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一頻り流れるに任せれば、やがて枯渇したのか、の頬には涙の轍だけが残った。あれだけ水分を溜めたのに、泣いた後は目蓋が痛い。きっと酷い顔をしているだろうと呆れながら、は手にした女郎花の一房を大事に抱えながら、ゆっくりと立ち上がった。部屋に戻って、着替えて、仕事に出なければ。所詮は労働と引き換えに衣食住を補償されている身だ。不測の事態とはいえ、何時までも甘えているわけには行かない。
踵を返した、そのときだった。

「もし」

ひょいと、年の頃のそう変わらない若者が濡れ縁伝いに此方へ歩いてくる。絹鼠の簡素な結城紬に身を包んだ軽装で、足軽にも忍にも見えない。一等傍にきて、の顔をよく確認すると、ああ、と微笑む顔が柔らかい。全体的に色素が薄くて、童顔の可愛らしい人だが、決して軟弱では無い背格好だった。誰だろう、どこかで見た顔だが、心当たりに見当がつかなかった。戸惑うが「何か」と躊躇いがちに返すのに、青年は見下ろされたまま朗らかに笑った。

「そなただろう、というのは」
「はい、わたしはですけれど…」
「具合が如何かと伺いに参った。もう粗方は落ち着かれたか?」

よいせ、と板敷きに頓着なく腰を下ろして、佇んだままのににこにこと笑顔を向ける。見下ろしてばかりいるのも気まずくなり、は何歩か下がって膝を着いた。青年の問いには「はあ」とだけ返し、俯く。何故この方がの体調を慮るのか、わからない分気味が悪かった。

「それは良かった。しかし、暫くは城勤めも苦痛だろう。紀州は良いと申して居るから、気兼ねなくゆるりと休んでくれ」
「紀州様が?」
「ああ」

賄い方もそういっておったぞ、と青年は人好きする笑みで俯きがちなを見る。それからまたすぐ視線を変えて、良い日和だな、と今度は庭を見た。紀州、と女中頭を呼び捨てにしたこの青年は、つまりそれよりも上の身分なのだろう。途端にに緊張と恐怖が突き抜けた。誰なんだ一体。
縮こまる彼女とは正反対に、青年は実に朗らかな庭景色をつくづくと眺めている。暫く無言だったが、不意に「そういえば」とを振り返った。

「な、なんでしょう…」
「いやなに、ふと思い出したのだが、そなた、佐助を探しておったらしいな」

さすけ、と鸚鵡返しにいう彼女に、青年はうむ、と几帳面に頷いて返した。鈍い彼女は暫し考え込んで、漸く件の忍の名前だったと思い至る。そして、忍頭の名すら呼び捨てにするこの男の正体に、遅まきながら漸く気づいた。

「えっ、ま、えっ、と、殿…!?」
「む?」
「真田様であらせられるのですか!?」
「そ、そうだが」

何を今更、といった表情で柔らかくきょとんとするこの青年に、はもんどりうって仰け反った。どこかぼんやりしていた娘がいきなり俊敏に退くものだから、幸村も思わずびっくりして身を引く。かわいそうに、身分やらなにやらからは程遠い彼女は、日陰の影の影に縮こまって小さくなっていた。平伏する身が幽かに震えている。

「し、知らぬこととはいえご無礼を致しました…! 真にお詫びのしようもござりませぬ…!!」
「いや……何もそれほどまでは」
「ま、まさか殿御自らお越し頂けるなど夢にも思わず…、な、何卒お許しくださりませ」

息も絶え絶えに謝罪を繰り返す娘を見て、暫し呆然としていた幸村だったが、やがてふっとその相好を崩した。反っていた身体を前に押し出して、遠くに逃げた娘に少し寄る。

「話せるようになって来たのだな」
「え、は……」
「それがしと初めて会うた日には禄に舌も回らずで、仕舞いには逃げてしもうただろう?」
「! お、覚えておいでで…!」

驚愕のため、思わず許しも得ずに少し顔を上げた彼女を咎めすらせず、若い主君は「忘れるものか」と苦く笑う。

「二度も、そなたには済まぬことをした。それがしは兎も角、…佐助は、忍だからな。そなたたちと同じで、あれがあやつの仕事なのだ。許せ」
「…いえ…」
「会いたいと思うて呉れても、さほど容易く姿は見せまい。ましてや、一度巻き込んでしまった娘にはな」

が黒髪の散る顔を上げた。伏せ目がちに幸村を見れば、主君は変わらずに微笑んでいる。

「あやつはあれで、女子供には存外優しいほうなのだ。きっと、根が心配性なのだろう。態度は素っ気無いが、さりげなく心を砕くところをよく見かける。…いつか折れて、会ってやるのだろうと思っていた」
「…」
「真田の忍ぞ。命じれば容易い。けれどそなたは、それを望んでは居るまい」

は鈍くも頷いた。無理やりにでもあって確かめたいほど、まだ覚悟が出来ているわけではない。確信があるわけでもない。ましてや、こんな胡乱な話のために他人の力を借りるなど言語道断だった。彷徨った視線が、頼りなげに花をつける手元の枝葉に辿り着く。ましらは、の奇行にも泣き言にも、何も訊かずに立ち消えた。あの青年は、のことを如何思っているのだろう。小娘の酔狂だと、胸中で笑っているのだろうか。なぜか、あの青年には、忍頭に抱く細く淡い期待を打ち明けてみたいという気持ちがあった。夜に見る鏡のように何も映さず、何も波打たないあの瞳は、の異形を知っても、ちらとも動じずに素っ気無い態度を貫いてくれるかもしれない。低く、抑揚の無い声で静かに、ただ一言、「そうか」と。
ふと、鈍く疼く胸の痛みの、もう一つの正体に、漸く気づいたのだ。
あの青年に、どうしようもなく惹かれている。

「どうした?」

不意に響く幸村の声に、は思考に沈むままだった自分を自覚した。慌てて、「何でもありません」とまた深く俯いて縮こまる。ぐっと身を押さえつけるようにして日陰に消える彼女を、城主は暫く見つめていたが、やがて身を傾けて娘を覗き込んだ。びっくりしたが更に身を引くのを遮るように、幸村がしみじみという。

「そなた、何故いつもそんなに下を向いているのだ?」
「えっ! な、何故と申されましても…その……」
「勿体無いぞ。折角」

言葉尻はぶっつりと途切れ、柔和だった表情は訝しげに歪んだ。一気に緊迫感が突き抜けるに構わず、幸村はぐんといきなり腕を伸ばす。

「…その目」

告げられた先の言葉に、今度こそは絶望に目を見開く。恐怖で身体が痺れた。唇が戦慄く。その娘の一連を、幸村は滔々と眺めて、少し目を細めた。

「泣いていたのか」

乾きかけた水痕を無骨な武人の指が撫でる。驚きに竦んで、答えるも退くも出来ないの態度を肯定ととって、幸村はしみじみと息を吐いた。それからつと袖を寄せて、が触ったことも無いような上等の衣で、頓着なく汚れた頬をぬぐう。

「あ、あのっ、と、殿、な」
「じっとしておれ」

仰天して抵抗する彼女に引くは許さず、城主は少し乱暴に小さな顔の頬を擦った。痛い。けれど言えない。何よりこの距離では、少し覗き込まれれば両目の異変に気づかれてしまう。はぎゅうと目を閉じて、しばらくを耐えた。皮膚を滑る感触は今までのどんな感触よりも得体が知れない。こんな柔らかいものが世の中にあるのか、と混乱した頭で思うの頬から、ふとその布が退いた。代わりに、暖かかくて、どこか湿っぽい何かが当てられる。両頬を包み込むその感覚に戸惑って、ついには恐る恐ると目を開けた。真向かいに、真剣な顔をした主君の顔がある。



ゆっくりと名を呼ぶ声が低い。先程の無邪気な少年ささえ伺えた面影は霧散し、真直ぐにこちらを見る熱の篭った眼差しに胸の内が畏怖して、無意識に腰が逃げをとる。しかし躯が行動に出る前に、幸村の口が再び動いた。

「俺の側に上がらないか」

気が遠くなるのを感じた。