08






穏かだった。
碧天は雲ひとつ横切らせる事なく冴え冴えと広がり、何者にも侵し難い無窮さに眼を眩ませる。柔らかな萌黄色だった地は力強い常盤に変わり、吹く風も何処か香ばしい。
陽は日に日に強くなり、来る梅雨に備えるため、地盤を育もうという目に見えない力が手に取るように判る。
絶好の、脱走日和だ。
中々物騒な事を考える思考とは裏腹に、縁側に腰を下ろしたは、常にも増して気だるげだった。
階の両縁に備えられた支柱に身を預け、斜めになった瞳を辛うじて開けている。眠いわけではないのだが、視界に映る青が鮮明すぎて、自然と瞼が閉じるのだ。
薄ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れない庭景色だった。
相変わらず小奇麗に整頓されてはいるが、比べようも無く質素になった。松も躑躅も見当ない肥えた地は、これから庭木を植えるべく耕されだした土の部分と、なだらかに青草が広がる二色に分かれている。
その芥色の部分はが掘り返したものだ。規模は小さいがきちんと畝があり、拙い手製の囲いも手伝って、どうにか畑の態を成している。
百姓仕事とは言わないが、生家にいた頃土いじりは結構頻繁に行なっていた。薬草栽培やその品種改良が目的であったのだが、身なりに構わない彼女の熱中振りに周囲は非難轟々であった。
勿論、が聞く耳を持つ筈が無い。わかりました気をつけます、と頷いた半時ほど後にはもう泥だらけである。
困り果てた小高の面々は、手を出すのはせめて収穫時だけに、と妥協案も出してみたのだが、それでもやはり結果は同じ、少し目を離せば綺麗な乳白色の爪を煤色にして帰ってくるのだ。
仕舞いにはこっそり野菜も育てていたのだから、ある日気づいた馴染みの侍女に泣かれてしまった。何時の世も女の涙は最大最強の武器であり、流石のも狼狽えて、それ以上食べられる何かを増やす事は自粛した。
まぁ、今となってはいい思い出である。
この時期となると種蒔きには遅い方だが、出来ない事も無い。どうしてもならば苗でもいいだろう。
日当たりも大層良く、逆に大きな塀が陰となる日陰も完備、風通しも抜群だ。秋ごろには名実ともに、城内の一角で収穫を喜ぶ事となるだろう。
――でもまさか、米沢城の庭を引掻き回すなんて、夢にも思わなかった。
薄目を開けていたがゆっくりと身を起こし、自身が作った畑を見てぼんやりと思う。
許可があるのだ。


小雨の降りしきる木の袂にて、ある種固い盟約を交わしてから数日後、彼女は突如部屋換えを命じられた。
今までの部屋は人の往来が多い分、調度や造りの凝った広々とした部屋だったのだが、急かされるままとりあえず身一つでやってきたここは奥まった角部屋で、人の行き来も殆ど無い質素な造りだった。
壁に丸窓が一つあり、ぽっかりと青畳に日の光を落とす。黒光りする床の間には、すっきりとした立ち姿の菖蒲が生けられ、ささやかな彩が添えられていた。
それだけの小さな囲いに無駄は一切無く、かといって緊張を漂わせるわけでもない。ごくごく簡素で機能的な、当に好みの空間が広がっていた。
しかし、あまりに突然の事にどう反応してよいかわからず、侍女たちの手によって手際よく整頓されてゆく自分の荷に手出しも出来ず、「どちらに置きましょうか」と問われて慌てて答えるだけという、なんとも情け無い対応しか出来なかった。
不器用な彼女が余計な事をしないとなると、恐ろしい速さで部屋が整い、あっという間に嵐が去った。すると途端に人の気配は霧散し、静かになる。
前の部屋では姿は見えなくとも常に人の息づく気配を感じていたのに、この閑散さはなんだろう。
途惑ったまま、また幾日かが過ぎたある日、突如政宗本人がひょっこりとの元にやってきた。
その時も小綺麗に片付けられた部屋の中央で、は何をするでも無し、怪訝そうに眉根を寄せて、陽の光で輝く白い障子を睨んでいた。

「どうした? 顔が火男みたいだぞ」

公務でもあったのか、確りと着込んだ立ち姿で存外気安く問うものだから、失礼な事を言われたと気づくのに少し時間がかかる。

「……ちょっと事態が読み込めなくて」
「気に入らねぇか」
「そういうわけではなく…」

仕切りと頸を傾げるばかりのに肩を竦め、政宗は腰を下ろさずに部屋を横切り、締め切ったままだった障子を開け放った。鈍い陽の光が途端鮮やかになる。
あまりの眩しさに目を細めるの身に、吹き込んできた軽やかな風が巻きついた。

「暫く使い手のなかった部屋だ。不都合もあるだろうが、見つけたら折に触れて言えばいい。庭もお前のもんだ。焼こうが何しようが、好きにしろ」

桟に身を預け、観賞用とは言えない庭を見遣る大きな背が淡々と告げる。
が何かを言う前に、彼はさっさと身を起こし、「じゃあな」と慌しく去っていった。
元々、それほど顔を合わせるわけでもない。だからこそ、どう見繕っても忙しさに殺されかねない彼が、わざわざ自分のところになぞ何をしにやってきたのか。
さっぱり見当もつかないは、ただぽかんと見送るばかりだった。

その謎が半分だけ解けたのは、昨日の夜。そして米沢城主は今朝早く城を発った。
合戦である。






着陣した当初の喧騒は、夜になれば跡形もなく消えてしまった。篝火が轟々と燃えたつ音や、見張りに廻る兵の微かな話し声を除けば、実に涼やかな夏の夜空が広がっている。
拵えた座にどっかりと腰を据えれば、重い鎧を纏った身がじんと痺れた。近衛兵も目の付く所からは下がらせたので、些か気を抜いても差し支えないだろう。今回の戦は夜襲の類を警戒するものでもない。
兜を外して息を吐く。知らず知らずに気を張っていたのであろう、今更ながらに疲労が身体中を蝕みだし、両の肩がずんと重い。
身を纏うもの全てを脱ぎ捨てたい衝動に駆られたが、これも大きく息を吐き出してやり過ごし、やっと酷く喉が渇いていることに気が付いた。
竹筒からぐいと水を飲み干す過程で、しめやかな星空が隻眼に映り込んだ。
静かに瞬く無数の光は、時折流れて消える。月よりも蒼く、太陽より白い。焚き上げられる炎の中で薄くなることはあるが、決して消えることのない不思議な光だ。
あの高みから見下ろせば、今地べたを這い蹲っている自分達などは、さぞちっぽけなものなのだろう。
自分で思い至ったというのに、政宗はその考えにハンと鼻を鳴らしてせせら笑った。
空になった水筒を後ろに放ると、小気味よい音を立てて転がる。
らしくないことを考える。星が意思を持つなぞ荒唐無稽、あんなものは人智の与り知らぬ、不思議な結晶なのだ。人の世を嘲笑うとしたら、それは飽く迄人だろう。
背を反らして夜空を見上げたまま、気を抜けば漏れそうになる溜息を堪えるため、硬い掌で口元を覆う。
―――動揺してるとでもいうのだろうか。
戦況は必ずしも、彼が頭で描いた通りの道筋と成り得なかった。
米沢を発ち、ここ檜原に着陣して幾日。兵力に差こそあれ、大名としては格上である芦名と、伊達の精鋭はここまで五分の健闘を見せている。
押されては押し返し、罠を張られては張替えしたりと激闘が続くが、決して戦の調子が乱れることはない。夜と成ればどちらともなく兵を潮のように引かせ、翌日の日の出を待っては法螺貝が鳴り響く。折り目正しい互角の合戦だった。
経験では遥かに劣る若武者が此処まで楯突くとは、芦名にとっても舌を巻く事態では有った。
だが、政宗の思惑では違った。
彼の予想では、大塩城攻略に此処まで梃子摺るはずではなかったのだ。おまけに内応を誘い、まんまと降った筈の松本弾正と共に会津領へ攻め入った原田宗時が家臣の裏切りに遭い、まさかの敗走を喫してしまった。
彼自身はなんと危機を脱したし、兵自体にそれほどの痛手はなかったのだが、何よりもよもやという悔しさが先に立つ。
敵方の武将を懐柔しているのだ。こちらも同じ目に遭ってもおかしくは無い。だが、出端の幸先の悪さがある種膠着とも言えるこの一進一退を齎しているのかもしれないと、柄にもなく思い至ってしまっていた。
そこでまた、政宗は己を叱咤する。神仏など戦では微塵も役に立たないと思っていながら、人としての根深い性が無言の力を求めている。由々しき事態だ、と。
動揺ではなく焦り、なのかも知れないが、彼自身は気づいていない。臥す事の出来ない待機時間が、混沌とした気持ちを増幅させてゆく。
そう、彼は待っていた。その報告の如何によっては、次の行動を検めなければならなくなるやも知れぬ、大事な使者を。
もう一度夜気を胸一杯に吸い込んだところで、微かな具足の音が響いた。

「殿、小十郎です」
「…おう」

鷹揚に返事を返すと、慣れた調子で忠信が姿を現した。彼の具足は年季が違い、着こなしも何処か巧を感じさせる。修繕を重ねた鎧は勲章の如く矢傷が奔り、反って歴戦の兵然とした風貌を齎していた。
こんな些細なことに目に付くのは、やはり気が立っているのだろう。
それが情けなくも可笑しくもあり、政宗は苦笑して小十郎に向き直った。

「ご苦労だったな。大事無いか?」
「は。一通り見回りましたが、敵方もそう無茶はしない構えのようです。篝火を焚いて、早々に籠りました。朝まで睨み合いでしょう」

大塩城の直接の攻略指揮を執っているのは小十郎だった。彼をしてでも落ちないとは、やはり芦名の地盤の根強さを感じさせる。
ふと政宗が喉で笑う。

「今日も今日とて、か」
「殿の働きがあればこそ、でございましょう」
「皮肉か」
「まさか。事実を申したまでにございます。このまま粘れば、大塩も必ずや我らの手に落ちましょうぞ」
「…お前は何だ、まさか此処に来てまで俺に小言か?」

うんざりしたように言えば、守役は珍しく意地悪い顔で口端を吊り上げた。

「いえ、私も御一緒に成実を待とうかと」

掲げたのは飴色に輝く瓢箪。焼酎だった。固い彼にしては珍しく、次いで紅切子の盃を二つ取り出す。
僅かに瞠目する政宗に、今度こそ彼らしい柔らかな笑みを返して、その手に盃を捧げた。

「……熱でもあんのか?」
「さて。至って平常どおりですが」

並々と杯が満たされる。然も興味無さそうに見下ろしながら、政宗は肩を竦める。

「珍しいこともあるもんだ。普段は足軽が騒いでも激昂するくせによ」
「酒はあのように軽々しく飲むものではございませぬ。本当に必要な時に一献だけと口にするからこそ、効果があるものなのですよ」
「HA! 老けた考えだな」

一番近い家臣の深い瞳に真意が見え隠れし、政宗はわざと軽くあしらった。
下げた視線の先、無色透明の銘酒に青白い光が映る。

「良い夜でございますね。…滴るような名月だ」

手酌で自らも杯を満たした彼は、溜息と共に夜空を見上げる。促されるようなその仕草に主君は素直に従い、先程穴が開くほど見上げていた空をまた見据えた。
言いたいことがあるだろうに、結局は何も言わずに傍らに腰を据えた小十郎が頼もしくもあり、憎くもあった。見透かすような所作が気に入らないのもある。だが何より、この男だからこそ弱みを見せたくは無いのだ。
忌々しいほどに輝く星空に見切りをつけ、政宗は篝火を見つめるに戻った。彼が好む赤々しい炎は猛り上がり、白幕の覆いまでをも黄金に染め上げている。
爆ぜる火の粉とその音が、ただ沈黙の間を縫った。

「成実は、直戻ります。二人でのんびりと待つのも、悪くないと思いますが?」

如何とも答えない主君の横顔は影が濃い。火に照らされている所為もあるだろうが、黒唾の眼帯が横切る細面は年齢の割に大人びて見える。しかしその癖、不意にはっきりと十の年の差を感じさせた。
彼はまだたったの十九なのだと、今更ながらに思い至る。
片方しか無い切れ長の眦を、穏やかに見守る小十郎に気づき、政宗はふと顔を上げた。

「一献だけで、間が持てばいいがな」

唇を吊り上げる主君に、小十郎は曖昧に笑って応えた。







呆れた。
疲れた身体に鞭打って、夜半を当に廻った頃に檜原へと馳せ参じてみれば、彼の主君は酔いこそしないものの、暢気に盃を煽っていた。
一献だけ、など何の役にも立たない口約束だった。既に瓢箪の中身は底が尽きかけている。
気心の知れた仲同士、時が満ちれば話題は探さずとも、何処からともなく湧いて出た。

「お、戻ったか」

遅えよ。
やっと成実の出現に気づいた政宗が上機嫌で言うのにも、彼はじっとりとした恨みがましい視線を返しただけだった。
手招く彼の元に憮然としつつ近寄ると、小十郎は些か目が潤んでいる。お前ら本当にやる気があるのか、と怒鳴りたくなったが、まさかそれほど馬鹿では無いだろう、とぐっと堪える。
これで明日使い物にならなくなるような殿様なら、いっそ討ち死にしたほうが綺麗だ。
物騒なことを成実が考えるのは無理も無い。彼が駆けて来た距離はそれ程のものなのだ。

「…一応訊くよ。なにしてんの?」
「見りゃ判るだろ」
「じゃあ言う! なに酒なんか飲んでんだよ! 働けよ!」
「無茶言うな。夜だぞ」
「そんじゃ寝りゃいいだろ! 明日に備えてとっとと寝ろガンガン寝ろ! そんで働け!」
「つれないねぇ。お前が心配だったからこうして起きてたっていうのによ」

さらりと言う主君に、根は単純な成実は思わずウッと詰まった。小十郎は慣れた調子で諌めもせず、笑みを噛み殺したまま立ち尽くす若武者をちらりと見る。
政宗もニヤニヤと笑いながら、傍らの地を軽く叩く。

「まあ座れ。疲れただろ」
「……性質悪い…」
「お前も飲むか?」
「いらねぇよ」

口調こそ反抗的だが、成実は促されるまま、大人しく政宗の隣に腰を下ろした。
兜を外し、凝り固まった頸を鳴らす。一日中馬での移動に加え、行く先々では気の使う外交だ。おまけに種々の事情から今日はこのまま大森まで帰らねばならない。流石に少し死ぬ自信があった。
疲労の滲む若い顔をつらつらと眺め、小十郎は何処からともなく水を取り出し、成実に差し出した。
無言で受け取り、一気に飲み干す。竹筒いっぱいにあったそれはあっという間になくなった。

「で?」

盃に残っていた僅かな雫をぐいと飲み干し、政宗がごく短く促した。
抑揚は変わらないのに、雰囲気が違う。余計な枕を挟まないのは彼らしいが、成実にはそれだけで疲れが増した心地を齎した。
ちらり、と横目で伺うと、政宗は傍らを見ずに煙管に草を詰めている。
一拍を措いて、成実は大きく息を吐いた。

「…思わしくないね」
「何?」

小十郎が色めき立ったが、政宗の一瞥ですぐに押し黙る。だが目だけは執拗に成実を追う。
彼に一応軽い頷きを返し、成実は背筋を伸ばして口を開いた。

「猪苗代に遣ってたやつがどうにもはっきりしなくて、仕方ないから直接出向いてみた。したら、父親は兎も角息子がね。…伊達に誼を通じる謂れはないとさ」
「…盛胤か」
「それで黙って帰ってきたのか、お前は」

小十郎が語気荒く言い、成実もこれには顔を顰めた。

「無茶言うなよ。これでも粘った方だ。盛国殿に再考の約束を取り次ぐだけで精一杯…」
「要するに、猪苗代取りは失敗したんだな」

ふう、とやわらかい芳香と煙が遮った。
ややあって、成実は無言で頷く。
年老いた城主は苦い顔で考え直す、と言っていたが、後ろに控えていた次期当主である盛胤は決して頸を縦に振らないだろう。彼は始終、成実を睨んでいた。

「そうかい」

只それだけを呟くと、政宗は黙って煙管を燻らせる。
辺りに痛い沈黙が降りた。
これで事実上、芦名領への足掛かりは費えたこととなる。大塩を突破すれば形勢は変わるかもしれないが、長引けば大元の兵力に劣る伊達の不利は明白。芦名方へは好機とばかりに、近隣の大名から続々と援軍が送り込まれるだろう。
状況は悪化の一途だ。

「…面目ない」

固い声への返答はなかった。






やがて政宗が告げた言葉は二人への退出を促すもののみ。
成実には一応なりとも労いの言葉が掛けられたが、じっと見つめる彼に対して視線は返ってこなかった。
胸中は察して余りあるものだ。家督を相続しての緒戦という意気込み、加えて家臣たちの反対を押し切った面子もある。それが尻尾を巻いて逃走となれば、侮蔑や嘲笑は奥羽全体に広がるといっても強ち間違いではない。

「…すまなかったな」
「ん? なにが?」

引き返す傍ら、小十郎が厭に鎮痛な面持ちで成実に声を掛けた。
不思議そうに返す若侍の顔を見つめ、小十郎は主君をも重ねていた。生真面目な顔を苦渋に歪ませている。

「短慮を起こして突っ掛かってしまった。お前は単騎で、敵方を超えてきたというのに」
「ああ、そんなこと」

カラカラと成実が笑うが、小十郎の心は晴れない。

「構やしねぇよ、しんどいのはお互い様だろ」
「…有難い」
「ははは、疲れてんねぇ」

軽く笑う所作は先程分かれた青い背と似ていた。胼胝と肉刺にまみれた手がバンバンと小十郎の背を叩く。

「気負いなさんなって。俺も、梵も、皆も負ける気なんかこれっぽっちもない。此処まで来たなら、あとは純粋に胆力の問題だろ。お前がそんなでどうする」

肯定を期待した笑みの先には、刃物のような切実さがあった。

「……やはり、引く気はないのか」

ぽつりと言う小十郎に、成実は曖昧に笑ったが、何も返さない。
ただ、緩やかに立ち止まった。
小十郎も途惑う事無くそれに倣い、近くの幹に身を預ける。
長い沈黙があった。そう時に猶予のある立場同士では無い。だがお互いに焦りを無理に殺し続けているので、胸に燻る焦燥感は気配となって流れ、夜闇に紛れる。

「言ってみるか?」

静かに口を開いた成実は腕を組み、星明りの弱くなった夜空を見上げていた。
小十郎は無言で先を促す。

「あいつに引けと、俺らが言うのか?」
「………それが我らの役目だろう」
「俺は厭だね」
「…成実」
「あいつが、自分でこの戦をやめにするというまで、俺は絶対にどうこう言うつもりは無い。それだけはしたくない」
「一時の、今このときの意地のために、藤次郎様に死ねと?」

成実は虚空を睨んだ。

「俺が引っかかってるのは、お前のその考え方だよ。如何してすぐ物事を悪いほうに考える? 負けないかもしれないだろう」
「お前は楽観過ぎるのだ!」

小十郎の語気が跳ね上がった。だが成実は僅かも態度を変えず、視線も寄越さない。
沈黙に夜鳥の鳴き声が物悲しげに漂う。
腹の底に溜まった息を目一杯吐き出し、小十郎が続けた。

「…勝った時のことなどは、その時に考えればいい。問題は敗色濃い時だ。喩え不興を買おうとも、如何やって殿を諌め、生かすか。それが本来の我らの在りかたでは無いか」
「……相違ないね」
「では」
「だけどそれは、後ろに気懸かりがない場合の話だ」

吐き棄てるように言う成実はもう小十郎を見ていた。瞳が闇にあって火矢のように燃えている。

「お前も判ってるだろう? 今この時にあっても、北の方の煽動を受けて小次郎君派が水面下で動いてる。負け戦なんかしでかせばそれこそ格好の餌食だ。あの莫迦どもは今度こそ表立って喚くぞ。"片目の主君など伊達には必要ない"ってな」

肌が泡立つ心地と共に、小十郎が黙って一度唇を噛んだ。微かに厭な音がし、鉄の味が口内に広がる。

「あいつが一番、それをわかってる。わかっているから引けないんだ。それを、俺らが、言えるのか?」

一言一言言い聞かせるように成実が言うと、小十郎ももう何も言わなかった。
彼らは己の保身になど、微塵の執着も無い。思うのはお互いに同じ只一人のため。ただその向きが立場によって多少違うだけだ。
間を置いて成実が腕組を解き、緩やかに歩を進めた。

「大森に戻る。後は頼んだ」

彼らは等しく死地に居る。






朽木に燈る轟々とした炎を、隻眼は酷く静かに見つめていた。
兜を取り去り、気だるげに傾げた横顔には疲れも憂いも見えるが、苛立ちはない。釣りがちの左眼も今は細められ、幾分柔和になっている。
動くものといえば、足元から伸びる影に時折爆ぜる細やかな火の粉。食指に挟んだ煙管の燻りのみ。
家臣二人が去ってからも、政宗は微動だにせず思案に耽っていた。
その内容は実に多岐に渡った。これからの己の行く末であったり、家のことであったり、明日の陣構え、兵の投入加減やらの算盤勘定。果ては天候、食料、襲い来る眠気に対する愚痴まで、と枚挙に遑がない。
成実に返事を寄越さなかったのは、別に頭に来たからでは無い。こう言ってしまってはなんだが、元々、猪苗代自体にそれほどの期待を持ってはいなかった。
そして心のどこかで、恐らく巧くいくまい、という妙な確信があった。緻密に打ち立てられた計算や憂慮とは違う、漠然とした直感として。
政宗は普段、あまりこういったものは好まないというのに。

(…そういえば)

腹が減ったかもしれない。
掬い取るように浮かぶ欲求の中、来る未来への思惟が済むと、彼はゆったりとした回想に落ちてゆく。








07<  00  >09








 多分夢みる分野としては的外れ…そんな中継ぎ第八話でした すいません(いろいろ)
詰めるところまで詰めてしまいたかったんですが、流石に一万文字が怖いのでこの辺りでぶっつりと  予想以上に男臭くなってしまった…
ところでやっぱり成実ちゃん登場 大森に帰ったのは史実らしいです…まぁそんなに遠くはないんですけど、馬なんぞでよくやるよ笑