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随分前から懸想していた。
幸村はそれだけ言って、あとは黙った。
そもそも、城勤めに上がった女は皆、城主の手がつくということを覚悟せねばならない。経験豊かな婦人より歳若い娘が好まれるのは、出来るだけ多く城主の子を宿し、後の為にするという施策の一環である。一門の嫡男に子が沢山あるのは良い事だし、高貴な武人の子を身篭るというのは女にとっての誉れと安泰だ。有り体にいえば、双方が得をする仕組みではあるのだ。
何もいえないまま驚きに身を竦めたを残して、城主は一先ずを退いた。しかし後ほど、代理人によってしめやかにその思惑は成就の方向と流れてゆく。側室とも呼べない質素な花を迎えるため、物事の運びはごく内内に、また密やかに行われていった。その所為か、周囲には目立った変化はなく、口さがない言葉を浴びせられることも無い。ただ、にそれまで宛がわれていた仕事が徐々に姿を消してゆくだけだった。水仕事は早々に取り上げられ、賄い方での居場所は無いに等しくなる。包丁と束子を取り上げられた娘に、古参の連中は気づいている筈なのに、酷く淡々と肌を汚さない仕事を言い置いて、あとは何も口にしなかった。
身の置き場を静かに奪われてゆく娘は一人、裏手の井戸端で松の実の飾りを作っていた。城内勤めの粗方に慣れた身には、稚児の遊びに等しい作業だ。俯いたまま没頭すれば、もうすることは無かった。出来上がったばかりの飾りをくるくると掌で弄び、ふっと息を吹きかけて揺らす。何もかも、億劫だった。
幸村はやはり知らないし、そして気づかなかったのだ。自分のこの異端を。だから平気で、何も知らない毛色の変わった娘だと思い込んで、求める。いっそ、話してしまおうかとすら思った。そうすればこの途方も無く莫迦らしい話も、墨が水に融けるように消えてなくなる筈だ。だがそれは同時に、兄の手掛かりとも永久に別れを告げるということだった。このまま幸村の側に上がれば、猿飛佐助に近づく機会は確実に増えるだろう。けれど、胸に生まれ芽吹いた想いは殺さねばならない。あれ以来、ましらの姿を見てはいない。にとってそれは苦痛で、また幸いでもあった。逢えばもう抑えきれないだろう。募るどうしようもない思いは時の重みと相俟って、行く当ても無いまま膨れてゆく一方だ。果たして幸村は、こんな娘でも側に上げたいと思うのだろうか。胸の内には既に別の男が巣食っているのに。
突然、ザッと強い風が吹いて、手元に持つままだった松の実飾が攫われて飛ぶ。慌てて立ち上がれば、膝の上に置いていた竹籠が転がり落ちて、中身全てが泥に塗れながらぶちまけられた。きっかけだった。今更優しくされたところでなんの代わり映えもしない指先で乱暴に顔を掻き毟ると、日除けに被っていた頭巾代わりの手拭を乱暴に剥ぎ取っては地に叩きつけた。そのまま、は闇雲に走った。当てなんか有るはずも無い。ただもう何もかにもから逃げたかった。兄のこと、幸村のこと、自分のこと。もう沢山だ。誰かが彼女の腕を捉え、一緒に生茂った茨の中へ駆け込んだ。ましらだ。は相変わらず静謐なその瞳を見て、突如雷撃に身体を打たれたような衝撃に襲われた。咄嗟に掴まれた腕を振り解く。

「貴方はご存知だったんでしょう、だからわたしの前にいらっしゃったのよ。愚鈍な娘を揶揄われて、笑ってらっしゃったのですね!」

ましらは何も言わずに、いきり立つの瞳を真正面から覗いていた。その冷静さが余計にの激情を煽る。

「それともまさか、貴方が仕組まれたのですか、この馬鹿げた茶番の一切を、貴方が」
「俺は何もしていない」
「でもご存知だったのでしょう。だったら如何して、一言でも仰って下さらなかったのですか。貴方が教えてくだされば、逃げることだって出来たのに」
「…言わずとも判るだろう」
「ええ、判りますとも。それが忠義なら、貴方は人の命一つ、娘の人生ひとつくらい、何てこと無いのでしょう。でもわたしはどうなります、貴方の前で他の男と契れというのですか!」

の力任せの吐露に、やはりましらは少しも動じない。それは彼も承知だったということだ。承知の上で、を差し出したのだ。無言の肯定は許容に似て、拒絶よりよっぽど残酷だ。縋り付きたくとも縋り付けないまま、は両手組んで握り締める。そこに返るのは、あくまでも平素さを崩さないましらの声。

「幸村様が真実何を思い、何を御考えか、それは知らない。けれど俺は、あの方のためにこそ働く身だ。欲しいものがあれば得て、危険があれば取り除く、それだけのこと」
「ッ卑怯だわ!」
「ならお前は?」
「……え」

凛とした瞳が、声が、震える娘には構わない。

「お前は俺を卑怯だという。だが、ならお前は如何なのだ。俺に一言でも、何かを言ったか。好いていると、抱いてくれと、お前は俺の眼を見て、今まで何かを言ったのか。怯えたまま、闇に隠れて、伏せ目で何も見ようとしないのはお前自身だろう。だから気づかない。周りの事も、幸村様の事も、俺の事も」
「何、を……」
「知っているか?」

ましらの声には抑揚がない。けれど揺さぶられるのだ。の身体は怒鳴られたように竦んで動かない。

「夕日でも、朝日でも、強い炎は照らされたものをその色へと染め替える。人も、物も、塵も芥も選別無くだ。お前はそれを、知っていたか? 照らされる人や物を、きちんと見たことが、あるのか」

重さを感じさせない足取りで、青年は一歩、立ち竦み青ざめた娘へと近づく。

「……何故、そんな、こと」

赤一面に変わる場面。紅の出力、そして対象。ましらはただ気づいていただけだと、安易に心を慰めるにはもう遅い。重く封をして沈み込めた筈の塊が、ゆっくりと這い上がってくるのを感じる。何かを、思い出す。
ふと、あれほど無を載せていた青年の顔が弛んだ。肉の薄い口元に、それでも皺が寄る。笑ったのだ。

「お前は何も変わってないな。一目見たときから、最初から、ずっと判ってたよ。お前がいつか、俺を思い出さないように消えたのに、お前はまだ、俺に殺されたままなんだな」

衝動に突き飛ばされて開きかけた口唇は、突如伸ばされた青年の腕に押さえられて宙を舞った。逞しい腕が背に回り、押さえ込まれた背骨が軋む。の華奢な身体は堅牢な腕にすっかり包まれ、いつの間にか嗚咽に濡れた鼻先は厚い胸板に押し潰されて痛んだ。息が詰まる。苦しい。もどかしい。いとおしい。けれどまた、慄く。この瞬間を確かに待ち望んでいたのに、この腕に覚えがある。この温もりに覚えがある。この香りを覚えているのだ。安堵は懐かしさに、懐かしさは恐怖になる。まさか、そんな、まさか。
いつの間にか、見開いた目が捉える男の装束でさえ、ましらのそれとは異なっていた。闇を切り取った装束に、草木に化けるための斑を加えて、それでも忌々しい赤い髪はじっとを抱え込んだまま風にすら戦がない。真田忍隊の長は、微動だにせずただ慄える娘を抱きしめ返していた。顔先はの背後にあって、彼がどんな表情をしているか、ましらなのか猿飛佐助なのか、には全くわからなかった。ただ確信した。これは兄だ。この腕は兄の腕、この匂いは兄の匂い、この温もりはを守り、生かし、捨てた人の温もりだ。
そうだ、思い出した。



すっかり聞き慣れた、やはり低い、掠れた声が落胆と笑いを混ぜて呟く。

「俺が殺した

この兄がいるから、自分は異端と呼ばれていたのだ。