07
やおら手を掛けた太刀を鞘ごと抜き去り、成実は地面にそれを捨てた。がちゃり、と決して軽くない音が野に響く。
彼はそのまますたすたと歩き、を追い越して反対側、緑為す平野の只中で立ち止まった。暗くなり始めた空に向かってまたひとつ伸びをする。
「これでいいんでしょ」
くるりと振り返って両手を広げる。当のは少し、途惑っていた。
その彼女を通り越して、成実は先ほど捨てた太刀を指差す。
「俺の武具はそれだけだ。この距離なら腕でも伸びない限り、絶対に抜けない。安心でしょ?」
「…随分あっさりした心変わりね」
「そうでも無いよ。俺も、思い出しただけ」
「? 何を?」
不思議顔のに、苦い微笑顔が返る。
「話がしたかったんだよ、あんたと。俺もそれを、忘れてた。それなのに物騒なもんぶら提げてちゃ駄目でしょ」
「…話、っていっても……」
何を、とは無粋すぎる気がして言えず、困ったように口を噤む。成実はそれにひらひらと手を振った。
「そー畏まらなくても、別にこれといってあーだこーだと訊きだしたいわけじゃないよ、梵と違って」
「ぼん?」
「ああ、殿のこと。梵天丸っていう幼名から取って、梵。小さいときの名残で、今もたまに呼ぶんだ。怒られるけど」
「…随分気安いのね」
「元々うちはそれが身上だよ。年寄り連中は嫌がるけど、殿様があんな性格だから若いもんは身分に括られやしない。頓着が無いって言うか…尊敬が凄い熱いから儀礼以外では些末なことなんだろうな」
「ふぅん。でも、片倉殿は少し毛色が違うような気がする」
「あれは別! 無理! 俺も怖いもん! いいようによっちゃ俺らの最後の良心だね」
「…良心が怖いの?」
「普段やんちゃが過ぎるから」
先程までの彼とは違い、軽快に舌を動かすその顔は柔和だ。逸っていた気が落ち着いたのだろうか、膨れ上がるようだった気配も形を潜めている。
真意を汲み取りかね、はぼんやりと止め処なく話す侍従の姿を見つめていた。その口から滔々と流れるのはさほど重要とは思えない、しかし生々しい現実。そのほぼ凡てに、密やかながらも彼の主君の姿が織り交ぜられていた。
なぜ、と問うのを待っている。そんな気がした。
「成実さん」
「ん?」
「わたしがどうすれば一番いいと思ってる?」
解っていながら、素直に問うではない。話が途切れた好きの潜り込ませた問いに、成実もひたりと口を噤んだ。
若しかしたら、良く似ているもの同士なのかもしれない。含んだ目つきのに向かい、成実は少し含んだように笑う。
「そりゃ、子ができれば言う事無いよ」
「…そういうのは向こうに言って。わたし一人の問題じゃないし」
「そうかなぁ、要は其処に収斂されてると思うよ。お互い百歩…じゃ足りないか。ま、二百だか三百だかそれぐらい譲りあってさ、仲良くすればいい。俺が言いたいのはそんだけ」
は僅かに嘆息する。
「あーあ。今日一日で、殿にどれだけ人望があるのかはよぉくわかった。もうお腹一杯ね」
「それは何より。じゃーもう生意気言って俺にこんなことさせるのやめてね」
「…やっぱり原因は其処なのよね」
「当たり前。あれは俺の、ただ一人の殿様だ。侮辱されたら我慢は出来ない」
成実が背を向けたので、からその表情は見えない。ただ抑揚の変わらない声だけが続く。
「皆も同じだ。小十郎も綱元も、誰も彼も梵に心底惚れてる。あいつならきっと奥州だけじゃなくって、この天下を平らに出来るだろうさ。そこに障害があるなら、俺の命で以って取り除いてやる。何一つも一向に惜しくないと思わせる…あいつは、そういう、殿様だ」
身に染み入る声には何も返さず、はただ黙っていた。
華奢では無いが、広い方とは言い難い背中はピンと張り、眼に見えずとも重苦しい空気が立ち込めているのがわかる。
おそらく二度目は無いだろう。そう、容易に思わせるほど、自分に向けられるのはやはり未だ怒気だけだと思った。
ふと、降ってきたね、と成実が額の上に手を翳しながら呟いた。
もつられ、空を見る。頬に落ちる雫の感触は冷たいけれど優しい、春の雨だ。
「俺、一旦戻るわ。迎えを遣るからここでじっとしてて」
振り返りながらややあっての言葉に、は疑わしげに眉根を寄せた。
「…一人で?」
「あの馬に二人、乗れなくは無いけど、ちょっと心許無いなぁ。それに帰った時が怖いし…」
「…?」
「仮にも側室をびしょびしょにさせちゃ駄目だろ、ってこと。この木も人一人なら庇を貸してくれるさ。不届き者も手下がちゃんと見張る」
矢継ぎ早に言われ途惑ったが、気を取り直してまぁいいかと頷いた。考えればこちらに不都合は無い。完全にでは無くとも、一人になれるのならばそれは嬉しい。
「……わかった、待ってる」
「うん。多分直ぐ来ると思うから、安心して」
戻るの間違いじゃないか、と頸を傾げたには、にやりと笑うだけですり抜ける。駆け足で木の下の太刀を拾うなり、成実は手早く馬の綱を解いた。
から少し離れ、黒毛にさっさと跨った。もう一頭も並行させ、その手綱を長めに持つ。件の馬に多少の疲れは見えるが、自分の身体の面倒は見れそうだ。
雨はまだ小振りだ。今からなら城まで走っても、如何というほど濡れないだろう。
一応余計な事は考えないように、と釘を刺す前に、が月毛の鼻面を撫でながら成実を見上げる。
「気をつけてね」
頓着無くそう言う彼女の顔を振り返り見て、成実は大きく頷いた。
胸に、一点の染みのような敗北感がある。まっすぐにこちらを見上げる黒玉の瞳に既視感を覚え、膝が微かに疼く。
当初は本気で、斬って棄てようとしていた。政宗が如何言おうが、それが伊達のためならば己はやる。その覚悟は疾うにあるのだ。
だが、だから。は斬らない。斬れない。
「…まいったよ。俺の負けだ」
「? 何?」
「いーや、こっちの話。ほら、濡れるからさっさと入ってな」
存外世話焼き性の彼に、は何も言わず笑って従う。
成実は馬頸を翻しながら、その笑顔に澱みない家臣の礼で応えた。
「雨の中、お寒いとは思いますが、何卒暫し御辛抱くださりませ。……ほんとは俺も、人には死んで欲しくないよ」
「…まぁ、そんな感じで」
「…なんだそりゃ」
と政宗は並んで溜息を吐いた。
雨がいよいよ本降りになってしまったので、お互い不本意ではあるが、肘が付き合う形で桜木の袂に座り込んでいた。何しろ老木、滴を確りと防ぐ箇所はそれなりに狭い。
ひっそりと報告に現れた追い手の忍も、主の目配せでするりと退いた。まず何よりはの説明だ。一体何がどうなって、一人きりで暢気に寝こけていたのか、政宗にはさっぱりである。
そんなこんなで今は一通り、成実との話を説明し終えたところだ。とはいっても、は丸々会話の内容を話したりはしていない。当たり障りのないところだけを話し、その他は一切伏せるか、適当に誤魔化した。特に成実の言動はほぼ捏造したといってもいいくらいだ。
ばれたら今度こそ拳骨如きでは済まないだろう。が、何分こういう事は得意な。ひょいひょいと話を作り替え、家臣が妾に信念を持って理を説いた、という風に設え上げた。
よって斬る云々は凡て消え去る。成実も凡そ、心得ているだろうし、露見はまずありえない。
こういう風に無駄に頭を使うから、いざというときに役に立たないのだ。厄介極まりない、とは、遠く小高衆の言。
しかし、若い筆頭の察しの良さも侮ってはならない。訝しんだ表情で黒い眼帯を摩る彼が、不意にぐるりとを見た。
「お前、嘘吐いてんじゃねぇだろうな」
「まさか。そんな命知らずなことすると思います?」
「思う」
「……まぁ、そういわれたら話は終わりですけど……、こんなことに嘘吐いても、わたしに得分なんて無いでしょう」
じとりとした隻眼が余すところなく睨め回すが、やはり当の彼女は暢気に前髪を引っ張っていた。
「どうだかな。meritっつーより、俺に聞かれちゃ厄介な事でも言ったんじゃねぇのか?」
「例えば?」
「成実がお前を斬るとか」
成る程凄い。さすが皆に心酔されるだけはあるようだ。
表情には出さず、は胸の内だけで感心した。
「如何してそれが厄介なんです。本当だとしたら私が隠す理由なんてないじゃないですか」
「後々面倒くさいのが嫌いそうじゃねぇか、お前。どうせ何もなかったからもういいだろうとか、温い事思って適当に言ってんだろ。おらさっさと吐けコラ」
「俺様…」
「何か言ったか?」
「些細な事です」
飄々と言うを胡散臭げに見遣り、諦めない筆頭は不機嫌そうに重ねて問う。
「あの直情型が女を連れて遠乗りなんぞに出やがるからこの雨だ。普通ならありえないし、初耳なんだよ。それだけでもうなんかあるだろ」
「だから、本当に単純にあくまで潔癖に! 二人で仲良く鬱憤晴らししてただけです。城に戻ったら、成実さんにもお尋ねになって下さい。それで合点がゆきますから」
成実も概ね同じ事を言うのだろう。確信しているからこその強気で、いい加減面倒くさくなったは語尾を強く言いきった。
政宗はむっとしたように何事かを言いかけたが、結局は開けた口をゆっくりと閉じて黙る。
むすっとしたその横顔をつらつらと眺めていただったが、気づいた政宗が睨んだのでふいと前を見る。優位さのよくわからない二人だった。
そもそも、何故政宗が此処にいるのかが、にとっては謎なのだ。
不遜な態度が気に食わない故斬る、といっておきながら、成実が入れ替わりのようにの元に寄越したのは当の総領だった。九死に一生を得たのか、そもそもからして茶番だったのか。の考えでは前者だが、どうしてわざわざ政宗を煽るのかが謎だ。
断片的にしか話さなかったが、この男はどうやら成実の言伝とやらを聞きつけて此処へ来たらしい。内容も訊いたが、それには応えてくれなかった。
ちら、ともう一度今度はこっそりと盗み見ると、余り歳の変わらない夫殿は難しい顔で前を見ていた。
やがて、老けた溜息。
「あー、阿呆くせ。のこのここんなとこまで来て、莫迦みてぇじゃねぇか、俺」
特別こちらに向かって言っているようには思えなかったので、は無視を決め込んだ。立てた膝の上に顎を乗せ、静かに降る雨の景色を見つめる。
「帰ったら覚えてろよ」
「………」
「おい、聞いてんのか」
「え、わたしも?」
びっくりしたが膝から顎を離さずに振り向けば、思いっきり不遜な顔が腕を組み、幹に凭れかかりつつふんぞり返っていた。何が背景でも同じような態度を取る人だなぁと、が妙な感心をする。
「当たり前だ。成実もお前も当事者だろ」
「さっきの拳骨で充分じゃないですか…まだ痛いんですけど」
「嘘吐け。ケロッとした顔しやがって」
基本的にこちらの弁解は成実とのことも含め、信じていないようだ。元々、人を信じてはならない立場にいるから仕様が無いのかもしれない。
んー、と相変わらず同じ体勢のまま、が器用に頸を傾げた。まだ少し眠気が残っている所為もあるが、雨音しかしない中、ぼそぼそと会話を続けていると隣にいる人物がかつての誰かであるように感じ、無意識に気安く、頓着がなくなる。気配が違うが、態度が少し似ているのもあるかもしれない。
「痛いのは厭ですねぇ。……仕置きといえば正座だったな。叔父上の熊川を割っちゃった時が一番長くて、あの時はわたしも心から反省しました」
「それ以外は振りかよ」
「いや、そんなこと無いんですけど、覚えてる分には一番申し訳なかったなぁって」
「声上ずってんぞ」
的確な政宗の指摘を受けつつ、はそれら全てを綺麗に無視した上で平然と「なので正座なら甘んじて受けます」と宣っていた。
ややあって、政宗がふんと鼻で笑った。
「殊勝で結構。ま、帰ってからを楽しみにしときな。もうじき止みそうだ、音が小さくなってきた」
「…本当」
前を向き、また野原を眺めるに戻る。水烟がゆったりと立ち上っていたが、それもじき雨水と一緒に地に収まるだろう。
政宗は組んだ腕を解き、顎と頬に指を掛けて見慣れない袴姿のを見た。
何時もは真っ直ぐ背を張って、清廉な緊張を漂わせていた項は隠れ、丸めた背にふわりと髪が落ちている。恐らく適当に纏めたのだろう、解れ毛がぱらぱらと見えた。気だるげなそれは常と違い、独特の芳香と共に政宗の視線を誘う。
今日はまた随分としなやかなものだと、苛立ちや懸念はなくただそう思った。穏かな雨音に心も同調したようだ。
もっとも、政宗がつくづくと思っていることなどは露知らず、当の本人は眠気に負けそうな瞼と必死に戦っているだけなのだが。
長い髪を辿る視線が地に着くと、ふと政宗がの背に口を開いた。
「お前、髪踏んでる」
「…えっ」
言われたが顔を上げ無理に頸を捻れば、尻の下に敷いてしまった髪が突っ張り、あいた、と唸る。
それなりに痛かったのか、そろそろと元の位置に頸を戻し、膝立ちになって毛先を救出した。右肩に全てを纏めながらまた元の位置に座る。
「あーあ、ドロドロ。…長いの鬱陶しいなぁ」
毛先の泥を払いながらぶつくさと文句を言い、結っていた髪を一度解いた。手櫛で適当に梳くが、手付きが危なっかしいので余計ぐちゃぐちゃとなる。
しかし本人は気にせずそのまま捻っては紐で括ろうとするので、堪り兼ねた政宗が待ったをかけた。
「やたらにするな。絡まるだろ」
「構いません。玉になったら切ったらいいんですし」
「は!? 切るなよ、丁寧にやれば済む話じゃないのか」
「だって…いたっ」
話す間も動かしていた指に早速絡まり突っ張る。
躍起になり出したの腕を、嘆息しつつな政宗が袖越しに掴んだ。
「しょうがねぇな、おら貸せ」
「えっ、やっ」
抵抗する前に掌から括り紐が抜き取られ、ごきっと頸を回される。痛いと思う間にも髪を掬う感触が首元に伝わり、これには流石のも慌てる。
「ちょっ、殿、何を」
「見りゃ解るだろ」
「見えません!」
「…下手で見てられねぇんだよ。苛々する。じっとしてろよ」
「とんでもないです、態々殿手ずから…って、っていうか、ほんと、くすぐった…!」
「は?」
一掻きしただけでひーひー身を捩りだしたに政宗が手を止めると、顰められた黒瞳が微かに振り仰いで訴える。
「わたし、あの、首が、あのほんと駄目で、人に触られると、が、我慢できなひああっ! や、やめてくださっ」
言いきれずに頸を肩ごと竦めて抵抗する。実際、政宗は掠める程度にしかの首に触っていない。つまり、こうなるともう本人の意識の問題だ。
最初のうちは彼もきょとんと呆気に取られていたが、やがて実に深く会心の笑みを浮かべる。よく言えば彼らしい、悪さを思いついた独特の笑顔。
まだ身悶えているの頭を、ぺちっと軽く叩いた。
「うるせぇから叫ぶな。じっとしてろよ」
「ほ、本当にやめ…っ」
「やだね。大人しくしてりゃすぐ済む」
「ひゃははははっ離しへはっ」
「何言ってるかわかんねー」
打って変わって上機嫌で細い髪束を改めて掬い、情け無い声をあげ続けるを無視して器用に編み出した。女の髪の編み方なぞ知らないが、太刀緒の修繕ならよくやる。あれは絹の縒り糸で形は太かったが、一本一本を取ってみればの髪と正しく同じだ。
香の匂いも手触りもないが、毛束を動かす度に、ふうわりとしたやさしい芳香が香る。の指には容易く絡まったが、ゆっくりと梳く政宗の指には、纏わりつくどころか流れてゆく。
ただすべすべと掌から逃げていく感触は、ひんやりと冷たく気持ちがよかった。
「こんなもんか?」
紐を括り終えてから、無駄に息が上がっているに一応は訊く。だが本人は途中から膝に顔を突っ伏し、見ざる言わざる感じざるを貫いていた。政宗が動きを止め手を離した後もその状態を続けていたため、問いは無意味に終わる。
わずかに覗く白い頬が真っ赤になっているのを見て、政宗は少し勝ち誇ったように笑いながらやれやれと彼女から距離を置いた。
「何時までやってんだ。もうなんとも無いだろ」
「…いえ……ちょっと余韻が……」
「あるかそんなもん」
「………ぅ…はぁ、…死ぬかと思った……」
顔を上げ、すんと鼻を啜った。安堵からかゆっくりと息を吐く。
目尻を拭うその仕草も手伝ってか、政宗が途端狼狽するが、当の彼女は暢気に結われた頭を恐る恐る弄り始めていた。
「…前から思ってたんですけど」
一通りを終えぼそっと言うに、政宗は及び腰になりながらも尊大に返す。
「なんだ」
「殿って、器用ですよね」
櫛も無いのに、背に垂れた見慣れない結い髪に乱れや解れはない。よくよく見れば、括り紐は単純な結びではなく、花形に見えるよう手が込められている。
芸が細かいなぁ、とは素直に感嘆し、素直に頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「………なんか、お前の方こそ偽者っぽいよな。今日はまた豪く素直なこった」
ちっと強く叩きすぎたか? と中々失礼な事を言う彼にも、は常のように辛辣にはならなかった。
これを機とばかりに、眉尻を下げて何とか苦く笑う。消化しきれない蟠りもあるが、これは成実にも約束した事だ。果さなければならない。
「それから、…ごめんなさい」
ぱっと見開き、すぐにふと鋭くなる隻眼をはじっと見、やがて目を伏せる。
居た堪れなさが身を包んでいたが、後悔ではなかった。悪い事をしたら謝る、その行為に必ず付き纏う、うっすらとした恐怖だ。
政宗は黙ったまま、起こしていた身をまた幹に預ける。
片膝を立てて預けた腕を握ったり閉じたりしつつ、から片時も目を逸らさない。
「何が」
端的な問いの抑揚は変わらなかった。だが容赦も無い。
は握っていた毛の先を離し、ゆっくりと口を開く。
「…先日の事」
つい、と再び顔を上げる。
「生意気を、言いました。いざ戦って傷つくのは殿御なのに、痛い辛い事ばかり、目を向けてしまって」
じっと政宗を見る顔は、泣いてはいないが泣きそうだった。不安げな眉に、引き締められた唇が居心地悪そうに曲げられている。
それでも目を逸らさないのは彼女なりの意地だろうと、政宗にはそうと取れた。
「だから、ごめんなさい」
唐突、にしては決意の籠る声に、漸く雨の中掛けてきた彼の思考の網が解かれてゆく。
政宗にとっては、少し脅されたからといって考えを改めるような手合には思えなかった。そすしてこの場で謝罪などを切り出すのだから、成実との話し合いはまぁつまり、そういったことだったのだろう。
しかし、言ってみたところで彼女は否定するだろうから、嘆息するに留めた。
ぴくり、と細い肩が揺れるがものは言わず、ただ漸く視線を下げる。
「どういう心境の変化だ?」
「……変わっては、いません。あれはあれで本心ですから」
「なら謝るな」
即座に切り捨てられたは政宗を見ようとし、だが少し躊躇った視線がやはり膝に落ちる。
「…でも」
「口先だけの忠節はいらねぇ。お前はお前で信念があるんだろう? それを曲げる気は無いんだろう? だったら、貫けば良いさ。…俺が気に入るかどうかは別だがな」
いつぞや聞いた声と同じ声だ。太くて低い、静かなのに透き通った。
だが響きが違う。何か心境の変化でもあったのだろうか、控えめのような、優しいような気もする。今地に沁みる雨のように。が僅かに瞠目し、今度こそ顔を上げた。ぶつかった視線の先は苦く、本当に苦く笑う男の顔で、彼女はまた更に狼狽える。
脳裏に残っている政宗の印象というものは、どれも思い出せば背に緊張が走るものばかりだ。負けてはならない、飲まれてはならない、と常に我を張らなければ、たちまちに全てを瓦解させてしまう。そういう、眼光。
それを今更、こんな表情をされると、どうして良いのかわからない。寧ろ少し、怖かった。
……そう、恐怖だ。
今更のように、だが新鮮に思い至る。意識してはいたが、それより深いところで更に、怖かったのだ。
伊達政宗が。夫という、"男"が。
どっと肩から気が抜け、なぜか笑いが込み上げる。それを隠そうとして、恐らく変な顔になってしまったのだろう。政宗が苦笑を引っ込めた。
「…わたし……ああ、そっか…そっか……」
「おい?」
怪訝な声に申し訳ないとは思いつつ、それ以上に情けなくては両手で顔を覆った。いかにも娘らしいその感情に嫌悪とまではいかないにしろ、半端では無い気恥ずかしさが込み上げたのだ。
まさか持て余していた感情の正体がこれとは。自分でもわからないのだから釈迦でもわかるまい。
というか寧ろ気づくんじゃなかった、と胸中で身悶えるを、てっきり泣き出したと勘違いしたその夫殿は、明らかに彼女の二倍は動揺していた。
ぎょっと動きを止め、慰めるべきか理由を聞くべきか、叱咤すべきか激励するべきか、目まぐるしく情報整理を行なっている。
日頃から女の扱いには慣れているのだが、この妾の行動や思考は及第点を遥かに超えて余り余っているのだ。何が引き金で悪化するか解らないから、常のように適当に慰めたり冷やかしたりなど、迂闊なことは出来ない。
よって、結局はが自力で立ち直るまで彼は不動、という始末だった。
とりあえず、上げた顔が赤いにせよ泣き顔ではないので、安堵はしたが。
「…すいません、ちょっと猛省してました」
ふーっと大きく息を吐く彼女に、今度こそ政宗は脱力する。
「謝った後にすぐ反省か。どんな神経だよ」
「あ、違いますよ。殿に言ったことは少し脇に置いておいて」
「置くな」
「えっと、だからつまり……ちょっと、自分のことが今まで以上に気に入らなくなっただけです」
政宗がぱちぱちと瞬いた。思考の名残も相俟ってまた怯むを、しみじみと見つめなおす。
「ふーん…気に入らない、ねぇ」
「…?」
「何処が」
頬杖を突きつつぐいと身を乗り出した政宗に、は思わず身を引く。無意識に冷や汗をかいていた。
「いや、それは色々たくさん…」
「じゃ、お前がいきなり落ち込んだ理由でいい。なんでだよ」
「あー…」
「適当言うんじゃねぇぞ」
見透かされて先手を打たれ、の視線は一瞬宙を舞った。何か、展開が郷里と似てきた気がするのは気のせいだろうか。
しかし取る行動はあくまで同じで、何処までもだ。しらを切ろうとぼえぼえ余所見をする。
「平たく言うと…若さを思い知った、みたいな」
「そりゃ、お前は若いしな」
「ちょっと忘れてたんです。頭痛持ちですし」
「関係あんのか。………まぁ、しかしあれだな。なんか意外だ」
「意外?」
無事流れたようだと安堵し、だが鸚鵡返しに問えば、形容しがたい視線と微笑が向けられる。
「自省なんぞからは程遠いと思ってた。口達者な上に教養もあって、その外見だ。さぞちやほやされながら育ったんだろ」
今度はが驚いた。
元々大きな目を、今まで見た中で一番というほど見開く。
「なんだよ?」
の反応が意外だったので、政宗もきょとんとして返す。はじっと政宗を見て、微かに頸を傾げた。
「いえ……まさかそんなこと言われるなんて、思っても見なくて。そっか。そう見えますか?」
真顔で訊き返すに、政宗はやや呆れて肩を竦めた。
「その年で嫁いじゃいないわ、よりによって俺に向かって轟々と説教垂れるわ。何処を如何とっても箱入りにしか見えないね。縁談なんて十かそこらから腐るほどあっただろ?」
「あるには、あったらしいんですけど」
「らしい?」
「あんまり興味が湧かなかったので、凡て叔父上と先方にお任せしてたんです。でもいつも何かで拗れて御破算になって。わたしの耳に入ってくるのって大体その後ですから、印象も何もないんですよね」
「…coolなやつだな。…まぁ、上手く立ち回ってたってことか」
「いえ、わたしに縁が無いだけで…」
「それも盛胤の画策だろ。俺との和議も、手前の娘はあっさり了承したのに、お前を出すのは随分渋ってやがった。…原因は色々あるだろうがな」
途端、が困ったように俯いた。
しかし今、政宗にあまりその気は無い。を僅かに見下ろしつつ、ほうっと溜息を溢す。
「まだ理由も言えないか?」
これだけ緩急をつけるのだ。そろそろ陥落しても良さそうなものを、この辺りは箱入りにあるまじき頑固さだ。
黙り込む彼女を何時ものように見つめていたが、やがて焦れた政宗が取成そうとした時、
「………今は」
ぽつり、と零れた声は、彼女自身も意識していないのだろう。茫洋と彷徨い、俄かに弱くなった雨音に混じる。
「まだ、わたし自身、……気がついてゆかないんです。…だから、理由も、たくさんあって」
噛み締めるように言う声は、初めて言う彼女の本心なのだろうか。政宗にそう思わせるほど、声音には深い切迫と、困惑が見えた。
ただ相変わらず約束事のように、欠けた左の手をゆるゆると握る。
こうまで彼女に口を噤ませる後悔とは、一体何なのだろう。
胸の内に、酷く純粋な興味がじわじわと蔓延しだした。その好奇心ゆえ、政宗は何も言わずにただ彼女の言葉を聞く。
「…いつか、もう少ししたらきっと、ちゃんと、御説明できると思います。……それまで」
伏せた眼が僅かに上がった。
「待って頂けますか」
長い睫毛が陰となり、黒い目を更に深くする。人、というより、真摯な獣の目だ。それほど一心で、曇りない。
女の憂い顔は美しい、そう漠然と思った。無論笑顔と比べるべくも無いが、生憎の笑う顔は、苦笑や嘲笑以外まだ見た事が無い。
この顔が己の手により恍惚を宿す時は、一体どういう風になるのだろう。頬を染めて目を潤ませ、切なげに喘ぐ泣き顔じみたそれは、今以上に目を奪うのか。
止め処ない思考を持て余した上で、政宗は無理にから目を背けた。
「…言うんだな」
「……いつか」
「だらだらと何時までも待つつもりは無い。縦んば話したとしても、俺がそれで納得できなきゃ、仕舞いだ。そん時にゃ凡て吐くか?」
「………はい」
が硬い表情のまま、とうとう頷く。
政宗はすぐ、投げ出されるようだったその左腕を掴んだ。
「聞いたぞ。覚えたからな。手前で言ったことだ、俺を失望させてくれるなよ」
込められた力と向けられる視線は弱くないが、は構うことなく再び固く頷く。
これが恐らく、ぎりぎりで、最良の策なのだろう。は、一度約束すれば必ず守るのだ。
だから若しかしたら、その"いつか"で凡てを吐露することになるかもしれない。
…その時は。
ゆっくりと、ほんの僅かだが、が微笑む。
「誓って」
政宗の瞳が動揺と熱を宿したと同時に、立ち込めていた雲間から一筋の光が漏れた。
伊達殿は普通にかっこいいと思うんですが、わたしよくわからない(本音) 根暗に違いないとは思うんだが…
そんな感じで今回もお疲れ様でした。無謀な会話群ウィズ第七話、お楽しみ頂けましたら何よりです
仲良くなってしまったら終わりという連載なので(!)やはり一通りを終えたらすっぱりと短編に移行したいと思います ので、これはこのぐだぐだの殿様が「BASARAの伊達殿」になるまで、みたいな感じでいこうと。 さっき決めました!(言わなくていい)
そしたら考えあぐねてた幸村殿も佐助も出せそうですぞお館さむわ… 世知辛い人は大概悪役に使われて可哀想ですよね〜って勿論わたしもそのつもりです