09






伊達軍の規律は、厳しい様でいてその実寛大だ。構成が若年性の傾向にある所為か風紀は乱れやすいのだが、政宗は敢えて雁字搦めを避けている。
協調性は無いが自立性に欠ける若さの典型は、野放しにされると反って戸惑い大人しくなってしまう。だがかといって縛り付けてみると、今度は反抗心が表面に浮き出し、結果として統率の行き届かない荒くれ集団と化してしまう。
両極端な性質は表裏一体。しかしその微妙で繊細なさじ加減を政宗は担い、若年による経験不足を生来の気質と機敏さで補い、熟しているのだ。
凡そ、気持ちが判る分もあるのだろう。飴と鞭のぎりぎりの線上で適度に縛り、後は好きにさせると彼らは機嫌よく発布された法を守った。
よって政宗が出立前、の新居を訪ねたこともなんら不思議では無い行為なのだ。
但し、伊達内においては、である。

「夕餉? ここで?」
「左様でございます」
「…なんでまた」

夕刻、湯浴みを終えて熱った身体を暢気に冷ましていたは、突然の侍女の言葉に途惑うばかりだった。
彼女自身はとっくに食べ終え、あとは眠くなったら寝るだけ、という身軽さでいたのだ。それを今から、此処で、彼女の主君が食事を摂ると言う。
何よりもまず、胡散臭さが去来した。自室に参る、などそれこそ本当に初夜以来だ。あの当時に比べれば気兼ねも少しは無くなりはしたが、しかしだからといって今更よろしくやる仲でも無いだろう。
頸を傾げる一方のに、馴染みになりつつある侍女の一人は言い難そうに口を開く。

「明日…殿がご出陣なさるのは御存知でございますか?」

がこっくり頷いた。

「小耳に挟んだ程度ですけど」
「なれば」

わかるだろう。女は何度か無言で頷いた。
しかしの顔色は晴れない。本気で不思議そうに、重ねて問う。

「そんな忙しい時に、なんでわざわざこんなところまで来るの?」
「………いえ、あの…、だからこそ、では無いでしょうか…?」
「…?」
「えっと…」

の倍は困った表情になった彼女は、漸うと視線を彷徨わせて、結局は押し黙った。
最初の頃は手間の掛からないお人形のような方だと安堵していたのだが、日が経つにつれ手がかかるほうがマシだと思うようになった。主君が妾の部屋に来るなら、その目的は一つだろう。普通。
ふっと短く嘆息し、まだ頻りと首を捻っているにきりりと向きなおる。

「兎に角、膳をお持ち致します。お待ちくださりませ」
「はぁ」
「失礼致します」

生返事を返すは、しずしずと去って行く侍女の疲れた背中を眺めつつ、頬に手を当てやはり考えていた。
戦に行く、というのは知っている。だが今度のことは相馬に係わり合いの無いことと、捨て置いていたのだ。
芦名方が援軍を要請してくる可能性も低いだろう。誼は通じているが、だからこそ自分が嫁いでいる事などとっくに知れている。言うなればは伊達・相馬間では暗黙の了解上にある間者だ。もし芦名が相馬に兵を乞うたとして、下手をすれば伊達方に情報を流される危険があると看做されている。
弱小大名ならいざ知らず、そのような危険は冒さずとも芦名勢には有り余る兵力があるのだ。むざむざ懐に厄介ごとを抱え込むことは無い。
心配といえば伊達方だったが、増援を求めるのであればそれはそれでよかった。それはの与り知らぬ事。盛胤、義胤親子が考慮し、決めればいい。
さて、ではあの殿様は一体何をしに来るのか。
思考の網を無心に巡らすの頭の中に、夜這いの三文字は存在しなかった。
当然である。戦前なのだから。
子を孕む女性はともすれば血の穢れと結び付けられ、元来蔑まれる対象にある。妊娠中の女性であれば戦の前には戦衣に触れるのすら憚られ、そうでなくとも、出陣三日前からは房事を控えるのが常識だ。
よって、政宗が膳を捧げた侍女を引き連れてやってきても、が不思議そうな表情を改めなかったのも当たり前なのだ。

「下がってな」

平伏する侍女らに手を振りながら告げると、政宗は上座にどっかりと腰を下ろした。女たちは静かに去り、辺りから潮が引くように人の気配が消えてゆく。
城主は今や着流し姿の軽装で、やれやれといった風に肩をぐるぐる廻している。髪が生乾きなので、恐らく彼も湯を使った後なのだろう。
ふと目を上げて、少し離れた位置に座るを手招いた。

「起きてたんだな」

膳の上に添えられた猪口を握り、に差し出す。彼女も抗う風も無く流れに身を任せるまま、徳利を手に取り傾けた。

「寝ようと思ってたんですけど」

カチリ、と玻璃がぶつかる音が響く。

「けど?」
「只寝るっていうのも、なんか暇で」
「HA、なんだそりゃ」

軽く笑うと、政宗は注がれた酒に静かに口をつけた。彼が手にした猪口はが持っている徳利と揃いの優美な設えだ。透ける玻璃に青玉が描かれ、並々と注がれた清酒に瑞々しさを加えている。
夕餉、といった割に、載せられているのは酒と僅かな肴のみだ。空きっ腹に酒など言語道断だが、腹を空かせている様子でも無い。
一体全体、何の用だろう。ますます以っての困惑は深くなる。
しかし、直接確かめるのも墓穴を掘りそうで気が引けた。仕様が無く、暫く珍しい酒器を灯りに翳したりぐるぐると眺めたりしたが、やがて飽いてそれも元の位置に戻す。
カタン、と漆の膳が音を立てた。
政宗を見てみると、彼は視線の先を虚空に遣り、心此処にあらずの態だ。時折思い出しては右手に掲げたままの器に口をつけ、ちびりと飲る。
酒の飲み方としては大いに正しい。が、普段思い描く彼の人物像としてはえらく消極的な呑み方だと思う。
やがて器の中身が空になり、またに向けて差し出された。
彼女がごく素直に酒を注ぐと、政宗が初めて瞳に現実味を戻す。徳利を置くの手付きをしみじみと眺めた。

「こういうことも出来るんだな。お前もちゃんと女ってわけか」

一言余計だと思いつつ、は返事をしなかった。しかし政宗は気にした風も無く、猪口から傍らに座す彼女に興味を移す。

「お前も飲むか?」
「遠慮しときます」
「何だ、下戸かよ?」
「弱くは無い…と思うんですが」
「が?」
「叔父上に、これでもかと禁止されているので」

駄目なんです、とが言うと、政宗は意外にも押し黙った。
おや、と思う。ここで「俺が飲めと言ったら飲め」なんぞは言いそうなものを。

「…盛胤ねぇ」

何が可笑しいのか薄く笑い、折角注いだ酒をなみなみと残したまま、器を膳の上に戻した。
またじっと押し黙り、瞳の光は別の世界へと旅立つ。
この寡黙な人は一体何処の影武者なのか、とが真剣に疑いだす目の前、彼は依然ぼんやりとあらぬ方を見つめている。
暫く耐えていたが、は予期しない政宗の大人しさと、無言と無音の雰囲気に耐えかねてきた。何時もなら如何ということも無いはずが、相手の様子がこうも違うとたじろいでしまう。
彼女はとりあえず手を振って政宗の視線を呼んだ。

「殿、あの」
「ん」
「えーと」
「…なんだよ」
「……あっ、そう、このお部屋」

捻り出した話題の糸口を、彼女は躍起になって掴む。
だが如何勘違いしたのか、政宗をほんの少し笑うと、ふっと短く息を吐いた。

「気に入らないか」

が少し目を見開く。

「まさか。逆です。最初はびっくりしましたけど」

ゆっくりと室内を見渡すと、馴染み始めた鴨居やら障子やらが目に映る。相変わらず私物の少なく、入れ替えられた青畳と障子が真新しい簡素な部屋だが、調度はそれなりに手を加えられていた。
床の間にある瓶花にて生けていたはずの菖蒲は、盛花の君子蘭と夏菊に取って代わっている。
政宗もそこに目をつけたのか、顎をしゃくってそれを指した。

「お前が生けたのか」
「まぁ、暇だったので」
「ふーん」

それ以上の感想は上らせず、だが視線だけはしげしげとの作品を鑑賞する。

「日当たりもいいし、人通りも少なくて静かなので、落ち着きます。わたし、人の気配って苦手で」

ありがとうございました、と言う彼女に視線は向けず、政宗は菊を見たまま脇息に持たれ直す。

「そりゃ良かった。ま、精々大人しくしとけよ」
「…大人しく?」
「どっか勝手にほいほい出歩くなってことだ。この間みたいなことしやがったら今度こそ泣かすぞ」
「……泣くくらいなら別に…」
「ぁあ?」
「気をつけます」

が大きく、神妙に頷いた。
しかし、きっぱりと抽象的なことを断言する彼女ほど厄介なものは無いと、悲しいかな政宗はもう悟りきっている。
ぐるりと目が動き、白々しいの顔を捉えた。

「じゃなくて誓え。今すぐ俺の前で二度と勝手に出歩きませんって宣誓しろ」
「殿、口約束など虚しいものですよ」
「お前が言うな」

ぱたっという軽い音と共に、の頭が僅かに傾く。生乾きの細い髪がぱっと揺れた。
はたかれた頭を押さえながら、肩口に髪を流し、は不満そうに政宗を見る。

「別に悪いことしてるわけでは無いんですから…」
「黙って行くなって言ってんだ。外に出たけりゃまず俺に言え。それから考えてやる」
「じゃあ、明日以降は出たい放題ですか」

その言が気に入らなかったのか、はたまた怪訝か。政宗はふと眉根を寄せた。

「……知ってたか」
「知らないほうが怖いです」
「Fine.そりゃそうだ」

やれやれと肩を竦め、改めてを見る。笑みに似た顔つきだったが、瞳は真剣だった。

「先に言うべきだったな。明日から暫く出る」
「お気をつけて」

頷き、一言だけ返す。
暫く間が開いた。特に感慨も無さそうなの表情を見つつ、政宗は何か言いたそうだが、彼女は態々促したりはしない。
ごくごく暢気そうな顔で、垂れて邪魔になった髪を背に払った。真新しい石鹸の香りがする。

「………それだけかよ?」

結局負けたのはやはり彼だった。

「? 他に何かあります?」
「あるだろ」
「なんでしょう?」
「………何時も思うが、わざとやってんのか?」

ここまで無関心ならもう犯罪だ。普通は訊ねるだろう、何処に何時まで行くのか、誰と戦うのか、等々。
しかしやっぱり彼女は惚けた顔で、げんなりとした政宗を見つめている。
鈍い瞬きを何度かした後、彼はがりがりと頭を掻いて一際大きく舌打ちした。

「……結局俺が言うんだな」
「厭なら別に構いませんけど」
「黙ってろ。これは俺の気持ちの問題なんだ」

なにを繊細なことを、とは呆れたが、政宗は然も厭々と言った風に口を湿らせた。

「まぁ、今回はそうデカイ戦じゃない。夏までには戻る」
「はぁ」
「………一応、言っておくとな。相手は芦名だ」
「そうですか」

"相馬"に対し、伊達政宗はわざと誇張する口調で言ったのだが、は特に変化を見せなかった。
流しがちな目線のまま、その先は青畳の上に落ちている。
促すのも癪になり、政宗はの見据える先に覆いかぶさるようにして、その視線の大元をじっと睨め付けた。
暫く、耳に痛い沈黙が降りる。

「…ではわたしも、ひとつだけ」

ややあって、彼女はふと苦笑した。しかし視線が落ちたままで、政宗からはよく見えない。

「あんまり、頑張らないほうがいいですよ」
「…は?」

うふふ、と今度こそは顔を上げて笑った。呆気にとられている政宗をおかしそうに見つめる。

「そんなに緊張するくらいなら、いっそ行くのやめちゃったら如何です」
「俺が何時」

言い募ろうとした政宗の言葉は、の笑顔を見て止まった。
然もありなんといった表情は真っ直ぐに此方を見ている。彼女からすれば目の前でぶつくさと言い続ける城主を、どこかの誰かよろしく年下の悪ガキのように捉えだしているのだが、見つめられるほうはそうとは知らない。
暖簾に腕押しだった相手が珍しく、しかも暢気そうに笑っているのだ。
黙り込んでしまった彼を図星と見たは、それ以上は何も言わなかった。笑みを少し抑えこみ、視線を畳の上に戻す。
政宗は政宗で手持ち無沙汰なのか、とりあえずといった風に膳の上に放り出してあった猪口を取った。口をつけるが、冷酒はすっかり温くなってしまっている。途端飲む気も失せ、元の位置に戻すなり今度は煙管を取り出した。
愛煙家の彼は何時も携帯するこの便利な道具を重宝していた。口寂しい時や、気の紛らわし、間がもたない場合など、場面様々に使える。
火をつければ、ふうわりと煙があがる。棚引くそれを目で追い、最初の一口にゆっくりと唇を添える。
ぷかり、と一呼吸。

「尻込みしてるわけじゃ、ねぇんだがな」

弁解がちな言葉に恥じらいは無いが、少しだけ落ち着かない。
は黙ったままだ。

「ただな。一個、引っかかってんだよ」

彼女がやっと目を上げ、頸を傾げると、実に厭そうに政宗がを見ていた。

「名前」
「…? どなたの」
「猪苗代」
「盛国様?」
「息子のほうだ」
「ああ…左馬介様ですね」
「…顔見知りか?」

字で呼ぶを見て政宗が表情を止める。
彼女は右斜め上、思い出すような仕草で宙を見遣りながら何度か頷いた。

「少し前になりますけど…縁談が」
「はぁっ?」
「まぁ、結局破談になりましたけどね。でも親切な方で、折に触れて文を下さったり、小高まで訊ねて来て下さったり」
「…わざわざかよ」
「いえ、義胤様と仲がよろしいですから。わたしはついででしょうけれど」
「………」
「左馬介様がどうかされたのですか?」

あっけらかんと告げるに政宗は何か言いたげではあったが、結局口の中で租借し、飲み込んだ。
手の中のものをもう一吸いすると、甘い香りがふわりと舞う。

「"盛胤"だろ、あいつ」
「そうですね。一緒です」
「なんっかなぁ……」

間が開く。政宗は軽く蟀谷を掻いた後、また大きく煙を吸い込んだ。

「…………え? まさかそれだけ?」

ぽかんと言うに政宗が反論する前、今度こそ彼女は盛大に噴出した。
一応、しまったと思ったのだろう。口元に手を添え堪えようとするが、全く以って隠せていない。押し殺した笑いが後から後から湧いて出て、終いには涙目にまでなっている。
案の定、政宗の目が据わった。

「…いーい度胸だなぁコラ」
「やっ、ふはは、ごめんなさへははは」
「隠せてねぇ!」

ぐわっと拳が上げられるが、そこはそれ、ある種逃げることだけは鍛えられた彼女はさっさと距離をとった。そしてまだ笑っている。

「何かと思ったら…うはは縁起の問題ですかふへへへへ」

しかし勿論、戦国武将に敵うはずも無い。あっという間に詰め寄られた政宗に結局一打を貰った。

「あいた」
「笑うな」
「そう言われると余計……」
「OK,もう一発いっとくか」
「冗談です」

膝立ちで握り拳に息を吹きかける政宗に、はさっさと諸手を上げた。
一瞬、真面目顔に戻るが、やはり気を抜くと笑ってしまう。結局は酷く微妙な表情のまま、崩していた足を揃え裾を正した。
政宗は高い位置からそれを見下ろしていたが、やがてまた大きく舌打ちし、目の前にどっかりと腰を下ろす。

「叔父上がお嫌いですか」

呼吸の端々に笑いが残る彼女をギロリと睨む。

「好きな方が怖い」
「それはそうですけど」
「…この際だから言っておくがな」

一度言葉を切り、鋭い左目が相手の顔を確認する。だがに変化は無い。

「お前が此処に、伊達に居たとしてもだ。俺は相馬に気を許せるとは思っていないし、思わない。それはこの先一生変わらねぇだろうよ」
「和睦が成っていますのに?」
「お前も言ったろう? 口約束なんて虚しいもんだ」
「………」
「だから安心しろよ。相馬に増援を頼むなんて間抜けな真似、今回はしない。俺も寝首は掻かれたくないんでね」

凶悪に哂う顔でいっそ揶揄するように言うのに、返すはやはり、ほんのりと微笑んだだけだった。

「叔父上は、甘い方ではございませぬ」
「あ?」

語尾を攫う速さの声音は視線と同じく鋭い。だが見慣れ始めた丸い瞳も、臆す事無く見て返す。

「仮令わたしが居たとて、伊達が不都合であれば、…殿が憎ければ、隙を見て必ずお攻めになる。そうして此処に雪崩れ込んでいらっしゃったなら、躊躇うことなくわたしもお斬りになります。あの方は、そういう御方です。……用心なさいませ」
「…それは忠言か? 愚弄か?」
「独り言です」

含んだような目を見つめる不機嫌な左目だったが、ややあって小馬鹿にしたような疲れたような、どちらとも取れない嘆息の後、彼はまた横を向いて黙り込んだ。
胡坐をかいて生花を見ているその横顔をみて、今度は声を立てずに苦く笑う。
はなんとなく、納得できた気がした。彼が何をしにここまで来たのか。
味方も多いが、敵も多いのだろう。光が増せば闇も増す。芦名と戦うということが如何いうことか、わかっていない彼ではない。傲岸不遜な性質が、縁起を気にするまでギリギリに砥がれているのがいい証拠だ。
しかし弱音は勿論のこと、懸念でさえ表立っては吐けまい。それが他ならぬ彼で、彼たらしめている以上は。
だからこそ、気を抜いて差し支えなく、何処に露呈するでもないを選んだ。囲い女はつまり、己の意思如何で如何とでも出来る相手だ。無味無臭の無害であるなら、これという相手はいまい。
気の毒だな、とは思った。巡り巡ってやってくるのが不安要素の姪である自分ということが皮肉で、なんとも言えず悲しい。
もっと周りを頼ればいい。
そう言うのは簡単だが、出来ないだろう。決して。それは彼女にもよくわかった。
だから

「ま、程ほどに御励みくださいな。夏はずんだ餅が美味しいですし」

脈絡の欠片も無い彼女に、またしても実に鋭い隻眼のひと睨みが返って来た。
しかし、慣れてきたはそれすらもひらりとかわす。

「お腹が空くと、苛々しますからね。たまには休憩も重要ですよ」
「…暢気なこと言いやがって」

盛大な舌打ちが低い声と共に流れる。
ふと、不機嫌な顔に小さな頭が垂れた。

「失礼しました。お聞き流しくださいませ」

笑い含みの、穏かな声が響いた。政宗は再び静かに上げられる彼女の視線を見据えようとし、やめた。小粋に盛られた飾り花にしつこく目を遣る。
複雑だ、茫洋だと、もやもやする。
そもそも、この女に慣れてはいけないのだ。いくら和んでも、気を許してはいけない。縦しんば組み敷いても、馴れ合ってはいけない。
しかしなによりも、あの目が気に入らない。見透かすようにすっと細められる所作と共に、ひどく真っ黒な目にじっと見つめられるのは億劫だ。室に入って半年近く、決して何も見えていない筈なのに、確かに何かを見ている。京人形の皮を被った張子の癖に、多少の付き合いでおいそれと頸を揺り動かす安物の虎ではないのだ。
そういうところがまた、気に触るし気にかかる。
昂ぶりも何処へやら。いつの間にか冷え冷えと心を冴えさせる彼の前で、けれどは珍しく喜楽を見せていた。
いや、違う。実際は彼女の何が珍しくて、何が当たり前なのか、何一つ分かっていないのだ。
分からなかった。
分からないまま、彼は戦場に出た。






再考を、と告げた猪苗代盛国より返信があり、結果は案の定であった。
駄目なものは仕方ない、そう済ますには大それた損失ではあったが、それでも尚戦は続いた。
連日連夜、伊達勢は果敢な攻撃を繰り出して芦名勢を脅かしたが、援軍もなく交代も利かない兵卒の疲れは日に日に増してゆく。基信の懸念どおり、満を持していた畠山義継や二階堂盛義、大内定綱らの援軍が次々に到着するに加え、佐竹の軍三千が芦名に味方する、などという風聞まで飛来しだした。
士気はうねりを見せては下がり始め、ますます敗色の色濃くなるある日。戦場の凄惨な雰囲気とは真逆の、よく晴れた日だった。

「引き揚げるぞ」

正午きっかり、本陣に麾下の兵凡てを集めた政宗が、あっけらかんとそう言った。
驚いたのは、勿論全員である。何より拘っていた筈の当の主君が掌を返したのだ。我先に命を捧げようとしていた忠信たちは開いた口が塞がらない。

「聞こえたか? とっとと準備しろよ」

ぐずぐずしてると置いてくぞ、と然も平然と言ってのける主君に、奔放は慣れた筈の小十郎さえ気後れしながら訊ねた。

「殿…よろしいのですか」
「何が」
「…よもや、此処に来て退却など」

小十郎にとっては、政宗の決断は嬉しくもある。だが、脳裏に成実の言葉と生来の懸念が燻っても居る。
歓喜と困惑、焦燥が入り混じる真摯な家臣の表情を見て、政宗は一瞬きょとんとし、後に実に悪く笑む。

「誰が退却と言った」
「…は?」

呆れ声は傍で聞いていた基信だった。
そちらも見遣りつつ、また一層にやりと笑う。

「ただ"引き揚げる"だけだ。誰も負けちゃいねぇさ。歴とした兵法上の必要充分、ってとこだろ」

明るく言って陣羽織の裾を払った。竹丸に雀が染め抜かれた紺碧が軽やかに翻る。

「城塞を築け。在番は、信康」
「は…はっ」
「お前に任せる。しっかりやれよ」
「心得ました」

言う割にまだ信じられないといった表情で、呼ばれた後藤信康は政宗の清々しい顔を見ていた。
何があったのか。城を責めあぐねていた時の様子からは打ってかわり、実にすっきりとした変わり身だ。
しかし、最初は呆気にとられていた家臣も徐々にその決断に賛同し、果ては恐る恐るの態でさすが御大将だと絶賛しだした。退却であろうが引き揚げであろうが、彼らにとって戦が終わり、帰還する喜びに勝るものは無い。
大義名分があれば後ろめたさは無い。意気揚々と方々に伝令へ飛ぶもの、自軍に勢いよく撤収を告げるもの。俄かに忙しくなり始めた陣内で、広く青い背は少し遠くで悠々と、落とすことのなかった名城を見据えている。
盛り上がる家臣団の中、十年上の守役に基信が忍び寄るように声を掛ける。

「なんと言っても、まだ十九」
「………」
「そう、思っていたのだがな」

小十郎が視線を交わらせることなく肩を竦めた。

「されど十九、でございましたか」
「言い得て妙だ。武勇は若武者、智謀は老獪、……大殿は良いお世継ぎに恵まれた」
「これは異な事。元より心服されておいでだったのでは?」
「何、重ねて身が引き締まったということだ。心服から、心酔」
「やっと、でございますか」
「やっと、かもしれんなぁ」

にやり、と笑った股肱の臣はそのまま身を反転させ、砦を築くに当たる後藤信康の元へ悠々と向かう。
狸め、と思う一方で、悪い気持ちではない。老臣ゆえの懸念の底に、息子孫に対するような深い戒めと愛情が見て取れた。あの背は伊達に全てを捧げた背だ。
ちらり、と視線を変えれば、蒼い方の背は微動だにしていない。
今は見えない左目は何を見ているのか。なんとなくわかるような気がして、しかしもう手には追えない。
寂しくも誇らしい大将の背に、小十郎は一歩ずつ近づく。

「忙しくなります」

立ち止まった斜め後ろ、一歩の絶対距離を開けたまま言う。若い主君は背を向けたまま何も応えない。
これからだ。
芦名は深追いをしない。彼らは今、相続問題で揉め抜いている。みだりに兵を挙げれば、すかさず佐竹がその隙を突くだろう。幼君の後ろに見え隠れしているきな臭さは、街道七家の一であるのだ。
政宗がどう言い繕っても、今回は完璧な敗走だ。自軍の損傷が軽微なだけで、負けは負け。何時の世も戦勝の噂は誇大に響く。
危惧したとおり、懸念どおりの事態になる。よもやこれで終わる政宗では無いだろう。だからこそ、これからが本当の戦だ。

「腹減ったよなぁ」

溌剌とした声が小十郎の思考を遮った。
目を上げると、背は腰に手を当てて晴れ上がった空を見上げている。

「…なにか、持ってこさせましょう」
「NO,間に合ってるさ」
「は?」

そこで初めて振り返り、小十郎に常の笑みを見せた。上目遣いの、下から見上げるような悪い顔。

「今日一杯走り尽くせば、明日の午前には着くだろ。それでいいさ。米沢に知らせはやっとけよ」
「それは既に…いやしかし」

今、腹は満たされないだろう。
小十郎が頸を傾げても、彼は軽く笑って往なすだけだ。

「やれやれ、すっかり夏だ」

呟きながらすたすたと歩き出し、備えて待ち構えていた従者から馬の手綱を受け取る。
慌てて追い縋った小十郎も同じように受け取り、並んだ。兵卒は手早く荷を纏めだしており、もう直出発できるだろう。
鼻息荒い悍馬を捌きながら、政宗は相変わらず三つ引両の旗が居並ぶ墨瓦を見つめている。小十郎は隣に並び、そういえば、と平静に声を掛けた。

「成実には可哀想なことをしました。あれはこの一月、眼の回る忙しさだったでしょう。前衛方が裏方に奔走して、さぞ鬱憤が…」
「何言ってんだ。あれでも優しくしてやった方だぜ」

鼻で笑って手綱を握りなおす。片付けられてゆく戦場を背景に小十郎が頸を傾げるの、政宗はにんまりと揶揄した。

「あいつにゃまだ仕置きをしてなかったからな」






彼女は困っていた。
きょろきょろとあたりを忙しなく見回しては眉根を寄せ、僅かな物音にも素早く振り返る。
風の音であったり人の声であったり、大概は如何というほどでもない要因なのに、彼女はそうして先程から一喜一憂を繰り返していた。
動機が早く、強くなってきている。呼吸も心なしか乱れてきた。顔が熱いのに、手足の先が冷たい。
本当に、只、困っているのだ。
一縷の望みを駆けて、深呼吸。思いっきり引き開けた木戸の先は薄暗い。締め切った木枠から一条だけ日の光が落ち、舞い上がる埃がうっすらと漂うのが見える。
しん、とした空き部屋。使われない、古びた布団や座布団がきちんと積まれている。たった二畳ほどで、身を隠す隙間など、到底無い。
この時間の惜しい時に如何してこんなところを見たのだろうと、些か呆然と己を振り返ってみる。だが、それらしい理由もなかった。通りかかったから、としか言いようがなく、要するに焦り故なのだ。
まさかこんな、黴臭い所に。
深く息を吐いて木戸をきちんと閉めると、いよいよ途方に暮れてウロウロと彷徨いだした。馴染みの黒廊下も今は怖い。
あと廻っていない所は何処だろう。北も南も東も西も、内も外も、普段見かけるところは大抵見た。もう一度巡って見るのもいいかもしれない。しかし、果たしてその猶予があるかどうか。
…ああ、もう、本当にそろそろ
焦燥に身が蒸発してしまいそうな最中、突如城内の空気が変わった。一点を置いて広がり往く喧騒に、彼女の顔からは今度こそさぁっと血の気が引いてゆく。
もういっその事逃げ出してしまいたい。
踵を返したその身で、彼女はつくづくと我が身の不幸を嘆く。
知れたら一体どんな不興を買うのだろう。くそう、わたしの所為では無いのに。
どうしてこうも、と思う身体が慣れた廊下を行く。無意識に視線は下がり、木目を頼りに足早に前へと進んでいた。角をいくつか曲がり、渡り廊下を越す。

「これ!」

突然の鋭い叱責に目を上げると、年嵩の女中がきつい目で睨んでいた。
それだけでも十分怯む事態であるというのに、その隣には。

「なんです無礼な! 殿の御前でありますぞ!」

憤りの後ろにいる長身の城主は特に気にした風もなく、驚きに固まっている若い女中を見つめている。
まあるく見開いたその瞳に感慨でもあったか、城主はふっと笑った。それで彼女は我に帰る。

「も、申し訳ありませぬ…!」

脇に退き、平伏する彼女に特に何も言わず、未だ不機嫌顔の女中を引き連れた城主はそのまますたすたと歩を進める。この廊下の先は北の方の居館だ。戦後の挨拶に行くのだろう。
まだ猶予はある。
そうほっとしたのも束の間、城主は彼女を追い越して二、三歩のところ、ふと思い至ったように立ち止まった。

「お前、奥の女か」

上方より掛かる声は死刑宣告に似ていた。

「答えぬか!」
「さ、左様でございます…」

鈍い反応を嫌う女中に対して城主は手を振って遮り、ゆっくりと腰を屈める。

「じゃあ、お前でいい。東の角部屋まで行ってきな」
「東の…」
「女がいるだろ」

あれ、呼んでこい。
にやりと笑っているのだろう。戦装束を脱いですらいない城主の矛先は、あの、奔放な姫君の部屋。
わたしは一向に悪くない。はずだ。
彼女は二度深く呼吸した。

「…畏れながら、殿」
「ん?」
「………見当りませぬ」

城主は眉根を寄せた。女は伺うことすら出来ないまま、身を縮こませて一気に息を吸い込む。

様、先程よりお姿が見えませぬ!」

一拍を置いて、怒号に似た城主の小姓を呼ぶ声が轟いた。








08<  00  >10








 結局一万越えか! もういっそのことあんまり気にしなくていいですか… しかしやっぱり見辛いですよねウウウすいません
長いことだらだらきましたが、恐らく次回…くらいから揺れ幅が大きくなると思います。ので、なんか、色々とわたしも覚悟を決めないとならなく…なって……ヒイイ独眼竜が恐ろしいぃぃい(今更)
そういえば、よく皆様のあたたかーいお言葉の中に「政宗さまがかっこいい」という、眩しすぎて直視できない一文を…目に……するのですが………
なんかも、ほんますんません書いてるわたしが一番筆頭の男ぶりを疑ってる  いっそ埋めて欲しい(何処に)