06






一度決めればの行動は早い。
静かに諌める侍女には手を振って遮り、下がらせた。そして揚々と着付けだしたのは、小高から持ってきていた自前の袴。色は若い所為もあってか深すぎる濃紺で仕立てられ、余り似合っていないと思う。
腰元で紐をきつく結い合わせると、背筋がしゃんと伸びる。姿見前で邪魔な髪も括り、適当に撫で付けながら駆け足で成実の元に取って返した。
戻ってみると、彼は当然のように鞍を乗せた馬を二頭、用意して待っていた。しかしまた呼び止められているのか、地に跪く何某かに顔を向けながら、頷いて下知している。
今度は足軽のような男だった。槍も何も持っていないが、軽快な身形は恐らくそれと言うに一番近い。男は伏せた顔のまま静かに何事かを述べていたが、気を使っておっとりと近づいてきたの顔をちらと見ると、感情なく目を細めたまま更に深く顔を伏せた。
成実はそれで気づいたのだろう、くるりとに向き直る。

「行こうか。ぐずぐずしてたら日が暮れる」
「ああ、うん」

何か問題でもあったのだろうか。頷きはしたものの、の視線はいやに気の薄いまま項垂れ続ける足軽を見遣る。
その先を、成実がそっと防いだ。食指を軽やかに操り、の視線を巧みに誘う。

「ほら見て」
「なに?」
「羽虫がやけに騒いでる。そうでなくてもこの曇り空だろ? 一雨来るだろうね」

彼が言うのは迷信のことだ。夕立前になるとなぜか小さな虫が忙しなく飛び交う、という些細な訓示だが、これが意外に当たるもの。薄曇の空はまだ美に値するものだが、いつ重々しい灰色と成り代わるか知れない。
そういえばあの蜘蛛も、とは頷き、確りと括りつけられた馬の鞍をじっと見つめた。

「雨具はいいの?」
「んー、そんな遠くには行かないし、今見る限りじゃ大丈夫でしょ。欲しいってんなら取りに遣らすけど」
「ん、わたしもいいわ。身軽なほうが楽ね」

言うなり己の右片にて頭を垂れていた馬の手綱を取り、制止する間も無く案外身軽に跨る。つやつやとした墨色の馬は多少嘶いたが、それも悠々と往なしては成実を見下ろした。

「行こう」
「一人で乗れる…んだよねぇ勿論」

やれやれと頭を振り、彼も月毛の馬に跨る。どちらかというと彼はを此方に乗せたかったのだが、奔放な姫はどうやら黒馬がお気に召したようだ。黒金色の鬣を白い指が撫でている。
肩を竦め、馬頸を門に向けなおす。が続く気配を確認した後で、成実は頭を垂れ続ける男を改めて見下ろした。

「じゃ、行ってくる。くれぐれも、よろしくな」
「…畏まりまして」

僅かの後、伏せられた顔から感情のない返事が漏れる。馬番は静かに頭を下げ、心配そうな笑顔で見送りに立った。
もっぱら、その視線はにだが。






「着替えて出た?」
「はぁ…」
「何に」
「軽杉袴で御座います。元々、お持ちになっておられた様で…。…あの、私どもは御止め申したのですが……」
「言い分けはいい。何処に行くか言っていたか」

平伏し奏上する侍女の口上を、政宗は腕を組んだまま冷淡に遮った。
淡々とした声音を項に受け、女は更に額を木床に擦り付ける。

「いいえ、存じませぬ。……も、申し訳…」
「わかった。もういいから下がってな」

膨れ上がる怒気に縮こまっていた女は、その言葉に飛び退る勢いで去った。
足音が遠ざかり、やがて消え、しんと静かになる。かと思えばびゅうと強めの突風が吹き、庭木を揺らしてまた去った。眺めているここは外向きの廊下であり、春とはいえ木板は少し冷たい。
僅かばかり不安げな空を見上げながら、政宗はいよいよ溜息を吐いた。
腕を組みなおし、素足のままの爪先を苛立たしげに床に打ち据える。

「ったく…ちっともじっとしてやがらねぇ」

小十郎に追い立てられた手前出たはいいが、どうにも気が進まずのらりくらりとやって来たのが仇となった。
訪ねてみたら後の祭り、の姿は既に見当らない。無論、成実もだ。
一度居室に戻り、袴に着替えたとなると、遠乗りをするという成実と共に、二人揃って出かけたことはもう明白だ。
禁じてはいないから、城周りをぐるりと駆けるだけならば許してもやる。ましてや成実が共にいるというならば尚更、特に不都合は無い。
だがそうと解ってはいても、何だか厭な気分ではある。
暫しの間難しい顔で黙り込んでいた政宗は、やがてやれやれと肩を竦めた。

「…おい。俺の妾はどこへ行った」

うんざりとあらぬ方向へ問えば、少しの後、軽い身のこなしで現れた軽装の男が瞬時に地に方膝を着く。

「見たか」
「は。先程、籐五郎様と共に騎乗なされて城を出奔。二人ほど後について居りまする」
「行き先は」
「御方様が表門前で、"桜が見たい"と仰るのを聞きましたが、詳しい事は…」
「…なんつーaboutな」

ていうかもう散ってるだろ、と若葉が青々と繁る庭木をげんなりしながら眺める主人の言葉に、忍は是非を言わない。
するとふと、顔を伏せた草が視線だけをちらりと傍らにやる。
見れば、同じ身なりの男がもう一人、またもや颯爽と現れては片膝を着いた。

「どうした」

おやと政宗が訊けば、二人目の男は幾分固い口調で奏上する。

「ご伝言でございまする」
「成実か」
「は」

是という忍に対し、幾分和んだ様子の政宗が鷹揚に顎をしゃくる。

「相変わらず用意周到なやつだな。言え」
「"少し借りる。無事に帰すに値するかどうか、見極めてくる"…と」

行き先だろう、と当りをつけていた政宗は、この言にさっと片眉を上げた。
主が口を開く前に草は続ける。

「籐五郎様は件の、御内儀様をしかと見極めよと殿が下された命、密かに継続されておいででした。無論、我らが侍るのは殿の御命。ですがそれで己は納得できぬ、と」

政宗の脳裏に、いつぞや池の辺に佇む彼女を見ながら、政務室で交わした会話がゆっくりと蘇る。慌てたような、しかししんとした成実の声がそのまま、耳の奥から這い上がった。
だがあれは、己がその場で即禁じたはずだ。決して構うな、話すなと。
男は顔を伏せたまま一拍を置き、変わらぬ声音で先を接ぐ。

「その折、夕刻御二方で居られた際の口上を耳になさり、真に遺憾であると仰せられ」
「俺が何時、それを許した」

酷く静かな声が忍の口上を遮る。
重い、濃密な気配が斜に立つ政宗から流れ出でる。
男は暫し黙ったが、やがて更に深く叩頭し「なれど」と続ける。

「御内儀様の不忠、縦んば殿が許しても、伊達家中誰一人見過ごすわけには参りませぬ」
「…そんなものは、あいつを嫁にした時点で片付いた問題だ。さかしらの娘を慰み者にするんだ、多少の侮辱なんぞ上等。今更戯言の一つや二つ、俺が良いと言う限り捨て置くのが忠義だろう」
「殿は我等の王で御座りまする」
「その王に、お前らは恥をかかすのか!」

苛烈な憤怒に、跪いた忍二人は僅かにも身じろぎしない。
固い男の背を睨む隻眼からは今にも火花が散りそうだ。犬歯を見せたまま何事かを耐えるようだった政宗は、だがやがて押し殺した声で命じた。

「考えあっての行いだろう。咎めはしない。だが今回の事を刻んでおけ」
「は…」
「俺が唯一無二だというのなら、俺のものに手を出すな。…成実にもそう伝えろ」
「畏まりまして」

苦々しくも頷いて後、男は現れた時と同じに瞬く間に消える。
政宗は次だとばかりに最初の男に向き直り、羽織を脱ぎながら朗々と叫んだ。

「お前は案内しろ。誰か、馬の用意だ!」






頬を切る風が温い。目の端を通り過ぎてゆく緑はごく柔らかく、息を吸う度に香ばしい匂いが胸に澄み渡る。
すっかり、春であった。
城内に囲われた自然ではなく、が感じたかった、生きたそのままの春が惜しむ事無くそこいらに広がっている。上気する頬に、自然上がる口角。にやける顔をすっかりと開放し、鐙の音もさわやかな二頭は、ただ只管に駆けていた。といっても、そう早い足並みでもない。成実が気遣っているのか、がのんびりしているのか定かでは無いが、人の全力疾走とそう変わらない速度だ。
賑わう城下をあっさりと抜け、ゆったりゆったりと田畑の広がる些か大きめの道を行く。農閑期は既に過ぎ、農民と思しき幾人かがせっせと作業に精を出している姿があちこちに見受けられる。子供が走り回る姿もあって、と成実の馬を見るなり、はしゃぐ声をあげていた。大人が慌てて窘めるが、無邪気な彼らは笑って逃げる。
平和そのもの。薄曇だが暖かい空、緩やかに移り変わる景色。枯渇していた心が急速に潤ってゆくのを感じる。
上機嫌の極みのに、傍らをゆく成実が笑いかけた。

「すっげぇ気持ちよさそう。連れて来た甲斐があったねぇ」
「うん。もう本当、最高の気分!」

弾んだ声は成実の知るらしからぬもので、笑いかけながらも少し驚く。
溌剌とした目元に、見る見るうちに日光がしみこんで行くようだ。死んだ小魚を思わせた白い腕も、今は春の若木と見間違うほどほんのりと上気する。

「もう少し行ったら、いい平野がある。そこで少し留まろうか」

がにこやかなまま頷いた。

「野を見て廻ってもいい? 目の届くところ以外には行かないから」
「勿論。お望みの桜もあるよ。あれは結構老木だから、多分今が見所だ」
「楽しみ! じゃあ少し、早く行こうか」

言うなり、が軽く馬の腹を蹴った。すぐに並んでいた成実をあっという間に追い越し、纏めた髪を靡かせて奔る。
女とは思えないほど巧みな馬術だ。道中成実にそう思わせた鮮やかな綱捌きはしかし、少し敵愾心を煽る。
成実も伊達に措いては名の通った武将だ。あっさりと抜かれたまま目的地につく事を良しとしない。

「…おーし」

ぐいと手綱を持ち直し、逸る荒馬の鼻面を下げた。






咲き狂いの桜はしかし、予想に反して粗方が散ってしまっていた。縦横無尽に伸びた枝から白い花びらが緑と茶の斑な野に散り、儚い散華は細やかな残雪を思わせる。
抜きつ抜かれつ、緩やかながらも勾配のある丘の高地にひっそりと佇む桜の麓まで続けられた競争は、どうしたことか息が上がってしまった政実の馬の敗北だった。
黒馬は悠々と大人が四、五人手を繋いで囲めるか、というほどの老木を一回りし、まだ走り足りないという不満をに訴える。それを軽く宥めながらそうっと地に降り、同じく降りては馬の具合を見る成実のもとに寄った。

「調子でも悪いのかしら。鼓動がやけに早い」

柔らかな体毛越しに早鐘となった脈動が添えた掌を打つ。心配そうな表情のは見ず、成実はどうということもなく首を傾げた。

「どうだろ。出掛けは何でもなかったんだけど…言葉が通じないからわかんないや」

大事はない、と言って、が握っていたもう一頭の手綱も成実が受け取る。纏めて木の裾に括り付け、一度乳白色の鼻面を撫でた。ぽんぽん、と叩いて後、馬に背を向けた彼はうんと大きく伸びをする。関節の音を軽く往なしながら、苦笑とともにに向き直った。

「流石、女で螺役を勤めてただけはあるね。ちょっと、舐めてた」

苦い表情に、も眉根を下げて応じる。苦手な表情の一つなのだ。

「わたし自身は大した事ないわ。そっちの跨った方が調子悪かっただけでしょ」
「そんでも勝ちは勝ちだ。走りも様になってたし」
「馬がいいから…」
「また謙遜! 俺が他人を褒めるなんて滅多にないのに、勿体無い」
「…じゃあ、素直にありがたがっとく」
「そうして」

緩やかな風が吹き、の語尾を頼りなく攫う。巻き上げられた散華が広がり散る野に、一面の草花はいま当に萌えている。輿入れの時最後に見た野は雪に覆われて白かったのに、今は芽吹いた緑と散った桜に埋もれ、深く深く息づいている。
その季節の流れが悲しく、また愛しくて、はただしっとりと息を吐いた。

「綺麗なところね」
「気に入った?」
「すごく。…土のいい匂いがする」
「良かった。ここ俺のお気に入りの場所なんだよね」
「いいの? お気に入りの場所なのに、連れて来て貰って」

が頸を傾げると、成実はおどけて頭を下げた。

「御方様の御所望とあればこの成実、断るわけには参りませぬ」
「よーしじゃあ今から取って返してお茶とお団子持ってきて。御所望です」
「ひっど! 下手に出た途端やりたい放題じゃん!」
「自分で言ったのに」

会話とは裏腹に、お互いの表情は明るい。
成実が内心驚くほど、はくるくるとよく笑う。綺麗な瞳があちこちに彷徨い、野の全てを浚うかのようだ。
鳥がひよりひよりと鳴きながら飛ぶのを見上げ、彼女はまた大きく胸一杯に息を吸い込む。

「ありがとう」

唐突なの言葉は、吐息と一緒に吐き出された。
それで成実は彼女を凝視していた自分に気づいて、重ねて少し、眼を見張った。

「何が?」

視線を逸らし、同じように薄曇りの空を見上げて成実が言う。
も彼を見ずに、笑顔のまま続けた。

「一緒に連れて来てくれて。わたし、こんなに楽しいの本当に久しぶり。すごくすごく嬉しい」

城にいた頃とは及びもつかない、生きたままのいい表情でが笑う。彼女は今、心の其処から外を楽しんでいる。
眩しいそれを横目で伺ったまま、成実が幾分眼を細めた。

「…そう」
「だからもういいわ」

突風が吹き、が突然口にした言葉もあっけなく吹き飛んだ。強い風に地にも空にも、白い花びらが雪のように降る。
今日明日には凡て野に積もるだろう。老木を覆っていた花弁が今度はこちらの身を覆う。

「…何?」

成実が言う。

「もういい、って言ったの」
「何が」
「無理しなくても。…だって」

成実が、今度こそ真っ直ぐとを見た。

「怒ってるでしょう。わたしのこと」
「………」
「怒ってるよね。最初に会ったときから」

彼女ももう成実を見ている。その顔は相変わらず笑っていて、ひどく満足げだった。

「池でのこと、思い出したわ。手を振った人ね。旋毛に視線が刺すように痛かったから、思わず顔を上げたの。殿かと思ったけど…貴方だったのね」

そして馬小屋前で声をかけられたときにも、は成実から言いようの無い怒気を嗅ぎつけていた。
それは些細なもので、また更に成実がよく笑うので、最初は自分の勘違いかとも思った。
深い瞳の持ち主だから、恐らく若さに似合わず相当の切れ者。自分の感情くらい消してみせるのは容易いだろう。ならばこの微細な乱れはありえない。
やはり、思い違いか。
うつらうつらとそう思っていたの僅かな疑念は、この野に来て確信に変わった。
はすっと腰を屈め、あたりを覆う緑に手を掛ける。土の僅かに湿った感触と冷たい温度が手に馴染む。

「何に怒ってるの?」
「…なんだと思う?」

錯綜しない視線が彷徨うこと暫し、成実がとうとう笑ってに是を示した。

「わたしが気に食わない、から」
「随分と多岐だね」
「はずれ?」
「いいや。平たく言えばそうだ」

若武者はまだ薄く笑いながら、腕を組みつつ老木の幹に寄りかかった。がやっぱり、とやけに肩の荷が下りたように呟く。
馬は静かに草を食み、ただ風だけが少し強い。

「…で、どうするの」
「? なにが?」

突き崩れない表情は演技か素か。成実は口元を少し禍々しく深める。

「二里四方、人っ子一人いない平野だよ? 俺とあんたの二人だけだ。此処で、今何が起きても、後で如何とでも言い募れる。残念ながら伊達領はまだ治安も悪くてね、若い娘はよく野盗に狙われる…見目麗しいとなりゃ、尚更」

凡そ表情からは程遠く爽やかに言い放つ成実の腰、一振りだけの太刀が触れるわけでも無いのにガチャリと鳴った。わざとらしいそれは、まるで握れと刀が言っているかのようだ。
は黒光りする鞘をじっと見詰めてから、おもむろに腰を上げた。

「…例えば、だけど」

土の着いた手を払い、は成実を見ずに馬を見る。

「わたしを殺した後、どうやって帰るの?」
「どうってそりゃ、馬で」
「黒馬で?」
「月毛の調子が戻らなければね」
「戻るの?」
「…何が言いたいわけ?」

ふっと、可憐な吐息が唇から漏れる。一度目を閉じてから、は改めて成実に向き直る。
相対したその表情は穏やかだが、どこか微かに落胆が見えた。それが何故なのか、成実にはわからなかったが、驚いたことに少しの畏怖を感じた。目の前の、まるで非力そうな丸腰の小娘相手に、刀を握る若武者が半歩退きそうになる。得体の知れない彼女を油断なく見つめながら、成実はただ先を待った。

「何だか少し、残念ね。ここまで見縊られているのかと思うと」
「………」
「わたしが素直に、あの馬に跨ると思いましたか? あんなのが走れる馬かどうか、見分けくらいはつく」

老木の袂は薄暗い。成実の表情は暗い影に覆われており、佇んでいるとしかには見て取れない。だが彼からはが良く見えた。
縦横無尽に伸びた細い枝木を風が揺らし、そのささやかな音が間を持たせた後、彼は片腕で軽く頭を掻き、口調は飄々と続ける。

「…じゃあ何? 全部気づいてて俺についてきたってわけ? 馬にたらふく水をやったのも、四方を見張りに囲まれてるのも、殺されるかもしれないっていうのも」
「最後のは予想外だったけど」
「馬鹿じゃないの?」
「失礼な」
「若しくはとんでもない道化だね。予想なんかついてたはずだ。あんたが憚らず啖呵を切ったのは奥州王だよ? 諸侯に反感を買うのは当たり前、そこに示し合わせたように外に出てみないかって誘い……」

彼が苛立たしげに操る食指がトントンと音を立てる。

「どうしてついて来た」

冷え切った声音は有無を言わせない。は目を凝らして濃くなる陰を見透かそうとするのだが、やはり上手くいかない。
諦めようとしたり、粘ったり。何度も繰り返しながら、時を煉る。
ここではぐらかせばこの短気な青年は刀を抜くだろう。後先を考えず、己の激情のままに。安易にそう悟らせるほど、木陰からは猜疑心の濃い気配が立ち上っていた。
は胸中で少し笑った。人のことを言えた義理ではないが、短気で、己自身に正直な気質だ。己にとっては欠点でしか見えないが、他人となると少し、好ましい。

「知りたかったの」

隠しておくつもりだったが、声音には微笑が含まれた。だが成実の目から見る彼女の口端には、優位を確信して揺るぎない、穏やかな孤が確かに見える。

「あの殿に、どれ位人望があるのか、とか、その方はどういう気質なんだろうか、とか。…思った以上に収穫だった」
「は?」
「乗るつもりだった馬をわたしに取られて、自分はすぐ息が上がるとわかる馬に跨ってるのに、競り合いとなると無理に飛ばしたでしょう」

図星だった成実は黙る。わかってはいたが、への苛立ち地もプラスして馬の事を考えず無理をさせたのは事実。お陰であの月毛は暫く動かせず、かといって黒馬に跨って帰るわけにも行かない。
なぜなら、あの馬はが跨っていたものだと、幾人かがしかと見ているのだ。
惨劇を野党の仕業に見せかけるはずが、馬だけ無事だというのは明らかにおかしい。
靡く結髪を片手で押さえながら、が穏かに何度か頷く。

「そういう方が、あの方を好いているのね」

遠い目の真意を取りかね、成実は狼狽えて口を噤んだ。
鎌頸を擡げていた濃密な猜疑心が霧散する事は無いが、少しばかり怯む。得体の知れない態度に薄気味悪さを感じているのもあるし、見透かすようなもの言いに嫌悪を覚えるのもあった。
何にせよ、想像以上にやり難い相手だ。ただの小賢しい女なら、有無を言わさず骸と化すのに。

「あのね」

唐突な切り出しに成実ははっと身を強張らせた。は気づいたのか否か、一拍を措いてよく見えない成実に微笑む。

「わたし、謝ろうと思ってたのよ、本当に。目が覚めた。自分が何を如何しなきゃいけないのか、忘れかけてたけど、殿が思い出させてくれた。…だから謝罪と、感謝を」

言わなきゃ。
その矛先はほぼ己に向いているようだ。言い聞かせるようにしっとりと、染み入る声音が木に預けた成実の頭蓋に響く。
薄暗いこちらを判別できていない視線を、しかし彼は確りと受け取っている。黙ったままだった彼は、やがて軽く鼻で笑った。疲れたような音が鳴る。

「…だから、殺すなって?」
「死んだら何も言えないから」
「なんかさぁ、それって変に投げやりじゃない? 殿に言う事言ったら死んでもいいってことでしょ? 随分後ろ向きだなぁ、好きじゃない」
「如何して。謝るからそうかっかしないでって言ってるの」
「じゃ、言い方変える。勝手だ。俺の決意は無視だし」
「人間みんな、実はわがままよ。貴方もこれ、独断でしょう?」
「そりゃ、まぁね。…だから引け無いんだよ」

一拍を置いて、が苦笑した。ややあって成実も笑いながら珠の様なその瞳を見遣り、ゆっくりと腰に手を掛けた。








向かい風が強くなってからすぐ、それは雨雲を引き連れ、曇り霞の空を暗くした。
一雨来る、と思ったその時、鼻先に一粒の微細な雫が撥ね落ちる。
ぱらぱらとした、軽い雨だ。徐々に強くなるかもしれないが、これくらいならば直ぐに止む。
ぐずぐずはしていられない。

「まだ先か?」
「はい。この先の丘陵にて、馬を止めて御歓談を」

それなりに急いている馬足に、ぴったりと寄り添うようにして走る忍の者が応える。息一つ乱れていないその男は、途中で合流した一人だ。
に付くのはもう二人。後を追ったものと、最初から張り付いていたもの。
成実が何かしでかそうものなら、止めれる距離にいるだろう。

「道中は特に鬼気迫る御様子も無く、早駆、というよりかは闊歩の速度でありました。…籐五郎様の殺気も見受けられず」

忍の言葉に、政宗は何も答えない。
一つ下のあの小姓は目端の聞く利口な侍従だ。若さに似合わない思慮を持ち、一度戦になれば大胆不敵な知略を編む。
だが一方で、猪武者と冠せられるとおり、気性の荒い妙に一本気なところもある。火が点いてしまえば優柔が利かず、血気盛んに急いて損じる。痛い目を何度も見、その度に這い上がってきた。結果、あの年で一城の主を立派に務めている。
その重責と歴戦に求められた成果だろう、飄々としたまま悲鳴一つ溢させずに人を斬ることが出来る。だからこそ、そう短慮は起こさないと思う。だがその一方で、また不安なのだ。あの家臣は忠義に篤すぎる。
の啖呵は確かに身を賭すほどのもの。じゃじゃ馬の度を過ぎたはねっかえりとはわけが違った。己の主君であり夫であり、命を握る絶対者に向かって同等の物言いなど、手前で死刑を宣告しているようなものだ。
無論政宗自身、腹は立った。いけ好かないし気に食わない、あの仏頂面の意地っ張り。鈍いし、口だけは達者だし、自分に向けてにこりともしない。女でなければ殴っている。
だが一方で、何か別の感情も芽生えたのだ。それは自分でもよくわからない、なにかもやもやとした厄介なもの。
甘っちょろい願望だが、ああいう言葉は嫌いではない。遠い理想であり、真理だ。まさかそれを己に向かって吐かれる日が来ようとは、そしてそれが妾とは、夢にも思わなかっただけで、若しかしたら。

「殿」

酷く静かな忍の言葉に、政宗は雫が垂れる顔を上げた。

「あちらを」

ゆるやかに促す方を見遣れば、粗方が咲き終えているみすぼらしい桜の老木が目に映る。
駄々広い野原だ。成る程なだらかな丘陵になっていて、地平の端に桜が生え、後ろはただ一面の曇り空。その灰色を背に、黒々とした幹の麓に何かある。馬が駆け進むにつれ、その形が徐々に確かなものに変わる。
人だ。垂れた頭から肩口に流れ落ちる髪が長い。
窄めていた眼を見開き、政宗は矢継ぎ早に忍に告げた。

「成実を探せ。まだ近くにいるはずだ」
「心得ました」

短い返事の後、その姿は脇に掻き消える。政宗は固く手綱を握りなおした。

「あいつ…っ」

最悪の想像が脳裏を過ぎる一方で、厭に冷静な部分もあった。
何を慌てているのだろう。不都合でもあるが、好都合でもあるのだ。言い訳なんぞ山ほどある。今ここで捨て置けば、それこそ野党にでもやられたとも言えばいい。成実もそう、設えたのだろう。
しかし、その胸の内凡てに耳を塞ぎ、政宗は馬から飛び降りた。ぬかるんだ地面に溜まった水が撥ねる。その泥に構う事無く、もどかしく足を動かした。捌き手を失った馬は驚きに嘶いたが、直ぐに態勢を立て直して数条ほど走り、やがて止まった。
辺りにはさあさあという、春の雨の音だけが響く。
は眼を閉じて静かに蹲っていた。古いとはいえ生きている大木の桜は、麓にいれば降る雨を殆ど防ぐ。濡れてはいないようだ。相変わらず白い顔に、纏めた髪が落ち掛かって影を作っている。
しとり、と葉の間から一粒雫が頬に落ちたが、やはり彼女は無反応だった。
政宗は一定の距離をとり、今更のようにその顔を凝視していた。
適当に纏められた髪が恐ろしいほどに黒い。垂れた四肢はほっそりとしているが骨張っておらず、見えない部分に丸みを隠している、そういう風に取れた。眉はきりりと凛々しく、伏せた睫毛が長い。真一文字の唇はふっくらとして、とても赤い。頬は真っ白だ。鼻は少し、理想より低いかもしれない。
如何見繕っても自分より幾らも小さい。ああ、女なんだなと、何処か遠くで今更の思いが過ぎった。

「………おい」

止めていた足を動かし、政宗はに近寄る。だがそれでも彼女は無反応だ。だらりと垂れた腕、方肩に流れた髪と頭。見たところ、血は無いようだが。
雨に濡れた所為か、視界が厭に霞む。雫が目に入ったのだろうか。何度か瞬かせ、曇った視界がわずかに澄む。
見下ろす位置に来て、ゆっくりと傍らに膝を着いた。



やはり、返事は無い。
雨の音が、徐々に大きくなる。離れた位置の馬が途方に暮れ、所在無げに濡れそぼっている。遣った草はまだ戻ってこない。
こんなに近くに寄ったのは、何時振りだろう。確りと触れたことがあるのは頸。片手だけでぐるりと廻り、その気になれば、恐らく折れる。無骨な己の掌を一度見下ろし、やがてゆっくりと蹲る頬に添えた。酷く、冷えていた。なだらかな線は指の間にすっぽりと収まり、とても、とても小さい。
潮のように巻き起こる感情の多さに、頭の芯がつきりと痛む。政宗が思わず唇を噛み、無意識に添えた手に力を込める。
六爪を操るその頑強な握力の所為か、ふと、に僅かな変化が生まれた。
鈍く眉根を寄せた、と政宗が驚いた、次の瞬間

はくしょん! 

と政宗の手を押しのけて、が前かがみに盛大にくしゃみをする。
勿論というかなんというか、一応の反動で確りと口元を覆ってはいる。が、言いたいのは其処じゃない。
固まる政宗には気づかず、暢気な彼女はあー、と低く唸った。

「寒いな畜生」
「そりゃこっちの台詞だコラぁ!」

思わず政宗が吼えて、漸くは仰天した。

「は? あれっ? 殿!? え、あ、偽者!」
「俺に決まってんだろ! 何やってんだよお前、こんなところで!」

今度こそ本当に切れた政宗が睨み殺す勢いで言っても、目の前の本人は途惑うばかりだ。
思いもかけない人物がいることと、寒いこと。何より諸悪の根源が思考を鈍らせている。

「何、って……えー、寝てましたね」
「っ理由は!」

衝動をぐっと堪えて問えば、成る程寝起きの空ろな顔で、がゆっくりぼやぼやと応える。

「雨が降ってきたんで…成実さんが"先に戻るからここで大人しく待ってろ"って……何怒ってるんですか?」
「全部だよこの莫迦野郎がッ!」

ごちん、と中々物騒な音が雨幕を突き破った。

「いぃいっっったぁぁあああ!」
「これであいこだ。反省しろ阿呆」

拳骨を食らったがのた打ち回る前で、少しすっとした顔の政宗がふんと鼻を鳴らした。
勿論十分手加減はしている。だがそれでも痛いものは痛い。わずかに涙目になったが政宗を睨む。

「信じられない! 普通殴る!? わたし何も悪くないじゃないですか!」
「十分悪いわ! なにこんなところで寝てやがるんだよ紛らわしいったらありゃしねぇ!」
「意味がわからない! 寝ちゃ駄目なんですか!? すること無いなら寝るでしょう眠いんだから!」
「何処でも彼処でもぐーすか寝こけるなって言ってんだ野生児かお前は! 俺が、どれだけ…ッ!」

政宗は語尾を言ってしまわない内に俯く。
彼が突然黙ったことで油断したの頭上に、また固い拳が下りた。

「いって! もう、何なんです!?」

先程よりは余程弱い。だがやはり痛いものは痛いのだ。
振り下ろされた拳はしかし、今度はの頭から降りなかった。

「………?」

伏せているので、表情はわからない。頭から手が退かないので、下手に動けないは疑わしげに眉を寄せただけだった。
やがて、切なく重い、長い長いため息が政宗から漏れる。
頭から握り拳がゆっくりと退き、肩の力を緩ませたの頬に同じ手が降りる。

「心配させるな」

隻眼を真っ直ぐとに宛て、苦く絞り出す声で政宗が呟く。
頬に手を添えられているので、は真正面からその言葉を受け取った。眼を見開くと、相手の目は少し細くなる。顰められたその眼に、熱と力の篭る掌。耳に残る台詞と声音に、全身がじわじわと痺れてくる。
固まるに、政宗はもう一度ため息を吐いて手を離した。
戻した腕をだらりと垂れさせ、疲れた表情で瞑目する。

「…何してたんだ。こんなところで」

打って変わって静かな声に、は痛む頭も忘れて必死に、だかぼんやりと考える。
眠っていた事は先ほど言った。ならば恐らく、大元のこと。

「成実さんと、遠乗りを」
「なぜ」
「…馬に乗りたくて」

はぁ、と政宗がまた溜息。は段々居た堪れなくなってきた。

「あいつと何を話した」
「…お耳に入れるような事は何も……」
「それは俺が決める。いいから言え。何を喋ったんだ」
「………一言、」

負けた、と。

「……お前にか?」
「はい…」

訊いた政宗も、言ったも揃って黙り込む。雨音が小さくなってきており、雫の垂れる微かな音が葉から漏れる。
成実は実際にそう言った。しかし、この言には前後がある。








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 お・お・おお疲れ様でした一万文字とっくに超えてら…! 奇想天外第六話。あと一話で成実さんはさようならです(長いよ…)
わたし、史実の政宗さまにまっっったく詳しくない、ので、これはあくまで(わたしの中では)BASARAの政宗さまだったんですけど、なんかもう、どっちでもいい…四百年前の独眼竜も己がゲームになるなんて夢にも思わなかっただろうからわたしが夢みてもいいですよね  支離滅裂
一通り落ち着いたら短編も書いてみたいです ヒロインだけ同じで、あとはもうしっちゃかめっちゃかで それでこそBASARAなクオリティ