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この素晴らしく奇怪な容貌を持って生まれたのは、後にも先にも自分ひとりだった。両親はそれはもう恐れ慄いて、物心ついた頃から引き攣る目元と口元しか見たことが無い。誰が吹き込んだのか、物の怪が胎の子を殺して、代わりに俺が生まれたのだという途方も無い話を、心の底から信じていた。だから自分も、心の底から憎み返していた。
五つの頃まで、上に二人兄と姉がいた。兄弟がいる分暮らしは易くなかったが、翌年子供が自分だけになり、流石に恐れたのか、間も無く母親の腹が膨らんでいった。時折辛そうにする女には何の感慨も無かったが、日に日に丸みを帯びてゆく腹の中に対しては様々な感情を抱いていた。先に生まれた圧倒的強者としての優越感、自分と違って大事にされるものに対しての憎悪、そして、血を分けた肉親に対する愛情。生まれてきたらなんと言おう。どんな顔で、どんな声だろう。どんな不具でもいいから、せめてこんな目も髪も持っていないといい。幸せになって欲しい。それから、少しでいいから、自分の目を真直ぐに見てくれたら、嬉しい。



そしては生まれた。黒い髪に白い肌、少し薄紅い、けれど「色素」という言葉で片付けられてしまう、他愛も無い両目を持って。
両親はの目を見て、深い落胆と絶望に顔を歪ませた。そして呟いた、「またか」と。幼い赤子が成長して、兄に並んで頼りなく歩くのを見るたび、一目として同じ血が流れていると感じさせる、その両目が憎たらしい。両親の目は異端に慣れきっていて、けれど同時にとても神経質で、を一人として考えることを失念していたのだ。そう、「兄に似た紅い眼の娘」として、もまた排他対象となった。
そんな風に見捨てられた妹を見て、兄はただ微笑んだ。この弱い娘は、自分無しでは禄に物も食べられない。生きられない。自分が世界で、神で、唯一なのだ。なんて可哀想な子だろう。己を不遇に処した兄を恨むどころか、唯一無二と慕って、何処へ行くにもついていくしかないのだ。
最初は復讐だった。お前にもわかればいいと、繰り返し繰り返し、その目は異端だ奇怪だと言い聞かせ、然も自分だけは味方なのだという振りを貫いて、そういう風に扱った。世に有り触れて、大半は意識すらしないだろう親から与えられる当然を得れなかった憎しみという憎しみを、幼い兄は小さな妹に注ぎ込んだ。妹はそんな兄が大好きだった。自分に優しくしてくれるのは、唯一この兄だけだからだ。
けれど、いつしか憎しみは愛される歓びを知った。慣れ親しみ自分を必要とする存在を得て、頑なだった心は解れ融けてゆき、どす黒く渦巻くようだった優越感は、満ちるような幸福へ、そして次第に途方も無い罪悪感へと変貌していく。娘はきちんと「自分は異端だ」という教えに従って、瞳を見られぬよう、それを悟られぬよう、毎日人と距離を置いて暮らしていた。きれいなものも、遠くの景色も、何も知らないままただ兄を見る。かつて彼が望んだとおり、兄だけが世界で、兄だけが神で、兄だけが全てなのだ。復讐に注ぎ込まれていた心は磨り減って、罪の深さに耐え切れず軋む。そうして、少し大人になった兄は、今更ながら妹に対して世界中のありとあらゆる感情を抱いてゆく。この娘なしには生きられないと、そう思っている自分がいることに気づいて慄然とした。それが別れの時期だった。
この先、この娘が幸せになる場に、自分は決して側にいてはならない。居れば巻き込まれるだろう、真に異端を持つ自分の業の渦へ。にこにこと笑うに視線を合わせて、さようならだよ、といっても、娘はきょとんとしたままだった。眠っているときに去れば容易い。けれど敢てそうしなかったのは、自分の最後の我侭だった。忘れて欲しい、しかし覚えていればいい。言葉にするのが馬鹿馬鹿しいほど有り触れて、けれど決して肉親に対して抱いてはいけない感情を押し隠して、自分は最後まで、完璧に演じ続けたのだ。罪悪感と焦燥と、吐き気に耐えながら。






「……如何して」

植えつけられた憎しみの塊だった娘は、今また全てを思い出しても、ただ疑問の言葉ばかりを口にしていた。如何して。それは全てに向けられている。
如何して貴方がましらなの。
如何して貴方がここにいるの。

如何して、貴方が、兄さんなの。

終わりは嗚咽だった。だが何を言っても、忍頭は一言も返さず、ただを限りない力で固く抱きしめるだけだった。押し寄せる感情に胸が詰まり、容赦ない力に肺が潰れて、息も出来ない。
これは、なんという気持ちだろう。
混乱と酸欠で霞む頭が痛かった。ましらは、忍頭で、忍頭はやはり兄だったのだ。今確かには兄の腕の中にある。言葉より証明より、何よりも確かな確信がこの悲しみだった。ならば、これは、この感情は、なんと呼べばいいのだ。ましらに抱く感情は何よりも強いもの。それが兄になったところで、消せうるものなどではない。けれど行き場はなくなった。後へも先へも辿り着けない窮地に陥って、の身体はふらふらと頽れてしまいそうだった。しかし、身を包む二本の腕がそれを許さない。

「…また、わたしを連れてってはくれないのね」

去り際、兄は微笑んで背を向けから離れた。いい子だから大人しく此処に居なさい、とだけ言って、後はもう振り返らずに。は何時までも待っていたのだ。いい子にしていれば、兄も考えを改めて、きっと帰ってきてくれると。夕暮れが夜になり、朝となり、夏が終わって冬が来ても、はずっと待っていた。待っていたのだ。喪失に耐え切れない幼心を重く封じ込めながら。
は答えを諦めて、ただ幽かに振動する兄の気息に合わせてゆく。そしてこれからまた、何もかもを諦めなければならない。なぜ今この時になって彼が名乗り出たのか、その全てを悟ってしまった。止めを刺しに来たのだ。この成り行きの何処までが作為かは判らない。けれど、他愛ない城主の思慕が明確な形となる今、娘の心を不確かな青年へ傾倒させるわけには行かない。忍頭の告白は現世では断ち切れない倫理という名の鎖である。会えて嬉しいはずなのに、悲しみは愛より深くて遣る瀬無い。眠りに落ちる寸前のように、逃れがたい沈殿に深く囚われてゆく中、それでもは止めていた息を吐き出して抗った。紛れも無い、これまでの出来事が、そうして幼かった妹を少しずつ大人にしていた。

「でも、またわたしを守ってくれていたのね」

一度目は馬に跳ねられたとき、二度目は女中頭に叱られていたとき。街中で絡まれたときも、狼藉者に殺されかけたときも、何時だって、露見を恐れつつも彼は姿を現した。それは、愛だろう。それも愛だろう。
ならば、如何して、

「わたしを選んでは呉れないの」

忍頭は何も言わない。

「一緒に生きて」

血など。

「それで、いいのに」

ふっと、息を吐き損ねたような吐息が押し付けられた肩口に響いた。温かい感触。それだけで、胸が焦げる。

「…俺を選んで、幸せになれるなら、とっくにお前を攫ってたよ」

忌々しい茨の道。は兄が歩んだこれまでの道程を知らないし、兄だって彼女のその後を知りはしない。一人は昼に生き、一人は夜に跳ぶ身だ。世界はもう完全に分断されている。
はもう、黙った。ただ涙が流れる。枯れない未練は止め処ない。残したくない。納得など、出来ない。
しかし、は黙った。
黙ったまま、流れるに任せていた腕を取り上げ、逞しく広い背にの細い腕が重なる。懐かしい温もりと、懐かしい匂い。緩くならない拘束の先に垣間見える男の髪は、今はもう色を持っている。闇によりて躍り上がる、紅蓮に輝く灼熱の炎。今また焔はを包んだのだ。

「幸せになってくれ」

耳元に落ちる男の声は聞き慣れた、低く、重い、胸を焦がす苦い炎。だけど違う。それはもう、猿飛佐助の声だった。青年は片時も緩めない腕に一層強く力を込めて、傾いた身体が僅かに揺れ、抱え込んだぬくもりを確かめるように身を擦り合せた。も意を察して、強張りを殺して巻きつく腕の感触にゆだねる。今この時ならまだ許される。邂逅の感激に浸るだけの、幼いままの二人なら。

「真田幸村となら、お前は幸せになれるさ。あの人は、俺の唯一の光だ。闇の中でさえ一等輝く、たった一つの」
「にい…」
「ごめんな。二度と会うつもりなんか無かった。俺はもう、猿飛佐助だ。お前と別れたあの日に、お前の兄貴だった俺は死んだんだ。俺も、お前も、あの時に一度死んだんだよ。だからもう、幸せになってくれ。俺から自由になって、幸せに」

ならばなんと呼べば言い。この人を今、なんと呼べばいいのだ。胸の内は変わらないのに、面影だけで亡霊を懐かしむのか。それは冒涜だ。この思いへの。は憎しみを唇に向けて、噛み締めながら首を振って埋もれた。やがて、佐助は随分腕の力を解き、弛緩は指先に到達するにつれ重力に従って降った。背けた顔を天に捧げる。人と変わらないのに、けれど紛れも無く歪な、両の瞳を静かに閉じた。






祝言とは呼べない小さな宴が催されて、俯きがちの花嫁は隠されていた花をささやかに咲かせ周囲の顔を綻ばせた。羽二重のような白無垢も目に優しく、粗末に扱われた肌は磨かれ、櫛など知らない黒髪は椿油に絡められて艶めく。夜を吸う静かな褥にはらはらと鏤められ、思わず毀れた涙ごと、彼女の夫はそれは慈しむように華奢な身を扱ってくれた。やがて厳しい冬が来て、そしてまた春が来た。
これをなんと喩えよう。例えば祭りの為に作った服を着せて貰えない、例えば送るための言葉を胸に秘めたまま眠らなくてはならない。殺せど生まれ、忘れても思い出すその気持ちに名をつけられないまま、二人の関係は永遠に続く。
乱世は子供に選択を与えない時代だ。