05






「いんじゃない? 偶には気分転換なんてのもさ」






折につれて温んだ風が吹き、清廉な障子をガタガタと揺らした。本来は乳白色であるはずの唐紙は夜色が足されて翳っており、更に行灯が照らす寄り合った面々の影が落ちるので、一層濃く暗く室内を取り囲む。
上座に座した政宗は長い間、虚空を見上げて黙り込んだままだった。
気に入りの煙管は既に小十郎により没収され、彼の口元は今寂しい。
手持ち無沙汰も度を越すと何も感じなくなるのか、先程までは握っては閉じていた手の平も、座して折った腿の上にぞんざいに投げ出すだけに収まり、ただすっと細められた眦は黙して語らない。
小十郎と綱元は慣れたものだが、成実は幾分うずうずとした様子で政宗が口を開くのを心待ちにしている。
彼は戦の相手、大内定綱のことを登城したその時からいけ好かなかったのだ。幾分同属嫌悪に近いのかもしれないが、何よりもあの面の皮が気に食わない。
その三人のほか、側近である原田宗時、遠藤基信も呼吸すら最小限にひっそりと控えている。
件の帰還した草、黒脛巾のひとりは気配の消すのは慣れた事と、影に融ける様にして主君の二の句を待った。
忍が報告したこと。それは芦名家当主・芦名盛興が近習に弑逆されたというのだ。
寵愛の廃れの果ての凶行とのことで、芦名家にとってはまさに寝耳に水。跡目を継ぐ世子と言えばやっと一歳になったばかりの嫡男・亀若丸のみであり、重臣たちの重く、苦しい混乱と動揺は深く芦名家を包んでいる。
聞き終えた伊達家当主はややあって、草臥れたように鼻から大きく息を吐き出した。
何度か微かに舌打ちすると、やれやれといった風情で頭を振る。

「青い殺意、ってか? 死んでも死に切れない屈辱的な最後だな、盛隆の奴。ざまあみろ」
「……殿」
「冗談だ。ま半分よりちっとは本気だがな」

呆れかえった小十郎に、芦名当主への嘲笑も含めて笑いかける政宗。
それを見つめて宗時が不思議そうな表情をする。

「盛隆殿と、殿。面識が御座いますのか?」
「いーや、直接やり合ってたのは父上だからな。俺は顔も何も知らねぇよ」
「なれば…」
「あいつ、俺の襲名披露を無視しやがったんだ」

だからむかついてたんだよ、とぽっつり吐き出す彼はどこまで本気なのか。とりあえず計りかねた宗時は沈黙した。
暫し静寂が還る。隙間風の所為か、行灯がちろちろと頼りなく揺れる。
余談であるが、政宗の十七台襲名の折、相馬義胤は確りと祝いの使者を立て礼節を尽くしている。献上品は黒毛の陸奥駒。今や彼の愛馬であった。
何とはなしにそう思い至る政宗は、少し頭を振って厭にちらつく面影を無理矢理に振り切った。

「で? 殿は今回のことどう取るの」

堪り兼ねた成実が促すと、政宗もちらりと侍従に眼を寄越す。
押し黙っていた基信と綱元も、同調するように微かに頷き背筋を痛いほど張る。
するとすぐ、専売特許とばかりに小十郎が先を切った。

「大内定綱を討つには絶好の期である事は、もはや疑いようも御座いません。此度の変事で芦名は大内の援軍など考えすら及ばぬはず」

綱元がまた頷く。

「小十郎の言うとおりだ。よしんばあちらに兵を送る器量があったとしても、せいぜい畠山の少数ほどで御座いましょう。あのような烏合の衆など、畏るるに足らぬもの」
「そうだ、今なら勝てるさ。殿だってあの爺にこのまま好き勝手させておくつもりなんて無いだろ?」
「…………」

だが、政宗はまたしても沈黙する。
考えている時の癖なのか、少し視線を上げ顎を逸らし、遠くを見るようにして眼を細める。
隻眼が何を見ているか、長年仕える侍従にも読み取れない深さがそこにはある。
だから臣下は大人しく待った。じりじりとする成実には年長の周りが牽制の視線を送って、ただ目の前に鷹揚に座す若い当主に決断を促す。
すると突然、くっ、と。政宗が喉で笑った。

「どいつもこいつも小せぇなぁ。あんな狸の一人や二人、今更如何ってこと無いだろうがよ。あれならうちの爺どものほうがよっぽど厄介だぜ?」
「捨て置くのですか」
「莫迦言え。誰が許すか」

呆然と声をあげた宗時をまた軽く往なす。その瞳には既に爛々とした戦意が漲っている。
家臣は皆一様に、政宗に向かい熱心な視線を注いだ。
向けられる十の瞳に億すことなく、政宗は微かに口元を歪める。

「兵は挙げる。元々そのつもりだ。…だが今度の相手は小浜城城主じゃない。芦名だ」
「殿」

小十郎が真っ先に声をあげる。
政宗が片手でそれを制した。

「聞け。あの狸の不遜な態度は後ろ盾に芦名が有ってこそだろう。奴らを討てばあいつは丸裸、その後は焼こうが煮ようが切り刻もうが、俺の思うままだ」

じわじわと、隻眼に苛烈さと凶悪が同居する気配が上る。
誰よりも大内が気に入らないのは、この城主その人なのだ。

「……殿、よろしいか」
「なんだよ」

忍ぶように重い声を出したのは基信。彼は輝宗の代から伊達に仕える忠臣だ。
年輪を刻んだ顔には先読みだけを誤らないように、との懸念が色濃い。端正な口元から錆色の声が漏れだす。

「盛隆殿が元は須賀川の城主、二階堂盛義殿の嫡子であることはご存じで御座いましょう」
「牡丹が有名だよな」
「……まぁ、そうですね。………その、二階堂氏も養子に出したとはいえ盛隆殿とは血の繋がった親子、必ず援軍を繰り出しましょう。そこに畠山・大内も加わる。芦名だけを刳り貫くとなれど、そう易々とはこなせますまい」
「…確かに外堀は強固だ」
「如何なものかと」
「兵力も向こうに分があるな。長引けば機と見て佐竹も乗り出す。伊達はともすれば滅亡だ。…母上は、文字通り鬼になるだろうな」
「………」

政宗の嘲笑に、誰も返答を寄越さない。
だが一転して、悪戯を思いついたような悪童そのままに、にやりと一笑い。
政宗は袂をまさぐり、白い書簡を取り出した。

「だが俺もな、何も暢気にお前らだけ走り回らせてたわけでもないぞ」
「…と、仰いますと」

それを開きはせず、片手でひらひらと見せ付けるように振る。

「それは?」

綱元が訊いた。

「俺の思いが通じた証」
「……………どなた様からの恋文で?」
「関柴の松本」
「…………………は?」

家臣一同、開いた口が塞がらない。
関柴の松本とは松本弾正。れっきとした芦名方の人間だ。
呆けたままの周囲を至極面白そうに見渡し、政宗は満足そうにそれを仕舞う。

「思ったより、梃子摺らせやがったけどな。ようやっと、なかなかに色よい返事が返ってきたぞ」

ふふん、と自慢げに笑う。
普段の政務の傍ら、ひっそりと行なっていたこの事態に、側仕えの家臣たちは思い思いの反応を示した。

「…一体、何時の間に………」
「流っ石! それでこそ俺の殿様!」
「関柴ならば足掛けになりましょう。良い所を押さえられた」
「では真実、芦名を敵に戦を」
「…ああ」

口々にいう彼らの最後、一つ上の宗時に大きく頷く。
やがて切れ長の隻眼がついと周囲に座す面々を見回し、政宗は虚空を見上げて遠い目となる。
それは奥羽などよりも、もっと遠くを見ている証。

「これが俺の、第十七代伊達藤次郎政宗の、真の緒戦だ」






やってしまった。
磨かれた畳に膝を突き、そのままの勢いで拳を強かに打ち据えた。ダン、と物騒な音と共に鈍い痛み。だが今のに構う様子は皆無だ。
言ってしまった。
すん、と鼻を啜る。唐突に走ると息が切れる代わりに、鼻が詰まって仕方ない。
………でも、大分すっきりした。
暫しそんな事が轟々と頭を占める。

「あー………まずったなぁ……」

すっかり地の顔と声で一人ごちると、はがりがりと乱暴に頭をかく。走っている途中で結髪は崩れてしまっていたので頓着も何も無い。
あれは仮にも米沢城主。夫といえども主君で、苛烈で名をとどろかす血気盛んな若者だ。
そんな相手に何か、色々ととんでもない事を言った気がする。
政宗の余りのいいように頭の中がホワイトアウトすると同時に、の意識はどこか上の空となり、言うなれば口が勝手に戦っていたのだ。
しかしあれほど腹に据えかねたことなど、世に生まれてこの方あまりない。確実に上位三位に入るのだが、その前にが取った最後の行動になるかもしれない。
自分は、まぁいい。自らが蒔いた種だ。それに正直、日頃の鬱憤もあれで凡そが無くなってしまったのだ。今は胸の痞えが取れたように身も軽い。無意識とはいえ泣いてしまったのは些か悔しいが。
なので、余り己の身については後悔が無いのだ。あの倣岸不遜な男の横っ面を、思い切り張ってやった気分である。いっそ清々したと言っていい。
だがしかし、の肩には別のものも乗っかっている。

「叔父上…どうやら御懸念の通りになりそうですよ……」

はぁ、と大きな大きな溜息と一緒に、はポツリと吐き出した。
盛胤の懸念。それは彼が何度も何度も繰り返していたこと。耳に今も残る、太く大きな念押しの声。
お前は折角の器量良しなんだから、壊滅的に不器用だから、そそっかしいから、何考えているのかさっぱりだが。
前置きは様々だが、その後には決まってこう続く。

「とりあえず黙って座ってろ、か。………身に余る芸当なのねぇ、やっぱり」

しみじみと痛感し、がっくりと肩を落とす。
しかしすぐさま背筋を伸ばし気を切り替える。言ってしまったものは仕方が無いし、ぐちぐちと言ったところで後の祭りだ。それに今は感傷に浸る場合ではない。
はむっつりと黙り込み、やがて静かに眼を閉じる。
耳をすませば、控えの間には確りと侍女が控えている、微かな音。
怒りに任せて駆け込んできたに何を問うでも無かった彼女たちが、の所為で不興を買った末斬首乃至は里帰り、そういった事は恐らく無い。
連日庭を廻りながら、それとなく城内の端々に眼をやっていた。元々にはそんな風に間者の真似事をする気は微塵もないのだが、気になってしまったものは仕方ない。
身を乗り出した調べたわけでも頸を突っ込んだわけでも無く、ただそれとなく眺めてはあたりをつけていただけだ。
だが、それ程度でもわかるほどなのだ。最初の内こそ堅牢と思っていた城内の綻びに、日が過ぎるにつれ確信を抱いてしまった。
薄々は聞いていたのだが、やはり伊達家内部の分裂は今なお根強い。
祝言の時以来顔を合わせては居ないが、政宗の実母である北の方一派を始め、その横暴とも取れる振る舞いに反感を覚えるものが多い。それというのも、端々のものにまで統率が及んでいないのだ。侍女一人、庭木一つでそれがわかる。
手入れの行き届いた美しい庭。景色ごとに表情を変える彩を見て誰もがそう思うだろう。侍女もそうだ。田舎の出とは思えないほど彼女たちの色は白く、立ち居振る舞いもすっきりと美しい。
だが、それはあくまで表向き。長い間暇を持て余し、地味に練り歩いたの目は、貴人の及ばないごく裏手にまで廻っている。
松の刈り込みは丁寧だが、幹の状態には気を配っていない。芝生には雑草一つ生えていないが、土の養分には知らん顔。侍女はよく働き無駄口なぞ叩いていないようで、こと奥に篭れば口さがなく、聞き及んだ密事を仲間内の誰彼と無く囃し立てている。
ごく些細で、つまらないことだが、関係が無い様でいて実はこういった所に内実が反映されるのだ。
米沢内の現統率力をの目から見ると六割強。若い兵たちの統率はよく取れている。だがある意味勢いだけだ。真に、忠誠というものがまだ芽生えていないのだろう。あの新しい、荒々しい若当主に。
無理も無いだろうとも思う。何せあの男はまだ十九だ。美童で快濶、両目のある俊英な弟も居ると聞く。北の肩の後押しもあるその厄介種に、主だった家臣の心は揺れて当然だ。
おまけに政宗の祖父、曽祖父の泥沼の争いで家は疲弊し、家臣の風紀も荒れに荒れた。既に隠居している父・輝宗が政宗の元服の折、何とか一度統率を整えたものの、依然その縛りは緩慢ととれる。
まあ、そのお陰で相馬は昨年の難を逃れたというのは、今此処に居る身としてはなんとも皮肉な話だが。
兎角、老臣は懸念心が強く若輩者を侮るし、事実若さで補えないものは山ほどある。傑物だと認めはしても、それが必ずしも名君には繋がらないと、乱世を生き抜いてきた老獪な家臣は常に腹に間を空けている。
政宗は気づいているのだろうか。
はゆっくりと眼を開き、掴まれた腕をじっと見下ろす。大きな手だった。首に掛けられた時よりも湿っていて、温かく、とても大きな。
彼を猪武者だとは、決して、決して思ってはいない。恐らく大器の方だろうし、上手くすれば仙道といわず天下を手中に収める、そういったことが出来る気性と智謀もあるだろう。
自分を怒鳴った深い声音に、血の滲む覚悟が垣間見れた隻眼。が怒鳴り返したこともまた本心だが、悲しい哉理の上では政宗が正しいということもよく判っている。今は血で血を洗い落とす戦国の世、その無情さは安易な同情なんぞ微塵も受け付けまい。
判っている。あれは所詮願望。抑鬱していたにせよ激昂のまま口にするなんて、わたしもまだまだ修行が足りない。
―――だが、だが彼にもまた、沢山足りないものがある。

「…思ったより、伊達も不憫で御座いますね。……父上」

その手から毀れていくものに、彼は気づいているのだろうか。






戦に必要なものを上げれば限がない。
兵や兵糧、鬼謀知略に堅牢な城砦。果ては時間や尽きぬ体力とまで、惜しいものはそれこそ山のようだ。
だが勿論、万事で望むべくと思っていても、そうはならないのが世の常。十割がたを望んでやっと八割、というのが伊達に限らない凡ての武家の本領だろう。
それを少しでも向上させるべく、細々とした戦仔細を取り急ぎ決めてしまい、内応を煽った手前、件の松本弾正への内密の使者も立てなければならない。また、願える家臣は多いほうがいい。その後の取り決めで、猪苗代城主の盛国にも事を促すことになった。彼は元々伊達家と誼が通じているので、そう難攻では無いだろう。
兵の統率は中々に平均以上。天候もごく穏か。だがそれでも、奥羽に名を馳せる大大名・芦名と一戦を交える、という動揺は防げない。
その不安の払拭も行なわなければならず、本当に、今は一分一秒でも惜しいのだ。
だが、ここに来て政宗の動きは常の半分にも満たなくなっていた。
何もサボったりじっとしているわけでは無いのだが、気がつけば視線が宙を舞い、隻眼はちらちらと庭先を何とはなしに眺める。決して機嫌が良いとは言えない横顔にはしかし、小十郎には見慣れた感情が浮かんでいるのだった。
十も歳の離れた世話役は、心底仕方がないと苦く苦く笑う。大将がこれでは、政務も戦もあったものではない。

「殿」

務めて笑いを抑えながら声をかけると、政宗はそむけた頸を素早く振り戻した。

「何か、気になることでも?」
「べっつに。いーい天気だなぁと思ってただけさ」
「そうでしょうか? 風も雲も出てきましたけれど」
「………見解の相違だ」
「そうやって屁理屈を捏ねる前に、行って、謝ってこられては如何です。この後の始末は私が請負います故」

政宗は些かむっとしたようだったが、小うるさい家臣のペースに乗せられまいと軽く鼻で笑う。

「俺が頭を下げるなんざ、天地がひっくり返ってもありえないね。どっかの誰かに降るっつーなら話は別だが」
「お戯れを。伊達家がどこぞの馬の骨の元に下るなど、ありえませぬ」
「だろ。なら納得だな」
「…それとこれとは話が別で御座います」
「どこがだ。俺は奥州筆頭として、小娘一人に頭は決して下げないね。謝るのは向こうの方だ」
「御泣きになられていたと、草が申しておりましたが」

政宗が一時だけ喉を詰まらせた。

「…まあな」
「お心が痛んでおられるのでしょう?だからそれほど、外を気になさる。あの方は何時もお庭に居られますからね」
「暇な女だ」

にべも無い政宗を見つめ、小十郎がほう、と息を吐いた。

「何を躊躇っておいでです。殿ともあろう御方が、まさか女子の一人恐ろしいと申されるので?」
「別に怖いわけじゃねぇさ。俺はただムカついてんだよ。あのoddな女にな」
「御不満があるのなら早急に手を打てばよろしいのです。件の暴言を取れば、彼の方の落ち度は火を見るより明らか。突き帰すなり何なり、思いのままでござりましょう」
「それじゃ本末転倒だろ。どう生かして殺すかが問題なんだ」
「なれば尚更、行って締め上げなさりませ。相馬御もそれを百も承知でござります。だから大人しく、奥育ちの姪御を差し出す。此処で鬱々とされるより、余程増しかと」
「……………」

政宗は詰まらなさそうに、組んだ指を解いては縺れさせと弄んでいる。
最早薬云々以前に、この気難しい主君が、同じく気難しいあの側室のことを徐々に気に病みだしているのは明白。八割は屈服しないもの珍しさと苛立ちだろうが、残りは純粋な興味に成り代わっている。
まあ、それもいい。自体は未だよく解せないが、少なくともよからぬ事は考えていない。
無論、暴言非礼の数々は度し難いものではある。それは小十郎にとっては譲りがたい箇所だ。しかし主君が何も罰しはしないと言うならば、言及するつもりは無い。少なくとも、目の届くうちでは。
それに、女の役割は至極簡単でいて難しい。子を成すのなら成すで早いほうがいいのも事実だ。
これだけ煽れば十分だろう、と思う。が、ここはもうひとつ駄目押しをするべきでもある。

「そういえば、殿。遠乗りは随分御無沙汰で御座いますね」

政宗の返答は無い。しかし、反応だけは鋭敏だ。隻眼がぎょろりと動いて小十郎を捕らえる。
見据えられた方は胸の内だけで笑った。

「何だ、いきなり」
「いえ。名馬も馬小屋に置いてばかりでは、折角の脚力も衰えましょう。戦までの間に慣らしておくのもまたよろしいかと存じますが?」
「…番士が適当に世話してるだろ。それで足りなきゃ乗りたいやつが乗ればいい」
「ああ、それはいい考えで御座いまする」

予想に反して小十郎が肯定を示したので、政宗はおやと続けていた指の動きを止める。
小十郎が少し間を空け、しっとりとした笑顔で告げた。

「実は、殿は必ずそう仰るだろうと成実が申しまして。先程政務を一通り終えたので、休息に立ちました。"座り仕事の鬱憤を遠乗りで晴らす"と」
「………」
「今日のお日和は、格別で御座いましたからね。さぞかしお庭も心地よいことでしょう。ああ、番小屋の近くに良い植木が御座いますね。甘い香りのする華奢な木で…御名をご存じでしょうか?」
「………………」
「……相馬家では、未婚の二十未満であれば、女子も皆馬に跨るとか」

小十郎の止めに対し、とうとう政宗が水影の如く衣の尾を棚引かせながら、至極ゆらりと立ち上がった。






(…蜘蛛)

見上げた庇の端に、大きな女郎蜘蛛がせっせと往復しているのが目に入った。
丸々とした大きな胴を、細長い折曲がった八本足が軽々と運ぶ。あんなところに巣を張っては、小舎人に見つかってすぐに壊されるのが落ちだ。何処か適当なところに運んでやろうかとも思ったが、折角新居を構えようという心意気に水を差すのもどうかと迷う。
暫く眉根を寄せて悩んでいるの肩口に、軽い手がぽんと乗っかった。
振り返った目前に、軽装の若い男が小粋に佇む。

「よっす。何してんの?」
「……?」

誰だろう。
どこかで見た顔で頓着無く笑う。朗らかな、感じのいい青年だ。
鈍いの反応を暫く待っていたのだが、諦めた男は顔を苦笑に変えて名乗る。

「憶えてない? 俺、成実だよ。祝言の間にもいたでしょ?」
「…………」
「あー、じゃあ、池の前で手ェ振った憶えは?」
「…………………」
「…うーん、じゃあもう初めましてでいいや」

必死に記憶を探るの苦悶顔を見てか、あっさりとそういい、男はかっきりと臣下の礼をとる。

「殿の従小姓を務めております、伊達籐五郎成実と申しまする。以後お見知り置き下さりませ」
「…籐五郎殿?」
「五郎、と御呼び下さい。…なんなら成実でも構わないよ。俺らも遠ーい親戚同士だからね」

ゆっくりと顔を上げ終えた頃には、男の末尾はまた軽い口調に戻っていった。中々に好みの性格をしている。
しかし「親戚」という単語に、はすっと眼を細めた。
成実はの表情にも笑みを崩さない。いたって冷静にこれを往なす。

「本当だよ。俺の母上は晴宗様の女で、晴宗様の父上、稙宗様の女は…」
「…………顕胤様の、御正室様」
「ね。確か義胤殿にも一人嫁いでたはずだけど」

彼処は離縁済みだっけな、と成実は笑顔のまま頸を傾げて言った。
顕胤は、言わずもがなの祖父である。長身の戦上手で文雅にも優れていた名領主と、郷里では今も尊敬と羨望の眼差しが絶えない傑物だ。
しかしこの事実を追求してゆけば、必然的に政宗もの親戚に当る。というよりも、奥羽大名は須く連綿と血が混じりあい、実を言えば誰も彼もが殆ど親戚筋となる。だから尚のこと、厄介なのだ。
には確かに伊達の血が流れている。三世代目なので微かではあるが、れっきとした物だ。成実はだからわざわざ"親戚"という。
が一つ頷いた。

「じゃあ、五郎か成実ね」
「うん。俺も御方様かちゃんだし」
「頑張って憶えとく」
「宜しくね」

不遜な態度に全く異議を唱えない彼女に大いに気を良くしたのか、彼はすっかり肩の力を抜きながら尋ねる。

「んで、改めてさっきの質問の続きね。何してんのこんなところで」

こんなところ、というのは、が見上げていた庇は馬小屋のものだったからだ。
必要も無い限り、女で、しかも側室はこのような場には来ない。
しかし自身も頸を傾げた。案の定、目的があって歩いていたわけでもないのだ。

「うーん…特にこれといって、何も。さっきまで良い天気だったから…」
「ああ、何時もの徘徊?」
「…微妙に引っかかる言い方だけど」

そう、と頷く彼女を、成実は改めてしげしげと見る。

「っていうか、近くで見るのひっさしぶりだなー。それこそ祝言以来だよ。いっやぁ相変わらず触ったら吹き飛びそうだね!」
「何ですかそれ」
「だって腕これ、何? ほっそ! しっろ! 骨なんかないんじゃないの?」
「あるに決まってるでしょう。無いならわたし、ふにゃふにゃじゃない」

伸びた腕は右腕を捕らえた。
は少し安堵しながら、袖を捲って腕を見つめたり揉んだりする成実の額を、左手の人差し指で軽く弾く。

「っていうかもう既にふにゃっふにゃ。筋肉も何にも無いじゃん。そんな腕じゃあ弓どころか馬も扱えないでしょ」

弾かれた額を摩りつつ、の腕を離した成実が反り返りながら言った。
これにはきょとんと返した。

「弓は無理だけど。馬には乗れるわ」
「冗談! 若しくは嘘だぁ!」
「そんな全否定されたらあれだけど…だって、乗らなきゃいけないでしょう」

の言葉を成実は暫く考え込んでいるようだったが、やがてぽんと一つ手を叩く。

「野馬追いか!」
「そう。義務教育ですからね」
「えー、でもあれ男児の行事でしょ? 女の子は関係ないんじゃ…」
「未婚のね、二十未満は女も乗るの。だから去年までの螺役はこのわたしです。畏れ崇め奉れ」
「そこまで偉い役じゃないじゃん! つかよりによって螺役かよ、もっと可愛い役とか無いわけ?」
「騎馬武者に可愛さはありえないわ」

それに、螺役は重要だが楽な方だ。総大将よりの言を伝える早馬は、それこそ振り落とされかねない勢いで走り抜けてゆく。
だが、その訓練も相馬の人間は等しく受けなければならない。女は例外となる場合が多いが、はこれを既にこなしている。
別段得意では無いが、苦手でもない。動物は好きだし、風を切りながら駆けるのは今時分の季節からは気持ちが良いだろう。
途端、馬に乗りたくなってきた。
蜘蛛の巣が張る長屋のような設えの馬小屋。目の前は空きだが、三つ先には栗色の鼻面がひっそりと見えている。

「乗りたい?」

の視線をそっと掬い、成実はにやにやと言う。
彼女は如何と言う風も無くそれを受け流したが、ふと思い立って成実の全身を眺めなおした。

「…そういえば、その格好はもう遠乗りする気満々ね」

腰に一振りだけの帯剣。手甲と脚絆こそ具しつつ、速さを落とす要因は凡てこそげ落としていた。

「勿論。最近肩凝る仕事ばっかでさぁ、すとれす? とかいうのがもーすげぇ溜まってる訳なの。夕餉前までの一刻くらい、好きに休憩しても罰は当んないだろ」
「いいな。ストレスならわたし誰にも負けないのに」
「そこ張り合う部分じゃないぞー」

成実は笑って緩やかに踵を返した。跳ねるように歩いて、先程見えていた栗毛の馬のところまで行く。
慣れた手つきで柵を外し、馬銜だけ着いた馬を引く。
その仕草に、遠くで此方を伺うだけだった番士が慌てて駆けつけてきたのだが、彼は二言三言男に告げて後、さっさと下がらせた。
は黙ってその様を眺めていた。鞍は要らないんだろうかとか、そういう重要ではあるが実はどうでも良いことが頭を占めながら。

「一緒に来る?」

だから成実のこの言に、彼女は心底反応が遅れた。

「………………無理でしょう」

溜息と共にが吐き出せば、成実はまた笑った。
深く笑う男だ。すっと引き締められた眦が意味ありげで。

「いいよ、俺もついてるし。要はばれなきゃ良いんだ。こっそり行ってこっそり帰って来よ」
「……でも」

伊達の家臣が一緒だというのなら、の逃亡はまずありえない。外出をはっきりと禁止されているわけではなかったし、元々する気も無いから、立場上後ろめたいことは無い。
だが躊躇ったのは、政宗の顔が一瞬脳裏に過ぎったからだ。今日が無事終わったら、あの夜のことを謝りに行こうかとも思っていた。その上でこんな勝手は許されるものなのか。いや、無論無理だろう。火に油だ。
しかし、彼女のそういった冷静な部分は既に二割以下。視線はじっとつぶらな動物の瞳を捉えて放さない。
蜘蛛は相変わらず、せっせと巣を張ってゆく。

「………いいかな」

長い長い自問自答の末、がしっとりと熱の篭った声で呟くと、成実はやはり同じ笑顔で応えた。








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 少し間が空いてしまいました…!第五話です。十の半分…までこれると思わなかった…!(問題発言)
この辺、書いては消し書いては消しの繰り返し。上手い具合にいってたらあと三話くらいは更新できた気配ですぜこのファッキンブレインが…!
馬追の解釈も間違ってる…? かも知れないけど眼を瞑ります またちゃんと書く時は人様に相談するよ!(他力本願)
それにつけても、妙に成実が出張ってますな  彼は伊達軍において真田軍の佐助ポジションであればいい、ナー! みたいな… そんな気持ちが…
あ、でもちょっと違うかもしれない 佐助よりももうちょっと、温い感じですね(?) いろいろなものが
しかし使いやすいので次回も出張ります。 頑張れ若者!