03






 それから暫くは、どうということもなく過ぎた。
政宗はあれから一度もに構わず、閨にも訪れない。側女の役割としては無能極まりないのだが、寵愛というものは得てしてそういうものだ。
いくら目の覚める様な相手であろうが、馬が合わなければどうしようもない。抱くと成れば本能だが、この二人の場合はそこに至るまでが長い。
つまり、政宗の足が向かないのだ。
初日で互いの性格の不一致さを身を持って痛感した二人は、極力顔を合わせない様務めている。といってものほうは勿論受身であるから、政宗が心底辟易している状況なのだが。
如何な思惑があるとはいえ、折角得た楚々とした美姫。要らぬ世話を焼く家臣たちはそれとなく促しはするものの、結局は凶悪極まりない隻眼のひと睨みに押し黙って終わる。
当の本人も無愛想な姫君の口を割ることを、一応まだ諦めては居らず、殺しはしないように軽く自白させる方法を暇な時に探ってはいる。
だがあの晩の、まるで貫くような眼を見る限り、頭に浮かぶ様々な方法もやがては徒労に終わるだろうと嘆息させてしまうのだ。
そんな吐息の白さも、身を切るような寒さも薄れる春先。雪はすっかり溶けたが、米沢はまだ僅かに寒さが残る。
だが急速に春へと向かうこの時期。それに倣うかのように、家督を相続したばかりの若い筆頭には、押し寄せるように政務がなだれ込んで来ていた。
頭の痛い事は他にも山ほどあるのだ。
既に進めてはいるが、不遜極まりない大内定綱への伊達の名誉を賭けての戦準備、それに対する母・最上の上への取り成しに、大元の癌である芦名氏との間合い。
母への口上は敬愛する父も兼任してくれている。それは兎も角として、目下頭痛の種なのは兵力だ。
芦名は伊達を見縊ってはいるが、そうする理由は十分にある。
伊達方に曽祖父の代に疲弊した勢力の余波がまだ残っているのも勿論のこと、芦名の前当主、鬼籍に入っている盛氏は稀に見る英君であり、内外において後年に語られる功績を残している。蓄えられた兵力を持ってすれば伊達など容易いと、芦名は頭から飲んで掛かっているのだ。
戦力の差は明白だろう。その上芦名は佐竹とも誼を通じている。徒党を組んで向かってこられては鬱陶しいこと極まりない。
しかしどんな理由であろうともここで引けば、ただでさえ自分を嘲る仙道の大名に永劫の侮りを受けることとなる。
喩え無謀としても、伊達の意地を見せて立たなければならない。そうすれば諸大名も、片目の若造とこれ以上自分を見下げはしなくなるだろう。
だから、だ。
この忙しい時期に、わざわざ飽くほど居る女を正式に娶ったのだ。
恐ろしいほどの腕を持つ薬師が貸のある相馬に居ると、尚且つそれが女だと知ったときは「これだ」と思った。
何も狙ったのは正体不明の激高薬だけではない。黒脛巾によれば、断片的だが死の床に臥す怪我人、病人でさえ立ち上がらせる腕を振るうのだという。
その技を吸い取り、伊達に広めればまたとない力となる。
それに衰退しているとはいえ、野馬追いで名を馳せる勇壮な一族だ。武田騎馬軍団とは比べるべくも無いが、今は猫の手も借りたい。あちらも芦名方とは浅からぬ縁ではあるが、嫁ぎ先の要請に無視を決め込むわけにも行くまい。
適当に可愛がればいい。いずれ天下の覇者となる自分を拒む者等いない。
そう、思っていたのに。
考えれば考えるほど、苛立ちと共に脳裏に済ました顔が蘇る。
政宗はその度に盛大に眉間に皺を寄せ、悪戯に家臣を怯えさせていた。






では、当のはというと。

(暇ね………。暇。暇、暇、ひ)

はくしょん、と些か盛大にくしゃみが飛び出す。
米沢の寒さにもすっかり順応したのだが、妙なところで気が抜け風邪を引いたのかもしれない。
寒気のする首元を摩ると、尚更背筋がぞわわと粟だった。

「お寒うございますか」

静かに問うのは傍らに控えた名も知らない侍女。他にも何人か控える女がいるが、声を掛けてきたのは彼女だけだ。
眼を伏せ、表情も無い。
はほんの少し微笑んだ。

「ああ、いいえ。今のは物の弾みです。ご心配なく」
「そろそろお部屋にお戻りになられては。お風邪を召されては大変でございます」
「…でも、もう少しだけ。いいですか?」
「畏まりまして」

そう応えたきり、能面のような顔の侍女は沈黙する。
は悟られぬよう、吐息に混じらせこっそりと溜息を吐いた。
今彼女がいるのは米沢城内の、整然とした庭先。
花が芽吹くにはまだ早く、枯れ木の物悲しさはどこか薄れる晴天の元。未だ少し肌寒い気候の中、日除けの傘もそこそこに、何をするでもなくただ佇んでいる。
城内の自分が宛がわれた一室で、することといえば専ら室内遊戯にも等しいお粗末なものばかり。和歌や書道は兎も角、香合わせや茶道など一人でやったところで何が面白いというわけでも無い。
最初のうちは黙って我慢していたのだが、暇を最も嫌う彼女はとうとう音を上げた。何かすることは無いかと漏らしたところ、伊達方の侍女に「ではお庭を御覧になられませ」、と引っ立てられるようにして出てきたのだ。
高が目と鼻の先の庭に出るだけだというのに、朝から無意味なほど着飾られ、静々とかしづく何人かの女たちに取り囲まれ、ただでさえ落ち着かない。
そのくせ周囲は無駄口を利けば命が危ないとばかりに、皆一様に沈黙しているのだ。葬式宛らの静けさに、憂鬱を通り越して無思慮になる。
せめて馴染みのものが傍にいれば、この雰囲気も少しは瓦解したのかもしれない。
嫁いできた当初、一緒に付いてきた侍女は皆、が早々に里に下がらせてしまった。
といっても、志願するものはまた小高の城で侍女勤めをさせてやり、嫁に行きたいという者は自分の反物から幾許かを与えて暇を出す、というなかなか出来た雇い主振りを発揮したのだが、それ故に粗相もしていないのに自分達を追い出す主君に、侍女は一様に怪訝顔だった。泣くものもいて、少し狼狽した。
それというのも元々、は自害であろうが手打であろうが、死ぬつもりでここに来たのだ。初日は何とか切り抜けはしたが、そう長くは持つまいとの心積もりだった。
主君の死は家臣の死。とかく、女の侍従は斬首され易い。慮ったの先回りだったのだが、思惑に反して今時分の首は繋がっているし、心臓も暢気に脈打っている。

(だが油断は出来ない)

初夜に見た伊達藤次郎政宗。耳にした噂のどれ一つにも当て嵌まらなく、かつ全てを収斂したかのような、厄介な男だった。
あんな男に、好き勝手べたべたと身体を触られるのかと思うと苛立って仕様が無かったが、とりあえず今のところその懸念は薄いようだ。訪れたとしたらその時はその時、女の身をつくづくと嘆けばいい。
あの日以来、ちらとも姿を見ていない。だが此方の事は耳に入れているだろう。
その証拠にこの侍女の数。相馬の者を下がらせた途端、何処からとも無く現れた彼女達は徹底されている。
どこに行くにも付いて来て、常に誰か一人は身の近くに控えている。便利は便利だが、小高は多少融通の利く、言い換えれば奔放な制度であったので、さしものにも日毎身を削られるような環境だった。
仕方無しに見上げた空は青く、高い。
今のにとっては、果てしなく遠いもののように見えた。

(…暇)






「梵、おれー」

右手に筆、左手に新しい煙管を持つ政宗は暢気な声に脱力しかけたが、すぐに気を取り直して新しい煙を吐き出した。

「帰れ」
「ひでェな! 入れてくれたって良いだろうお殿様!」
「……まぁ、いい。なんだよ」

言い終わらないうちに襖が開いて成実が姿を現す。

「伝言なんだがな。小十郎から」

政宗は予想通りの成り行きに辟易する。
四畳ほどの政務室の中、傍らに成実がどっかりと腰を下ろす。
書簡や乾きかけの半紙が所狭しと並んでいるので、男が二人並ぶともう手狭だ。

「あー、良いぞ言わなくて。大体見当がつく」
「冗談。言わなきゃ俺が絞められる。短いぞー、"戯れも大概になさいませ"だとよ」

その短さが忠臣の臨界点突破を表しているようで、さしもの政宗も少し戦々恐々となる。
書き物から顔を上げず手も止めないまま、彼は器用に成実に向かい肩を竦める。

「OK, もう暫くしたら改めるさ」
「何をだよ」
「だからその、戯れとか言う奴だろ」
「身に覚えありすぎてわかんねぇんじゃねぇのぉ?」
「つーか、身に覚えが無ぇんだがな。あの女はどうだ」

突然の話題変換だったが、成実にとっては慣れたもの。
片目の主君を笑いながら見返す。

「どうも。毎日大人しく庭眺めてるだけだ」
「…庭?」
「庭。今日は東明日は西、ってね。もう城内の殆ど全部、見尽したんじゃない?」
「庭なんか見てどうすんだよ」

ふと、手を止めた政宗は顔も上げて成実を睨んだ。
これには成実も慌てる。

「俺が知るかよ。別に怪しいこともして無いぞ。本当、ただ毎日ぼけーっと突っ立ってるだけで…」
「本当か? 見掛けに騙されるんじゃねぇぞ。あの女は存在自体が詐欺だ」
「…お前ら何があったんだよ…」
「知るか」

鼻の頭に皺を寄せる政宗をみて、成実は遠慮なく盛大に溜息をつく。
律儀な家臣は頬を掻きながら、ここ最近盗み見た女の日常を頭の中で垣間見るが、やはり怪しいところなぞ微塵も無い。
ただ至極退屈そうに、千編一律と刈り込まれた植え込みを見たり、早咲きの梅を見上げたり、丹塗りの欄干に手を添えていた。
彼女が唯一顔を変えたのは、刈り忘れた雑草をその目に留めたとき。名も知らない紫色の花がやけに印象的だったが、気づいた小姓にそれはすぐさま撤去された。
あの時だけ、彼女は酷く悲しそうだったのだ。

「気になるならさぁ」
「ならねぇ」

即座に吐き捨てる主に、言い聞かせるようゆっくりと息を継ぐ。

「…なるなら、殿もちっとでいいから見てみろよ。可哀想に、元々白い顔が最近ますます悪くなってる。ありゃもう蒼いの段階だ」
「良いじゃねぇか、色の白いは七難隠すってな。七つじゃ足んねぇか」
「梵んー…」
「呼ぶなっつってんだろ。顔色がどうした。赤かろうが蒼かろうが知ったこっちゃないね」

ハン、と挑戦的に鼻を鳴らし、それきりまた書き物の手を動かす。
豪奢な造りの煙管は置き、成実に向かってひらひらと手をふった。

「もういいぞ。引き続き妙なことして無いか見てろよ」
「俺も暇じゃないんだけど…」
「片手間でいい。草を持ち出すまでも無いしな」

俺は使うのかよ…。
なんとも言えない顔できりきり仕事を進める政宗を見上げてから、持ち前の切り替えの速さで成実は立つ。
来た時と同じように音も立てず襖を開け、一歩を踏み出したところで、彼は唐突に動きを止めた。

「…殿」

佇んだままの成実を怪しみながらも、政宗は手を止めず返す。

「なんだよ」
「いる」
「何が」
「丁度今出てきたみたい。今日はこっち側かぁ、もう殆ど制覇だね」

支柱に凭れかかって庭を眺める成実の意図がわかり、政宗は今度こそぴたりと手を止める。
面白いように石化し、書状を見下ろしたまま動かない主君を見て、成実はばれないようこっそりと笑った。
気にしてんじゃん。

「見る?」
「…しつけぇ」
「いや、この際だから殿も確認しておいてよ。怪しい動きして無いかどうか。そんでおかしな所があったら俺も見解を改めるし、殿も納得いくでしょ?」
「…………」

こう言われては、見ないわけにもいくまい。
長い長い瞑目の後、政宗はゆっくりと立ち上がった。薄く噴出した成実を乱暴に小突いて外に出し、しぶしぶ庭先に眼を向ける。
政務の小部屋であるここは、私用で立ち入ることが多く、その所為か用心で以って展望する庭先からは誰も近づけないよう、すぐ傍に大きな池を設えてある。
彼女の姿はその池を越えた先。何人かの僕を侍らせて、対岸の畔でじっと佇んでいるのが見えた。
自分が居るこの辺りに来ることを思い、侍女が気を利かせたのだろう。小袖の上に絢爛な打掛を羽織、寒くは無さそうだが重そうだ。結髪が緩い風に煽られ、そよと頬に掛かっている。
距離がある所為か、表情はあまりよく見えない。成実の言う通り抜けるような白い顔が、まるで風景に染みが出来たかのようにぽっかりと浮かんでいる。
彼女はただ微動だにせず、然して面白みも無いだろう湖面をじっ、と見つめている。
季節になると蓮の花が開花しなかなか壮観なのだが、今この時期ではただの丸い葉がぷかぷかと浮いているだけだ。鯉も今は寝ているだろう。

「…ずっとあんな調子か?」

置物のようなを呆れつつ見、視線はずらさないまま成実に問う。
彼はゆるりと頷いた。

「俺の見る限りじゃね。この間は松の木見上げたまんま、半刻は動かなかったよ」

隻眼を顰めて政宗が振り返る。

「松の木がなんか面白いのかよ」
「さあ。本人に訊けば?」

前を見据えたまま、成実が軽く手を振りだした。
ぎょっとして振り向くと、が顔を上げてこちらをしっかりと見つめている。
目が合ったのか合わないかの内に、政宗はなんでも無い風を装った上で、盛大にそっぽを向いた。
ややあって目だけ戻すと、は何事も無かったかのようにまた湖面を眺めている。
自分だと気づかなかったわけでは無いだろう。政宗はひくひくと頬を攣らせた。

「…殿、絶望的に餓鬼臭い」
「うるせぇ」

しげしげと足元を見下ろす女が憎らしい。
どこか微妙にずれている二人を交互に見やって、成実はにやにやと笑った。

「俺には手ぇ振り返してくれたよー、良い子だねあの子。かわいいし」
「…もういい、お前がどれだけ絆されてるかよぉくわかったよ。おい」

最後の言葉は周囲に向かって言い放つ。
すぐに傍からひっそりとした返事が返る。

「御呼びでしょうか」
「あの女見張ってろ。腰元も徒小姓も役に立たねぇ」
「…よろしいので?」
「俺が許す」
「は」

無機質な声音はそれきり沈黙する。
命を出した本人は盛大に息を吐いた。
政宗自身、これほど警戒する必要も無いとは思っている。女の身一人で出来ることなど限られているのに、今この時期に黒脛巾を出すのは正直惜しい。
だが何か、胸の中に澱みがあるのだ。顔を思い出すたびに沈殿したものが細々と這い上がる、妙な不快感。
気にしてると言えば、それまでだが。

「ま、俺はお役御免で嬉しいけど。ちゃんともこれで気兼ねなく話せるねぇ」

弾んだ声に、実に凶悪な眼をした政宗が振り返る。
成実がひくっと慄いた。

「いい度胸だなぁ成実。俺の気苦労は誰のせいだ、ぁあ?」
「や、嘘、ごめんって殿! 今度はほら、話してみて人となりを探るよ! これ最初からそのつもりだったから!」
「嘘付け阿呆。……いいから、お前あいつとは喋るなよ」

念を押すような態度に、成実がゆっくり頸を傾げた。

「…? なんで?」
「食われるから」

だから弱るまで追い詰めるのだ。
改めてみた白い顔はゆるりと動き、今度は空を見上げていた。






今日も一日、何事も無く終わった。
本当に何事も無く、だ。庭を眺めて黙々と歩き廻った後、乞われて部屋に戻り風呂に入って夕餉を食べて、終わり。
囚人のようだ。
ただし、とても恵まれた囚人ではあるが。
今日も政宗が来る気配は無い。有り難い事この上ないのだが、は夜が更け、寒さが骨身に沁みる頃になってもまだ起きていた。
ただ黙々と、放りっぱなしだった荷物を漁っている。

「あー、あったあった。ここだったかぁ」

漸く何かを見つけたのか、彼女は引っ掻き回してぐしゃぐしゃになった周囲の中で、安堵と歓喜が入り混じった声をあげる。
散った衣装は乱雑に直し、無理矢理に押し込めて見ないふりを貫いた。どうせ袖を通す必要も無い、重いばかりの無能な衣装だ。誰が困るわけでもない。
取り出したのは漆の箱。大きくて厚みもあり、中々に重い。
彼女はちょっと苦心しつつ、だが上機嫌で真新しい畳の上にどすりと据えた。
鼻歌を歌いながら漆の箱を開けると、所狭しと粉物や乾物、生薬に鉱物、蛤貝の塗り薬まで綺麗に整頓されてある。精製前の原料もだ。
鍼も勿論入っている。鍼術はの得手ではないが、乞われれば行なう。しかし酷く痛いものだから、そう切羽詰っていない限り、他人が頼ってくるのは大体が薬草だったが。
これらはすべて凡ての自作である。だが勿論、詰めたのは他人だ。

「…思ったより少ない、かな」

指で手早く中身を確認しながら、が少し固い声で呟く。
詰められた薬ではない。原料のことだ。
新しいものを作ろうにも、これでは大した量は出来ないだろう。

「…あ」

半透明の薬方をつらつらと漁っていたが手を止めた。

「山梔子だ……虎王ね」

数珠繋ぎになった梔子の果実がひっそりと忍ばされてあった。
ここにくる大分前に、虎王と野を散策して集めたものだ。
陰干しして完全に乾燥させたものは、煎じて飲めば安眠薬になり、煉れば打撲などに効く塗布薬になる。
怪我も不眠も多いはこれを愛用していた。しかしこんな些細な事を知っているのは傍にいた虎王くらいだろう。

(…元気かしら)

夜、布団をはねておなかを冷やしてはいないだろうか。好き嫌いせずものを食べて、きっちり勉強して、めげず武芸に励んでいるだろうか。
もう、泣いてはいないだろうか。

「……駄目ね、わたし。これくらいで…」

―――淋しいだなんて。
本当はあの晩、自分だって身が引き裂かれるほど泣きたかった。でも泣いてしまえば虎王はもっと辛くなる。だから必死で神経を張り詰め、耐えたのだ。
だがあの時堪えた分、今の反動が大きい。
丸い果実を手の平で転がし、欠けた指を見る。
骨も寸断し、断面は肉が盛り上がって今はある意味綺麗なものだ。ぽっかりと欠如した先端を摩り、は膝を抱える。
顔を埋め、眼を閉じた。
泣いてはいなかった。






小川の流れのように、周囲も自らもゆるゆると忙しくなり始めた矢先。
あちこちを走り回り、漸く座して政務に戻っていた政宗の元に、ある口上が届く。

「言伝? 誰からだ」
様でございます」

承ってきたのは片倉小十郎。軽く畏まる膝に添えた腕から、白い包帯が覗いている。
本人は侍女に託すつもりで文を認めていたのだが、ふとしたことで意図を察した小十郎が直々に買って出たのだ。
侍従の口からでた意外な名前に眉を寄せた政宗は、ひとまずそこから突っ込むことにする。

「何でお前が持って来るんだよ」
「は…その…」
「横恋慕か」
「心外な! 私は妻帯者でございます!」
「じゃあ何だ。はっきり言えよ」

多少いらいらと促すと、やはり小十郎は困ったように俯いた。
ぼそぼそと、口を開く。

「…あの方、お庭を御覧になってらっしゃるでしょう」
「…まだ続けてんのか。暇な奴だな」
「その折、私めと出くわしたのです。その、鍛錬中、不覚にも負傷してしまいまして。傷自体は別段どうということもなかったので放って置くつもりでしたが、見咎めた様が"どのように小さな傷でも雑に放っておくのはいけない"と」
「ほー」

政宗は肘掛に肘をつき、ゆるりとした態で聞くとはなしに耳を傾ける。

「態々、手ずから治療為さって下さったのです。いろいろと薬包をお持ちのようで………その折、承ってまいりま」
「治療?」

小十郎の言葉を遮り、政宗がふと身を乗り出した。

「あいつがか」
「は。よくは存じませぬが、漆の箱に色々と備えてあるようで…殿はご存じなかったのですか?」
「いや……わかった、とりあえず聞いてやる。俺に何用だと?」

困り顔だった小十郎がさっと拝礼する。

「以下、様の言で御座います。…"恐れ多くも殿にお許し戴きたい儀がございます。どうか、女の身でありながら医局に勤めることにご裁可を"」
「……なんだって?」

政宗の隻眼が僅かに見開かれる。

「"恥ずかしながら寵愛もまま成らぬ身なれば、お役に立てる道は死の淵に晒される弱者を救うことしかございませぬ。未だ未熟な腕では御座いますが、死を防ぐのではなく、死を遠ざける術で以って善処致します。何卒お許し頂きたく…"」
「待て待て、おいちょっと待て!」

政宗が手を振りながら、小十郎の言を遮る。

「それ、あいつが言ったのか?」
「左様で御座います」
「お前は反対じゃねぇのかよ。妾が侍従に下るといったぞ」
「言語道断に御座います」

きっぱりと吐き捨てる声音には怒りが含まれていたが、何処かしら疲れているようにも思われた。
若干引いた政宗に、小十郎はふっと顔を上げた。

「無論私は反対しました。ですが、あの方の御意思は固い。医局勤めは無理にしろ、医術は行ないたいと仰られるのです。最早御止め出来るとしたらそれは私では御座いません」
「……俺に行けってか」
「我らの王は殿。その言には様も従いましょう」
「どうだかな」

軽く鼻を鳴らし、政宗は小十郎の言を拭った。
小十郎はそんな当主をじっと見る。

「…内容自体は兎も角、申し上げる意気としては機なのでは。折につけて件の霊薬…訊きだす事も出来ましょうぞ」

ぼそりと言う小十郎に、政宗はちらりと視線を寄越した。

「お前、あいつと話したか?」
「は?」

突然の話題転換に小十郎がぽかんとする。
政宗が嘆息しながら繰り返す。

「創を診て貰ったんだろう。ならあいつと普通に会話したな。どうだった」
「どう…と申されても……お優しい方でしたが」
「…優しい?」
「はい。あれやこれやとお話させていただきましたが、男の私が退屈しないよう折々に慮り下さいました。話題の豊富な御方です。…相馬家は良い器量を御育てに成る」

最後の台詞はにも直接言った。
彼女は静かに笑い、「田舎娘の背伸びで御座いますよ」と明るく返してきた。
花嫁姿の面影を残していながら、口を開けば新たな側面を見せる。くるくるとよく動く大きな目が利発そうだった。
白無垢を着ていた所為で冷たく見えたのかもしれないと、小十郎は自分の祝言と照らし合わせながら考える。
しかし彼のこの言葉に、当主はなんとも言えない気分を味わう。

「ほぉ…優しくて話題が豊富の器量よし、ねぇ」
「その様にお見受けしましたが」
「Shit! あんの野郎…」
「何か?」

頸を傾げる小十郎に、正宗はぎっと睨みつけた。

「猫被ってんだよそれ。あの女が優しいだぁ? 絶ッ対ありえねぇ」
「…はぁ」
「ったく、お前も成実も絆されやがって。こうなりゃ綱元もあぶねーよなぁ。あいつ意外に一番御人好しだしよ」
「………」

主君とは言えども、小十郎と政宗は十ほど歳が離れている。
その上幼い頃から仕えてきた身なので、言い換えれば兄のようなもの。弟の癖や何に我を張っているかは口調と態度からある程度察することが出来る。
思い至った上で何も言わず、小十郎はすっと座を立ち上がった。

「では、私はこれで。ご伝言、しかとお届けいたしました」
「おいおい、俺の返事がまだだろ」

突然立ち上がった彼に驚いたのか、政宗が幾分ぽかんとしたまま言う。
小十郎は既に襖に手をかけながら、半身だけ振り返った。

「殿が御自分でお伝えください。私では効果がありませぬので」
「はぁ? 何言ってんだ、なんで態々この俺が」
「お逢いになって、直接お伝えください。その方が殿もご気分が晴れましょう」
「ぁあ?」
「では。…ああ、行くとしても御政務後になさいますよう」
「なっ、ちょ、おい!」

差し伸べた手も空しく、襖はぱたりと閉じられる。
行き場の無い手を戻しつつ、政宗は頬を攣らせながら、しんとなった部屋に深々と溜息を吐いた。
が部屋で取り出した薬箱の事は既に耳に入っていた。無論、就けた草の報告からだ。
外出した際に中身を調べさせたが、特に怪しいものも無かった。単純な外用薬と、内服薬。毒も無いので捨て置いたが、活用するとは思わなかった。怪我など、庭を眺めている身では無縁だと思ったのだ。
その他にも色々、彼女の風評は耳に届いている。政宗にとってはどうしても解せないのだが、彼女の評判は当然のようにいいものが殆どだった。
侍女をみな下がらせたというのにくよくよとすることもなく、出来る範囲の事は凡て己でやろうとするきらいがあるらしい。
何を考えているか判らない節は折々にあるが、話しかければ気安く応じる。豪胆な腰元はよく貴人に話し掛け故に不況を買うものだが、彼女はそれらに嫌がる素振りも見せず、すっきりとした立ち居振る舞いは逆に男気すら感じさせるというのだ。
話を聞くたびに初夜を思い出した。皆が言う""は縊られながら哂った女と果たして同一人物か? 女というものはつくづく、全く以ってさっぱりわからない。
だが、これらは少し昔の話。ここ最近はめっきり大人しくなってきたという。
呼吸する如く当然に庭には出るものの、ぼうっと外壁を見ては物思いに耽り、僅かな時間で部屋にとって返す。その後は何をするでも無し、室内に閉じこもったまま一日を終える。
成実と遭遇して以来、顔も見ていない。なにも態とではなく政宗も忙しかったし、もあまり長い間外には出ていなかったのだ。仕方ないといえばそうだが。
これも聞いた話だが、幾分痩せたらしい。

「…………」

政宗は机の上にぞんざいに投げ出していた利き腕を見下ろした。
無骨な骨張った掌。剣胼胝でごつごつと強張り、何度も受けた傷の後が沢山残って分厚い。おまけにがさがさ荒れている。
この手の中に、彼女の手首はすっぽりと収まったのだ。
あの腕の何処に、落ちる肉があるのだろう。
それが仕切りと不思議で政宗は顔を顰めた。






02<  00  >04








 一話の長さ、長いですかね。不安になってきた。そんなわけでお疲れ様です、第三話です。
もうちょっとぽいぽい進む予定がアレレ 思いつくまま書いてるからこんな始末に…
天正十三年の五月に伊達と芦名が戦ってるんで、大体時期はそれくらいですかねこれ。撫で斬り前です。撫で斬りますたぶん
相馬はかっこいいんだー(唐突) 特にわたしあきたねさまがね…このみ 180cmの長身だったらしい とりあえず今すぐ結婚して欲しい なぁ!
盛胤、義胤親子もつぼです 義胤様は何度も伊達とぶつかりますしね! 手ひどくやられててそこがまたイイんだ…(S)