05
大変な目に遭った。
竹箒を握り締めながら、城内の広い敷地内を無我夢中で走る。いつの間にか人通りも増えて、必死な形相で掻け去ってゆく新人を皆が不思議そうに見つめていたが、構う余裕すら無くは懸命に足を動かしていた。
「これ、!」
我武者羅な足がやっと止まったのは、もう慣れてきだした鋭い叱責が身をおし留めたからである。叩き込まれた条件反射が素早く反応して、はしたなく全力疾走していた背筋をピンと棒のように伸ばす。
振り仰いだ視界の先に、簀子縁から布団を何式も抱えたままの厳しい形相がに降り注いでいた。
「何度言えば判るのです!? 城内は走るために有るのではないとあれほど教えたでしょう! それになんです、もう表の掃除は終わったのですか? 随分早いようですけれど」
「あの、それなんですけど、えっと」
「はっきり言う!」
「はい!」
剣幕に押されて返事をしたものの、どう説明すればいいのかわからない。確かに掃除は途中で放り出している。けれどまさか城主様に轢き殺されそうになったので逃げました、などと弁明できるはずも無い。弱った。その苦悩がそのまま表情に出ていたらしく、の不穏な様子を嗅ぎ取った女中頭はおやと片眉を吊り上げた。
「なにかあったのですか?」
「! あ、あったといえば、あった、の、ですけど、その…」
弱りきって縮こまるに嘆息一つを返して、女は抱えていた布団一匹をよいせと持ち直す。
「全く、はっきりしませんね。よいから言ってみなさい。ただし、包み隠さずね」
「………」
「どうしました? 早くおし。それともまさか、言えぬ事でもあったというのですか?」
女中頭の声音にだんだんと苛立ちが目立ってくる。
いよいよ窮地に立たされたが持ち上げていた視線を彷徨わせかけた時、助け舟は意外なところから出された。
「お待ち下され、紀州様」
凛と響いた声音に振り返る二人の目に、足軽然とした身軽な若者がこちらへ駆けて来るさまが映る。
若鹿を思わせる颯爽とした足取りでの傍に並ぶと、女中頭にきっちりとした礼をとった。
「…そなたは? 見ぬ顔ですね」
「先頃、幸村様の傍仕えに召し上げられました者にござります。以後お見知りおきを」
「ほう。そのお前が、わたしに何用だね?」
「ご無礼お許しくださりませ。遠目から、こちらの娘御が御叱りを受けているのを拝見致しましたゆえ」
思いもよらぬ助太刀者にが目を丸くして怯えていると、見知らぬ若者は彼女を横目でちらと見たきり、またきっちりと女中頭を見る。
「先程、幸村様が搦手から帰還された折、馬が暴れてこの娘を跳ね上げかけたのです。忍頭殿が庇い立てられ事無きを得ましたが、若い女人には浅からぬ事態でしょう。どうか、ご配慮くださりませ」
「なんと…、それは真か? 」
息を呑んだ女中頭に水を向けられ、はやはり迷ったが、傍らの若者に酷く静かな視線を向けられて、結局は緩く頷いた。女中頭はのそんな態度に落胆とも驚きともつかぬ嘆息を返し、浅く首を振る。
「それならばそうと、早く説明すればよいものを…」
「お言葉ですが…」
「ええ、判っております。とても申し上げ難い内容ですものね。しかし、すまなかったね。わたしの配慮が足りなかったようだ」
「い、いえ、そんな…!」
おろおろと取り乱すに年嵩の女人は僅かばかりの苦笑を返し、それから掃除はもういいからと些細な内勤めの用事を言い渡して、若者に礼を言い、きびきびと去って行った。一連の出来事がまるで嵐のよう。頭がついていかないまま、がまだその場に呆然と立ち尽くしていれば、若者が傍からそっと離れてゆく気配がした。我に返って慌てて呼び止める。
「お、お待ちください!」
「…何か」
彫の深い端正な顔立ちにちらとの感情も浮かび上がらせず、青年は静かな瞳でを見つめた。若干の居心地悪さを感じながらも、庇ってくれたという動かしがたい事実が、そっとの背を押す。
「あの、わざわざありがとうございました。その、助けて頂いて」
「事実を申し上げたまで。礼を言われるには及びませぬ」
「…でも、助かりました」
硬い声音に恐怖はあったが、ぶっきらぼうな物言いは逆にその裏を読む必要がない。飾られない言葉に不思議に安堵して、気づけば少しだけ笑みが毀れていた。名も知らない若者はそんなを無言で見詰めていたが、やがて固く結ばれていた唇を動かす。
「これからは気をつけなさい。城内だからといえ、危険など何処にでもあるものだ」
窘めに近い注進にが笑顔を上げた。だが、重ねられた言葉にその花も無残に散る。
「そなた一人の命なら安い。だが、幸村様のご負担になる事はくれぐれもお控えなさるよう」
よいか、と念押しの言葉も硬く、あとは睨むような双眸がの見開かれた目に注がれて、若者は踵を返しさっさと立ち去った。は暫く動けなかった。
竹箒を握り締めながら、城内の広い敷地内を無我夢中で走る。いつの間にか人通りも増えて、必死な形相で掻け去ってゆく新人を皆が不思議そうに見つめていたが、構う余裕すら無くは懸命に足を動かしていた。
「これ、!」
我武者羅な足がやっと止まったのは、もう慣れてきだした鋭い叱責が身をおし留めたからである。叩き込まれた条件反射が素早く反応して、はしたなく全力疾走していた背筋をピンと棒のように伸ばす。
振り仰いだ視界の先に、簀子縁から布団を何式も抱えたままの厳しい形相がに降り注いでいた。
「何度言えば判るのです!? 城内は走るために有るのではないとあれほど教えたでしょう! それになんです、もう表の掃除は終わったのですか? 随分早いようですけれど」
「あの、それなんですけど、えっと」
「はっきり言う!」
「はい!」
剣幕に押されて返事をしたものの、どう説明すればいいのかわからない。確かに掃除は途中で放り出している。けれどまさか城主様に轢き殺されそうになったので逃げました、などと弁明できるはずも無い。弱った。その苦悩がそのまま表情に出ていたらしく、の不穏な様子を嗅ぎ取った女中頭はおやと片眉を吊り上げた。
「なにかあったのですか?」
「! あ、あったといえば、あった、の、ですけど、その…」
弱りきって縮こまるに嘆息一つを返して、女は抱えていた布団一匹をよいせと持ち直す。
「全く、はっきりしませんね。よいから言ってみなさい。ただし、包み隠さずね」
「………」
「どうしました? 早くおし。それともまさか、言えぬ事でもあったというのですか?」
女中頭の声音にだんだんと苛立ちが目立ってくる。
いよいよ窮地に立たされたが持ち上げていた視線を彷徨わせかけた時、助け舟は意外なところから出された。
「お待ち下され、紀州様」
凛と響いた声音に振り返る二人の目に、足軽然とした身軽な若者がこちらへ駆けて来るさまが映る。
若鹿を思わせる颯爽とした足取りでの傍に並ぶと、女中頭にきっちりとした礼をとった。
「…そなたは? 見ぬ顔ですね」
「先頃、幸村様の傍仕えに召し上げられました者にござります。以後お見知りおきを」
「ほう。そのお前が、わたしに何用だね?」
「ご無礼お許しくださりませ。遠目から、こちらの娘御が御叱りを受けているのを拝見致しましたゆえ」
思いもよらぬ助太刀者にが目を丸くして怯えていると、見知らぬ若者は彼女を横目でちらと見たきり、またきっちりと女中頭を見る。
「先程、幸村様が搦手から帰還された折、馬が暴れてこの娘を跳ね上げかけたのです。忍頭殿が庇い立てられ事無きを得ましたが、若い女人には浅からぬ事態でしょう。どうか、ご配慮くださりませ」
「なんと…、それは真か? 」
息を呑んだ女中頭に水を向けられ、はやはり迷ったが、傍らの若者に酷く静かな視線を向けられて、結局は緩く頷いた。女中頭はのそんな態度に落胆とも驚きともつかぬ嘆息を返し、浅く首を振る。
「それならばそうと、早く説明すればよいものを…」
「お言葉ですが…」
「ええ、判っております。とても申し上げ難い内容ですものね。しかし、すまなかったね。わたしの配慮が足りなかったようだ」
「い、いえ、そんな…!」
おろおろと取り乱すに年嵩の女人は僅かばかりの苦笑を返し、それから掃除はもういいからと些細な内勤めの用事を言い渡して、若者に礼を言い、きびきびと去って行った。一連の出来事がまるで嵐のよう。頭がついていかないまま、がまだその場に呆然と立ち尽くしていれば、若者が傍からそっと離れてゆく気配がした。我に返って慌てて呼び止める。
「お、お待ちください!」
「…何か」
彫の深い端正な顔立ちにちらとの感情も浮かび上がらせず、青年は静かな瞳でを見つめた。若干の居心地悪さを感じながらも、庇ってくれたという動かしがたい事実が、そっとの背を押す。
「あの、わざわざありがとうございました。その、助けて頂いて」
「事実を申し上げたまで。礼を言われるには及びませぬ」
「…でも、助かりました」
硬い声音に恐怖はあったが、ぶっきらぼうな物言いは逆にその裏を読む必要がない。飾られない言葉に不思議に安堵して、気づけば少しだけ笑みが毀れていた。名も知らない若者はそんなを無言で見詰めていたが、やがて固く結ばれていた唇を動かす。
「これからは気をつけなさい。城内だからといえ、危険など何処にでもあるものだ」
窘めに近い注進にが笑顔を上げた。だが、重ねられた言葉にその花も無残に散る。
「そなた一人の命なら安い。だが、幸村様のご負担になる事はくれぐれもお控えなさるよう」
よいか、と念押しの言葉も硬く、あとは睨むような双眸がの見開かれた目に注がれて、若者は踵を返しさっさと立ち去った。は暫く動けなかった。