10
無駄なことをしているかもしれないという思いが、もしかしてという願いに勝ち始めていた。呼べども呼べども、忍頭は一向に姿を現しては呉れなかった。わかっていたつもりだが、やはりこうも不調が続くと気が滅入る。自分で思うよりもずっと浅はかな作戦だったようだ。しかし、もう既に日課のようになり始めていた。となるとこれは一応このまま続けて、次の手を考える、というのが一番有効かもしれない。
気を抜けば溜息を吐きそうになる朝と夜の間。人気のない廊下をそろそろと進み、ここだを見込んでいる草叢の薄暗がりに声をかける。最近は朝靄の温んだ空気に少しの冷えが混じるようになってきた。そろそろ、夜が長くなる季節に差し掛かるだろう。そうなると、この作戦も若しかしたら此処からが本領なのかもしれない。出ない答えと空しい期待のまま、最後に一声と、空気を吸い込んだところだった。
「…?」
何か、幽かな声が聞こえた。
辺りを見回せど、特に変わった様子は無い。そのままきょろきょろと周りを見てから、気のせいかと踵を返しかけたところで、今度こそはっきりと茂みが揺れる。そして何か、うめき声。
背筋が凍った。
「お、お化け…?」
俄かに震え出す身体を腕で抱きしめながら、じりじりと木目が美しい廊下を後退する。夜明け前とはいえまだ当たりは薄暗い。物の怪が姿を現しても、不思議ではないのかもしれない。いやでもまさか、幽霊なんて。しかし依然幽かに草葉は揺れていて、よく聞けば妙な人の声もする、ような気がする。人ならざるものにしては少し、直接的だ。
ふと、違和感が首を擡げた。
「…誰かいるの?」
後退していた足を叱咤し、今度は逆に歩を進めてみた。少し迷ったが、裸足のまま土に降りて、恐る恐ると茂みに近づく。足裏に直に小石が食い込んだが、元々分厚い皮で覆われたの足には、逆に懐かしい感触ですらあった。噎せ返るような緑の匂いが鼻につく、揺れる茂みにそっと手をかけ、開いた。
「!?」
見開いた目と目がかち合い、相手は安堵に揺れ、は驚愕に震える。知った顔ではない、しかし確かに生身の人間である。そして土に汚れた衣には間違いなく、上田城警備を司る人間が身に纏う紋が染め抜かれていた。
只事ではないと肌で感じたは、すぐさま男を戒める縄に手をかける。丁寧に猿轡までかまされていて、男は唸るばかり。荒縄は固く結ばれていれば解くのに手間がかかると、の経験が警鐘を鳴らしたが、目の前の事実がそれを無視した。男が唸る。手が震える。身をよじるので何度もしくじる。動かないで、と言いかけた口が背後に生まれたただならぬ気配に震えて閉じた。咄嗟に振り仰いだ先に迫る、朝闇の中でさえ光る一閃の白刃。目を閉じることすら出来ない。鼻先に風が届いたと感じるまでが長かった。そして次に、高い音が届く。
「捕まえた」
楽しげな男の声が聞こえて、闇よりも濃い黒い鉤爪に挟まれた刃はの鼻先で真っ二つに砕けた。そのまま、折れた獲物に添うようにして乱入者の獲物が侵入者に迫る。辛くも逃れた影は飛び退るも、もう一方はそれよりも早かった。相手の着地と同時に掬い上げるような刃が敵を引き裂く。一撃と絶命は同時で、侵入者はものの数瞬で物言わぬ骸となった。瞬きさえ許さない忍の壮絶な仕合を終え、固まるには目も呉れずに、影は逡巡すら見せずに次の行動に移った。ふっとかき消えたかとおもえば、今度こそ絶叫。それはのすぐ後ろからだった。
「危なかったねぇ、お嬢」
場違いに軽い声だ。悲鳴さえも出ないを見下ろして、返り血による凄惨な笑顔を見せながら、鉤爪はゆっくりと縛られたままの男を絞める。
「いい機会だから、覚えておこうね。こりゃ忍の常套手段だ。いかにも侵入者に味方が捕まったと見せかけて、獲物が網にかかるのを待つ。大抵は巡回中の足軽が見つけてね、そいつが慌てて駆け寄ってきたところを、潜んでいたもう一人が後ろから殺るんだ。目的は色々だけど、欲しがるのはこの野暮な衣だね。人数分調達したところで、本格的に潜り込む。欠点は時間がかかることと、たまにアンタみたいな外れが引っかかることさ。だろ?」
語尾は楽しそうに緩やかに急激に死に食まれる腕の中の男に聞く。当然、返答はない。凄まじい勢いでもがいていた男も、今では不気味に静かになっていた。それでもまだ息があるのだろう。指先は僅かに痙攣を繰り返している。
だが、忍はふと締め上げるに任せていた腕を、まるで幼子が遊戯に飽いたように振り解いた。びちゃ、と汚らしい音ともに、虫の息を繰り返す男の四肢が散らばる。血飛沫が跳ねて、の顔にもいくらかこびりついたが、そんなことに構う余裕すらない。最初から最後までをきちんと瞳に収めてしまった娘は、それでも逸らすことなく、ただ目の前の男を見ていた。夜が明ける手前の薄闇の中で、炎の鬣が逆巻いて眼孔を貫く。一心不乱なその視線を享けて、虚空に向け唇で捉え辛い高音を奏でていた男が、ふとを見下ろす。暗がりに蹲るままの彼女を見て、ああ、と哂った。酷く愉快そうな笑顔だった。
「アンタ、俺に会いたがってたんだってね。どう? ご期待に添えたかな」
玲瓏たる男の眦。その奥の瞳が紅く燃えている事が、死体よりも殺人よりも、よほど深くを震わせた。
気を抜けば溜息を吐きそうになる朝と夜の間。人気のない廊下をそろそろと進み、ここだを見込んでいる草叢の薄暗がりに声をかける。最近は朝靄の温んだ空気に少しの冷えが混じるようになってきた。そろそろ、夜が長くなる季節に差し掛かるだろう。そうなると、この作戦も若しかしたら此処からが本領なのかもしれない。出ない答えと空しい期待のまま、最後に一声と、空気を吸い込んだところだった。
「…?」
何か、幽かな声が聞こえた。
辺りを見回せど、特に変わった様子は無い。そのままきょろきょろと周りを見てから、気のせいかと踵を返しかけたところで、今度こそはっきりと茂みが揺れる。そして何か、うめき声。
背筋が凍った。
「お、お化け…?」
俄かに震え出す身体を腕で抱きしめながら、じりじりと木目が美しい廊下を後退する。夜明け前とはいえまだ当たりは薄暗い。物の怪が姿を現しても、不思議ではないのかもしれない。いやでもまさか、幽霊なんて。しかし依然幽かに草葉は揺れていて、よく聞けば妙な人の声もする、ような気がする。人ならざるものにしては少し、直接的だ。
ふと、違和感が首を擡げた。
「…誰かいるの?」
後退していた足を叱咤し、今度は逆に歩を進めてみた。少し迷ったが、裸足のまま土に降りて、恐る恐ると茂みに近づく。足裏に直に小石が食い込んだが、元々分厚い皮で覆われたの足には、逆に懐かしい感触ですらあった。噎せ返るような緑の匂いが鼻につく、揺れる茂みにそっと手をかけ、開いた。
「!?」
見開いた目と目がかち合い、相手は安堵に揺れ、は驚愕に震える。知った顔ではない、しかし確かに生身の人間である。そして土に汚れた衣には間違いなく、上田城警備を司る人間が身に纏う紋が染め抜かれていた。
只事ではないと肌で感じたは、すぐさま男を戒める縄に手をかける。丁寧に猿轡までかまされていて、男は唸るばかり。荒縄は固く結ばれていれば解くのに手間がかかると、の経験が警鐘を鳴らしたが、目の前の事実がそれを無視した。男が唸る。手が震える。身をよじるので何度もしくじる。動かないで、と言いかけた口が背後に生まれたただならぬ気配に震えて閉じた。咄嗟に振り仰いだ先に迫る、朝闇の中でさえ光る一閃の白刃。目を閉じることすら出来ない。鼻先に風が届いたと感じるまでが長かった。そして次に、高い音が届く。
「捕まえた」
楽しげな男の声が聞こえて、闇よりも濃い黒い鉤爪に挟まれた刃はの鼻先で真っ二つに砕けた。そのまま、折れた獲物に添うようにして乱入者の獲物が侵入者に迫る。辛くも逃れた影は飛び退るも、もう一方はそれよりも早かった。相手の着地と同時に掬い上げるような刃が敵を引き裂く。一撃と絶命は同時で、侵入者はものの数瞬で物言わぬ骸となった。瞬きさえ許さない忍の壮絶な仕合を終え、固まるには目も呉れずに、影は逡巡すら見せずに次の行動に移った。ふっとかき消えたかとおもえば、今度こそ絶叫。それはのすぐ後ろからだった。
「危なかったねぇ、お嬢」
場違いに軽い声だ。悲鳴さえも出ないを見下ろして、返り血による凄惨な笑顔を見せながら、鉤爪はゆっくりと縛られたままの男を絞める。
「いい機会だから、覚えておこうね。こりゃ忍の常套手段だ。いかにも侵入者に味方が捕まったと見せかけて、獲物が網にかかるのを待つ。大抵は巡回中の足軽が見つけてね、そいつが慌てて駆け寄ってきたところを、潜んでいたもう一人が後ろから殺るんだ。目的は色々だけど、欲しがるのはこの野暮な衣だね。人数分調達したところで、本格的に潜り込む。欠点は時間がかかることと、たまにアンタみたいな外れが引っかかることさ。だろ?」
語尾は楽しそうに緩やかに急激に死に食まれる腕の中の男に聞く。当然、返答はない。凄まじい勢いでもがいていた男も、今では不気味に静かになっていた。それでもまだ息があるのだろう。指先は僅かに痙攣を繰り返している。
だが、忍はふと締め上げるに任せていた腕を、まるで幼子が遊戯に飽いたように振り解いた。びちゃ、と汚らしい音ともに、虫の息を繰り返す男の四肢が散らばる。血飛沫が跳ねて、の顔にもいくらかこびりついたが、そんなことに構う余裕すらない。最初から最後までをきちんと瞳に収めてしまった娘は、それでも逸らすことなく、ただ目の前の男を見ていた。夜が明ける手前の薄闇の中で、炎の鬣が逆巻いて眼孔を貫く。一心不乱なその視線を享けて、虚空に向け唇で捉え辛い高音を奏でていた男が、ふとを見下ろす。暗がりに蹲るままの彼女を見て、ああ、と哂った。酷く愉快そうな笑顔だった。
「アンタ、俺に会いたがってたんだってね。どう? ご期待に添えたかな」
玲瓏たる男の眦。その奥の瞳が紅く燃えている事が、死体よりも殺人よりも、よほど深くを震わせた。