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遠く、連峰の山頂に仮粧がある。
陸奥、出羽、越後を跨ぐ峻険な分水嶺の相貌は、低く垂れた曇り空の中、頂を残し黒々と聳え立つ。傍によれば木もあり谷もある恵の山岳も、距離があればただ不気味な影が映るのみ。
取り巻きのように移ろう幽かな灰雲、時折吹く寒風の中、色濃く只在るあの峰の名を、飯豊山という。
三領の国境に重石の如く身を置き、長い時の中様々な役を買って出ていた。中腹を峪沿いに伝う人間に剣呑な試練を与え、麓の民草に四季折々の糧を生む。或る時は大きな盾、或る時は強大な敵として、長い時の中その山は在る。
その連峰に関し、いつからか、こんな逸話が生まれた。
奥深く、優麗な見目に反し、その実人を寄せ付けぬ荒々しい霊山。その不可視の内実には、見たことも無いような美しい景観が広がっているという。
誰もが羨むその桃源郷はしかし、山岳に蔓延る獣たちに、固く厳重に守られている。見目は山犬の如く、だが人語を解し智慧も働く。近づく不埒物には容赦なく牙をむき、また愚かなもの全てへの見せしめ宛らに、その屍体を食いはせずただ荒らし、人通り在る麓の道端に投げ捨てる。死肉には蛆が沸き、腹は裂かれ臓物は千切られ、手足も捩られ満足では無い。その有様に恐れ戦く人々を尻目に、夜な夜な獣の遠吠えが月夜に木霊した。
何処か物悲しい、尾を引く響き。憤りと喪失を綯交ぜにした咆哮を放つ彼らは、生まれながらの獣ではなく、嘗ては人であったという。
生成る前何があったのか、彼らは最早覚えていない。只酷く飢え、酷く怨み、酷く憎く、悲しい、その慟哭だけは覚えている。心身を癒す幽谷に静かに横たわり、ただ日々が尽きるのをひっそりと待つ。身の内に燻る昂ぶりがどうにもならない時だけ、彼らは夜闇に向かい喉を振るわせるのである。
しかし、彼らの首領だけは、どのような者がなるのか、予め決められている。
小山のように大きく、疾風のように深山をかける黒い影。手足の如く無数の獣を従え、ひっそりと渓谷の深くに棲む王。幽冥なる月明かりの元、翡翠玉のように輝く目は、一つ。
飯豊山に棲まう山犬の首領には、片目で親兄弟を殺して喰ったものが成るという。






久方ぶりに外に出て、ゆっくりと息を継いでいる気がする。
しかし、美しい秋晴れは長く続かなかったようだ。
肺を満たす空気が冷たい。高く澄んでいた空は今や重く立ち込める灰雲に塗れていて、湿気を帯びる乾いた風が僅かに吹いては、足元から冷気を巻き上げてゆく。
最近は朝日も鈍く、白昼は微睡む眠り端のように淡暗い。灯りを入れない日中、室内は嵐の日のように、鬱蒼と翳り続けていた。
あの日から今日まで、慌しく米沢へ戻ったは、今までと変わらず謹慎の日々を送っている。
送る、といっても、まだあの悲劇からそれほど日は経っていない。しかし、自由は完全に無くなった。郊外のあの屋敷に居た頃より厳しく閉じ込められ、庭は勿論のこと、必要以外は自室の外に出ることも許されなかった。
この厳重さは、政宗の命がまだ生きている証だ。
鬱々と過ごす短い日々の間、耳に入る断片的な情報を補完しつつ繋ぎ合わせてみると、彼は一先ず手近の属城に輝宗の遺骸と義継の首級を運び込み、善後処置を整えている、ということだけは判った。
適切な判断だろう。まだ輝宗が身罷ったことは伏せるべきだ。二本松へと逃走した打ち漏らしの何人かによって畠山勢には知れるだろうが、それでも公表しないということで少なからずの油断を誘う筈。
季節は最早秋の盛りを過ぎ、急速に冬へと向かっている。冬季の戦は奥羽暗黙の了解で、長い間回避されてきた事柄である。吹雪最中の行軍がどれほどの危険を孕んでいるかとは、雪に閉ざされた北に住む者須らくの血肉に染み付いている。
加えて伊達勢には、春からの連戦による疲弊が強い。今ここで感情の吹き出るまま事を押し進めるなど、決してあってはならない事だ。
当たり前だが、政宗は自分などより、戦の如何をしかと心得ている。
戦国の統治だ。示威も威圧もやむを得まい。だが、私憤の戦などは何も齎さない。父親を喪った悲しみと畠山勢が篭る二本松への征服欲は、決して交わるものではなく別物であると、そう判っている筈だ。
だが何故か、胸の燻りが消えなかった。道中を急ぐ彼の横顔が脳裏に焼きついて、離れない。そして最後に見たあの様子、言葉に表し難い、あの恐怖。
そして先頃、彼は米沢へ帰ってきた。

(…きっとわたしは、何もかにもが、遅い)

踏締めた落ち葉が千千に千切れる幽かな音。白い足袋に、鼻緒よりも紅い紅葉の欠片が付着する。
掌で髪を押さえながら、は呼び出された東館から背を向けて歩いていた。
久方ぶりに相対した女の顔共々、胸の中をいくつもの感情が行き交い、また飛び退っては、ゆっくりと沈殿してゆく。
乾燥した冬の大気は呼吸する度に気管を刺激し、妙にの頭を冴えさせた。
しかしなぜか、肌寒さは感じない。
さくり、さくり、と足元が音を立てる。運びはわざと遅くし、彼女は深い呼吸を愛でるように繰り返している。
ふと、立ち止まっては、少しだけ背後を振り返ってみた。
伊達家の屋敷は須く優美である。御殿であれ、二の丸であれ、東館であれ。趣は違うが、共通するとすればその耽美な造りと、水気。立ち去った女主人の館からは、瀟洒な人口の小川が続いている。穏かなその流れに沿うようにして、色素の薄い身形の屋敷はひっそりと佇んでいた。
静かだ。
耳を澄ませても何も聞こえない。巻き上げ去る風はごく幽かで、焦げ枯れてゆく木々を揺らしはしない。
もう一度前を向けば、最早見慣れた墨と瑠璃の瓦と、白亜の城壁がぼんやりと翳んでいる。日の本には眩しいほど黄金に照った、あの大きな池も、きっと今は灰の空を映してくすんでいるのだろう。
何処も彼処も、淡暗い。
のろのろと歩みを再開し、やがて見えてきた簀子には、既に何人かの女たちが待ち構えている。辿り着き、下駄を脱いだの周りを、まるで閉塞するようにして取り囲む彼女らの顔も、一様に同じであった。

「…折が好うございましたね。あれを。今幽かに風花が」

馴染みの侍女がの髪を払いつつ、そうっと外を指し示す。少し長身の彼女の脇から、今しがた歩いてきた景色を見れば、何かが仄かに舞い落ちている。
返事の変わりにが笑みを返せば、彼女も曖昧に笑い返し、すっと一歩を退いた。
それを合図に、は前へと一歩を踏み出す。
女たちが静かに後へ倣う、一定の歩調と、無言の空気。
落花のような雪と、流れ行く水を見た泡影。無音の中、五感は妙に冴え、ぐるりを囲う侍女の呼吸や心音さえ錯覚する。
やがて、角部屋が見えてきた。障子は開け放されたままで、が入れば即座にぱたりと閉じられる。
女たちが次の間で止まり、奥の固い冬障子をも閉め終えると、しんしんと深まってゆく冬の気配だけが身を覆う。
室内を宛ても無く彷徨いかけた視点がふと一点を捕らえ、止まった。端の方にひっそりと、出た時にはなかったものがある。
よくよく確認すれば、葛篭である。あの屋敷から運び込まれたのだろう。見たところ開けて整理はされていないようだが、もう既に空なのかもしれない。ひっそりと鎮座する見目は重そうにも、軽そうにも見えた。
細い吐息が白く宙に舞う。膝を着き、少し気を抜いてしまえば、予想外に消耗していることが身に沁みた。
肩がずんと重く、そしてようやっと、少し肌寒い。
身が震える。脳裏に鮮やかに焼き付けられた姿を思えば、胸は鋼に締め付けられたように、痛む。
言葉を交わす機会は無かった。
帰還の際、出迎えに居並ぶ諸侯の中に、実母も、もいた。大衆の面前であるから、静かに傅く面々に城主がわざわざ声をかける事はしない。それは当たり前だと、わかっていた。
面を上げたの前を、城主は泳ぐように横切った。
それきり、彼の事は耳に入ってこない。
城内は不気味に静かとなった。
だが皆は眠るようにひっそりとしているのではない。何か得体の知れないものが、城の丹田にてとぐろを巻いていて、それが威圧を振りまき、重々しく口を閉ざさせているのだ。
緩慢な屈服に、憂鬱な思慕。けれど采配を振るう彼が沈黙している。誰も、何も言えまい。
もし、言えるとしたら、それは。
噛み締めた唇に鈍い痛みが走る。沈黙の中にいれば、静かな女の声が何度も耳に蘇ってくる。
これまで相対したのは、殆どが公務と呼べる公の場のみである。回数としては多くも無いが、少なくも無い。しかし、何度見てもその姿は飽きる事無い。
寡婦の装いは華美とは程遠かった。顔色も優れず、身に蓄積された年月も容赦はなかった。しかし、色の乏しい周囲を他所に、小さな顔はまるで極彩色のように、くっきりと周囲を駆逐する。見たくも無いのに、釘付けてしまう。よく似ているのだ、本当に。
もう一度が息を吸い込んだ、その時だった。

「―――姫様」

何の間違いだろうか。
突如響いたのは低く深い、少し錆びた男の声。は目を開いて、素早く声が上がった襖を振り仰いだ。
昼であるはずなのに、空は厚い雲に遮られているため、そうでなくとも薄暗い室内は僅かな光も差し込まない。見えない人影に返事を返そうとして、止めた。ただじっと、相手の次の言葉を待つ。
息を潜めて様子を窺うに、何某かは微笑を漏らした。

「突然の御無礼お許しくださりませ。お話があって参りました」
「……何方です」
「留守居のものにござります」

驚かせてしまい、申し訳ありませぬ。
男が静かに頭を垂れた気配がする。
所作は静かで、一見するところ悪意は無い。しかし、本意が見えない。

「お話とは、一体」
「まずは、お招き下さりませぬか。誓って無礼は致しませぬ」
「…外のものは何処へ」
「下がらせました。ですが強く呼べばすぐにでも」
「……何故」
「どうか」

老齢な口振りである。穏かだが、決して軟弱ではない。その気になれば紙障子一枚。横手に引けば押し入れるのに、未だ男は畏まっている。飽く迄もが開けるまで、待つつもりであろう。
やがて彼女は溜めたままだった息をしみじみと吐いた。目を細めて立ち上がり、躊躇を殺し、すらりと襖を開け放つ。
淡い影は実態となり、眼下にて静かに端坐していた。声のとおり、壮年を少し過ぎた趣である。紺絣に博多帯を締め、上品だが地味な出で立ち。きっちりと結った髪は僅かに白いものが混じり、艶もあまり無かった。

「どうぞ、お入り下さいませ。そこは冷えますから」

そう言って彼女は踵を返し、奥座敷へと戻っていった。白磁に青絵付けの火鉢に茶瓶が載り、湯気が止め処なくだが微かに漏れ出でている。
布越しに掴んで茶を淹れ、ゆっくりと取って返すと、男は僅かに頭を傾けたまま、入り口からそう遠くない位置に畏まっていた。

「お寒いでしょう、もっと奥へ」
「いえ、此方で」

淑やかに固辞する男を一瞥し、は僅かに嘆息しながら近寄り、湯飲みを置いた。丁寧に返礼する彼の、少し離れた正面に座る。
白く、朝霧のような湯気がゆったりと漂う。部屋の外に人の気配や物音はなく、ただ深々と静まり返っている。本当に女たちは去ったようだ。常には一人二人、決しての傍を離れないのに。
城主の言いつけをも一先ずは退ける、目の前の男はつまりそういう者である。
微かな恐怖を胸に抱くの前、男が湯飲みを脇に除け、警戒する彼女に目を向けた。

「お久しゅうございますな。私を覚えては居られませぬか」
「……どちらで?」

目を上げないままのに向け、男は柔和に微笑んだ。

「もうすぐ、一年になりましょうか。牡丹雪が多く、それでも軽く舞う、美しい雪の夜でありました。ですがそれ以上に尚、貴女様は儚く、美しかった」
「………」
「艶弾く黒髪は豊かに結い上げられ、綿帽子に隠されていてもよく目に付きました。白無垢の裾が棚引けば切ない溜息のよう、錦糸の帯を捧げ持った女の童が見上げるその羨望までも軽くあしらって、粛々と進む様はいかさま天女の如く………しかし何より、私は貴女の眸に惹かれた。上質の墨を流したように輝いているのに、その眼差しには夜の海の得体無さと、暗闇で見る鏡の深い静けさがある。硬質だが柔で、気怠るげだが思慮深い、その壮絶さに」

が湯飲みを置き、顔を上げた。小さな顔には濃い翳りがある。

「目を瞑れば今でも浮かぶ、夢の如き一夜でした。貴女をお守りした米沢までの道程、この基信の誇りに致します」
「……覚えております。…いえ、思い出しました。そのお声、迎えの儀に馳せ参じてくださった方」
「嬉しゅうござりまする」
「何の御用でしょうか」

前置きは止めろと言いたげに、が鋭く静かに言う。
しかしそれでも基信と名乗った男はしなやかに笑い、一度口を閉じた。ゆっくりと瞬きする初老の顔を見据えても、まるで効果なく時が過ぎる。
本題を切り出さないとは、つまり碌な事ではないのだろう。がまた視線を下げ俯いた。湯呑の中、緑濃い煎茶が僅かに揺れ、円の縁を行ったり来たりと波紋を描いている。

「ご帰還を、心より御慶び申し上げまする。城下の暮らしは何かと不自由でございましたでしょう」
「…いいえ。よくして頂きました。緑濃く豊かな中、人々も穏かで優しく……何より、自由がありましたから」

男は動じる風無く、すいと運び込まれたばかりの葛篭を見る。

「荷も無事に着いたようでございますな。不足の検分は粗方?」
「さあ…、元より必要なものなどそうありませぬ故、要らぬ苦労をかけただけやもしれぬ、と」
「そう仰らず。今や匕首は大殿の形見となりましょう」

今度こそ、が素早く顔を上げた。僅かに身を引き、右手で袷を握る。
彼は彼女を怯えさせぬよう、再び酷くゆっくりと傅いた。

「どうか、心静かにお聞きくださいませ。無粋な真似は誓って致しませぬ」
「何故、あなたがあれをご存知なのです、どうして」
「お静まりを…人が来れば凡て闇の中。それでもよろしゅうござりまするか?」
「お答え下さい、何故」
「心得ております。どうか」

淡々と諭す静かな声。無意味に唇を開閉する長い逡巡の後、はぎゅっと唇を引き結び、反らした背を正して、未だ冷える手を重ねて腿の上に置いた。怯えの色濃い小さな顔の中、瞳だけが苛烈に基信を見据える。
その強い眼差しを、途方も無くやさしく受け止めるなり、基信は彼女に負けず劣らず、面を厳しく改めた。

「今からお話することは、凡て私の独断でございます。大殿が思い、貴女に伝わらなかったことを、せめて少しでもと」
「大殿の…?」
「ええ。少し、出遅れてしまったようですが」

忠臣の語尾は低く漏れる。
目を眇めるに、彼は改めて口を開いた。

「姫様は、荷の中にあれを見つけたとき、どうお思いになられました」
「それは…」
「構わず、仰って下さい」
「……何時かは、己へ向けろと、仰せられたのかと」

うっすらと視線を下げ、固い声を出すの顔を見るなり、基信が少し眉根を下げ、頷く。

「そうでありましょうな。荷の底にひっそりと紛れ込まされた懐剣、刻まれた紋は伊達家家紋……据えられた御立場を鑑みれば、刃は雄弁に死を語りましょう」

平静な表情はそのままに、組んだ細い指にぎゅっと力が篭められる。青白くなるその先を見つめながら、基信は少し身を乗り出した。

「しかし、それは誤解でございます。あれは貴女様の身のために、わざわざ輝宗公が用意されたもの」
「まさか」
「御手にとって見られましたか? 随分と小さく、軽かったでしょう。白木に鋼では細腕に扱いきれぬと、わざわざ漆の柄に変えさせて、刃も薄く細くと、随分削りました。鍔競には決して向きませぬが、急場を凌ぐ凶器であれば、またとありませぬ」

顔を上げたの瞳が刹那泳いだ。もし事実であれば重く、縦しんば狂言であっても、今更このような事を告げられる意図も、厚意の意味も読めない。

「わたしは家柄故、確かに多少馬は扱えます。けれどそれも、殿方に比べれば矮小なもの。武具など頂きましても、どのように握ればよいかすら判りませぬ。扱えぬもので、一体何をせよと仰られますのか」
「気づいておられましょうや…、大殿が仰ったでしょうから、私は多くを言いますまい。ただ、貴女様のお立場は今尚酷く難しい。…口にし難い声があるのも、御耳には届いておられるはず」
「…存じております。ですが、それは務め」

使えぬ、孕まぬは最早飽くほど浴びせられた言葉である。恵みも利点も無い妾の存在はまさに白衣の染み。凪いだ一枚布の中に、ポツリと描かれた異質である。伊達家古参の家臣団は元来相馬方を厭うきらいもあってか、いっそ夙に排他せよ、との声が上がるのも道理だ。
その声を全て凝縮し、また研磨して、あの時伊達輝宗は口にしたのだろう。
大殿、という言葉を聞くたび、茜空や血飛沫で、赤一色だったあの日を思い出す。誰の身にも等しく降りる夜の帳が塗り潰したその後であっても、眼窩にはちらちらと、燃えるような緋色が残った。
時が途絶えてしまった相好、陽落ち間際の畳井草の匂い。互いに会したのは気を抜けない場面ばかり。
その強烈な印象は交互に脳内を駆け巡り、臓腑の底に重苦しい何かが沈殿する。

「波紋を呼ぶと判っていながら、どうしてわたしをお側へ上げられたのです。口を割らねど手討にも為さらない。相馬如き、小大名如きと侮られるならば、そもそもなぜわたしなど」
「我らの殿が欲されたから」

穏やかだった男の顔が、ふときらきらと精彩を増した。から少し視線をはずし、懐かしむように何処かを見る。

「詳しい経緯は少なからず聞き及んでおります。御二方でどのような取り決めがあるのかは存じませぬが、未だその件は保留であるとも。…ですが我々には、正直取るに足らぬこと。藤次郎様が欲した、それだけで我ら…大殿も、私も、皆は納得しましょう」
「伊達の、頭領であるから」
「いいえ、大殿の御子息であらせられるから」

の部屋は珍しく締め切られている。謹慎中に加え、外を見る気にはどうしてもなれない彼女の心を表すかのように、襖は頑強に日の光を通さない。だが遠藤基信は暖かいものでも見るように無心に視線を注ぎ、蜜色の木枠と静謐な障子紙の対比を眺める。

「あの御二方が、我らは好きでした。なまじ誇り高い武門の家に生まれたばかりに、表立って感情を顕にする事はありませんでしたが………それでも確かに、慈しみ合っておられた。それを見守るのが、好きだったのです」

乾いた頬を一筋だけの雫が伝う。顎先を伝い、穏かに畳に落ちた。ポタリという幽かな音が静かな部屋に反響する。水音は身を震わせる。

「不思議でありますな。貴女と居るときの藤次郎様も、何処か同じでござりました。惣領たらんとした強張りを取り去って、まるでただ一人の若者の如く…伸び伸びとした、良い顔をなさっておられた。だから大殿は、無いよりはましとあれを忍ばせ、胡乱な城内からせめてと遠ざけて、貴女を守ろうとした。その先にある、藤次郎様を守るべく」

それ以上は泣かずに、男は柔らく微笑んで、またを見た。

「お判りになりますか」

年輪による皺に埋没する、草臥れた瞳。感情が欲するままに出でた雫に縁取られ、濡れて赤い、澄んだ眼だった。

「大殿は死に、貴女は生きた。私はそれが少し、憎いのやも知れません」
「……あ…」
「言上はこれにて。凡て私の勝手で行ったことゆえ、この事はくれぐれも、他言なされませぬよう」

の言葉は遮り、男は深く頭を下げたまま一度固まり、立ち上がった。軽い身のこなしは歴戦の兵然とした威風あるものだったが、向けた背からは何も感じられない。張った肩は広く頼もしいが、立ち上る生気が端から霧散し消えてゆく。
が堪らず立ち上がった。

「お待ち下さい基信殿、あなたまさか…」
様」

背を向けたまま、発せられた声は錆びて、しかし淡々と紡がれた。喉で空気を下し、何度も唇を開閉する気配。

「御家に戻られるのであれば今こそ。家中の誰も御止め致しませぬ。…子の刻に、搦手門前へお越し下さい。宿直の侍女には言い含め、信のあるものを置いておきましょう」
「っあなたはどうなされるのですか」
「………」
「基信殿!」

堪らず、が濃紺の腕を掴んだ。鍛え抜かれた筋の感触に、なぜか枯れ木を垣間見る。

「妙なお考えはおやめ下さい。わたしは何処にも行きませぬ、あなたもです」

仰ぎ見た男の視線は頑なで、にちらとも返らない。彼女は尚も縋るように堅い腕を引く。

「わたしが憎ければ如何してお逃しになるのです、殿がお好きだからでしょう? そのあなたが、何故短慮など」
「…短慮ではございませぬ」
「では勘違いです。そんなもの、何の役にも立たない。今成すべき事をしかと見据えれば、あなたの忠節は」

いきり立つの口を、ふと大きな手が覆った。

「聡い方。けれど以上は申されますな。…あなたにも、覚えはあるはず」

瞠目する瑞々しい黒瞳を静かに眺める。基信はもう一度何事かを上らせかけたが、それは敢えてと口にせず、飲み込んだ。
代わりに、廊下方に朗々と声を張る。

「誰か、誰か居らぬか!」
「…っ何を」

口元の手を払い、驚きに声をあげるの耳に、慌しい足音が近づいてくる。
基信の笑みを狼狽えたまま見つめていれば、堅く閉ざされていた襖が開いた。

「何事でございます」
「典医を呼べ、御内儀様が取り乱しておられる」
「っ基信殿!?」

ぎょっとして基信を仰ぎ見るを見て、女たちは真実味を嗅ぎ取ったのだろうか。
細い腕が何本も伸び、すぐさま身に絡められる。

「凶事の所為で、御心が定まらぬのだ。安静にすれば直に落ち着かれる。褥を用意し、一刻ほどは目を離されませぬよう」
「畏まりまして。さぁ、様」
「違います、わたしは……っお待ち下さい基信殿!」
「それでは、御前失礼致しまする。…どうかお健やかで」

やさしいが容赦ない力がを押し込める前、基信は堅く頭を下げ、踵を返した。
背後から何度も名を呼ぶ声が聞こえる。後ろ手に襖を閉めても、の声が黒木の床にまだ反響していた。
正午を過ぎてすぐだと言うのに、廊下の果ては墨を流したかのように滔々と暗い。吹きすさぶ風が障子を揺らし、がたがたと騒ぐ隙間から見えたのは、ちらつく雪を吐き出す灰雲のみだった。






夜になった。
だから、灯篭は確かに燈っているのだ。
ちろちろと揺れて壁の木目を蠢かすのに、室内は重く、暗い。居並ぶ人々の呼吸は憚られ、びゅうびゅうと木霊する木枯らしだけが喧しい。
群議とは名ばかりであった。結論は既に決まっており、それに対する遅疑も執成しも、全ては雪深い闇に帰す。冷気であるのに、熱量を食んだかのような激怒は人前では昂ぶらず、また冷めない。
いや、実際、昂ぶっているのだ。昂ぶりすぎて、その面は蒼白で、声音は平静。腹の中だけで、憎しみすら八つ裂きにしている。
怒れる独眼竜から漏れる声は整っていた。だが、決して穏かではなかった。
茫洋たる大広間に、残り居座るのは屈強な戦士ばかり。その顔は全て、深い困惑と焦燥に色濃く縁取られていた。

「…どうする」

胡座をかいて腕を組んだ成実が、固い顔で小十郎に訊く。
原田宗時はちらとそれを見たが、一度だけ迷う素振りを見せたのち、礼をして座を立った。律儀な性格である。与えられた命を忠実にこなすつもりなのだろう。
小十郎はじっと、先ほど上座から去った影の後を見送っていた。渦を巻いて立ち上る、だが乾いた冬の夜気は温度以上に冷たい。
議は予想より早く締め括られた。後を拭う磬の声は淡々と一同の身に振り、やがて消えた。発した主も居住へ下がり、もう見えない。
しかし小十郎は、まるで未だ縫いとめるように視線を固定して、塗り込められた闇の先を見ていた。
やがて、乾いた唇がすっと細く息をする。

「腹を括るしかあるまい」
「俺が言いたいのはそっちじゃない。腹なんか、元より括ってるさ。でも、お前はそれでいいのか」
「…よいものか」

未だ脳裏に、鮮やか過ぎる光景がある。

「けれど我々は撃った。撃てと仰せになられたまま、慈しむべき、尊むべき御身に鉛の玉を中て込んだ………殿の命でな」

彼は俯かずに前ばかりを見ている。
成実はその横顔を見れず、死んだように静まり返る座を、改めて眺めた。

「疏明ではなく、理由だ。ならば俺は何処までも行くさ」
「小十郎」
「お前は違うか、成実」

違わない。違わないから、ここにいるのだ。
諸侯が、もう少しだけ減ってしまっていることに、誰も彼もが気づいているだろう。瓦解は散華よりも早い。
そしてそれ以上早く、深く長い、冬が迫る。
出来ることなら、春を待ちたかった。昂ぶりが覚め、冷静さを持ち、哀愁と瞑目でのち、墓前に花を添えるが誰の目にも最良である。
しかし、それら全てをわかった上で、あの主が往くと言うのならば、もう答えは決まっている。
成実は何度か無言で頷いた。浅く、深く、何度も何度も。

「田村、相馬から早馬が帰り次第、出る」

言えば、小十郎が頤を引いて頷いた。

「ああ」
「天候次第だけど…合流までには言われたとおり掻き集める。状況は折々文で知らせるから、お前は」

彼は此処に来て初めて俯いた。

「……いや、なんでもない」
「なんだ」
「いい。忘れてくれ。……縁起でもない」

そういって、音も立たせずに彼は立った。ゆらりと動く影に、集まった一同も自然項垂れていた顔を上げる。
行灯の灯が大きな影を作って、足元ごとゆらゆらと揺らすかのようだ。
促した何人かを引き連れて、精兵は主と同じく闇に消えた。






更に夜は深ける。
弛緩した身体を横たえたまま、もう長いこと天井の格子をぼんやり眺めている。
闇に慣れた目は、繊細に組まれた木枠の翳りと、忍び寄る夜の違いすら見分けた。角に溜まる濃密な黒と、宙に漂う静かな紺は、昼の暗雲を凡て塗りつぶし立ち込めている。
耳を澄ませば人の気配。しかし、どこか遠い。時折遠く小さな行灯がちらつくが、宿直の誰かが行き来しているのだろう。
冬の闇はただ深々と積もる。
冷えた五指それぞれを動かせば、浮腫んだ関節が僅かに痛んだ。
ゆっくりと、起き上がる。
貝殻骨が二の腕と連動して悲鳴をあげ、背筋を正す邪魔をする。投げ出していた足を揃え、申し訳程度に被っていた上掛けを刎ねる。眼に落ちかかる髪を捻り、纏めて、縛った。顕になった首筋を掴み、一つ大きく呼吸をする。
きっちりと締め切っている筈なのに、何処からとも無く冷気が漂い、吹き込んでくる。北の地といえど今この時期の降雪は随分早い。初雪ながら吹雪になる気配を見せ、舞いながら辺りを染め替えてゆく。
灯りをつけておらず、ただ防寒にと置かれた火鉢の炭だけが明るい。浩々と燃える先端は陽に当てた柘榴石のようだ。濃恢が満ちる夜の中、身を灰に変え悶えるそれを見つめていたが、やがて立ち上がり、襖を開いた。
宿直の侍女が確かに姿を消している。馴染みの彼女は、先ほどまで確かに傍にいた。先ほど、押さえつける柔な腕を全て下がらせる時も、彼女の口添えが力となった。その後も、ひとりになりたいという我侭をなるたけ聞いてくれた、あの無言の視線は、だからあれほど静かだったのだろうか。
此処は、この部屋は、言うなれば鳥籠であり、巣である。
抜け出さない限り、自由は無くとも、安息は約束されているのである。
この部屋を出ることがどういうことか、判らぬ彼女ではない。けれど、走らなければならないのもまた、彼女である。
―――今からでも、きっと遅くない。
凍える身を一度抱き、目を閉じて大きく呼吸する。
漏れる吐息だけが暖かい、もう真冬の、真夜中である。
なるべく音を立てぬように畳上を歩き、廊下方の障子を開く。暗い。しかし雪の所為か、何処か青くもある闇である。
灯りを持てば元も子もない。だから彼女は暫く、開け放した障子から顔だけを少し出し、まずはあたりの闇に慣れようと努めていた。部屋の中と外ではやはり差がある。
時間が掛かるかとも思ったが、元々夜目の利く瞳孔は、思っていたよりもすぐ順応した。ぼんやりとだが、馴染んだ廊下の形が映る。
一度辺りを伺って、部屋を出た。
足早に黒木廊下を擦る様に進む。
運良く、誰にも会わない。その辺りも、あの初老の家臣が慮っているのだろうか。
ますます急く心は足先へ伝わり、歩みは駈足に変わる。
直、果てに渡廊が見えた。
まずあれを越えれば――

「何処行く気だ」
「っ!?」

竦んだ足が絡まり、たたらを踏んだの腕を誰かが掴んだ。危うく転びそうになる人一人を、片手で掴んで引っ立てる。
驚きに眼を見開く彼女の前、独眼は闇の中にて薄く裂けた肉のように光る。
掴んだ腕を離さず、彼は空いた手で煙管を口へと運んでいる。棚引く白い靄は吐息か、煙か。幽かな麝香の匂いが呆然とするの鼻腔を刺し貫いた。

「…殿…?」

恐る恐る、やっとが口を開いた。だが彼は何も言わず、壁に背を預けたまま気だるげに呼吸を繰り返し、体は半ば闇に埋没している。
久しぶりに見る。
帰還以後、本当に久しぶりに。
確りと言葉を交わしたのは、あの忌まわしい日以来である。
そう思った途端、彼女の全身を鈍い針が貫いた。
重苦しい空気が肺に溜まる。
目の前の青年は父を喪ったばかりの、若き総領なのだ。
は自然、一度深く呼吸をしていた。

「なぜ……あの、このような処で、一体…」
「それを、俺が訊いてんだ」

自失していたは、その言葉にはっと我が身を省みた。漸うと本来の目的を思い出した唇が綻び、安堵の溜息が漏れる。
彼女は、どうにかして彼の元へ赴こうとしていたのだ。
迷って迷って、それでもやはり、捨て置けない気持ちが勝ってしまった。出過ぎたことをしているという自覚はある。けれど、見て見ぬ振りはどうしても出来ない。それを愚かだと知りながら、棄てきれぬ自分を呪いながら、彼女は安息を約束された部屋を出、走ったのだ。
だが一度そうと決めても、やはり最愛の対象を失ったばかりの人間に会う覚悟は、あまり用意できずにいた。こうしていざ相対せば、目的を為せる満足はあっても、背中にうっすらと冷や汗が浮く。
気後れしながらも、は一度喉を鳴らして間を置いたのち、縋るように改めて政宗を見上げた。
隻眼もごく静かに、彼女を見下ろしている。

「実は、あの…、わたし」
「帰る気だったか」

再び目を見開く彼女の前。
間近にある、黒唾の眼帯がこれほど目を惹いた事は今までに無い。それほど、残る彼の眼窩は落ち窪み、それでいてギラギラと泥濘んでいる。
すう、と大きく息を吸い、肺を満たす。次いで線を描くように煙を漏らす口元が少し吊り上がる。

「子の刻、搦手……、ちいとばかり、遅ぇな」
「…何故それを」

色を失くし、僅かに怯えだす彼女に返答はなかった。
壁から背を浮かしたかと思えば、獣のように敏捷に竜は歩を進めだす。無論、彼女の腕を掴んだままで。
次いでの様に後ろへ煙管を放る。磨かれた木床に硬い金属音が響き、上げかけた抗議の声は飲み込まれた。
容赦ないその足運びに、彼女はまるで引き摺られるように腕を引かれていた。
痛い。
肩が外れるかと思うほど、容赦無い力でぐいぐいと前へ持っていかれる。
握られた部位も指がきつく食い込み、分厚い掌が千切らんばかりに巻きついている。

「……っ…」

噛み締めた唇から唸るような声が漏れるが、政宗は気づかないのか、気にすらしていないのか、捌く足元の速度も、握る腕の強さも、何一つ変えようとはしない。
腕を引かれたのは初めてではない。あの時も確かに痛かった。手首に回された長い指の痕がうっすらと桃色になり残った。けれどあれはすぐ消えた。我慢が出来ない程ではなかったのだ。
あの時、政宗は一応加減していたのだろう。
そして今は、何一つ。
爪先や指先から、恐怖で感覚が無くなってゆく。
全身の骨が強張り、上手く体が動かせなくなった彼女を気づいているだろうに、伊達政宗は振り返る事無く、また苛烈な歩みも止めなかった。
何回も角を曲がり、幾つかの部屋を過ぎた。
やがて、一際奥、一層闇濃い箇所に辿り着く。
彼は固く閉じていた襖に手を掛け、無造作に開き、次の間を通り越して、更に奥へ進む。
すぐに現れたのは簡素な空間だった。
端から端が遠い室内の床は廊下と同じ設えの黒木のみ。畳は敷いておらず、直に寝屋の用意がある。欄間の彫りだけがせめてと豪華で、不必要な装飾や備品の類も無い。文机の曲線に読み途中の巻物が絡まり、茜色の留紐が床にまで垂れている。
部屋に入り、漸く政宗の歩みが止まった。
そうかと思えば、混乱の極みにいる彼女の腕を身体ごと前へ引き、無造作に放り投げる。

「っ!」

為す術無く無様に床へと身体を打ち付け、倒れこむを、隻眼は立ったまま見下ろした。

「帰る気だったか」

痛みに顔を顰め、それでも説明を求めて顔を上げた彼女の先を制し、冷えた声が室内に響く。

「帰れるとでも、思ったか」

狼狽えた大きな目を見開きながら、は懸命に頭を振った。

「ちが……っ違います、わたしは殿に、基信殿を」
「死んだ」
「……………え…?」

わんわんと、耳鳴りがする。
青年は一歩に近づき、もう一度平素な声で唇を動かす。

「伊達家宿老、遠藤基信他三名、資福寺にて追い腹を切ったと。先刻息子が知らせに来た」
「嘘……」
「如何して嘘だと思う? お前には告げに行ったんだろ」

そんなことも、知っているのか。
面に表れたのだろう。を見下ろす彼の口元から、か細い吐息が白く上がった。

「自覚はしてると思ってたがな。お前にゃいつも、俺の草が張り付いてんだよ……蟄居中は兎も角な」
「なら、なら何故! 何故御止めにならなか――」

最後まで言えなかった。
ふっと体が宙に浮いたかと思えば、床へと強かに叩きつけられた。後頭部を打ち、目に光が走る。
遅れて痛む背中より、押さえつけられた肩が悲鳴を上げる。

「何故?」

歯を食いしばって耐える彼女を物のように見下ろして、竜は手に一層力を篭める。

「決まってんだろ。気概のねぇ奴なんざ、必要無い」
「そんっ…」
「お前だってそうだ」

ぎちりと音がして、指がきつく肩に食い込む。

「お前は俺に、その目で、その口で、家のために生きるといったな。違うか」

あまりに強烈なその視線には少し、呼吸を忘れる。
痛みと混乱で顔を歪めるの両肩を改めて強く掴みなおし、吊り上がる瞳と共に大声で凄んだ。

「家に殉じる気概があるなら、目も耳も閉じてただ這い蹲ってろ!!」
「っ……!」

恐怖で、目を瞑ることもできない。
怒りでも悲しみでも無い、ただ欄と憎悪に燃える瞳がの双眸を容赦なく射る。
何が起こっているのかわからない。
だが、彼が、何に、憤っているのかならば、何処と無くわかる気がする。

「帰るだと? ふざけんのも大概にしろよ。お前の役目はなんだ。お前の立場はなんだ。お前の意味はなんなんだ!!」
「殿…」
「答えろ!!」

叫べば、身体の下にいるが改めて顔を上げた。恐怖に歪み、動揺に包まれた、蒼白な顔である。
だが目は違った。人を飲み込むあの黒い目が媚びず、折れずに竜を貫く。
その眼底が宿す色は、まごうことなき憐憫であった。
喉で喘ぐ彼女を憎々しげに一瞥してから、政宗は乱暴にまたを床へと叩きつけた。
素肌が木床とぶつかる音。髪を乱し、緊張のあまり咳き込む彼女を見下ろして、政宗は歯噛みしつつも静かに呼吸していた。
諍いが止めば、夜は再び雪闇に呑まれる。
閉じきった室内は景色を伝えない。只の荒い呼吸音と、びょうびょうと木霊する風の音に、重く舞い積もる雪の気配が載り、這い上がる寒さが異常なまでに早い冬の到来を不気味に炙り上げる。
誰かがこの雪を、考子の至情の顕れと言った。
天が味方し、空が泣いているのだと。

「…お怒りはご尤もでございます」

伏せた顔のまま、が言った。

「役目を決めたのはわたし、立場を頂いたのは御家。意味は、殿がお決めになる事。…出過ぎた真似を致しました」

投げ出された四肢を常のようにきちんと揃えもせず、髪に隠された小さな顔がそれでもはっきりと声を出す。
闇の中、その身が幽かながら、震えているのがわかる。
隻眼はじっと、仄かに浮かび上がる女の身体を見下ろしていた。

「俺も、お前に言ったな」

痛みに顔を歪めるを射殺すように睨め付けて、政宗は静かに虚ろに、冷たく零した。

「待つつもりは無いが、待ってやる。だからいつか、全てを話せと」

返答は無い。

「ここいらが限度だ。…お前の意味を成せ」

間は、一呼吸だけあった。
の肩が大きく揺れた。深く息を吸い、吐く。

「お断りします」
「…何だと?」
「厭だと申しました」

闇の中にまた白い顔が現れた。見上げる瞳と見下ろす瞳が静かにぶつかる。
呼吸が細く長く色付き、僅かに闇を破る。無為に繰り返される摂理が、規則正しく両者の間を縫う。
政宗が立ち上がったまま、腰に手を遣った。彼は武装を簡易に解いたままの出で立ちであり、帯剣こそ無いものの、あの青い陣羽織を着込んでいる。
彼の心は今、戦場にいるときとさして変わらない。

「なら抱えてやる義理は無い」

抑揚の無い声はやはり白く吐き出される。

「お前は死ぬぞ」
「結構です」
「………」
「必要ないのであれば、構いません。わたしが何の覚悟も無しに、口にしたとお思いですか」

言葉とは裏腹に、隻眼に見下ろされる心はやはり移ろって冷え、果てしなかい。
だが視線は決して逸らさない。

「吐け」
「…あの時、殿はわたしに何と仰いました」
「吐け」
「手前勝手なわたしの言葉に、それでも待つと言って下さった。交わした誓いを守って、自分を失望させるなと。…わたしはそれに頷いた。ならば殉じなければなりません」
「…これが最後だ。吐け」

が目を眇めた。眉尻を下げ、哀れむように見上げる。

「お断りします」

語尾を攫う速さで横面を張られた。
乾いた音が板の間に反響する。頬が焼けるように熱い。切れた唇に血の味がして、眼底に火花が残る。

「…相馬でものを言うなら、俺も伊達で返してやる」
「………」
「片目の鬼は女子供でも容赦はしない。ただ呼吸するだけの木偶の坊なら、お前の五体、切り刻んで小高に送りつけてやる。首はあの畜生の横に晒す。同じように目ん玉抉って、鼻も耳も削いでな」

捨て置けない台詞が耳に届いた。
が傾いだ頭を起こし、政宗を見る。
闇が彼を覆っている。顔の凹凸に、色濃く影が溜まっている。

「…畠山殿の、首級」
「今頃腐って落ちてる、か。五体も同じだ。あっちは藤蔓で繋いだから、まだ多少残ってるかもしれねぇな」
「梟首を!」

愕然とした叫びに、彼は昏く幽かに口元を歪め返すだけ。
は俄かに腫れた頬を庇いすらせず、胸を掻き毟られる思いのまま政宗を見上げる。

「二本松殿にお返しになられる為に、その為に、わたしに清められる事をお許し下さったのではなかったのですか」
「お前が勝手にやったんだ。俺には関係ない」
「な…っ」
「宣誓だ。あれと同じように、一族郎党皆殺しにしてやる」
「国王丸君はまだ十二でございますよ!」
「それがどうした。餓鬼だろうが、何だろうが、俺が殺す」

そう言い切った目の前の顔と、息せき切って先を急いだ、あの道中の横顔が合わさる。
彼はあの時、面に血を上らせなかった。事情を聞き急いた時を過ぎれば、むしろその顔は血の気が引き、真っ白だったのだ。
二の句を告ぐ前、胸倉を勢いよく掴み上げられた。
つい鼻先に男の顔がある。

「殺してやる」

恐怖や躊躇が無いわけではない。寧ろ、有余っている。自分も人だ。どれ程惨めに見えても、生に対する執着は止め処ない。
今だってそう。寒風にも勝る悪寒が、ずっと全身を貫いている。
その象徴、震える指先を持ち上げて、が政宗の肩に触れた。

「ごめんなさい」

厚い肩を華奢な指が握る。本人は渾身の力を込めているつもりでも、その感触は只触れたような軽さであった。
伊達政宗のこの肩の、この身の中は、荒れ狂う吹雪よりも惨憺としているのだろう。

「…悲しいですね」

だがのこの指にだって、血よりも強く、覚悟があるのだ。
鈍い瞬きののち、彼女は少し俯いた。
もう一度強く指先に力を込め、やがてひっそりと力を抜く。
指先からゆっくりと生気が失せ、肩から床へ腕は落ちる。真黒いあの瞳は伏せられ、隠れた。白皙の肌に陰が降りる。
僅かな血に彩られた、木蓮の如く淡い色合いの唇が、ひっそりと最後の息を吐いた。

「申し訳ありません。…只の獣に話すことなど、やはりわたしには有りません」

言い終えてのち、は胸倉を掴まれたまま項垂れて、静かに頸を差し出した。
その不屈の許容のまま、雪より少しだけ色があるような、白く、長い項が顕になる。
乱れたままの髪が、肩から脇へするすると滑り落ちてゆく。
一体何処の光を拾うのか、濡れたような黒髪は動きにあわせやはり照った。
強く掴めば指に絡む。強く引けば容易く千切れた。
持ち上げたくせに身体ごと倒れこむ黒木の床。華奢な身の下に、長い髪が広がる。だがもう見えない。








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 折角なんで暫く黙ります(遅くなってスイマセ!)