04

想像したとおり、城内での暮らしは今までの比ではない位に目まぐるしいものだった。持ち回りの規模が倍になった分人手も余るほどなのだが、如何せん新参者という足枷がの身に降り注いでいた。先輩女中に細々とした雑務を渡されて、加えてそもそもの役回りもこなさねばならない。平行して行儀作法も口煩く窘められるのだから、只でさえ物覚えの悪いの頭は煙が上がりそうな勢いだった。走り回らねば到底片付けられない仕事の量、しかし走れば方々から小言が飛ぶ。一体全体先輩方はどうやってこの量の仕事を片付けられるのか不思議で堪らなかったが、それは己の要領の悪さが原因だろうと嘆息一つで諦めることにした。まるで戦のように目まぐるしい日が矢のように過ぎて、気がつけば桜は満開の時期を過ぎ、萌える緑が顔を出す頃が近づいていた。
此処数日来は雨模様が続き、最後の花吹雪は淡くも地に落ちて、その最後としていた。漸くの晴天の下では、茶けた端の斑でさえ妙と成るから不思議である。初夏前の眩しい太陽の下、濠の水面には雲母がさんざめく。その麗らかさとは裏腹に、は戦々恐々として箒を動かしていた。
先輩女中は肌を大事にし、とりわけ指先が荒れるからと家事炊事などの水仕事を嫌った。室内での作業場は薄暗く、は進んでその仕事を引き受けていたのだが、ささやかな幸福は長く続かない。彼女たちが密かに持ち回りを交代していることに女中頭が気づいたのだ。この行動を新参者へのあてつけと勘違いした気のいい女人は、早速に負担の少ない掃き掃除を言い渡し、弁明する先輩女中らを追い遣って奥へと消えた。こちらの言い分は聞いて貰えぬままの、あっというまの強行だった。
人の通りが多い処は後回しに、まずは人気とは無縁の、搦手門周辺から片付けることにした。思ったとおり閑散としているが、丁寧に手入れされた生垣に日除けとなるような隙は無い。枳殻の先鋭な影が僅かに足元に落ちるばかりで、均された土ですら陽の光を弾いて眩しい。早く片付けようと、俯いたまま素早く竹箒を動かす。掃き掃除といっても、落葉樹のあまりない城内は端に溜まる屑を掻けばそれで仕舞いである。はひたすら黙々と作業に没頭していた。
どれくらい経っただろうか。ふいに、静かだった辺りに人のざわめきが聞こえた気がして、伏せていた顔を上げた。周囲を見回せど、広い道沿いに人っ子一人見当たらない。気のせいか、とまた視線を手元に戻したとき、不意に地鳴りのような音を立てて、堅く閉ざされていた搦手門が開いた。
はっと身を竦めるの前、開門先は新緑に包まれた深い森の狭間で、その先から高い嘶きと人々のざわめきが一緒くたになってまず届いた。竦む視界の先、鼻面から蒸気のように荒い息を噴出して、獰猛な四本足の獣が真直ぐに目指して迫り来る。避けなければ、と叱咤する思考とは裏腹に、四肢は全く言うことを聞かない。思う間にも、白銀に輝かんばかりの暴れ馬は距離を詰める。
鼻先を凶悪な蹄が掠めそうになるほぼ同時に、身体は宙を舞った。
咄嗟に撥ねられた、と思うが、身体の何処も痛みは無い。寧ろ暖かい感触が背と膝裏に回り、場違いともいえる不思議な安堵が込み上げていた。視界一杯には近頃忘れかけていた一面の青空。濃い藍ではなく、抜けるように冴え冴えとした一枚の青地のようだった。
目も眩むその景色に、ふと影が差す。同時にがくんと衝撃が突き抜けた。呆けて開きっぱなしだった口が閉じて、思わず舌を噛む。呻く。温もりに力が加わった。

「…大丈夫?」

青の次に目を貫いたのは緋色。照りつける太陽を背に、逆光の中あらぬ方を見つめたままに問うた男の髪は、燃え盛る炎の色だった。





「真にすまぬことをした! この通りだ! 許せ!」
「い、いえそんな、滅相もありません…!!」
「怪我が無かったから良いようなものの…まさか女子を危ない目に合わせるなど、武士として言語道断! この失態、如何にして償えばよいのやら…!」
「ほ、ほんっ、本当に何とも無いのです、この通り、ぴんぴんしてるんです! ご、後生でございますから、やめてくださいませお願いです殿…!!」

五体満足で地に戻ったは、状況が飲み込めず暫し呆然としていた。するとふと、軽くも重くも無い掌がそっと彼女の頭を地に押し付ける。何が何やらわからぬまま、殿、という周囲の声音と騒動に気圧されていれば、土しか見えない視界にふっと影が差す。それからは若い男の声が続いて、彼女の心臓をこれ以上なく縮み上がらせていた。
馬を御しかねてあわや女中見習いを引き倒しかけた上田城主君は、三拝九拝、熱心に己の失態を詫びていた。まさか奉公先の一番偉い人にこれほどまでに詫びられるなど思いも寄らなかったは、殆ど泣きそうになりながら平伏して、顔も見えない相手に対して震え上がっていた。しかも、御互いが御互いの立ち回りをそのまま土くれの上で繰り広げているのである。助け舟は早々に繰り出された。

「旦那、それくらいにしときなって。困ってるでしょ、その子」

先程を庇ってくれた燃え立つような赤毛の男だ。妙に馴れ馴れしい態度で、しかも溜息混じりに城主を窘める。だが当の本人は気にした風も無く、どころかその小馬鹿にしたような仲裁に更に狼狽した様子で忙しなく身を揺すった。

「むっ! そ、そうか!? いやしかしここで誠意を見せねばだな…!」
「じゅ、充分頂戴致しました! 何よりこの身はそう大層なものでもございません…っ!」
「ほら、本人がああ言ってるんだ。いい加減立ちなよ、仮にも城主でしょアンタ」

ぞんざいに言い遣って、城主より幾分か年上だろうその男は、無理やりに青年の腕を取って立ち上がらせた。そのまま視線が動き、ひどく詰まらなさそうな目がを見る。目端だけで立てと促されていることに気づいて、慌てても立ち上がった。その後はもう見向きもせず、城主から手を離して距離をとる。
改めて、真田源二郎信繁が、未だ顔を上げすらせず、俯いたまま縮こまるに向き直った。

「本当に怪我は無いのだな?」
「はい……あの、そちらの方の、お陰で…」

ありがとうございました、とどもりながら深くお辞儀するにも、やはり興味なさそうな一瞥と浅い頷きだけを寄越して、男は見たこともないような柄意匠の装束を翻して主君に声をかける。

「じゃ、そういうことで旦那。俺様一足先に大将んとこ行くわ。何か託は?」
「うむ、この女子を奥に届けてから参る故、聊か遅れるやもとお伝えしてくれ。そう遅くはならぬと思うが」
「はぁ?」

主君の台詞に対して、赤毛の男がの気持ちを大いに代弁してくれた。とんでもないことだ。これ以上こっちの心臓を痛めつけるのは止めて欲しい。
男は顎でを指し示して、苛々と真田家当主に食って掛かった。

「正気かよ。何もアンタがそこまでする必要は無いでしょ」
「だが、当たり前だが動揺はしている。この分だと、先の仕事に支障も出よう。すると彼女が叱られてしまうだろう? ならば俺が出向いて事情を説明するのが一番早い」
「だから、それが」
「あ、あの!」

徐々に沸騰を見せた口論を押し留めたのは、の思い切った大声だった。咄嗟に叫んでしまった所為か、思ったよりも高く大きくよく響く。男二人の視線を旋毛に受けて彼女の心は挫け掛けたが、怯むものかとぐっと活を入れなおし、不遜にならないよう盛大に腰を折り曲げた。

「わ、わたくしめの事でしたら本当に御気に為さらずとも結構でございます! 女中頭にもきちんとご報告致しますし、先の仕事に不都合など寄越しません。で、ですからどうか、殿、あの、どうぞ…、えっと、その」

敬語なんてまだあやふやだ。精一杯に乏しい知識を総動員するが、結局は相応しい結びの言葉が見当たらなくて空回りになる。恥ずかしさと恐怖で頭が一杯になりながら、二人の反応が見たくなくて、結局はまた盛大な大声を上げた。

「失礼致します!」

あとはもう、仕舞いも見ずに駆け出した。最後の意地で、放りっぱなしだった竹箒はきちんと回収しながら。





「…変わった女子だな」

幸村が首を傾げつつ言うのに、後ろに控える男はやれやれと肩を竦めるに留める。

「実際何も無かったんだから、もういいでしょ。忘れなよ。たかが女中見習い一人に、アンタの心を砕いてやる暇なんか無いよ」
「まぁ、それはそうだが…」

幸村は振り返り、一の家臣の男の顔をまじまじと見た。無論、見つめられた方は溜まったものではない。居心地悪そうに顎を引いて、怪訝を隠さず眉をひそめる。

「何」
「いや、珍しいものだと思ってな。お前が女子相手にあまり容赦ないのは」
「ああ」

合点が言ったのか、男はフンと鼻を鳴らして大仰に手を広げた。漆黒の鉤爪を片時も外さない、猛禽のような腕が地に長い影を作る。

「俺、嫌いなんだよね。あの手の目つき」
「何だ?」
「見たでしょあの子の顔。俺の髪見て、化け物見つけたようなツラしてたよ」

大方また女中連中相手に尾ひれ羽ひれつけて言い触らされるんだ、いい迷惑だよ。
それだけ言うと男はくるりとその場で回転し、じゃね、と言い残し、己の影の中に沈み込むようにして消える。トプン、と水がたゆたう音を残して、漆黒の染みも土に融け入った。城主は暫く染みのあったあとを見つめていたが、やがて視線を上げて、今度は少女が消えた先を見る。そのまま立ち尽くし、思案に暮れたのもまた束の間。やがては彼も傍仕えを近くに呼び、土に汚れた身なりを正すべく居住へと歩を進めた。