早暗黙の了解を越え、公然たる明星である。破竹の勢いで勢を増し、その存在が輝けば輝くほど、相反して奥羽全土には暗い影が落ちる。
そうでなくとも、昨日の敵が今日の味方、今日の味方が明日の敵となる混迷の地である。此処で二本松国王丸が討たれてしまえば、伊達勢が勢いに乗じ南下を来たすのは条理。その最臨に佐竹領、常陸はあるのだ。
国王丸を討たすな、国王丸を救え、とは、今こそ目の上の瘤をとる絶好の機会であるぞとの、奥羽大名の隠語となった。
そして、連日のこの大雪は連合軍に更なる士気を与え、伊達勢の行く手を大きく遮る天然の要害と化し、立ちはだかる。
霏々と振る豪雪に手を拱いていたその間に、二本松へ援軍到着の大事な時を稼がせてしまった。
自らを死兵と決めた軍勢は強い。対し、伊達が要する兵力は以って一万。領土となって日が浅い土地には守備兵を置かねばならないし、本望である二本松城への押さえも布かねばならない。動かせる兵は、精々でも七千ほどか。
三万対七千。

「…身から出た錆とは、皮肉なものだな」

先代から受け継いで久しい甲冑に身を包み、早駆の興奮冷めやらぬ馬頸を撫でながら、相馬家現当主が誰彼なしに呟いた。
先ほどから目配せする陣の端々に蹲る足軽は皆一様に暗い顔をし、粗末な槍と共に我と我が身を寒そうに抱えている。
取り次いだ小物に先立ちをさせる相馬義胤が傍らを通るが、のろのろと鈍く動いて平伏するか、眠っているために無反応の兵卒もいる。疲れと闇と、雪が、思考も体力も吸い取ってしまうのだろう。
憐れなものだと見下ろしながら、特に咎めることもなく、僅かな手勢だけを連れて義胤は進む。軍靴が踏み固めた雪の上を重くすぎ、僅かな音を鳴らした。
今しがた着陣したばかりである伊達本陣は本宮城外、観音堂山にて設えられていた。夕刻を過ぎ、陽も落ちた今では見えぬが、眼前に臨む前田沢、南面する青田原には敵連合軍が既に鶴翼にて構えていると聞く。
実際、これは三隊に分けられた内の一つであり、本陣を中央、右、左から衝くべくと、兵力にものを言わせ、並進にて此方を押しつつむ陣形を取っている。
戦いの火蓋は既に先鋒により高倉城にて切って落とされていた。直接的に大将がいる地では無いにしろ、落ちれば即本陣に傾れ込む直線状の距離にある。
火に触れ、掠め、気が熟すのを待つにしては尚早。この初戦、結局は明確なる勝敗を見せずただ闇が裁いた。高倉城は落ちこそしなかったが、それも明朝までだろう。無視は出来ない損害を受け、今は篝火だけが盛り、傷ついた兵は密かに流れ落ちてゆく。
半頬が冷え、触れた皮膚が指すように冷たい。鉄は明確に冷気を伝える。

「寒いな」
「東の山に、かつらが掛かっておりました。明日も雪かもしれません」

静かな呟きに答えたのは、前を行く伊達方の者ではなく、影のようにひっそりと後をつく身形の軽い者だった。僅かな篝火の中にあるせいか、四方は濃密な闇が充満している。その身は暗きに融けるようにして、全貌は見えない。小袴から覗く布が巻かれた手足が小枝のようにか細く、声音からしても、まだ少年。
義胤はそちらを見もせずに、苛烈な口元はふっと細く唸っただけに留められた。
透徹した厳しい夜の中、金糸で縫い取られた竹に雀の軍幕は遠目にも目立つ。距離はあるが、規模も大きいあれが恐らく政宗がいる軍所だろう。
一寸緩みかけた脚をまた少し強くしながら、義胤は進む。擦れあう金属音に人々は一瞬顔を上げるが、死の気配が無い一行にまた力なく項垂れる。
篝火の所為か、目端に溜まる影が藍色濃い。

「いつ戻った」

宙に問えば、影は答える。

「つい先ほどです。この雪に、足が鈍りました」
「珍しいな。無事なのか?」
「面目ありません。ですが危うい事は何も。物見に出ただけですし、この忙しい時に"ただの農民"を襲うものもいませんから」
「成る程。確かに、この忙しい時にな」

僅かに笑う義胤に、影は少年らしい強張りを見せる。

「お館、お笑いになっている場合ではございません。斥候に一千の騎馬を出すと、常陸の殿様が仰っておられました」
「一千? 確かか?」
「誇張の可能性もありますが…おれの聞いた限りは」

頷いた気配の影に、義胤は一転笑いを引っ込めきつく前を睨んだ。口の中に含んだ苦い物と相対するかのように、何かを堪えた面持ちが強張る。
その横顔は先代、先々代と、造作も色もよく似ている。しかし、脈々と受け継がれるその血筋にはそれぞれに特徴があり、三者三様にて貫く本質が異なっていた。

「殿、伝馬の言うことが誠であれば、やはり」
「いや」

眼前を黙って歩いていた兵の一人が、振り返らずにやはり小さく早口で告げたが、語尾を攫う速さで総領は口を開く。

「誠であれば尚更、親父の言う事に俺は解せん。正直いけ好かぬ伊達殿だが、義理は義理だろう」
「しかし、この世においてそのような」
「この戦乱の世であるからこそ、貫かねばならないものだ」

彼、義胤は実に実直。断固たる主張はこれまで何度も諭した果てにでも折れぬものであり、将兵はそれ以上は言わずに小さく謝っては沈黙した。
先代である盛胤は、伊達方への援軍にはやはり難色を示し、どころか往年を思い出させるが如く、猛烈に反対した。
怖いのは、怒鳴って怒り狂うわけではない、ただ静かなその威圧である。理路整然、淡々と現実を説いたあと、反論があるならば言ってみろといわんばかりに間を置くのだ。彼は未だに、雷鳴を孕むかのような暗雲たるその緩急が苦手であった。
吼えれば撓る、柳のようなやり難い相手である。時々、血が繋がっているのが不思議に思えるほど、相手の考えていることがわからない。加え、相手は一枚も二枚も上手である。いつもならば言い負かされ、怒っているのは此方なのに、いつの間にやら説教をされ、追い返されるが落ちである。
しかし、今回は黙っていろとばかりに一切合財を無視し、義胤は僅かな手勢を引き連れて、伊達に早馬を帰して小高を出た。頑とした主張のみならず、実力行使に等しい行動に、仕舞いには隠居も嘆息するばかりであったが、別れ際の言葉か僅かな棘のように胸にささくれを残している。それがどうにも気味が悪いまま、一行は伊達方に追いついた。
盛胤の言うことにも一理ある。一理どころか、二理も三理もあるだろう。故に、保険はかけてある。
近頃聞こえわたる風評、今回行なわれた惨たらしい所業。どれをとっても、伊達政宗は人非人と呼ばれるに相応しい。
倫理的な見解を除いても、此処で街道諸家に背を向けるのは得策では無い。実際、芦名・佐竹から参陣の要請が何度か寄せられていた。騎馬隊を要する相馬勢は野戦、白兵戦となれば奥羽随一を誇る。少数ながらも加われば、それら全て一騎当千の働きをみせる。
だがどれ程強かろうとも、力対力のぶつかりあいとなれば、絶対的な数量差は無視出来ない。
答えは明白である。
だがそれでも、連合軍側につくなぞは言語道断、ましてや無視なぞは決め込めない。その理由が、ある。
無言のまま深く思考の海に沈むうち、前を行く兵が止まった。ふと義胤も歩みを止めて前を見れば、少し遠かった軍幕がもう目の前である。僅かな防寒だけを身に着けた小者が、慌てて内へ声をかけながら入ってゆく。
吐き出せば、息は靄のように白く上がった。篝火の熱気は僅か夜気を押し拉ぐが、それでも骨に沁みる寒気までは退けられない。
僅かに目線を上げて夜空を見れば、相も変わらず黒滔々。月も何も見えない。






「――以上だ」

伊達政宗が、抑揚の無い声で締め括る。
蹲る面々も黙って頷いたところを見ると、全てとは言い難くも納得はしたようである。
ボソボソとした話し声が其処彼処から上がり、重なって、聞き取れぬ不気味な風の音に似る。室内においても、気の滅入る冷気は押し拉ぐ術なく忍び寄る。燈篭の明かりがちろちろと揺れて、目端に無粋な翳りを遺した。

「成る程。太公望の教えを棄てられるか」

低い声に視線を移せば、目の粗い紙が眼下に広げられている。墨で簡略に描かれているのは此処の地形と現在の双方の布陣。今しがた描かれたばかりなのだろう、乾ききっていない膠が雲母のように光っている。
しげしげとそれを覗き込む男の、兜を取り去った身軽な頭が傾いでいる。
相対するのは両者初めてである。
共闘したことも、嘗てあった。しかし面と向かい言葉を交わすことは、お互い生涯に渡り無いだろうと思っていた。
予想外に若いなと、伊達政宗はまずそう思った。
僅かに燃える明かりの中、入ってくるなり兜を外しながら、傍らの将兵を少し下がらせた端正な横顔。彫が深い。鼻梁が通り、目鼻立ちがはっきりとしている。確か、十四、五は上の筈だが、血色の好い肌には沁みや皺なども見当らない。背筋の整った立ち居振る舞いには、真摯な気品が滲み出していた。
視線を交えると、真黒い両目が此方を射抜く。気安くはないにせよ、慇懃とは言いがたい態度で接する若輩者に対し、怒るでも蔑むでも無く、こんなものかとすぐさまに順応を見せた。
直情的だが、頭が固いばかりでもない。
苦手な人間であると、思う。

「やる価値はあるな。一か八か、だが…」
「負けねぇ為の戦なもんでな」
「成る程」
「質問は」
「ない」

ふっと、短い嘆息が相馬義胤の耳に届いた。顔を上げれば、胡坐をかいた脚に頬杖をつき、ぞんざいに何かの書面を読む男の姿。黒鍔の眼帯が孔となり、虚ろにこちらを向いている。
視線に気づいたか、政宗も見て返す。
ふと、胸に一瞬の靄が過ぎった。しかしそれも刹那。その間を上手く縫い合わせるように、政宗が立つ。
それを合図とし、座は解散の雰囲気となった。
相席していた片倉小十郎の促しもあり、双方の兵が重い音を立てながら立ち上がって、伊達方の何人かが休息所への案内を買って出る。警戒は解けずとも緊張を解いた武士達が二、三話をする中で、頭目二人は黙って顔を背ける。

「夜明けと共に開始だ。見張りは最低、後はもう休め」

平坦な声音が命じれば、家臣団からは乱れぬ同意の声が上がる。そこに、隠し切れない何かが滲んで見えるのは気の所為か、否か。
全てを知り、尚押し黙る青年武将は立ち上がったまま、退出する諸侯には目を向けず、手に握る書簡を未だ淡々と見つめている。

「…殿」

傍らの将兵が、義胤に声をかけた。少し振り返り、馴染みの顔を見て逡巡する。気づけば唇が動いていた。

「先に戻れ。伊達殿に少し、話がある」
「ならば我らも」
「よい、外せ」
「しかしそれは…」
「小十郎、お前も外せ」

言いよどむ相馬勢の声を遮り、視線はやはり手元に投げたまま政宗が言う。重臣は何も言わず、只一度義胤に向け視線をやり、頭を下げると、他の者を促して難なく退出した。総大将が一人のみ残る現状に、居残る僅かな相馬勢がうろたえる。

「少しだけだ。此処で斬り合うほど浅はかでも無い」

笑いながら物騒なことを言う主君に不安げな目を向けつつも、彼らはしぶしぶ頭を下げた。伊達方は全て退出しているのだ。気を張り、無粋な真似をする流れではない。
踵を返して去る彼らの足音までもが絶えるのを待ち、義胤は政宗に背を向けて見送っていた。明かりが揺れて影が揺れる。
双方押し黙り、音はなかった。
廃寺の庫裏に少し手を入れた此処は、戦場の仮小屋とは違い、元が確りとした造りである。戸を完全に閉め切れば外の気配は遮断され、静謐は鼓膜をついて夜に満ちる。
静かな呼吸が何度か繰り返される。
紙の翻る僅かな波紋の中、先に動いたのは政宗だった。

「本当に来るとはな」

嘆息を呼吸に載せ、手元の文を乱雑に畳む。そうかと思えば行灯に翳し、火をつけ、投げた。半紙は一瞬ぱっと燃え上がるもすぐに消し炭となり、頼りない影のように地に落ちる。

「てっきり、前のように振られると思ってたぜ」
「…その節は」
「いいさ。元より期待なんざしちゃいなかった」

手元に残る火の粉を払い、指先に付着した灰を払う。
義胤が憮然とした面持ちで居るに気づいたか、独眼は容良い唇をそうとわからないほど緩く捻じ曲げた。

「お前んとこも大変だな。やりたいようにやれねぇんだろ」
「大きなお世話だ」
「そりゃそうだ」
「四面楚歌の軽口も良いがな、現状は厳しいぞ」

義胤が頤を撫ぜながら言えば、政宗は肩を竦めて腕を組む。紺青の陣羽織が篝火に宛てられて、明け方の夜空に似る。

「それこそ、大きなお世話だ」
「出張った手前、引けはせぬ。だが後悔しろ。この戦は根本からが間違いだ」
「間違いだと?」

政宗が、おかしそうに声を震わせる。

「何言ってんだ、戦なんて根本からが悪だろ。凡てが非で、過ちだ。何を今更改める必要がある」

鼻を鳴らした青年に向かい、向けられる目はあくまでも静かである。

「そうやってかわすのが気付いている証だぞ」

独眼は俄かに細められた。
義胤は静かにその視線へと合わせ、譲らずに真向かう。

「もう少し、賢しい男だと思っていたがな」

この言葉に、今度こそ政宗は唇をはっきりと捻じ曲げた。腕を組んだまま肩を竦め、吊りあがった眸は弧月を刻む。

「俺を怒らせたいならやめときな。むざむざ血は見たくねぇだろ?」
「ほう、俺を斬るとでも?」
「まさか。俺の手の内にゃ、あんたより簡単に捻れるもんがある」

苛烈な視線に火花が散った。
だが咲いて散るも一瞬。剣呑な視線を目を細めるに変え、先に退くのは年長者。
傾いだ首に鈍く手を遣る。

「和睦とは、難儀なものだな」
「だろう? 元々、お互い不本意だったんだ。鬱陶しけりゃ、好きにすればいい」
「この状況でか」
「この、今の俺の状況で。どうせ何れ、お前も討つ」

ほんの少しだけ、沈黙があった。

「………そうか」

短く呟いた後、義胤はそっと嘆息し、緩く苦く、微笑んだ。
視線を外し、茶けた地を見る。燃え滓が細かく散ばり、板敷きに張り付いて煤となっている。炭の汚れが木目に合わさって、また新たな模様となり、暗い影が落ちる室内に、穢れの後はそれよりも色濃い。

「あの子は苦労しているようだ。また一人で泣いているのだな」

沈黙する独眼がふと違う色を宿したが、小高の覇者はそれよりも早く、踵を返した。

「夜分に遅くまで失礼仕った。命運は明日、手筈通りに。晴天であることを願う」

目礼し、去る身のこなしが軽い。具足の音だけが重く、後をついてゆく。
無意識に開きかけた唇を、意識してきつく閉じる。
年季の入った鎧に走る古傷は僅かな光を反射し、その凹凸を誇張している。矢疵であったり、弾が掠った痕もある。母衣を突き抜け、届き、それでも手元にある鎧は、それだけ激戦を潜り抜けてきた証である。
ほんの一瞬、政宗は義胤を敵に見立て、殺すに足る力量を計ってみた。
そのほぼ同時に、義胤が肩越しに振り返り政宗を見る。
何よりの答えである。

「…雪がまた降る。馬の面倒はしっかり見とけよ」

ゆったりと告げ、組んだ腕を解いて義胤に向かってひらひらと投げつける。
年嵩の男は黙ってそれを見つめていたが、やがてそれぞれは別々に向けて目を逸らし、別れた。






風が鈍く吹いている。
冷え切った空気が室内に流れ込み、煌々と燃えた炭の火を更に赤く燃え上がらせる。白く尽きた微細な灰が青畳の上に落ちており、皺深くしかし屈強な指が軽く薙いで潰した。
節くれ、荒れ、茶けた、ぞんざいな手である。関節は太く、指先は刀傷によるものか少し身が削がれ、でこぼことしている。
何処も彼処も疵だらけ、痣だらけ。肉刺の上に肉刺が出来、それも潰れ、また出来、また潰れの繰り返しに、肉の筈の表面は樫か赤土か、弾力の感じられない気色で、畳の上に投げ出されたり、朱塗りの杯を掴んだりしている。
十の指がきちんと揃っているのが不思議なほど、百戦錬磨を抜け、往年を越えたものだけが持つ、表し難い手である。
僅かとはいえ、凍てつく寒風が満ちる冬夜。開け放されたままの戸に持たれ、男が一人杯を煽る。
部屋の中に他の者の姿はなく、ゆるい闇が四方に溜まっていた。
炭が爆ぜる幽かな音。身を悶える度、パキンという高い音が響いて、赤い火は世闇の中にくっきりと浮かび上がる。
ゆっくりと、巌のような唇が動いた。

「……しばしこそ よそに汀の薄氷 とけではやまじ 結ぼるるとも」

翳した杯は寒々しい暗闇しか映さないので、一人ごちたこの言葉にも、勿論返答は無いものと思っていた。

「水無瀬歌とはまた…、殿の舌も随分、丸くなられたものですな」

くつくつと笑う声音。
締め切った障子の外脇に、見知った顔が項垂れ、微笑んでいるのであろう。
一々確認はせずとも、馴染んだ気配は全てを伝える。
溜息一つで間を空ける。

「言いよるわ。お前は最近、ますます口煩くなったな」
「殿の御為なら、多少の口煩さも上等です」
「減らず口を」

声音は低いが、その実上機嫌。幽かに綻んだ口元で、ぐいと杯の残りを煽った。
キンと冷えた冷酒を、よりによって厳冬の夜に一人で飲む。流し損ねた僅かな雫が杯の縁を流れ、落ちた。
ポタリ、という幽かな音。
残響は無いが、耳に残る雫の音に目を瞑り、外の男に入れと促す。短い返事があり、襖障子は軽やかに脇へ退く。
家臣の目は夜の闇に強く、冬の月見酒、冬の冷酒という屈折した嗜好に苦笑を漏らしながら傍による。
隠居は暫く瞑目していたが、相手が随分と傍に来た気配を掴めば、一向に衰えない眼光はそのままに、見た。
視線が合う。
老臣は柔和な、夜の目をしていた。

「どれ、お前も付き合うか」
「有難く…しかし某の臓腑は、冬の冷酒に耐えられますかな」
「これがいいのだ。脳天に雷光が迸るようでな。鈍る頭に一番の良薬よ」
「左様で」

老臣は存外気安げに脇に座し、受け取った杯に並々と注がれた液体に、そっと唇を寄せてみる。
やはり、氷のように冷え切っている。だがつんと香る馨しい芳香は好ましいので、誘われるように二口、三口。すると不思議な事に舌が慣れ、成る程頭蓋の芯が明瞭に透き徹る感覚に見舞われた。

「…意外と」
「よいものだろう」
「は」
「未熟者が」

それ見たことかと厳つい顔が笑えば、目尻にも口の周りにも、細かい皺が沢山刻まれる。
笑って返せば言葉は尽きる。暫くは黙々、二人黙って酒を煽っていた。
片膝を立てた男と、きっちりと端座する男。どちらも既に壮年を過ぎ、初老の波も軽くあしらうといった風情である。酒の呑み方も味わい方も、堂に入ったもの。会話は無くとも、空気はある。
杯も、用意していたのだ。中身もまだ、ある。
清酒は美しく、朱塗りの底を透かして闇を湛えていた。時折一枚の絹のように翻り、炉辺の僅かな光を吸い込んでは、しっとりと吐きだす。それは泡立つ滝の光であり、夕闇にさざめく波打ち際のようでもある。規則正しく、不均一に、表れては消えるを繰り返す。
素晴らしいものである。ただの麹の醗酵は、戦に暮れる武士に、搾取される民に、等しく他を寄せ付けない何かを与えたのだ。
それは活力であったり、間であったり、言葉であったり。紛いであれ、空白を埋めるものである。

「若はもう、お着きになっておられましょうか」

ポツリと言ったのは、一体どれ程間が空いてからだろうか。夜の闇は色を変えずにあるので、全く経過を伝えない。
手酌で並々と注ぐ隠居は何も言わず、ただ杯に落ちる清酒を見る。水滴が跳ねる柔らかい音と、立ち上る独特の香り。暗い。

「宜しかったのでしょうか」
「海老原」
「は…」
「あれをもう若とは呼ぶな」

息を吐く代わりに、隠居はまた杯を煽った。
決して軽くは無く、その口当たりは爽やかだが蓄積するものは重い。しかし微塵も酔った様子を見せず、透明な液体は体内へ姿を消してゆく。

「今はあれが、儂らの総領よ。家中を纏め、領地を導く。あれが決めたことに口は挟まぬ」
「宜しいので」
「良いも悪いもあるまい。もう疾っくに子供でもない」
「お寂しゅうございましょう」
「なに、孫は早くにくれたからな」

笑いながら、柔和な目が闇夜を這う。
年月は容赦しない。牙は折れずとも丸みを帯び、皺の深い横顔が意識を彼方遠くへ遣れば、儚げな灯火の風情となり、乾いた皮膚を風が撫でる。
だが、長く研磨された眼光は少し力を込めれば忽ちに変わる。黒玉は切っ先よりも鋭く、星の無い夜空をきつく見据えなおした。口元は緩く持ち上がり、皮肉げな笑いを投げかける。

「しかしあれも、まだまだ………見て居れ、十中八九儂の言った通りになるだろうよ」
「……それで、真に宜しいのですか、殿」
「呑め」

言いながら空には遠い杯に、更に酒を注ぐ。
杯の持ち手が、長い主従関係ゆえの独特とした視線を投げてくるが、これは時間ですら理解出来ないものである。
隠居は視線を交えない。
家臣は口をつけずに、喉を鳴らす。

「知って居られましょう。質の、加えて女の末路を。精々が磔か拷問死か…酷くすれば奴隷に与えられ、散々に嬲られて、死ぬ。…殿、お間違えなきよう、よくお考えを。あの娘は違います。よく似ているが、違う」
「そうだ。あれはただの姪だ。妙齢になり、伊達家に嫁いだ。それ以外に何がある?」
「可愛くはござりませぬか」
「お前の目には如何映る」
「…愛して居られましょう」
「ならばそれが答えだ」

海老原は黙り、初老の眸へ静かに闇を湛える。
その中に映る隠居はやはり、くどいまでに杯を煽る。

「汀の薄氷」

つと、言葉と共に杯の縁を指が滑る。
老いて荒んだ、よく似た指である。艶の無い爪に雫がついて、珠の様に代わりと光る。

「しかし奥羽の冬は、永うございまする」
「融けぬか。それもよかろう」
「…殿」
「さて」

最後の一扇ぎ、杯は空になった。
翻る言葉尻の通り、腰掛けていた身をゆらりと持ち上げる。

「そろそろ参ろう。使は何処へ通した」






長身の――恐らく腹心の部下だろう、外に居たあまり歳の変わらない若者に誘われ、義胤以下数人の供回りは廃堂の一戸に腰を押し付けていた。
何しろ、此処に到着したのが既に夜の初めである。改めてどかりと腰を落ち着けてみれば、辺りはすっかりと深夜の態となっていた。
灯りを消した板敷の上、大の男が何人も無造作に寝転がっている。その一番端に腰を落ち着けていた彼は、闇の中むっくりと起き上がり、ただ燃え尽きかけている炭の灯りに目を落としていた。
炭をくべなければ、と頭の片隅で思う一方、身体が動かない。
疲れの所為も確かにはある。だが、それよりも深く、脳の大半は思考へと余力を注ぎ込んでいた。
こういったとき、くるくるとよく働く伝馬の姿も、今は無い。伊達政宗を辞した後、厩に遣って以降、一向に姿を見かけない。
偵察か、警戒か。どちらにせよ、遠くには行っていない。余計な動きも当分は行なわないだろう。
義胤は吐きかけた溜息を、どうにか喉の手前で潰した。
あの少年は、正確に言えば忍では無い。"伝馬"という名が語るとおり、只いたく身軽なだけの、相馬家に仕える小間使いである。
無鉄砲なところもあり、言葉遣いもきちんとしているとは言いがたいが、余計な事はしない子であるはずだった。
ふう、と結局溜息は喉の関を突破して、闇の中にも白く浮かびやがり、やがて消えた。
しかし、義胤の脳を支配している思考は、伝馬のことだけではない。

「伊達政宗、か…」

従五位・美作守に叙任されるも、まだ十八、九の青年である。引き絞った弓弦のように、緊張感のある良い顔つきと、立ち姿であった。
噂に聞くどおりか。
何処か険のある、端麗な線が目につく容貌であった。くどいまでに己を誇示するあの弧月の兜を被ってこそおらずも、破天荒の象徴か、揶揄か、髷を結ってはいない色素の薄い髪が、軽く首筋に降り、動く度に毛先が踊る。視線は合わせて流れ、厳しい黒鍔の眼帯、続く顔を横に走る留紐を追い、残る片目の鋭さに戻る。
隻眼は内耳に届く風評全てを飲み込んで余り在る、なにか得体の知れなさと、次の手の見えぬ不気味さを臭わせ、静かに此方の瞳孔を突いてきた。
鋭い目だった。
だからこそ、腑に落ちない。
伊達家総領、若年者と侮るなかれ。
ここ数年、彼は飛ぶ鳥を落とす勢いで手を広げ、ひどく順調に勢力を伸ばしていった。その快進撃たるや凄まじく、如何か愚図愚図とした奥羽の戦に、まさに雷光迸らせるような衝撃を与えるに十二分であった。
実際、彼が戦に出始めてからというもの、予想もつかないことばかり起きている。
用心深く、また老獪な古参の重臣すら唸らせる、破天荒で型破りな戦ぶりは、だからこそ入念に入念を重ねた、綿密な計算と酷く理知的な思考により構成されていると見ていた。
けれど先ほどのあの口振り。
あれは一体、どうしたことだろう。
くどいようだが、確かに初対面である。家例行事はおろか、直接言葉を交わしたことも、ましてや気安い世間話なども、もってのほかの間柄。人となりを知る術は風評と戦ぶり、この二つしか存在しない。
けれど、結果と噂というものはある意味で的を射たものである。全てを鵜呑みにしていたわけでもないが、初陣かの華々しい勝利続きという事実から鑑み、聴覚のみで象った、義胤が持つ政宗の人となりというものは、もう少し網目の細かいものであった。
直接相対してみて、その思いは尚更強くなった。
あんな、無闇な言葉を考えもなしに、使う男には、見えない。

(…まぁ、これもまた憶測)

現に、彼は四倍強の兵力に、矢も立ても溜まらず真っ向勝負を挑もうとしているではないか。
父親を殺された恨みからやむなく、それは理解出来よう。若し己ならばと想像してみれば、自分とて如何動くかは理性の埒外かもしれない。
けれどそれでも彼は、いや、"彼"でなく我ら――居場所は違えど、一門を率いる立場として、人である前に、国であらねばならないのでは無いか。
亡父を思う子である前に、領民を抱える大地でなければ。
これは理屈か、と低く小さな声は宙を彷徨った。
短く自嘲の笑みを漏らせば、足元より少し離れた場所に寝転がる兵が、ごろりと寝返りを打つ。
無数の寝息は、揃ってはいないが一定。静かな夜である。
もう二刻もすれば、彼方此方に血が垂れ、矢が突き立つ地であるというのに、大気のなんと穏かなことだろう。寒いが、雪は降っていない。どこかで木菟か、梟が鳴いている。
眠らなければ。
改めてそう思い、板の壁に背を預け、本格的に目を閉じようとした、その時。
軋む音と共に戸が少し引き開けられ、人の伺う気配が伝わった。
近場にいた兵が瞬時に身を起こして前に塞がるより速く、義胤は気配の主に見当をつけていた。

「…お館」

壁になる者の、明らかにほっと安堵した気配が宙に霧散した。寒いから閉めろと身振りで示せば、夜目の利く相手は身を滑らせて後ろで引き戸を引いた。
しかし、こちらにやっては来ない。
それ程広く無い堂である。あからさまに動揺しているその気配は、あっという間に充満する。

「どうした」
「あの」

語尾を遮る速さで、今度は確りと顔を上げて声を出す。
その顔はやはり見えぬが、細い気配は深く強い動揺に打ち震えていた。

「あの、お館。おれ、信じられないんですけど、でも、さっき、本当に」
「…? どうした」
「まさか、こんなところに、……でも、本当に、本当で」
「伝馬?」

訝る声に、少年は暗闇の中歪ませた顔を縋るように大人へと向けた。

「…連れて?」

続けられた言葉を、仕舞いまでは聞いていない。
細い身を押しのけて引きあけた木戸の外は果せるかな冬の闇。踏み固めた地の雪は滑り、駆け足は常よりも遅い。
吐き出す息が視界を遮る凍夜に、厩に滞る獣も身を縮めている。覗く僅かな鼻面から漏れる呼吸は炙られて少し翻り、鼻面を撫でる静かな手付きに燻る興奮を押さえつけられていた。
濃紺の裾は夜闇の中で輝く。夜と時間は切り取られ、関節からは得体の知れない感情が噴出し、思考は止まった。

何故?






小鍔が冷たい。
まだ幾分ましだった中とは違い、しんと静まり返った夜は予想以上に冷えている。
凍え無いように分厚く着込んだ見張りの兵が、遠く、まだ柔い雪を踏締めて固めているのが見えた。
だがそれも、篝火が届く範囲を歩き回っていた内だけ。やがて濃く溜まった闇にまぎれ、見えなくなる。
不思議な幻想を見ているかのような、まるで一瞬の陽炎である。
如何にかして見透かすように、長く視線で追っていたが、ふと飽いてそれもやめてしまった。
結局彷徨う視線は、どちらを向いても白か黒。篝火は弱い。薪をくべる端から、月のない夜に喰われてゆく。
気が、昂ぶっているのがわかる。
身は疲れているのに、眠気が一向にやって来ないのがいい証である。
悶え燻り、高揚する神経を沈める為、凍てつく冷気はだから、都合が良いと思えた。肌を刺すような容赦の無さは身だけを這うには飽きたらず、蟀谷から凍みて脳髄に響く。
一番燃え燻っているのは此処かもしれないなと、篭手を外した生身の指で、凝り固まった眉間と、眸の窪みを揉んだ。
無事に残る方の目も掌で覆ってしまえば、途端に訪れるのは真の闇である。
そこいらに溢れる人は、この暗きを見たことは無いだろう。そしてこれからも、恐らく縁遠い。疱瘡に罹り、助かる方が稀なのだ。よく生き延びたものだと、今更人事のようにそう思う。
右目だけでなく、疫病の後は肌の其処彼処…それこそ、刀傷の数と同程度、醜く己の身を這っている。引き攣った肌は寄せられた絹のように少しの光で照り、日に透かせばのたうつ蚯蚓よりくねらせた曲線を見せた。
女でもあるまいし、肌や顔に傷が増えたとて、武勇伝になりこそすれ、辱などは感じない。
侮蔑や嘲笑など、最早疾うに慣れた痛みである。
畏れるものがあるとするならば、それは己の身だけである。脚さえあれば前に進め、腕があれば刀を取れる。首が繋がっていれば己の領土は安泰であるし、残る片目が無事ならば、全てのものが見渡せる。
不足は無い。肉は殻、魂は鋼か水晶か。己以外によって歪まされる類では無いのだ。
鋭利になった気配は夜を超え、昂ぶり迫る明日へと飛ぶ。
開始は夜明け。文字通り、朝日と共に敵は此方へと押し寄せるだろう。
それまでに、早く行ってしまえ。








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