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想像すらしなかった可能性を、圧倒的な威力で以っての上に血と共に降らせた猿飛佐助は、それから間も無く配下を呼んで手際よく死体と捕虜を回収し去った。去り際にはもう、を見やしない。凄絶な笑顔を見せ付けたくせに言葉など一つだって呉れやしないまま、彼は血反吐のこびり付いた腕を一つ振っては陽炎のように融け消えた。飛び散った血液は汚らしく地を汚しの女中服を汚して、夢のような一瞬が後に尾を引く現実だと言わしめる。邂逅は入り口だった。自分以外が携えるあの燃える瞳との出会いは、途方も無い懊悩の迷路に迷い込んだという紛れも無い証だ。退くも往くも出来ぬ岸に追いやられ、の心は激しく軋んだ。
塞ぎ込み、いつも以上に俯く彼女には、当然のように幾分かの休暇が与えられた。常ならば闇に於いて行われる忍の日常を、ただの娘が垣間見たのである。返り血を浴び、虚ろな表情を持つばかりで何も言わない無残なを見た人々は、誰もが皆同情と心痛を顔に浮かばせて、後はそっとしておいてくれた。同部屋の女中仲間も気を配りあい、むやみに彼女には話しかけない。久方ぶりの空虚に時間も胸の内も支配されたまま、は濡れ縁の脇で一人庭を見ていた。
日中でも、もう日陰となれば随分涼しい。遠いはずの塀越しに木槿が白い花をいっぱいに咲かせて、すぐ傍まで狭まるように視界に入る。大振りな花弁が風に揺れて、白い波がゆったりと翻り、緑陰をたゆませた。だが今は何を見ても、視界の上を情景が過ぎ去っていくことだけとしか、の心には映らなかった。
あれは、兄なのだろうか。
楽しそうに人肉を引き裂いて哂った、あの凶悪の顔の、あれが。
朝闇は布のように、降り注ぐ返り血は雨のように、何時までも目蓋裏に焼きついて離れない。逃げようにも、避けていてはどうしようも無い疑問はしかし、どれほど考えても彼女一人では結論の出ない問いだ。紅い目の人間がこの世にどれ程いるかなんて皆目見当もつかないし、確かめる術も持たない。それになにより、あの男の視線がの全てを億劫にさせる。上背のある所為か、高い位置からを見下ろすあの視線。情など一欠けらも無い、獣のような瞳だった。あの目に映る自分が肉親の絆を求めたところで、一体何が得れるというのだろう。嘘か真かという真実に辿り着く前に、全てを否定され、心が折れてしまうだろう。それは恐怖だった。
けれど一方で、やはりどうしても逢いたいという気持ちは、最早途方も無いものになっていた。と同じように、遠い昔に別れた妹のことなど、きっと忘れてしまっているのだろう。それでもいい。若しかしたら自分のように、いつか思い出してくれるかもしれない。ただ、夢にまで見た存在が存在しているという揺ぎ無い事実が欲しかった。兄が生きていてくれるなら、自分も生きていけるかもしれない。
耐え兼ねた涙が浮かび、視界がしっとりと潤んだ。瞬きで逃がそうとしても、無駄な抵抗だった。眦を伝い顎先に落ちる。風が吹くので、軽いしずくは衣を避けて濡れ縁に着地した。ポタリ、とやけに重い音が響く。

「…何を泣く」

久方ぶりに聞く、低く静かな、しかし暖かい声だった。顔を上げたの前に、いつの間にか黄色い小花が綻ぶ枝を一輪携えて、ましらが佇んでいる。相変わらずの無表情のまま、彼は躊躇いがちに進み、それでもに近づいた。遠目には金水引とあたりをつけた小枝は女郎花のようだ。独特の芳香が鼻腔へ届く。
は暫く呆けていたが、最後の矜持を振り絞って慌てて乱暴に目端をこすった。何も、と掠れた声を出す。思えば、声を出すこと自体久しぶりだった。
ましらは暫く何も言わなかったが、やがては黙ったまますっとの隣に腰を降ろした。手折ったばかりなのか、花弁がまだ瑞々しいままの小枝が指先でくるくると回る。は粗方の水分をふき取ると、整わない息を宥めながら回転する花弁を眺めていた。丸いつぼみが愛らしい。

「災難だったな」

を見はしないまま、ましらが言う。一介の女中が賊と忍の乱闘に巻き込まれた事は、既に周囲の知るところなのだ。は何も言わずに俯いた。

「城内というものは、一番安全に見えて、実は一番危険なところだ。お前も、これで懲りただろう。明け前に仕事以外でうろつくのは控えるべきだ」

それも知られていたのか、とは更に俯いた。自分の秘め事は、所詮子供騙しの延長線上だったのだ。不甲斐なくて悔しくて、もう涙も出ない。けれど胸の内には渦巻くのだ。言えたらどんなにか楽だろう。あの忍の方はわたしの兄かもしれないのです、と。張り裂けかけた胸の代わりにと、吐露を司る唇が開く。

「でも、会いたいのです。あの方にお会いしたい」
「…………」
「御名しか存じていない方に、わたしのことなぞ、塵芥のようにしか思っていない方に、それでも、会いたいのです。いけませんか? わたしにはもう、これしかないのに、それも駄目ですか?」

語尾はもう戦慄いている。叫ぶほどの余力は無いのに、風しかない所為か、の声はまるで慟哭のようだった。ましらは何も返さず、相変わらず手元の花に視線をやっている。ももう何も見ていない。視界に移るのは己の指先だけだ。がさがさと荒れ果てた指先が、忌々しい、けれど捨てられない、両の目を覆った。

「一人は淋しい、……貴方にはわかりません」

黒い髪と黒い目を持つこの若者は、陽を浴びることに恐れをなしたりはしないのだろう。まるで物の怪のように暗がりに潜みながら、晴れた往来を眺めるだけの苦痛を知らないのだろう。人に紛れて生きたいという願いはあまりにも些細だ。些細で、切実だ。
風が吹いて、背に流すに任せていたの髪を巻き上げて緩く引く。もうじき腰元に届くかという黒髪は日陰の中にあって、鈍い斜光を反射して輪を描いた。ふっと溜息が聞こえて、耳の辺りに何か固い感触が生まれる。咄嗟に振り仰いでも、周りを見回しても、そこにはもう誰も見当たらなかった。まるで霞か幻か、瞬きする間の出来事である。夢を、と疑う彼女の心とは裏腹に、依然として側頭部にだけ、僅かな違和感が残っていた。手をやれば胸に届く花の匂い。千切られた枝先から小雪のように花弁が落ちて、白単に黄色い模様を寄越す。枯れたはずの涙がまた浮かんだ。