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武家屋敷に桜とは珍しい。散り際は一斉にというこの花弁は、ともすれば不吉と思われて、死地に赴くもののふには嫌われるものだ。しかし、屋敷の主はどうもそういった迷信には疎い。立派な幹の樹齢は果てしないほどと伺えるから、元々生えていたところに、後から屋敷を建てたのだろう。注進はあっただろうに伐採はしないその優しさが、素直に好きだと思える小春日和だった。
薄紅の花弁が黒光りする木目に落ちて、落花の雪は消えることなく楕円の模様を描いている。視界を行くのは花びらか、時折群れ舞う二匹の蝶だ。垣に沿って小手毬が群生して、一つ一つは小さな花なのに、遠目からは泡のように映る。時折柔らかな風が吹いて、描かれた模様を消したり増やしたりと、緩やかなときが流れるごとに、景色は二度として同じを見せない。水のように流れ落ちる黒髪を煽られたまま、はぼんやりと薄曇の空を見ていた。霞の棚引く春の午は静かで、先程の来客も引けてしまった今は、物音一つ家中からは聞こえなかった。意識も覚束ない眠り端のような心地で、はじっとかそけき森羅万象の声音に耳を預ける。
するとふと、奥の間から軽い足音が響いた。とすとすとす、と真直ぐこちらへやってくる。



振り向きながら微笑めば、目が合ったその人も柔らかく微笑んでこちらへ近寄る。そうっと隣に腰掛けるも、どこかそわそわと落ち着かない。水を向けてもよかったが、暫くは何も言わずに口を噤んでいた。その内、じっと、真摯な視線がを見てくる。多少の悪戯心を起こしても、結局何時もこの純真そのものの視線に負け、根競べに折れるのは彼女だ。やがて、は笑みに刻んだままの唇を綻ばせた。

「やはり、だそうです」

告げれば、夫は目を丸くして驚き、そして、純真さの抜けない、しかし逞しい武人の顔を誇らしげに弛ませた。そうか、と吼える声が晴天にすっと響き渡る。それから少し身を固くして、騒音を恥じるようにすまない、と詫びた。そんな一挙一動全てが暖かく、は笑んで首を振る。そして、まだ丸みの目立たない腹を優しく撫でる。慈しむその表情に、夫もふと大人びて、父親の顔をして彼女とまだ見えぬその子を見詰める。無骨な手がそろりと持ち上がって、よいか、と断りを入れた。勿論、とが微笑めば、恐る恐ると腹部を撫でる。振動は大きく一つ、気息正しく脈打っている。きっと、幼い命もまた、これに合わせてきちんと育っているのだろう。どうしようもない愛しさが込み上げて、夫はそのまま耳を腹に押し当てた。暖かい温もり、温かい陽光、何もかもが眩しい。

「殿」

が、微笑んだまま夫を呼ぶ。

「お願いがあるのです」

婚姻以来、欲しいものなど一つとして口にしなかった女の言葉に、夫は少し瞠目する。しかし次にはもう微笑んでいた。どのような願いでさえ、出来うる限り叶えてやりたいと思う事すら、幸せだと感じる。
は少し小首を傾げて言った。

「佐助さまを御呼びくださりませんか」
「…佐助を」
「ええ」
「別に構わぬが…何故に」

は柔和な笑みを決して絶やすことは無く、少し怪訝を混ぜた夫の顔を、真正面から見据えた。少女のような笑顔だ。

「あの方は、わたくしの兄なのです」

ザッと強く風が吹き、巻き上げられた花弁が幾重にも目端を掠め飛んだ。瞠目する真田幸村の顔を見詰めるは、まるで幼い頃の他愛ない悪戯を告白するように無邪気だ。しかし、もう母になるかつての娘はそれから少し目を伏せた。何かを失う度、堪える度、押し込める度、悼む度、この娘は罪深い証のように己の目を隠す。幸村は、それで全てが納得できた。かつての疑問が脳裏に蘇り、彼女の告白とともに全てが紐付いたのだ。夫は負けじと笑った。

「そうか。成る程な。だからか。だからそなたは佐助を探して……、だから俺は、そなたのことも、好きになったのだな」

これで、納得だ。
妙に晴れ晴れした声は今度、の目を見開かせて、抑えていた筈の濁流を塞き止める力を弱らせた。潤む視界。ツンと刺激に満ちる鼻。憎んだことがある。きっと、気づいていただろう。堪り兼ねたが下を向きかけたところを、夫がそっと押し留めた。顎先を掬い上げられる奇妙な高揚感の次に、目の前に持ち出される真実。切れ長の目淵はすぐにぼやけ、唇は疾うに見えなかった。重ねた口唇は互いの気息に満ちている。






「ややが出来たの」

落花の乱れる庭先で、一人佇みが言う。目先は空に歌う雲雀を追い、当ても無い。声は宙に消えて、拾う相手は見当たらなかった。

「それでも、わたしと会ってはくれないのね」

それでも、は微笑んで唇を綻ばしていた。もう、と拗ねてもみるが、結局はまた笑う。陽光に塗れて高く上がった鼻先、その面は燦々と輝いて、くすみ無い肌は玻璃が透けるようだった。

「ねえ、兄さん」

こう呼んでも、もう許してくれるかしら。

「兄さんのおかげよ。わたしが、まさか、母親になるの。ねぇ、驚くでしょう。不思議でしょう。自分でも、まだ半分信じられないわ。でも今…、今、そうね、なんだかとても穏やかなの」

予期もしない男に抱かれる日々は心より先に身体が慣れた。夜毎組み敷かれる以外、日常は斑のない灰色をして過ぎてゆく。底の無い沼に沈んでいるようだった毎日に、差し込んだ一条の光が腹の中の新しい命だった。芽吹きと共に、世界が色づいた。城主にとっては何人目かになる子供でも、にとってはたった一人、唯一、目に見えて自分が生きているのだという証に見えた。男は想いを十に別けれる。その孤独を予想し、それでも抗いきれなかった自分への、これが無二の贈り物だ。それを、共に祝って欲しかった。
だけど、本当は、もう会えないことも判っていたのだ。あの日、あの時、あの場所で、互いの葬送は済んでいる。だからこれは、亡霊への思慕なのだ。それ故、他愛もなければ罪も無い。まだ生まれていない子供に話しかけることと、既に死んだものに語りかけること、一体何が違うのだろう。少し下げかけた視線を恥じて、彼女はまた目一杯に空を見る。じきに暮れゆく陽光はそれでも強く容赦なく彼女を照らして、光に慣れない眼光は如何したって痛んだ。だが痛い分、自分の心は後ろに残してきたのだと思った。

「…ありがとう、兄さん。だからわたし決めたの」

酷く静かに風が吹く。ゆるりゆるりと花びらが舞う。

「幸せになるわ」

かつて娘だった女は抱きしめるように腹を撫でて、微笑みながら断言する。悲しみが愛より深いのはもう過去のこと。痛い心は置いてきた。これからは傷を癒す日々と同時に、やがての花が芽吹くのだ。
緩やかに巻き上がる風が木々を煽って歌を歌う。木漏れ日は燃え上がる一瞬の火の粉のように、地にも幹にも騒ぎながら煌いた。はじける光がまぶしい。
煽ち風に花の雨が降り注ぐのを眺めるうち、は知らず知らずましらが、あの穏やかな低い声で「そうか」と頷いてくれるのを待った。振り返った頃には、辺りは一面の紅蓮に包まれていた。


-了-