06

あの人らの名前は、なんと言うのだろう。
雨が降る前の空模様は暗く、どんよりとした薄鈍色を平坦に広げていた。
は炊事場の外に出て、井戸脇に溜まった洗物をゆっくり丁寧に磨いているところだった。
網膜に焼き付いて離れない、あの鮮やかな髪の色。そして、挑むよう睨むようだった若者の目付き。
どちらも決して優しいとは言い難い態度でを見下ろしていた。まるで、道端に転がる石や草のように感動のない視線。陰になっていたのが幸いとしたのか、の異形には気づいていないようだった。けれどきっと、気づいていればもっと酷く、宛ら火傷の引き攣りのようにの心に残ってしまっていたかもしれない。今だって、これほど色褪せることなく、彼らはの心に浮かんだまま漂っているのだ。
平凡な女中見習いが主君の手を煩わせれば、あれほど疎まれるのは当たり前だろう。最初に助けてくれた、あの赤い髪の男の態度は一貫している。けれど、その後現れたあの若者は、見捨てればいいのに、わざわざを救うために声をかけてきてくれた。
その矛盾が全くわからない。
せめて名を聞こうとして、我に返り慌てて追いかけただったが、既に若者は忽然と姿を消してしまった後だった。
三日前の出来事となっていた。

、これもお願いね」

ひょいと戸口に姿を現した先輩女中が、擦れ合う陶器音を鳴らしながら抱えた桶をの脇に置いた。茶碗が丁寧に重ねられ、僅かに残る水気が鈍い日中の光にくすんでいる。はい、と慌てて答えたに小粋に笑い返し、彼女は慌しく前掛けを直しながら踵を返す。その彼女を、は咄嗟に押し留めた。

「あの」
「ん?」
「少し…、御伺いしたいのですが」

よろしいですか、と恐る恐る尋ねるに、先輩女中は俄かに目を丸くする。

「おんやまぁ、珍しい。あんたが自分から何か言うなんてねぇ!」
「あ、えと、御忙しいようでしたら…」
「あーあー、違う違う、ごめんね、ちょっとびっくりしたのよ。で、どうかした? 何かあったの?」

興味津々といった表情で詰め寄る先輩女中に少し戸惑いつつも、は決まりごとのように少し目を伏せながら、恐る恐ると口にした。

「あの…、殿の御傍に控えていらっしゃる方をご存知ですか?」
「知ってるか、と言われれば、まぁ大体は判ると思うけど。それが?」

促されては刹那迷ったが、まず誰の目にも明らかな特徴を持つほうから尋ねてみることにする。

「唐草模様に似た柄の変わった着物を召された、赤い髪の殿方なのですが…」
「ああ、猿飛様ね」

猿飛様、と鸚鵡返しにいうに頷き返し、ひょいひょいと手招きする。首を傾げつつ素直に従ったの両肩を押してしゃがませ、洗物を一つ適当に手渡した。自らも束子を手に弄びつつ、「お喋りはこういう風にするの」と悪そうに笑い、小声で続きを話し出す。

「猿飛佐助様。代々真田家が飼う忍の召使よ。あの方はその連中の頭をしてらしてね、まだ御若い方だけど、相当の腕前って話。だから幸村様に気安くしても、みんな黙認しているのよ。勇気を出して咎めなんかしても、その日の夜に神隠しに見せかけて殺されちゃ、溜まんないもの」
「そんな」

物騒な物言いに思わず声を上げたに「しっ!」と念を押してから、彼女は更に転がる茶釜に手を伸ばす。

「ただの噂だけど、強ち嘘ってわけでもないのよ。相手は人間じゃないんだから。見たでしょ、あの髪の色」

水で湿らせた束子で黒金の茶釜を適当にこすりながら、だんだん饒舌になる先輩女中はを見もせずに続けた。

「その気になれば容姿くらい自在に変えられるって話だけど、それでも平時は常にあの姿。あんな色、どんな薬剤を使ったって決して世には現れない色よ。ねえ、不気味だと思わない? 忍びって、みんなああなのかしら。あんたも気をつけなさいよ。目をつけられたら最後、真綿で首を絞められるようなもの………ちょっと、聞いてる? ?」
「…はい」

俯いて蚊の鳴きそうな声で返事を返すを訝しげに見て、先輩女中は束子の投げて躊躇いつつ立ち上がった。倣って立ち上がりながらも、明らかに様子を変えたの顔を覗き込んで、決まり悪そうに言う。

「ちょっと刺激が強かったかな。ごめんね、怖くなった?」
「いえ……」
「そんなに心配しなくても、普段どおりに生活してれば、まず遭うことも見ることも無いから大丈夫よ。何てったって、向こうは所詮は日陰者だからね。お日様は眩しすぎるのよ」

ね、と明るい声を出して鷹揚にの肩を叩くと、じゃあもう行くねと女人は今度こそ踵を返しかける。は迷ったが、「あと一つ」と最後の質問を投げた。

「黒髪の、背の高い、実直そうな殿方に御心当たりはありませんか。ごく最近殿の御傍仕えに上がったと言う方なのですが」
「うーん…、最近、なら、ちょっとわからないかな。何せ、背が高くて実直な方しか供回りには召し上げられないしね」
「…そうですか」
「何? その人がどうかした?」
「いえ」

今度こそ「ありがとうございました」と腰を折るに、女は肩を竦めて話を切り上げた。速さはあるのに粗野ではない立ち去り方を最後まで見送りながら、は静かに眦を撫ぜる。
そうだ、忘れていた。太陽は眩しい。