07

千波というあの先輩女中の言葉どおり、遭遇も邂逅も無いまま、日々だけが無常に過ぎていった。叱られ扱かれ激務に追われながら、やっと要領の悪いにも、城勤めの何たるかが朧げながらも見えてくる。気づけば日がな一日降りしきっていた小糠雨も去り、田植えの忙しさも振り返る頃合となっていた。辺りには噎せ返るような緑が広がり、陽光も燦々と煌く。井戸水は汲み上げればあっという間に熱を持ち、温む。飛沫がいさなの鱗のように光った。
慣れるまではと雑務全般を言い渡されていただったが、この頃漸く専任の持ち場が定まってきた。口数も少なく任された仕事だけを黙々と取り組むその姿勢は、機転や鷹揚の要る給仕や座敷仕事は向かないと見做され、几帳面で細やかな心配りが必要とされる賄い方に廻された。内勤ではあるが、仕事内容はさほど容易ではない。朝とは呼べない時間に起き出して、日がな一日女が嫌う水仕事だ。応用を求められることは少なかったが、代わりに面白みや奇麗事からは程遠い。成り手と言えば専ら腰が曲がる前の老女か覇気のない男子ばかりだったが、はこの仕事を与えられて、素直に喜んだ。炊事場は自然光以外明かりが無く薄暗い。何より誰も粗野とは程遠い静けさで、淡々と仕事をこなすだけの人々だった。現場は数日でが邪魔にならない人物だと判断し、あとは何も言わずに仕事を振り分けた。空気のように扱われることがうれしかった。
そんなある日の午後、はちょっとした御使いを頼まれた。城内の炊事を一手に引き受けるここには、当然ながら毎日のように食材や調味料が運び込まれる。今日も勿論仕入れがあり、昨日決められた献立どおり準備が進められていたのだが、急遽上方よりその内容を変更せよとの指示が入ったのだ。あまり無いことだが、間々有る事ではある。古参の連中は急な申渡しに特に動じることなくすんなりと受け入れていたのだが、そうなると明日の朝に使う予定だった材料が少し不足すると気づく。明朝の仕入れを待つのでは間に合わない。そして、に白羽の矢が立った。

「此処に必要なものは全て書き留めたから、事情を説明して主人に渡すだけでいい。上田のものだと告げて嫌がる問屋は居ないからね」

淡々と老女に告げられて、は頷きながらも少し首を傾げた。

「でも、わたしみたいなのが御伺いして、怪しまれたりはしないでしょうか」
「大丈夫だよ。真面な若い娘なら"城勤めの者です"なんて大それた嘘、吐きゃしないからね」
「そうですか?」
「そうだよ。さ、これが御代だ。とっとと行きな。寄り道すんじゃないよ」

大金ではないが小金でもない銭を渡すと、言うだけ言って老婆はさっさと姿を消した。はまだ少し不安だったが、役目を仰せ付かった以上こなさねばならない。前掛けを外して「行って来ます」と声を掛け、久しぶりの外へ向かい小走りで駆け出した。






夕暮れまではまだ早い時分だからか、大通りは人が多かった。城に上がるときは通ったはずの道だが、あの時は緊張と不安で周りを見る余裕が無かったため、全く見覚えのない新鮮なものである。村に居た頃とは比べ物にならない道幅に、小奇麗な男女から馬や牛まで、まるで溢れるようだ。邪魔にならないよう端を歩きながら、は物珍しげに道行く人々を伺っていた。
一見してそうであるとわかる裕福そうな人々から、埃まみれで駆けずり回る小さな子供たちまで、皆一様に笑顔なのがよく目につく。飛脚が汗を垂らしながら日差しの強い往来を掻き分けてゆく先で、若い娘二人が話に花を咲かせている。呉服問屋の主人が撒く水を子供たちがわざと被り、歓声を上げて転げまわっていた。駒避けに昼顔の弦が絡み、紅木に緑の添えが景色に色を添えている。みんな笑顔で、全てが眩しい。そうして、目に付く全てをぼんやりと見つめながら、それでもふらふらと歩いていたのがいけなかったのだろう。一際大きな十字路に差し掛かったとき、飛び出してきた人影と見事にぶつかってしまった。

「ってぇな、気をつけろこの鈍間!」

景観に場違いとも言える粗野な暴言に、尻餅をついたままのは身を竦ませたまま何も答えられない。日光はの背から照っていて、眩しいのか睨んでいるのか、顔を凶悪に歪めた頬被りの男が、少しも動じていない体制のまま仁王立ちになっていた。怯える娘を見下ろした刹那、結局男は舌打ち一つで視線を切り上げ、そのまま踵を返す。成り行きにが思わずほっとしたのも束の間だった。今度はまた別の誰かに向かい、男が声を荒げた。

「んだよ手前? 何か用かよ!」

しゃがんだまま、俯いていた顔をまた上げる。男の苛立ちが向かう先、懐かしい顔があった。おもわずあっと声が出る。
そんなを一瞬だけちらと見て、立ちふさがった若者はまたすぐ押し留めた男に視線を戻した。

「そこの娘に返すものがあるだろう」

顎だけでを指し示して、青年は静かに狼狽する男を見つめた。え、と小首を傾げるには構わず、男は明らかに激昂して無理に歩を進めようとする。

「知らねぇよ、何のことだよ! ふざけたことぬかすんじゃねぇぞ、とっととどけ!」
「娘、これはお前の物か?」

青年が掲げて見せたものに、も男も同時に声を上げた。

「お財布!」
「何すんだ手前! 返しやがれ!」
「お前のものではないだろう」
「うるせぇな、そんな証拠が何処にある!?」

男の声が熱を帯びるたびに行き交う人々が立ち止まり、なんだなんだと顔を向ける。気づけばぐるりを囲んでの黒山の人だかり。明らかに動揺する男とを尻目に、若者は淡々と言葉をつむいだ。

「今なら間違いで済む。縄を掛けられたくないなら、とっとと行け」

場違いに静かな声音に更に恐怖心が増したのか、男は今度はぐるりに向かって声を張り上げた。

「みんな、騙されるんじゃねぇぞ! 俺が盗人なんじゃねぇ、こいつらが結託して俺から金を巻き上げようって心算なんだ! あれは俺の金だ!」

とんでもない弁明に、は二の句が接げずにぽかんと口を開けて呆けた。その間に、周囲のざわめきがヒソヒソと交わされる。世論は揺れているようだ。娘がすぐには否定しないと言うことが、少なからず男に追い風を与えたようだ。
しかし、青年は何処までも冷静に言葉を続けた。

「なら、こいつの中身を言えたほうが持ち主だ。何が入っているか、正確に答えてみろ。お前は?」

男に水を向けると、小ばかにしたような笑みが返る。

「馬鹿か手前、財布の中身は金と相場が決まってんだろ。そんなもん、そこの小娘だったそう答えるに決まってる。わかるわけねぇだろ!」

勝ち誇った言葉になど見向きもせず、青年は続けて、未だ地に腰をつけたままのに静かな目を向けた。色のない瞳が真直ぐにを見る。いつか見たままの、静謐な視線に絡められ、一瞬は呼吸を忘れた。

「お前は?」

低く、静かな声が、真直ぐ自分だけに向けられている。その事実だけで、遅れ気味だったの心が漸く事態に追いついた。

「お金です」
「ホラ見ろ! それでどうやって」
「あと、紙が入っています。わたし、お使いの途中で、用向きを忘れないようにと、書き留めて頂いた端書が」

いきりあがった男の声が止んだ。青年がゆっくりと巾着の紐を解き、中身を往来にばら撒く。紐でつながれた貨幣と一緒に、夏の陽の明かりで目に染みるほど眩しく輝く紙片が転がり落ちた。