08

「あの、本当に、ありがとうございました」
「………」
「あの…」
「何度も同じことを言うな。…聞こえてる」

結局盗みが明るみとなった男はそのまま逃走しようとしたが、集まった町人によりあっけなく捕まり、役人に引き渡されて騒動は終わった。一体全体如何して行く先行く先こうした災難に巻き込まれるのか、は解かれがたい視線の網を感じながらつくづくと嘆く。しかし、目端にあの若者が黙って去ろうとする背を認めて、慌てて追い縋ったのだ。助けてもらうのはこれで二度目だ。しかも今回は一人の問題では済まされない。この青年が水を向けてくれなかったら、愚鈍な自分はあの男の剣幕に負けていただろう。ちゃんとお礼が言いたい。衝動のまま引き止めて、うまく回らない舌を懸命に働かすに努めていれば、青年は嘆息しつつを押し留めた。言いたいことがあるなら聞くから、先に用向きを済ませてこい、と。
目的の店で主人と話をする束の間に、また煙のように姿を消していたらどうしようと心配したが、言葉どおり青年は日陰となる建物に背を預けて、を待ってくれていた。両の手に先程は無かった荷を抱えたまま走り寄るに言葉は寄越さず、代わりに伸びた腕が軽々と荷を奪う。そのまま歩き出したので、も慌てて従った。気温以外の何かで、顔も身体も熱かった。

(…どうしよう)

二度も助けて貰った礼が言いたかった。叶うことなら何か恩返しもしたい。けれど、口下手な自分では気の利いたことは言えないし、取り柄のないこの身では碌な事は出来ないだろう。ちら、と半歩先を行く青年の横顔は前ばかりを向いていて、になぞ一欠けらの興味も無いようだった。もう随分歩いていて、もうじき城に到着する。まさかまかない方まで運んでもらうわけには行かないから、門前で別れることになるだろう。それまでにはどうしても、せめて名前だけでも知りたかった。けれど会話が続かず、同じことを繰り返すしかなかったは、言外にうるさいと言われて黙ってしまった。一度切れてしまった会話を、復活させればと思うのは容易い。足りないのは意気地。重々承知している。

「賄い方の所属だったのか」

思考と自己嫌悪の海に沈みかけていたは、思いも寄らない青年の声音に、一気に現実へと引き戻される。返答のないを訝しんだのか、青年が少しだけ視線を寄越した。その視界へ驚きに固まる少女を入れると、特に感慨も無くすぐにまた前を向く。

「前は表を掃除していただろう。別に他意はない」
「あ、えと、そうでしたよね。その、少し前に正式に決まったばかりなんです。今日は、初めてのお使いで」
「若い娘は水仕事を嫌がるものだと思っていたが」
「そういえば、そうですね。先輩方は御手が荒れるのを嫌うから、あまり炊事場にはいらっしゃいませんね」
「…お前はいいのか?」
「へ、わたしですか?」
「他に誰がいる」
「あ、そ、そうですよね、すみません」

慌てるに「別に構わぬ」と端的な言葉だけを渡して、青年はそれ以上の言葉は噤んだ。無言のまままた進められる道程に、今度こそから、先程の続きを持ち上げなおす。

「わたしは別に…、元々、人様に見て頂けるような指先など、持ち合わせていませんから。それに、里に居た頃から炊事は一等好きな家事だったんです。お城の中でもそれに割り当てていただけるなんて、それだけで」

これだけ言うのにも全身全霊を込めたの言葉に返るのは、「そうか」という青年のそっけない言葉一つだった。だがそれでも、会話が成立したと言う事実に、はただ嬉しかった。まるで夕暮れの積乱雲のように、ふと気づけば幻の如く立ち消えてしまうこの青年が、きちんと返答を寄越してくれる。しかも自分の言葉にだ。これ以上は無い。
それからはまた暫く無言が続き、気づけば城門が眼前に迫っていた。流石に青年は立ち止まって、何も言わずにへ荷物を手渡す。華奢な手がしっかりと重い包みを抱えるのを見届けてから、余り合わせようとはしなかった視線を、伏せ目がちのへと合わせた。

「人の嫌う仕事とはいえ、お前の仕事は殿の衣食住に関わる事だ。それを忘れぬようにな」
「はい」

硬く頷きながら、少し居心地悪く、しかし辺りが薄暗いことに若干の安堵も持ちながら、この人は本当に殿に心酔しているのだとは痛感した。口を吐いて出る言葉は常に城主を慮ることばかり。多少厳しくても、それがこの青年の中で譲れぬ信念なのだとしたら、は嬉しくさえあった。忠義とはこのようなものなのだろう。男性しか知りえぬと決め込んでいた何か揺るぎがたいものに、触れた心地さえあった。
俯きがちに硬い声を返す娘を見つめ、青年は暫しそのままだったが、やがてゆっくりと踵を返した。その背にまた頼りない娘の声がかかる。

「あの、あの御名を」

振り返りこそしないが、歩みを止めた青年の背に、の声が重なる。

「貴方様の御名を、お教え頂けませんか」
「訊いてどうする」

如何、と言うことは考えていなかった。焦ったは思いのままを口をする。

「ど、どうもしません!」

ふと、青年の肩が揺れた気がした。

「…しないのか」

笑い含みに響く声にが呆気に取られていれば、青年はもう歩き出している。重ねて追い縋ろうとしたを、手に持った荷が留めた。あわやと手落としそうになる寸前に、低く、しかしよく響く声が届く。

「ましら」
「…え?」
「人前では、呼んで呉れるな」

いつの間にか日が暮れて、立ち去る男の足元から長い影が伸びている。辺り一面は皆一様に夕日に染まって、禍々しいほど美しい橙一色となっている。は我も忘れ、珍しく顔を真直ぐに上げ、立ち消えるように去った男の道行を見つめていた。鼻筋の通る細面に夕日が溜まり、陰影が肌の色を透かして見える。名を言われたと気づくのに時間を要した分、の横顔は夕日に冴え冴えと映え、見止めた者の瞳を奪った。