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そこへ辿り着いたとき、まず目に飛び込んできたのは、轟々と燃え盛る炎の海だった。
玄人が油の道と風向きを工面したのか、無理矢理に飼い慣らされた火は求めたとおりに要所要所を喰らっている。それでも、獰猛なる牙は抗うが如く、紺碧の空を茜に染め替えて上へ上へと躍り上がっていた。
見上げれば星の海、その下は阿鼻叫喚の絶えた城下町。爆ぜる火の粉が一瞬だけ閃光になり、あとは黒く煤として温い夜風に溶ける。
血気に盛る武士団が今もなお其処彼処を跋扈するも、大半は負傷した敗走兵のようだ。菱に似た三つ鱗紋が薄汚れ、大仰な明かりが照らす夜の大路を疎らに駆け去ってゆく。
見たところ、追討する気は無いようだ。
しかし、思うよりも火の勢いが強い。この距離に加え、きつく晒しを巻いているはずなのに、佇む足元からも屋根瓦の熱がじわり、と響いている。今はこれ以上近づくのは得策では無い。
熱風と煙避けに巻いた布を一度指で押さえてから、低く伏せた体勢のまま、地響きのような悲鳴を上げる大城郭の影を見る。
青闇が囲う白炎の中、僅かに黒く霞む輪郭だけが伺える。その只中で、今、何が起きているのかは判らない。
しかし、間違いない。これは狼煙なのだ。






縦に長い日の本の国、そのほぼ凡てを均等に白く染め抜いた六花は消え、代わりに南からの温かい風が穏やかに薄紅を運びだした。時折騒ぐそよ風も温く、水面に弾ける光も眩しい。川の水はまだ冷たく、ほとりには菫や苦菜の類が目立つが、じきそれも様変わりするだろう。
春なのであった。
山郷で梅を眺め、桃を楽しみ、過ぎる陽の遅さと夜の温みを愛でる。
現世風景は穏やかなのに、しかしまるで反比例するが如く、日本各地での戦渦はますます激化の一途を辿っていた。
その筆頭たるや、まず、新年が明けて間も無くに、魔王との悪名名高い織田信長が動いたことである。
尾張に座す羅刹は雪解けも賀正の礼節さえ歯牙にもかけず挙兵し南下、異教徒との抗争が激化していた安芸は毛利元就へ急襲を仕掛け、これに勝利する。
しかしそのまま薩摩、土佐四国もとは流石に行かず、両猛鬼の牽制に足止めを受け、勝敗はそのまま膠着を見せているという。
大半の兵力を不得手な海戦に持ち込んだためか、若しくは智将と呼ばれた毛利元就の、自身に負けず劣らず似通った冷酷冷静な戦運びの所為か。思うよりも梃子摺ったらしい魔王の苛立ち凄まじく、敗戦地は酸鼻を極める有様。西洋甲冑に身を固めた彼の往く後には草一本残らぬという風聞も、まず焼き討ちを第一手とするその手腕からして、強ち誇張でもない。
争っていた怪しげな宗教団体は、天下に興味が無い分保身には敏感で、激戦が始まると同時、即座に名も無き島の本拠地に撤退したようだが、自国と民、何より天下平定という大命を持つ両大名はそうもゆかない。
憐憫や躊躇など、文字通り欠片も無い惨状を目の前に突きつけられ、それでもよく善戦していると聞くが、単純に兵力で勝る織田勢は本国より続々と援軍を送り込み、短期決戦に持ち込む気でいるようだ。そうなると、これからますます持ち前の残虐非道な行いは悪化するだろう。
そんな織田が掛かりきりになる以西への、その背後を好機と見、挙兵する何某かもあるにはあった。中でも代表的な大大名としては、駿河の今川義元である。
しかし地の利、時の利、そして血族による巧妙な同盟関係がこれを遮る。
既に配下へと置く三河の徳川、加賀の前田に南北の主だった街道は防がれ、中央は嫁実家の美濃と妹姫の嫁ぎ先である近江は浅井という、徹底した八面六臂の構えである。
大規模な戦闘中によって弾幕は手薄な領土と侮ったか、しかし多勢で以ってしても攻めあぐねた今川は、一旦本領へ引き返す、その過程で討ち取られた。
足利氏の傍流、従四位下治部大輔の首級をあげたのは、なんとその義兄である甲斐の虎というのだ。
既に信濃の大半を手中に収めた彼は、恐らく次に東は武蔵、西は飛騨に手を伸ばさんとするだろうとの警戒の矢先。まさに周囲には青天の霹靂である。
公家意匠に身を拵えた、聊か風変わり者の今川家現当主ではあったが、外政内政には類まれなる才能を発揮、謀略で持って国政を布いた典型的な優男である。
しかし青年期には海道一の弓取りと称されていた辺り、強ち武芸もからきしという訳ではない。その証拠に、今回の行軍は自らが先陣を切り、打倒魔王勢と意気込んだのだろう。
駿河は豊かな水路と港、豊富な資源を持つ景勝地である。これを手中に収め、縦に長い領地を広げた武田信玄は、当世最大勢力に拮抗する大名として頭一つ分抜きんでる形になった。
このままの勢いに乗り、織田勢とぶつかるのは時間の問題だろう。
近隣の誰もがそうと思い、警戒と漁夫の利を怠らずに目を光らせていたまさにその背後、またしても寝耳に水の一報が轟いたのである。
彼女は、恐らくいの一番い駆けつけたものの一人だろう。
昨日の戦火も明けた正午、初春の陽はどこか霞みながらも辺りを柔らかく照らしている。霊峰名高い八幡山を後背に二里四方を囲む大城郭、小田原の終焉すら、例外ではなかった。
城下町を含む広大な土地全体を土塁と空掘で取り囲む惣構えは、始まりをその名も潔し"栄光門"という巨大な軍門とする。見上げども先は霞む見事な造りだが、本丸を残し後は凡て灰燼に帰した平城の只中では虚しいばかりである。
朝日を待ちながら山陰に潜むこと暫し。彼女は緩やかに差し込んできた陽の光にも臆すことなくその身を晒し、しかし人目にはつかぬまま、偶発的にか計算か、端はやや焦げつつも原形を留めた本丸に潜入を果たした。
構造上の必要として設けられた隙は、同業者であれば敵味方区別せず、容易にそれと判るようになっているから皮肉なものである。
物音は立てず、しかし音を立てる勢いで眇めた視線の先で、悠々と検分を続ける件の男―――この先生かしておけば必ずや障害になるだろう、問題の人物を睨み下ろす。
当時の栄華を須らく繁栄した巨大な城内。内戦の所為で彼方此方が破損し、絢爛だった調度などは無残なものだが、基礎それ自体は流石、ほぼ無傷だ。倒壊や改築の必要などは無いだろう。
喧しい足音を立てながら総畳張りの室内を走り回る歩兵どもを随え、何処か斜に構える男の風体は二目と無いほど奇抜で、見間違うはずなど無い。
長身の体躯に青黒い陣羽織、弧月の兜、腰に佩くのは六刀というこれみな狂気の沙汰。そして、隻眼。
一々と報告に見えるどのような小物にさえ顔を上げさせ、目を見て労ってやるのも、いかにも高飛車な武士らしくない破天荒さだ。
忌々しい。
ただ、そう思った。
半年前、多勢が犇めき合う中で我を貫き、血生臭い怨嗟に塗れていた時には、正直取るに足らぬ青二才だった。勢いも力もある。だがそれだけだ。直接手を下す価値もないと、彼女でさえそう思ったのだから、いわんやその主人をして、だ。天魔が蔓延る冬の行軍など愚の骨頂、赤子でもわかる常識を曲げるような輩に、未来などはないと思っていた。
ところが、どうだ。
相手は今こうして、関東きっての大城郭を、遠慮会釈もなく蹂躙しては、笑っているではないか。
予測が甘かったのか、先回りが裏目に出たか、若しくは十重二十重の思惑故にか。どちらにせよ、今は結果が凡てである。彼は生きて春を迎えて、領地を広げた。それが事実だ。
この辺りでその鼻柱をへし折らねば、事態はますます以って暗澹たる有様を成すだろう。
しかし、今回彼女に授けられたのは、現状の真偽確認という諜報命のみ。くれぐれも深追いはせぬようにと、予めの厳命すらも受けている。
思慮深いあのあるじのことだ。何か、己如きには考えの及ばない予測や策があってこそだろう。
だがそれでも、手が届く範囲に目障りな雑草があるのだ。これ以上地中深くに根を張り伸ばす前に、今此処で刈る方が、得策なのでは無いか。
武に秀でていることは知っている。しかし、忍の業は一撃必殺。正攻法も一対一も無い刃となれば、話は違うのでは。
意識より先に指が暗具を捉える。投擲に備えた黒金の窪に神経が研がれた。
―――いざ。

(ッ!)

殺気、と考えるよりも先に身体が動く。
狭い天井裏の隙間を音も立てずに素早く退く、そこに、曲刃の手裏剣が硬く突き立つ。杉の一枚板を裂く柔らかな音。
気取れど見上げもしない件の男を、彼女は素早く後退しながらも、今度こそ万力を込めて睨み下ろした。
気付いていたのか。
いつから。
思う間にも容赦ない刃の雨。敵の姿は一向に見えぬが、此方の位置は完全に把握されているのだ。
目視されたならば、最早音を絶つ事に神経を注ぐのは無意味。タ、と梁を蹴る足裏に仕込んだ暗剣を投げ、追従する同業者を牽制する。途端、喧しく揺れる天井を見上げたのは供回りどもだけだった。
曲者、と騒いで血相を変える武士たちを尻目に、音も無いままに現れた、脛に黒い布を巻いた若者が頭を垂れて指示を待つ。

「好きにしな」

いつの間にか抜刀していた一刀を納めながら、隻眼の男が短く下知した。






追討は容赦なく、また限りもなかった。
退けど、迎え撃てど、その刃は病むことなく首元めがけて追ってくる。一人目を叩き伏せ、二人目の咽喉を裂いた隙に、三人目に足をやられた。
深くもないが浅くもない。腱は無事のようだが、これでそう容易く動かすことは難しくなった。彼女の得意は投擲や目晦ましではなく、慣れ親しんだ獲物を持っての徒手格闘である。例えば幻術など、あれは入念な仕込があってこそ発揮できる騙し技だ。今この瞬間の、呼気すら乱せない忍同士の白兵戦では、脳裏に思い描くだけ笑止という稚戯である。
左右から同時に飛んだ凶器を叩き落すと同時、足場の枝が耐え切れずに折れる。咄嗟に飛び上がれど、先程の傷が邪魔をした。その隙を突き、今度は上下から刃が迫る。
同時に始末するのは難しい。さて、では何処を犠牲にすれば最小限で済むか。
考える一方で勝手に動く体は落下先に迫る一人に全神経を向ける。一対一であれば、手間取る相手ではない。渾身の殺意は鼻先で僅かに風を起こしただけで、物言わぬまま散った。そのまま、今度は背後に風が来る。
一太刀は覚悟の上、だからこそ筋を締め衝撃に備えた。しかし予想された時機に予期した痛みは襲ってこない。怪訝が駆け抜けた。だが好機ではある。落下したまま、身を捻る。続けざまに金具を擲つ、その刹那に、瞳の中を目にも鮮やかな橙が掠めて飛んだ。

「よっ、こんな処で奇遇だな」

場違いに明るい声とは裏腹に、黒鉤爪に覆われた両腕は一部の隙もなく攻撃の手を緩めない。落葉のように予期できず、流星のように一瞬にして翻る刃は彼女の背後を狙った一人だけでは飽き足らず、次いで飛び出した二人を瞬く間に地へ沈めた。
そのまま、現れ出でた第三者は一滴の返り血すら見せないまま、獲物を一振りして体勢を整える。既に着地して身構えていた彼女は、忍にしては珍しいほど純粋たる殺意を滾らせていた。

「佐助!」
「久しぶり〜、元気だった? かすが」

ひらひらと暗黒色の手を振り、この状況下で朗らかに笑う男、名を猿飛佐助という。特異のなのは摩訶不思議な忍装束や黄金赤色の髪だけではなく、斜に構えたその態度。それ以上に、持ちえる業もいけ好かない。つまり、彼女にとってそれなりの窮地で笑っていられるほど、彼にとっては大したことではないのだ。

「何の用だ、貴様!」
「やだなぁ、言ったじゃん奇遇だって。偶然だよ、偶然」
「ふざけたことを…、用がないならとっとと消えろ、目障りだ」
「相っ変わらず連れねぇこって」

肩を竦めて首を振る彼に、彼女――かすがはギリと奥歯を噛む。
負傷したままで同業者を蹴散らすのさえ一苦労と言うのに、加えてまさかこの男を相手とは分が悪すぎる。
歯噛みしたその一瞬を逃さず捕らえた男は、悠々と彼女の目の前で腕を組んで見せ、ひいては片足を意味もなく揺らめかせて、挑発する。爪先で軽く蹴倒すのは絶命した黒脛巾のひとりだ。伊達家子飼いの忍。他国においても手練と名高い集団を、瞬きすらさせず、たった数瞬で。

「しっかし、驚いたね。独眼竜ってばちょっと目を離すとすぐこれだ。お前ンとこの大将もそりゃー驚いたっしょ? まさか此処に来て北条だなんて、ねぇ」
「…わたしが答えると思ってるのか」
「そう邪険にすんなよ、俺たち狙いは一緒だろ。独眼竜の観察、若しくは暗殺」
「………」
「ホラ、図星じゃん」

ふっと笑ったかと思えば、その姿が不意にぶれる。警戒の範疇だった彼女は即座に気配を追って上、早春に枝葉を伸ばす大樹の先を睨み、残る投具を穿つ。
高い音を立てて払い落とした鋼を目で追うことなく、一瞬にして梢の先に移動した男は、体重を感じさせないまま特異な髪と衣を靡かせて見下ろし、哂う。

「まっ、お前の所為で俺様も仕損じたわけだけどさ。仕様がないから今日のところはお預けだ。謙信公に宜しく」
「気安くあの御方の名を口にするな!」
「はいはい。んじゃね、今度会う時は四度目の正直、ってな」

お返しとばかり、彼もまるで甘い軌道で四つ輪の手裏剣を投げつけ、彼女がそれを撥ね退ける一瞬に緑へ融けた。
気配はある。恐ろしい速さで移動する幽かな匂いを追うべくと無意識に動きかけたが、寸での所で思い止まった。
負傷している。加え、装備も十分ではない。私憤で動き、業務に差しさわりがあってはいけないのだ。今の己が何より優先するは、領内に戻り、無事、あるじに事の仔細を正確に伝えること。
目を閉じ、静かに息を吸う。もう嗅ぎ取れるか否かという気配を辿ることを放棄し、目を開けた。ややあって彼女も、常人には陽炎にしか見えない動きで森中を駆ける。
今度会う時は四度目の正直。
その言葉どおり、再戦は約束されている。






被害は最小限に抑えたといえど、流石に当世最大の規模を誇る城下町。粗方の混迷を沈めるのに、優に十日は掛かった。
その間に、踏み荒らされた瓦礫などはほぼ撤去され、物売りも蔓延り、ボツボツと人々も慣れた界隈に戻ってくる。中央に進出するには絶好の拠点である北条氏本拠・武蔵、相模は小田原城を手に入れ、独眼竜は甚くご機嫌なまま物見と検分を終えた。
流石、関東最大規模を誇る巨城はその治世も確りしている。灌漑や流通は言うに及ばず、膝元で暮らす民も衣食住には事欠かないと見えた。
本城米沢との間には起伏烈しい山野が大きく広がるが、下野などに住まう小大名や豪族らは、伊達政宗がまだ小田原へ向かう行軍途中ににもう随従するとの達しを届けていたし、間を繋ぐ主要な大街道も凡て押さえて、交通の利便も申し分ない。
今すぐ此方を拠点に、とまでは早計だが、麾下も増えた今なら方々へ足を伸ばすことも随分楽になるだろう。
しかし、一応、と銘打って市井から郊外までをも自身の目に収める彼の傍ら、随従する家臣団は逆にそわそわと落ち着かなかった。
何せ彼は本城から少し南下しただけでガラリと変わる些細なことにまで感嘆し、機嫌のいい猫のように闊歩するだけで、その後の如何を全く口にしないのである。
各国情勢は今や晴天より明瞭である。加え、今の伊達勢は神仏の加護を錯覚するほど勢いがあるのだ。この機に乗じぬ手は無いというのに、当の伊達家当主ときたら、今のところ退くも往くも先を見せない。
次なる獲物は甲斐か越後か一挙に京か。機動力を身上とする家臣たちのやきもきがそろそろ限界に達するかという時、彼はすっかり仮宿として馴染んだ小田原本丸にて、あっさりとこう告げたのである。
米沢に戻る、と。
どよとざわめく周囲には得意の笑みだけを見せ、後は淡々と配下武将を選び出し、小田原据え置きを言い渡して、さっさと踵を返す。
電光石火、案ずるより産むが易し、思い立ったら即行動。明日にはもう手勢を整え、馬首を翻し、来た道の泥を固めるようにして颯爽と相模を後にする。
この行動に一番驚いたのは、蔓延っていた他国の草でも、手下の配下でもなく、なんの咎めも受けなかった小田原城下の民衆たちである。
遠くの見知らぬ地で路頭に迷うよりは、と戻ってきたものも、これからそれなりの戦禍にまみえる事を覚悟した上だったのに、当の本人が姿を消してしまうとは、まさに寝耳に水もいいところだ。
当然、その米沢には、戦次第の一切と当主帰還の旨が一足先に到着していた。
思惑は兎も角としても、まずはめでたいこの一報に対し、不遜にもなんともつかない複雑な顔をした娘が一人。
見開いていた大きな眸はゆっくりと瞬いて落ち着き、頬に掛かる黒髪も滑らかに垂れて光を弾く。白い喉がこくん、となって、彼女は一つ頷いた。

「そう」

それだけ言うと、娘はまた何事かを書き付けていた紙面に向かって視線を戻した。
呆れるのは、いそいそとこの報を運んできた顔馴染みの女中である。
この上ない吉報だと思って早掛けて来たというのに、この微妙な反応はいったいなんだというのだ。

「まあ、それだけでございますか?」
「ああ、ええ、そうね、えっと、御無事で何よりと思います」
「そうではなく、もっと、こう、ご感動を表すようなお顔だったり、抑揚だったり致しませんと、殿が不憫にございます」
「そう言われても…」

これがわたしの精一杯、とモゴモゴ呟く娘に更に詰め寄り、年上と同性の遠慮の無さで、女中は「もしや」と怪訝な顔をする。

「何か思うところでも御ありでございますか? ならばこのわたくしにははっきり申して頂きませぬと。隠し立てなど無粋にござりまする」
「そんな、別に何も」
「いいえ、そのお顔は嘘を吐いているお顔!」

遠慮も何もなく突きつけられ、途端娘はウッと詰まって筆先を仕損じる。薄半紙にパタパタと黒点が落ち、きっちりと連ねていた行の間に無残に留まる。
人様に渡す予定の書付だったために、こうなってしまっては使い物にならない。
娘は今度こそ盛大な溜息を吐き出して、諦めたように筆を置いた。
一瞬にして塵と化した紙を摘んで取り上げ、眺めながら、娘は躊躇いがちに唇を動かす。

「ご無事なのは、凄く良かったと思います、けど」
「けど、何です?」
「戻っていらっしゃらなくても、いいんじゃないかなぁって」
「まあぁ!」

恐らく来るだろうと思っていた大絶叫も、まさかこれほど早いとは思いもよらず、耳を塞ぎ損ねた娘は顔を顰めて後ずさった。
その彼女を更に追い詰めて、女中は憤慨して声を張り上げる。

「何を仰るかと思えば、そのような! わたくしは悲しゅうござりまする!」
「え、あ、ごめんなさい、その、そういう意味じゃなくって…」
「姫様がそのようにお思いなぞ、殿がお知りになったらどれほど御嘆きになられるか。一体あの方の何がご不満なのです」

如いて言うなら、全部だ。
咽喉までせり上がった言葉をどうにか飲み込んで、娘は一言「姫様は駄目」とだけ言い置き、またしても侭なら無い舌先を慰めるように苦い苦い吐息を押し出した。
言葉足らずの自分も悪いと思うが、それでもこれが本心だ。
これから関東一帯、ひいては中央までを攻め上るというのに、一体何を推して戻って来るというのだろう。
まぁ勿論、何か策あってのことだろう。しかし、それでもこの米沢まで戻ってくるというのなら、一応は顔を合わせなければならない。
それが、酷く、億劫だった。
鬱々とした顔をどう取ったか、女は暫くつらつらとその白い面を眺めていた。
やがて、こほんと咳払いが一つ。

「では、さま。ご不満があるのならば、今ここで、このわたくしに、きちんと、はっきり、仰ってくださりませ」
「…もしもの話だけど、わたしがその"不満"を零したとして、それを如何するつもりなの?」
「勿論、わたくしから殿にお伝え申し上げますわ」
「嫌がらせ?」
「何を仰います。恐れながらこのわたくし、様が此方米沢にいらっしゃった頃からお世話させて頂いて居る身。愛、という一言なら、我が殿に負けず劣らずにござります」
「悪い冗談はよして…ほんとに…」

寒気に二の腕を摩る娘―――は、怪訝な顔をする女に誤魔化すように引き攣った笑みを見せ、あとはうっそりと宙を眺めた。
今彼女がいるのは、米沢城下にある武家屋敷である。元々の家主は片倉小十郎景綱。その彼の、別邸として建てられた住まいであった。
側室から人質へと身を窶したは、体調がある程度まで回復するのを待って、正式に伊達政宗の居城から退出を余儀なくされた。
監視という名目を使い城内へ留まることも可能ではあったものの、盾であり蓑である絶対の立場を失くした以上、城内は安全とは言いがたい。
加え、彼女自身の固辞もあり、結局「信の置ける家臣の屋敷へ軟禁」という結論に落ち着いた。
当然、"軟禁"なのだから、城内で暮していたようにはいかない。自由に外に出る事は禁じられているし、話し相手も極内々、世話役の女人に限られている。他にも細々した取決めが成され、沢山の制約が生活のほぼ凡てに発布される。衣食住の保証こそあれ、は武家の姫君としては聊か質素すぎる暮らしへと身を窶すことになっていた。
しかしまあ、当然それは表立っての話である。
実際に守られているのは"勝手に出歩かないように"という幼児に言い聞かせる類の注意だけで、あとは実際、ほぼ適当。
軟禁先の屋敷の主、つまり"信の置ける家臣"は、持ち前の気配りのよさから何かにつけては顔を出して、あれやこれやと世話を焼き、加えて米沢城主の計らいにより、顔知らぬ町の女ではなく、馴染みの城女中が寄越されるという、破格の待遇を受けていた。
どうなんだそれ、というのが彼女自身の素直な感想なのだが、厚意は厚意として、恐縮しながらも甘んじることにした。せめてこれ以上迷惑はかけぬようにと、あまり人目につかないようにしながら。
しかし、東国の中では活気ある米沢の街中にて、それほど大きくは無いが、それでも歴とした武家屋敷にひっそりと住まう娘。流れるように住み着いた当初から早速、その正体は一体何者なのかという様々な憶測が周囲を飛び交った。
人の噂も七十五日、自身も周囲も当初はさほど気にしなかったのだが、何時までたっても絶えるどころか、むしろ大きくなる一方である。如何に町民の噂話程度といえども、遂には「無理矢理に拉致され、監禁されている負国の姫君」、という憶測まで出てしまえば、伊達家にとって捨て置く事も得策とはいいがたい。
如何したものか、と悩んだ結果、下手に隠れるから悪いのではないか、ということになる。一国を担う女大名や、姫武将と呼ばれて戦場を駆ける娘だっている世の中だ。少しくらい顔を見られたところで、構うものでもあるまい。
元は小高相馬家の姫という事は隠し、片倉家の遠縁の娘、ということにして、少しだけ周囲に顔を出す。病気療養のために此処に留まっているのだと、それとなく言葉の端々に混ぜれば、あとは尾となり鰭となり、自由に泳ぎまわって、定着する。
一応は療養中の身である。日常生活には支障の無いほどに回復していたが、背の傷だけが変に膿み、懸念を残していたのだから、まるきり嘘というわけでもない。加え、たまに出入りする医師などが真実味を支えたのだろう。
今では彼女の、まるで隠遁するかのような暮らしぶりに、胡乱な目を向けるものは殆どいなくなっていた。
嘘をつきたいのなら、そこにほんの少しだけ真実を混ぜればいい。すると真実味がぐっと増して、何処までが嘘だか、自分でも判らなくなるのだ。
誰かが昔、どこかで呟いた言葉を思い出して、は一人苦笑したものだ。
ともあれ、これで身の置き場は何とか解決を見せる。
先行きの不透明さは今だ変わらず、侭なら無い気持ちは鬱々と胸の内に住まったままだが、それでも何とか日々を遣り過ごしていたのだ―――伊達政宗のいない、この期間は。
彼は、なんだか、変わったのだ。
それはもう、色々な意味で。
ふっと吐息を吹きかけて、掲げていた紙屑を揺らすなり、今度はそれをくしゃくしゃと丸めて団子に変える。こうして仕損じたもの凡て、丸めて捨てられたならどんなにかいいだろう。叶うはずも無い思考を持て余した末に、彼女はまた文机に向き直り、乾きかけた墨に水を挿す。その硯、筆、おまけに文鎮すらいちいち立派で、なんだか無性に気が重くなった。
女中の方はといえば、何処か憂鬱そうに手を動かす娘をつくづくと眺めていた。ひっそりと瞑目したまま、無心に手だけを動かして、音といえば幽かな呼吸と、硯と墨が擦れ合うだけ。
すっかりと血色の戻った、それでも雪のような横顔を見つめて、女は暫く物思いに耽った。
のち、おっとりと微笑む。
亀の甲より年の功。人生の先輩である彼女は、の億劫さの大元など、疾うに判り切っているのだ。
思い立った途端、笑みが浮かんだ。堪えきれず、口端から音が漏れる。
閉じていた目を開いて、振り返る不思議顔のに、弓は笑ったまま告げる。

「かわゆい方」

くすくすと笑いながらいうから、聞き取れなかったからか、それとも意味が判らないからなのか。はぱちぱちと瞬きをして首を傾げたまま、何も言葉を発しはしない。
敢て多くは言わず、そのまま彼女は笑いを収め、「さて」と話を切り替えた。

「さあ、お召し変え下さりませ、様。登城の命が下されました故、今宵から暫しあちらにお移り頂きます」
「え、もう?」
「はい、先程御使いの方が」
「そう…」

困ったな、と呟いて、はちらり、と手元の紙を見下ろした。
はて、と女が首を傾げる。

「どうかなさいましたか?」
「ええと…、その、ごめんなさい、少しだけお待ち頂いてもいいかしら」
「まぁ、様」

普段ちゃらんぽらんにみえて、は公私混同をすることはない。如何に胡乱な"人質"といえど、公式の場には彼女だって顔を出さないわけには行かないのだ。
けれど、今回は一体どうしたと言うのだ。
柳眉を寄せた女をどう取ったか、は慌てて諸手を振る。

「違うの、わたしだって、そこはちゃんと弁えてます。でも、とっても急じゃない? だから今日は、先約があって…」
「先約? 何のです」
「…文を頂いたの」
「…は?」

心底意味が判らない、という顔で固まる女の前、は言いにくそうに文机と、自分の手とを往復して見つめた。

「お庭に出てると、たまに見える方でね。よくお花を下さっていたのだけど、この間、頂いた桃の枝に括りつけられてて。内容はその…、まぁ、そういうことだったから、お断りするには行かないのが無難でしょう? でもせめてお返しの文くらいはって書いていたのだけど、この有様で…」

いいながら、丸めて潰した紙屑を手の平で転がす。

「でも、一日中待ってるって書いてあるから、やっぱり直接行って、きちんとお伝えしたほうが早いかなとも思…って?」

盛大に項垂れる女中頭を目の端に収めて、の言葉尻はぶっちりと途切れ宙を舞った。
奥に仕えて早幾年月、その精練された所作は座す姿にこそ表れるようで、すっと伸びやかで美しい筈の背筋も、今や小刻みに震えながら丸まり、量の掌が顔を覆い隠している。
この娘の罪深さも、最早ここまでくれば天晴れというものである。

「あのー」

恐る恐るとが声をかける。女が散乱させていた感情を仕舞って、震えを止める。
ゆっくりと起き上がった彼女の額には、それはもう明確な、はっきりとした青筋が浮かび上がっていた。






「…お邪魔して、も、平気?」

大雷に勝るとも劣らない怒号が響いて暫し、一向に姿を現さない遣い女を追って屋敷の奥に足を踏み入れた伊達藤五郎成実は、目の前に広がる摩訶不思議な情景に、恐る恐ると声をかけた。
それはもう、物凄い勢いで女が女を叱り付けている。これが主従なら、まぁ、女の世界でも当たり前なのだが、怒っている者が従で、怒られている者は元はやんごとなき身分であらせられる、姫君である。その姫君は神妙なくせに投げやりな態度で項垂れがちにそっと両耳を塞いでいるものだから、更に従者の怒りを買っているなどと、思いもよらないのだろうか。ついでに目も瞑っているようだから、気付いていないのかもしれない。
成実の問いかけなどなんのその。乱入したはいいが置いてけぼりに繰り広げられる大説教は、女が息継ぎの為に少し隙を見せたとき、改めて合いの手を入れた彼によりやっと遮られることとなる。
二人揃って振り返った先、佇む彼を認めて、があ、と声を上げた。

「成実さん」
「や、久しぶり! んで? なにしてんの、ちゃん」
「すごい怒られてます」
「うん。そりゃ見れば判るよ」

すっかりに慣れている彼は、特に動揺も見せずにさっさと切り返す。途端、はっと我に返って女が居住まいを正し、顔を伏せた。

「も、申し訳ありませぬ、お見苦しいところを」
「いやいや、大丈夫。悪いのは多分絶対そっちのカノジョ」
「まあ」
「否定はしないのね」

あはは、と笑う彼が改めて断りを入れつつ室内に入り、適当に腰を下ろす。茶の用意をと慌てる女には手を振って遮り、それで、と先程の話題を蒸し返した。
女はチラチラとを伺いつつ、躊躇ったが、軽快に見えても軽薄ではないこの青年を口八丁では容易くかわせまい。諦め、事の次第をありのまま説明すると、聞き終えた成実も同じく両肩を盛大に震えさせる。そして、案の定大爆笑を轟かせた。
暫く笑い転げていたが、やがて下火になったのか、呼吸困難になりかけている息を宥めながら、目端の涙を掬い取る。

「あー可っ笑しい! ホント相っ変わらずなのね、ちゃん、俺なんかもうすげぇ嬉しいなぁ! 才能だねそれ!」
「それってなんですか」
「そういう風に悪びれずに聞き返してくるところ!」

最っ高、と最後に一つ盛大に肩を揺らして、はぁ、と深呼吸。複雑な表情で黙りこくっていた女に水を向け、改めてと仕切りなおす。

「じゃ、まぁ、俺が来たのはちょうどいい頃合だったね。梵は今日中には着かないから、安心していい」
「なんと…、それは真にござりまするか」
「うん、さっき草がついてさ。一旦属城で夜を明かして、こっちにつくのは明日の夕刻になるらしい」
「どこぞで、また、戦でも」
「いいや、只の土慣らし。見せしめの凱旋も兼ねてるから、思ったよりも時間が要るだけ。その証拠に俺は先に着いてるしね…だから大丈夫だよ、ちゃん」
「ええ」

成実の笑みには彼女も同じもので応え、ちらとも揺るがずに瞬いた。こういうところも、相変わらず。油断ならない視線を刹那迸らせてのち、先に退いたのは武士のほうである。

「だから、いんじゃない? その切花屋だか植木屋だかなんだか知らない男ン処に行ってもさ」
「っ藤五郎様!? 何を申されます!」
「だって、俺って口固いしね。ちゃんだって別にそいつと如何こうする気なんか無くて、きちんとお断りがしたいだけなんでしょ?」
「勿論。そもそもわたしに考える余地なんかないですし」
「ほら」

最後は女に向かって放り投げ、成実は軽く笑って往なす。しかし彼女はめげずに吼えて、頑として抵抗の意を見せた。

「ですが!それとこれとは別問題にござります! もし万が一その不埒者が様に狼藉を働けば、どうなりますか! 起こってしまえば取り返しなぞつかないのですよ!」
「あ、じゃあ俺が一緒についてくよ。それなら問題ないでしょ」
「え?」

大きな双眸をぱちくりと瞬かせるのは、当の本人である。
不思議そうなその表情に、彼はこの日最大の、うそ臭い爽やかな笑顔を披露する。

「だって! こんな面白…、じゃない、一大事、そうそうないことでしょ? 大丈夫大丈夫、相手からは見えないところでじーっくり見てるからさ。ちゃんは心置きなくその男を袖にしといでよ。俺がばっちり見届けてあげる」
「それこそ尚更、わたくしは反対にござりまする! なにも藤五郎様までもが、このようにふしだらな事柄にお出ましにならずとも…!」
「ふしだらって、ねぇ。それを言っちゃぁ…いや、まぁいいや、俺はどっちでもいいよ。どうする? ちゃん」

矛先を向けられ、は暫し考え込んだ。相変わらず黒々と透き通る丸い瞳は斜め下、膝をそろえて座る青畳を見つめていて、何を考えているかは一見して伺えない。
けれど、どうせあんまり凄い事は考えていないんだろうな、と、成実はもうなんの躊躇も抱かず、ごく自然にそう思った。
程なくして、彼女は一つ大きく頷く。

「…そうね。一緒に来てくださったほうが、話は早く済みそう」
様…!」
「よっしゃ、決まりだね!」

これはいい話のネタ!と悦び勇んでさっそく成実が立ち上がるのへ、遅れてもゆっくりと腰を上げる。
黙りこくって顔を伏せている女を一度覗き込み、何も言わないのをちょっと脅えながら伺って、ごめんなさいね、と口先ばかりで申し訳なさを表す。

「大丈夫、お迎えに支障がない頃にはちゃんと戻ってきますから」
「………」
「えっと…」
「…わたくしはお止め致しましたからね。藤五郎様、どうなっても知りませぬゆえ、努々お忘れなさいませぬよう」
「え、俺? 何で俺?」
「すぐお判りになりますわ」

フン、と言い捨て、一つ大きく呼吸した彼女は、所在投げに佇んでいたの着物の裾を直してやった。








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 最早何もいうまい… まさか筆頭が一言しかしゃべっていないなどと…(いっとる)

お疲れ様でした!多分21話終了です。イヤー、長らくお待たせしてすみませんでした!
上で多分とか付けるくらい、書いてる本人が放置しっぱなので、ぶっちゃけもう読んでる人いないんじゃないの!とか思いますが、まぁ読んでくれてたらイイな…みたいな……そういう連載でいいですねもうフフフ!
実はこの次とその次位までは書いてしまってるので、何か神様的なものの指示が下らない限り、割とコンスタントにお届けできそうです。
マッ、いつものように話半分でね!(即否定)  わたしという人間がどれ程期待はずれかは皆さん百も承知ですよねウヒフ
しかし久しぶりすぎて此処にいつもどんなこと書いていたか忘れたな…
あ、BGM? はたらくくるま とか聴いてた気がします。 ♪フフフフフフフフ フフフフ 救急車〜(救・急・車!)    なんの脈絡