01






 麗らかな朝日が過ぎ、そろそろ昼餉の時間かと言う時。
はさしてどうと言う風でもなく、いつもどおりにただ黙々と薬研に両手を預けていた。
ごりごり、ごりごりと、ややこしい色をした南蛮渡来の霊験あらたかな薬物が擂り潰されてゆく。

「……妙ね」

呟いた先は手元の干した黒蜥蜴ではない。前後に揺り動かしていた身体を一度止め、どちらが腹なのかと干物を裏返してみる。が、無駄な徒労に終わった。
いつもは静謐極まりない城内が、微かに乱れているのは彼女も承知していた。しかし特に興味を引くことではない。口にはしてみたものの、それ以上に思考は廻らなかった。
下がらせた侍女もそろそろ昼餉だと呼びに来る。今日の献立に目星をつけつつ、は粉ものを混ぜる手を止め、何とはなしに作業場を見つめなおした。
書物が或いは整頓され、或いは散乱している。薬棚は綺麗にしていないと落ち着かないが、書物はどこぞの重塔さながらに積むのが彼女なりの美学だ。
脆いそれはあっけなく瓦解し傾れ、周りのものの小言の種になっているのだが。
一瞬、片付けようかな、という気持ちが起こらないでもない。
一冊でどれほどの価値があるか、重々承知はしているし、何より書物自体に愛を持っている。紫紺色やら山葵色、浅黄に桃まで選り取りみどりの表紙は、見目に麗しく可愛らしい。だがそのことと利便性が彼女の中で合致しないだけなのだ。

「…明日やろう、明日。うん明日やる。多分」

誰も聞いていない弁明をポツリポツリと口にし、凝った肩をぐうんと伸ばした。
その時。

「うぉおい!はどこだぁああ!」
「はぅっ!」

僅かに残った静謐さなど何処へやら。烈火のごとき怒号がどうと打ち寄せた。驚きのあまり反らせた背が攣る。

「攣った…今びきって言った……あ、だめ、戻すの余計辛い…!」
「ここかぁああ!」
「ひゃぁああ!?」

相当な距離があると思わせる振動だったが、彼女がまだ背の痛みから回復しない内に薄い襖はがらりと開いた。
爽快な風と空焚き梅香がどすどすと併せてやって来る。どちらも大層清々しいにも関わらず、は前かがみに痛みを堪えていた。

「何処に居るかと思えばやはりか!まったく、そなたという女子はちっともじっとせぬな」
「叔父上こそ…豪胆なお声ばかりでは女子が怖がります…っていうか痛いまだ痛い…」
「ん?なんだ、妙に畏まりおって」
「いやこれは礼ではなくって…」

両手を突き、顔を伏せる彼女を正礼の姿と取ったのか、叔父上と呼ばれた相馬盛胤その人は、祖父譲りの端正な顔を豪快に緩めて笑った。

「うむ、結構結構!その意気ぞ。身内にこそ礼を以って接せねばな。心底抜けているが教養だけはあるお前だしの」
「…まぁ、ありがとうございます…」

うふふ、と笑うは漸く徐々に身を持ち上げた。褒められている内は頷いておくに限る。
どうせこれから、あの剣幕を見る限りまた説教だ。
案の定、盛胤の顔は背に神経を向けているの顔を見つめ、次の瞬間には鼻筋をきりりと窘める。

「しかしな、少しは大人しく養生致せ。まだ傷も満足に癒えておらぬであろう」
「ああいえ、それはもうすっかり。どころか逆に、臥せってばかりでは逆に気分が滅入るのです。こうして手慰みでもやっていないと、今度は退屈で死ぬかもしれません」
「しかし、動くのはよくとも…」

普段は果敢な瞳がくりくりと、消え入る語尾と共にの左手に注がれた。
苦笑して自分も見下ろせば、そこにあるはずの小指が欠けている。
見栄えの悪い四本指の掌は、巻かれた布よりも生気に乏しかった。

「平気ですよ。痛みもしません。それに残りの指も一緒に怠けていたんじゃ、これまでの修錬凡てが水の泡になってしまいます」
「…女子には辛かろう」
「殿方にはもっとお辛いでしょうね。弓も刀も勿論、大事な方との指切りも出来ませぬ」

にこにこ笑って茶化すに、負傷者の翳りは一切見当らなかった。盛胤は幾分眉根を寄せて不憫な姪を見つめていたが、気を取り直して息を吐く。

「まぁいい。おぬしにとっても過ぎたことだ」
「はい。どうってことありません」
「……まぁそれもどうかと思うが……。いや、しかしな。儂は今日お前にこれでもかというほどの朗報を持ってきたのだ。聞いて喜べ驚け!」
「ええ、お説教じゃないんですか!」

淑やかに口元を押さえつつまあるく眼を見開くを、盛胤はじっとりと睨む。

「なんだ、また何かしでかしおったか? 今度はなんだ、またわしの壷を割ったか、新薬の実験で小姓の腹を下させたか、庭に勝手に菜園を作ったか、犬を…」
「叔父上ったら、昔の話を!」

わたわたと止めたのは相変わらず薄い襖を慮ってのことだった。外に誰がいるかも判らない、すなわち聞こえてしまえばまた侍女たちにからかわれる。
折につけては黙って座っていらっしゃればよろしいのに、やら、今のお話、城下の男が泣きまする、やら、よく判らない厭味が飛ぶのだ。
白い頬を珊瑚色に染め、母方譲りの意志の強い顔が羞恥に眉根を下げた。

「…わたしという身はつくづく学習できないようになっております。ですからきっと、今日も正座で一刻、とか…そういう想像を…」
「ほほう、そういう覚悟があるのなら三刻に挑戦するか?」
「とりあえず、喜ぶ方のお話を聞きたいです」

懲りずに笑うが頸を傾げて言う。
盛胤もニヤニヤしながら胸を張った。

「ふふふ、ならば聞くが良い。そなたの嫁ぎ先が決まったのだ。しかも破格、飛び切り上等な相手だぞ」
「……縁談?」

てっきり新しい薬学の本だとか、唐で発見されて間もない霊芝だとか、そういったものを期待していたは少しの落胆に眉根を寄せた。

「それはまぁ…なんというか…」
「おう、嬉しいだろう」
「…大層奇特な御仁で」
「なにを言う!」

素直に感想を口にしたに、叔父心から盛胤はいきり立つ。

「そなたはな、黙って座っておれば都のどんな美姫にも負けぬのだぞ! 黙って座っておれば!」
「世辞を…というか黙って座ってるなんてわたしには拷問です」
「だから!そなたは!ああ、引く手数多だというのにふらふらしおるからに…今まで儂がどれだけ心を砕いたか、」
「ごめんなさい」

長くなると覚ったはさっさと謝った。
変わり身の早い彼女に気の良い叔父はぐうと詰まるが、持ち前の切り替えの速さですぐ笑顔に戻る。

「しかしまぁ何にせよ、これで漸く儂も胸の痞えが取れたわ。姪のお前が幸せになれば儂も嬉しい。立派な御仁に見初めて貰えて、お前も中々に恵まれておるなぁ」
「…? ええ……?」

ふと、が頸を傾げたままで固まった。
ひらりと頸を後ろにやると、きっちりと閉じられた薄い襖。その向こうにももう一部屋が続き、話し声が廊下方には聞こえないようにはなっている。
だが…
陽光が漏れ、その所為か人の気配を察知しにくい。俊敏に眼を細めるを見て取り、盛胤は真面に笑みを少し混ぜて声を張る。

「だれぞ、だれぞ居らぬか」
「……ここに」

口を利いたのはやはり襖の向こうで、が張っていた肩の力を僅かに抜いた。

「下がっておれ。嫁入り前の娘と叔父、込み入った話があるのでの。他の連中にも伝えよ」
「御意」

実行したのかしないのか、それすらも悟らせないまま手下の草は以降沈黙する。
人払いだから侍女や小姓は聞き耳を立てないだろうが、間者がどこに潜んでいるやも知れない。だが今の一言で察すべき事は察しただろう。
それならば安心だ。
そらした頸をつと戻し、は改めてさっと居住まいを正した。

「で? いったい如何いうことでございましょう」

しらっと尋ねたの言葉にはいろいろな意味が含められている。
盛胤は訝しげに眉を跳ね上げた。しかし豪気な相馬の元当主は彼女の言葉に勿論気づいているので、内心ほくそえんでいる。

「如何、とは」
「今度はどちらの方にしっぺ返しを食わされましたの。わたしのようなものまで担ぎ出さなきゃならないとなると、よほど困ったことがおありで?」
「何故そうなる。器量良しのお前に縁談を持ってきた、言うたのはそれだけだろう」
「姉上様の後釜に」
「…知って居ったか」
「あの方より綺麗なものなど、わたしは見たことがございません。そんなお方が無碍にされる筈は無いでしょう、わたしが男なら掻っ攫ってでも娶ります」
「物騒な」

呵呵と笑う巨躯の叔父を見て、はうんざりと頬に手を当てた。
盛胤のほうも笑みの治まらないざらりとした顎を撫でつつ、柳腰の姪を見つめる。

「伊達殿と、和睦が成立した事はおぬしも知っておろう」
「ええ…些か古いお話ですけど」

宙を見上げては思い起こす。

「五月ごろ…でしたよね。まぁ和睦と言うよりかは降参といった風でしたけど」
「手厳しいな。相馬が伊達に下ったと申すか」
「旧領の全てを奪い返されたではありませんか。又聞きでございますが、出陣なされた伊達のご嫡男は当時まだ十五だったとか…でも、叔父上が若輩者に負けるなぞ、世の中わからないものですねぇ」

口さがない噂をチラホラと思い出すの前で、叔父はぽんとひとつ膝を打った。

「それだ」
「それ?」
「うむ」
「どれです」
「伊達の嫡男。お前の夫となるものだ」
「……はぁ?」

仰天した、と言うよりかは何を血迷ったことをと、は奇異の目で叔父を見つめる。
一線を退いたとはいえ盛胤は元相馬家当主。だが女の態度に気分を害した様子も無く、底の見えない深い目でつらつらと姪を伺い見た。

「ご当主になられてまだ間も無い方だが、和睦に際しては甚く難渋でな。丸森、金山を還しただけでは足りぬと言いおる。では何がお望みかと正面切って問うてみたら…」
「側女だと」
「いや、お前をはっきりと名指ししたぞ。面識があるのか?」
「まさか」
「だろうなぁ。儂も些かそこが解せんのだが…よもや女が当代切っての薬師だとは思うまいし」
「…ですが、わたしを名指しとなると」

俯いた顔は困った風だが、眼だけはきりりと張った弓の弦を思わせる。
盛胤はその黒玉をじっと見つめて、苦々しくも頷いた。

「出不精のお前が見初められる機会なぞ無いに等しいし、あの男は評判や見目ごときで女を召抱える器量にも見えぬ。ならばやはり、気づかれたと思って然るべきだろう」
「伊達の忍は優秀と聞きますし」
「うちのも怠けてるわけでは無いんだがなぁ」
「上には上が居ますものね」

人事のように吐き出す彼女の顔はしれっとし、感情は無い。

「で、叔父上は如何お考えです」
「お前と、恐らく同じだ」
「…願っても無い期だと?」
「その通り」

盛胤が戦の笑顔でに応える。
これだからこそ、後生大事に手中に収めていた聡明な女子。多少傷物だが、全く恥じるには及ばない。

「某の娘で如何だといった時、一部の隙も無くあっさり切り捨ておったわ。伊達の小倅が増長しおって」
「その小倅に全治一ヶ月の刀傷を貰いになったのですよ」
「おお、今でも疼くわ。お前の薬を使うてもな」
「作ったのはわたしじゃないですけど」
「生みの親はお前だ」

がひょいと肩を竦める。盛胤は豪然な笑みを更に深くした。
相馬の至宝。
城の大多数はこの暢気な姪を、見た目との落差が城の外壁を超えても余りあるはねっ返りだと称するが、ごく一部の者はを前述の通りに見据えている。
だが、かといって当主になる器量かといえば、決してそうでは無い。男に生まれていれば、と思うほど豪胆では無いし、怪力どころか非力だ。特別人望があるというわけでも無い。何より本人のやる気に欠ける。
智謀には長けるのだ。黙ってはいるが頭の中では人より三つか四つは先のことを考えている。だが、それについても著しく波がある。厄介なことこの上ない。
彼女の真価はその点において、ある意味"有能な者"でないと発揮させられないだろう。盛胤自身、使い余しているところがある。

「不器用極まりないお前だが、困窮したこの状況はよく判って居るだろう。伊達は破竹の勢いで勢力を伸ばし、佐竹・芦名とぶつかるのも時間の問題。西国諸国も未だ落ち着きとはほど遠い…どころか虎視眈々と全土を狙って居る。のうよ」
「はぁ」
「お前が嫁げば伊達と相馬の縁は強固になる。しからば、奥州は二家で以って平定となる日が訪れよう」

少し沈黙したは、そっと唇に手を当てる。

「…義胤さまは、天下を欲しはしないのでしょうか」
「あれはそれほど恥知らずではないぞ」

隠居の身である盛胤はにやりと微笑む。
も薄く微笑んだ。
できることならこのまま年を重ね、なるべく静かに死にたいと思っていたの夢は当の昔に潰えていた。
今このときではなく、大昔。昔々の大昔だ。

「猶予は、…ございますか」
「一月ほどだ。祝言はごく控えめに、米沢の城でやる。おそらく手の傷も塞がっておろうな」
「ならばそれまでの間に、なるべく多くをこさえておきます。ですが以後はご勘弁くださいませ。これはだけが、墓まで持って行きとうございます」

決意の表情で言うに、叔父の顔は俄かに険しくなった。

「ならぬ」
「いいえ、させてくださいませ。こればかりは相馬にも伊達にも、火責め水責めでも決して口は割りません」
「そんな確約が何処にある。死ぬよりも辛い責めも、世にはあるのだぞ。お前は一月でその頭の中にあるものすべてを残し、此処から去るのだ」

にべも無い返答。背筋を伸ばされれば途端大山のような威圧感が被さってくる。
びしびしとした重みを鎖骨に受けながら、はゆっくりと頸を横に振った。

「では、その前には世をお暇しとうございます」
「正気か」
「それが務めかと」

強情だが、それ故にやるといったらやる娘だ。
盛胤の眉尻が幾分下がる。

「……お前のお陰で助かった命もあるのだ」
「ですが、散った命が多すぎます」
「………」
「以後は人を助けたい」

追随する視線から逃げるように、は奥にある格子窓から外を見た。






赤い光が、畳の上に針のように落ちている。
夕暮れ、人払いを済ませた部屋の中で、若い当主と腹心の部下が絶妙な間合いで睨み合っている。
ここは奥州、伊達領。居城である米沢の一角で、もう小一時間ほど、困り果てている側近二人を残し、主と一の臣下は同じような問答を繰り広げている。

「私は断固、断固反対です」
「そうかい。俺も実のところ気乗りはしねぇな」
「ならばなぜ…!」

にじり寄る渋い顔の片倉小十郎景綱に、応える伊達の嫡男はいつもどおりの涼しい態。
黒の眼帯を少し摩る。

「何故も何も。別に女が欲しいわけじゃねぇんだ。人質なんぞ誰でも構やしねぇだろ」
「ではどうか、義胤殿の嫡男を寄越せと仰ってください。相馬は芦名・佐竹寄り。放っておけば後々…」
「あー…虎王、だったか。まだ五つかそこらの餓鬼だろ? 俺の下に置くなんて教育上宜しくねぇよなぁ」
「殿…!」
「落ち着けよ、小十郎。梵も考えあっての事だろうよ。たとえばほら、そのお姫さんが絶世の美女、だとか」
「理由にならん!」

般若のような小十郎の剣幕に、茶化して場を諌めようとした成実はとりあえず溜息ひとつで沈黙した。
残る鬼庭綱元は凡そ我関せずといった表情だ。小十郎が怒っていてもいなくても怖いと言うのは皆骨身に沁みている。
唯一場を収める権利を持つ伊達藤次郎政宗は、置きっぱなしだった玻璃の煙管を手持ち無沙汰に掴む。

「美姫とは聞かねぇな。精々、奥に閉じ篭りっきりの世間知らずが関の山だろ。縁談話も芦名以外で上がって無い様子だし…」

火を点け吸おうとしたその手から、小十郎が素早く煙管をひったくった。

「そのような下女を抱えては、殿の名に傷が付きまする」
「…いいじゃねぇか。気に入らなきゃ帰しゃ良いんだし」
「侮られたと、戦の口実になりましょう」
「相馬の女一人で起つほど、奴等も暇じゃねぇだろうよ」
「義胤殿は田村との縁が深い。だから厄介なのでございます。殿もよくご存じでしょう」

義胤の父、相馬盛胤の女は田村清顕の正室として正式に迎えられている。これにより田村氏と相馬は縁戚関係を保ち、その先にある芦名・佐竹への顔利きも果たしている。
また田村氏は後ろ盾の薄いことを承知している老獪さで持って、一人娘の愛姫を政宗の正室に嫁がせていた。
しかし清顕には愛姫以外、子がいない。
唯一の頼みの綱であるその娘は生まれつき身体が弱く、政宗との不和も相俟って、昨年の暮れにあっけなく他界してしまった。
田村氏以下、家臣の中では清顕亡き後、相馬に付くか、伊達に付くか、水面下であっても不穏な二大勢力がひしめいている。
関与するのは芦名他外勢も同じだが、実質的には相馬・伊達間による田村領地の奪い合いにも等しかった。
政宗はがしがしと頭を掻き、執拗に迫る鋭い視線を涼しく受け流す。

「三年、か」
「…は」
「いや、あの糞爺とやり合った期間だ。俺の初陣が奴とだったからな。よぉく覚えてるよ」
「それは私とて同じ事。今尚この小十郎の目に焼きついて離れない、立派なお姿でござりました。殿の御健闘があればこそ、伊達領は本来の姿を取り戻したのでございまする」
「父上が止めなきゃ、相馬はその時潰す予定だったんだがな」

隻眼がゆるりと弧月を描く。
小十郎は凶悪に歪んだ口元を見て、幾分はっとしたように改めて政宗を凝視した。
漸く折れるか、と政宗は笑い、小十郎の手から中途半端に燻った煙管を奪い返す。

「殿」
「固いこと言うな。…戦の間中、引っ掛かってた事があったんだ。余程の切り札か内聞か、黒脛巾でも調べるのにこれだけ掛かった」
「引っ掛かってた事?」
「また勝手なことしてたんかお前」
「その娘御と関係がございますのか」
「…いっぺんに言うな」

三者が一様にどうと傾れ込み、政宗は面倒臭そうに手を振って諌める。

「兵の士気だよ。皆が皆狂ったように猛っててな、痛み何ぞ少しも感じないらしい。これが"気になること"だ。成実は俺に対する態度を改めるまで黙ってな」
「ひっでぇ」
「Right?」

むくれる成実に向かって紫煙を吹き付ける政宗を見つつ、質問した小十郎は少し頸を捻った。

「しかし、戦ともなれば多少の痛みは我慢するのでは。一兵卒が猛るのも道理。あの戦には総て相馬親子がご出陣なさっておりましたし…」
「腕が飛ぶのは多少か?」
「…は?」
「奇声上げて突っ込んできた奴で試してみたんだよ。蜥蜴の尻尾程度の執着しか見せなかったぞ」
「怯みもしなかったのですか…?」
「っつーより、端からどうでもいい感じだったな。敵を殺すことしか頭に無い眼だった」

淡々と返す政宗が、こん、と火鉢に灰を落とす。

「しかし…、その鬼武者どもと深窓の姫、何の関係がございますのか」

思案に耽っているのか、押し黙った家臣二人を置き、答えを得ていない綱元が言う。
待ってましたとばかりに、政宗は煙管を咥えた口元を実に深く歪めた。






宣言の通り、一月後の祝言は稀に見る質素さだった。
嫁迎えの儀こそあったものの、花嫁を乗せた輿に対する門火の燃え上がりも無く、付き従う従者の数もそれほどではない。米沢城下の人々は一体何処の負国の姫君やら、と訝るのだが、当の本人は暢気に結い上げられ重くなった髪を弄んでいた。
そもそも、の父母は既に無い。相馬姓を名乗ってはいるが、出自を問われればそう身分の高い身では無いだろう。父は確かに相馬の生まれだが、母はどこぞの馬の骨とも判らないし、よくは知らない。死んでしまった今となっては、気丈でひたすらに明るかった良い面影しか残らないのだ。
よって三々九度の盃も、今や後見人となった義胤、盛胤親子により行なわれた。
気質も容貌もよく似た父子は、これでもかと着飾られてすっかり不機嫌のに苦笑し、少し鼻を啜ってからなんとも言えない顔で出立の儀に立つ。
にも幾分込み上げるものがあったが、気になるのはただ虎王のこと。自分のことを姉と慣れ親しんでくれた義胤の嫡男は、盛装したの裾を掴んで離してはくれなかった。
涙と鼻水でべとべとの顔のまま、豪奢な白無垢に遠慮なく縋りつくので侍女が相当慌てていた。
一方のは笑って侍女に手を振り、「後は自分がやるから」と凡てのものに下がるように言った。
盛胤親子も当然のように笑って座を辞する。溺愛する相馬の跡取りが、この明朗な年上の女に恋していることを知っているのだ。

「虎王さま、そんなにお泣きになられては後が辛うございますよ」

邪魔なのか、長めに作られた無垢の袖をまくり、怪我を慮って宛がわれた手袋も脱ぎ捨てると、は頓着無く次期統領の顔を手ぬぐいで拭う。
虎王は一度大きくしゃくりあげ、憮然とした顔でを睨み上げた。

「泣いてないぞ」
「いや泣いてるでしょう」
「泣いてない!」
「あら、じゃあその御目から零れるものは汗でございますか。なんとまぁ、虎王さまは器用にございますね。目にも運動させるなんて」
「…意地悪婆」
「なんだと?」

畏まった態度も一変、がどすの聞いた声で虎王の頬をつねり上げた。

「いひゃひゃ! いひゃい! ほらはなへ!」
「今なんて言ったコラ。人様に対してそんな言葉遣いをしてはいけないと、わたし何度も言わなかったっけ?」
「ふわー! ごめんなひゃいごめんなひゃい! はらひへ!」
「反省した?」
「ひた!」
「よーし」

餅の様な頬肉は伸び上がり、がぱっと手を離すとぷるんと元に戻った。涙目で赤くなった頬を摩る虎王に、はまた手拭で目端の雫を拭き取る。
人払いを済ませた後は、身分に関係なくいつもこのような力関係が存在していた。
虎王も心得ていて、公の場では決してに甘えようとはしない。確りとした主君の表情と言葉遣いで接し、一線は画していた。
だが身近なものしか周りに居ないとなると、途端態度は一変する。
彼は女の身で少年の遊びに本気で付き合うに心底懐いていたし、も虎王に容赦をしない。勉強を怠けていれば叱り飛ばすし手も出す。熱を出せば付きっ切りで看病し、子猫を拾えば内緒で育てる片棒を担ぐ。見つかって怒られるのも半分ずつだった。
彼にしてみれば突然の別れである輿入れ。恐らくもう二度と会えまいというのも、幼さゆえの過敏さで悟っているのだ。

「嫁に行くなんて聞いてない」

憮然の続きをやる虎王に、はひょいと肩を竦める。

「言って無いもの」
「言えよ!」
「今日言ったじゃない」
「遅いだろう…」

脱力する虎王の頭をわしわしと撫で、がにやりと笑う。

「寂しい?」
「…誰が」
「わたしがいなくても、夜ちゃあんと一人で寝るのよ。厠にも一人で。背後に気をつけなさいね、いつか言ったように水音がして振り返ったら…」
「うわぁあ!その話はすんな!」

隣に腰を下ろし、けらけらと笑うはいつも通りだ。
だが今は泥に塗れて駆けずり回っていた彼女とは違い、精一杯に着飾られ、匂い立つほど美しい。
白無垢と相違無いほど白い肌に、丁寧に纏め上げた濡れ羽のような黒髪。すっと細められた瞳も黒曜石のようで、確かに彼女なのだが別人の様で落ち着かない。
元々が綺麗な人なのに、普段無頓着だからこうなるのだと、虎王は少し赤くなりつつそっぽを向いた。

「…嫁ぎ相手はあのめっかちだろう」
「そうよ、伊達藤次郎政宗。顔は知らないけど」
「良い噂は聞かない。どうしようもない乱暴者で、傲慢で、向こう見ずとか、他にも沢山……そんな片輪者に、お前は勿体無いだろう。なぜ往く? 父上達が負けたからか?」
「うーん…」

幼さに似つかわしくない、切羽詰った声に苦笑しつつ、はゆるりと頸を振った。

「違うわね。そもそも、相馬は伊達に負けてないし」
「領地が減った」
「それは負けとは言わないわ」

此方を決してみない虎王の頬を突付きながら、四本指しかない己の掌を見下ろす。

「敢えて言うなら、勝つために往くの。わたしが重石になれば、相馬は暫く安泰。伊達も得をするわ。南に縁故ができるのだから」
「そんなの…」
「虎王」

彼の苦手な、静かな声が名を呼んだ。
ゆっくりと眼を向けると、いつもどおりの強かな笑みを湛えたが居る。

「覚えておきなさいね。領地が減ったからといって焦ることは無いわ。栄枯盛衰は世の習い、相馬の血が天下に一人とて残っている内は、滅亡とは言わないの」
「…領民が居なければ、我らは成り立たない」
「その通り。わかってるじゃない」

の声音は嬉しさに弾んでいる。四本しかない指が、柔らかい子供特有の髪を梳く。

「しっかり学んで、よく遊んで、良い領主になりなさい。怠けちゃ駄目よ」

優しく頭を撫でる白い手を払い、虎王はぶつかる勢いでの身体に抱きついた。
うっすらと伽羅の良い匂いがする。だがそれ以外に、眠くなると必ず傍に香った、女性独特のまろやかなにおいが身を包む。
母であり姉であり、淡い思いを寄せていた彼女は、躊躇う事無く優しい腕を回し返してきた。
それが一層切なくて、また気恥ずかしくて悔しくて、虎王はぐいぐいと鼻先を柔らかい身体に押し付ける。
なじみある細い身体。寂しさをぐっと押し込め、なるべく震えを出さない声音で、はっきりとに告げる。

「待ってろ。俺が必ず伊達を追い詰めて、お前を迎えに行くから。それまでの辛抱だから、諦めずに待ってろ。いいな」
「…勿体無いお言葉にございます」

再び畏まった声音は慰めと哀れみを含んでいた。
この幼い跡取りは、父、祖父に似て実に聡明だ。はそれが我が事の様に嬉しくて、悲しい。
胸に響く声音に聞かなかった振りをして、虎王は大きく息を吸う。

「約束したからな、絶対だぞ。死んでも、」

死ぬなよ―――






「着きましてございまする」

聞きなれない女の声に、まどろんでいた意識がはっと覚醒する。
眠っていたのか。
は一度頭を振り、下ろされた輿の中でさっと居住まいを正す。
しん、とした周囲。微かに息遣いが聞こえるが、己の吐息に混じっておぼろげだ。人数の把握すら出来ない。
ふーっと長めの吐息を吐くと、思ったよりも辺りに響いてどきりとする。
結った頭が重いのは致し方ないとしても、しつこいほどの重ね着に疲れが酷い。嫁に行くというのも難儀なものだと再び息を吐くと同時に、静かに輿があけられた。
―――暗い。
見知らぬ柔らかい手に引かれ、立ち上がる。塗り篭められたような闇の中、突如ぼう、っと灯が燈った。
脂燭に点火し、先を行く女の顔は能面のようだ。仕来りは頭に入っているが、いざ目の前にやられると気が滅入って仕方ない。
…祝言ってこんなものなの…?
言葉の響きが放つ厳かさはさておき、浮き足立つような煌びやかさは欠片も見当らない。
早くもを再びの眠気が襲う。
気を抜けば出そうになる欠伸をかみ殺し、俯きがちな若い花嫁は粛々と進む。白い裾は幽鬼のようで、橙色の灯火は少しの風にもやけに揺れて尾を引く。
その様子は傍から見れば儚げなことこの上なかったが、当の本人は今、空きっ腹に交わす杯のことを考えていた。






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 思い立ったら吉日、でもなく、ここに至るまでなんかもうものすごい数の文字数が散っていきました。こんにちはちむといいます。ごくつぶしです
最初は学園モノだったのに、何を思ったのかまっっっったく詳しくない史実に挑戦するこの馬鹿さ加減を可愛がってやってください。これを気に脱★莫迦です。無理っぽい
もともと相馬一族が表面を撫でる程度でしたが大好きで、それならばと盛り込んでみました。御近所ですしね 仲悪かったですけどね(身も蓋も無い)
突っ込み大歓迎です。時代考証おかしいだろとかも寧ろお願いしたい所存 その辺BASARAだし、で乗り切りたいものですが…うーん
あ、で、めご姫さまを殺してしまいました ごめんだって話の展開的に必要十分だったんだ… 北東に向かって一応合掌はしました すいません

だらだらしそうですが、好きなように頑張ります! 興味があれば、お付き合い頂けると幸いです