09

ましらというあの青年の名を手に入れても、会う機会が増える、と言うわけでは決してなかった。それどころか、二度目の出会い以降、彼の姿を見ることはなかった。素直なは「人前では口にするな」という彼の言葉に従って、誰にも彼のことを話さず、訊かずに毎日を送る。もう一度会いたくても、誰かに尋ねるべくの特徴は無としか言いようの無いもので、名を出せないと言う弱みがの口を縛り、結局は溜息一つで成り行きに任せることにした。焦っても仕方ない。それに、城内にいればいずれ会う機会も有るだろう。
賄い方の仕事も板についてきた今時分、心を砕くことも多岐に渡ってゆく。ましらのこと、自分の特徴のこと、それから、兄のこと。いつか探し出そうと心に決めてから、密かに手立てを考えてはいた。一度消えた面影をどうにか思い出そうと躍起になるのは、まだ膿む傷に塩を塗り込む様な行為だ。軽くはない痛みを伴いつつ繰り返せど、炎が全てを飲む前の記憶は既に頼りなかった。となると、残るは手掛かりを虱潰しにあたると言う手立てになる。はどうしても、あの赤毛の忍にももう一度会ってみたかった。己と同じ、異形と呼ばれる忍頭の男。千波が言うには、忍のものは皆一様に人とは違う一因を携えるという。ならば、これと同じ目を持つ血を分けた存在のことも、何か知っているかもしれない。望みと言うには薄すぎて、期待と言うには心もとない。けれど、さしあたって他に手立ては見当たらなかった。それで駄目ならまた考えよう。まだ望みが有ると言う望みだけが、にとっては希望だった。
しかし、忍の活動は主に夜。の活動は夜が終わる少し前から夕暮れ時と、まるで真逆である。まさか夜中ウロウロと城内を歩き回るわけにも行かない。となると、機会といえるものは炊事の始まる明方前だ。少しだけ早く起き出して、少しだけ寄り道を重ねればいい。忍が一体何処に潜むかなど見当もつかないが、こちらには名前を知っていると言う強みがあった。呼びかけ続ければ、いつかは答えてくれるかもしれない。何もかもが成り行き任せの運任せ、穴だらけの作戦だが、やらないよりやるほうがいい。我ながら馬鹿じゃないかと思いながら、毎日少しずつ寄り道をして、小声で繰り返し繰り返し、面識など無いに等しい忍の名を呼ぶ。無論、返事が有るわけなど無かったが、一方での奇行はすぐさま上田城に蔓延る忍の周知として知れ渡ることとなった。






「…佐助」
「はい?」
「妙なことを耳にしたのだがな」

常とは打って変わって大人しい単に身を包み、私室で墨を磨りながら、上田城城主真田源二郎幸村は笑い含みに虚空に声を遣った。名を呼べば姿は見えど声は返る。知られて都合の悪いことは黙っているこの影のものは、今から告げる内容に警戒しているのだろうか。じっと幸村の言葉の先を待つ。

「何やら歳若い女中が密かに、夜な夜なお前を探しているとな」
「…小助か。ったく、あの莫迦は」

舌打ち一つで密告者に合点が言ったところを見ると、彼に直接思い当たる節を尋ねたものは他にも沢山居る様だ。といっても、件の娘の行動を知るものは、今のところ忍らと主君ぐらいのものらしい。それほど娘も気を使っているようだし、何より目立つことの程でもない。ただ、その目当ての人物が思いもよらない相手なのだ。幸村は重ねて笑った。

「聞けば、もう随分長いこと続けているそうだぞ。思い付きなどではないよい証拠ではないか」
「だから?」
「会ってやれば良かろう」

忍頭は珍しく音を立てて頭を掻いた。あのねぇ、と嘆息交じりの反論も遅れてやってくる。

「たとえあっちに用があったとしてもさ、俺に何の得分もないことでしょうが。そんなもんなんでわざわざ」
「それを確かめるために相手の言い分を聞くのだ。そもそも、お前に思い当たる節はないのか?」
「全然」
「だろうな」

磨り終えた膠を脇に除けながら、幸村はふむと一つ小さく唸る。そのまま暫く考え込もうとする気配を察して、忍はごく詰まらなさそうに先回りをした。

「旦那。妙なこと考えるのはやめてくれよな。ただでさえ最近鬱陶しいことが多いのに、これ以上の厄介ごとなんて忍使いが荒すぎる」
「妙とは何だ、妙とは」
「何か画策しようって思ってんなら勘弁してくれって意味さ。俺、忍よ? 他人と馴れ合えるわけないじゃん」

幸村は何かを言いかけたが、やがてふと思いとどまって、結局は一言「そうだな」と返して嘆息した。そのまま、吐き出された吐息に沿うようにして指を動かし、丁寧に漉かれた半紙を取り上げる。白雪地に白蓮が盛られた粋物で、室内の薄暗さの中、模様は翻る鱗の様に鈍く光った。
大小揃えられた鼬毛の筆を取り上げながら、幸村は再び沈黙する天井裏を少し失念して、独り言のように仕舞いを続ける。

「まあ、実のところ、俺が少し気になるだけなのだがな。まさかお前に声をかける女子など……」

語尾はふっと宙に消えて、続きを待つ佐助など思いも寄らないといった風に、筆を取り上げた指を止めて口を噤む。

「何?」
「いや……まさかな」

痺れを切らして佐助が促しても、珍しく妙に歯切れが悪い。言葉尻同士を己が己で打ち消し合い、しかしそれでも小首を傾げ続ける主君を感じて、不遜にも屋根裏で頬杖を突いていた忍頭は、おや、と身を起こした。今度は音一つ立てずひょっこりと居室に顔だけを出し、室内の主君を見止める。この位置では童顔の可愛らしい顔は見えず、代わりに色素の薄い髪から始まる、しかし頼もしい武人の背が見える。きっちり正座をして、やや上段に筆を構えてやはり首を傾げていた。何を書くつもりかは知らないが、えらく似合わない光景だなとしみじみ思う。そのまま、ひょっとしてと声をかけた。

「何、旦那。春?」

ゴトリ、となぜか硯が畳に転がった。

「な、な、な、ななななな、な」
「あーあー、もーはいはい俺様が悪かったですそれ以上言いませんだから動くなよ、墨着くから」

呆れながら今度こそ部屋に降り立って墨汁を撒き散らす硯を回収した。主君の全身は彼の具足と同じ色になって、唇を開いたり閉じたりと繰り返している。肩を竦めて片付けに手を動かしながら、重ねて止めを刺した。

「旦那こそ会いに行ってみたら? ま、仮にもアンタ、城主なんだし、ちょっと言えば内容くらいすぐ吐くでしょ」
「い、いやしかしそれは……娘はあくまでお前に会うのが目的なのだろう。俺が行ってもな……」
「いいんだよ。この城の女中はみんな、アンタの女のようなもんだ。好きにすればいいじゃん」
「またお前はそういうことを! お、俺を揶揄って楽しいのか!?」
「あんらー、それ今更言うの?」

あまりの言い様にいきり立った主人をかわし、忍頭はそのままけらけらと笑ってふと姿を消した。けれど、相変わらず声だけは未だ室内に木霊する。幸村はいつも斜に構えているこの男をからかう心算だったのだが、結局はこうしていつも煙に撒かれてしまうのだ。流石は真田忍隊の長、その技と同じく、底が知れない。

「真面目に聞けよ、佐助! ただの女子がお前に会いたいといっているのだ。少しでいいから酌んで遣れ!」
「はいはい、気が向いたらね〜」

声音は笑い声を伴いつつ、仕舞いにつれ細くなり、かき消されるように消えた。幸村は暫く眉根を寄せて虚空を睨んでいたが、やがて大きく息を吐き、どかりと元の位置に座り込む。足元を見れば、先程撒き散らしたはずの黒い染みはすっかりと姿を消していた。手のつけ難い膠をあっさりと片付ける男の手際の良さが少し恐ろしく、そして羨ましい。己もあれ位器用であれば、もう少し容易く声も掛けられるのだろうか。
夕暮れ時に伺い見た娘の顔が忘れられない。