03

世話になった村から上田城への道のりはそう距離のあるものではなく、出発後一夜だけ宿を乞うた後に呆気なく到着した。初めて目の当たりにする城下町の賑やかさに目を廻している内に一の門を越え、めでたく城内へと足を踏み入れる。夜を明かした商家にて、それまで身に着けていた薄汚れた小袖を脱ぎ真新しい仕事着に着替えてはいたものの、古着にしか袖を通したことの無い身は、如何にも服に着られている気がして落ち着かない。加えて、城内を行く先輩女中の所作や立ち居振る舞いの優雅さ、あちこちで目に付く装飾の美しさに圧倒され、更に気が滅入り、下を向いて歩くばかりであった。こんなところに一人で、暮らしてゆく自信など全く無い。今すぐにでも逃げ出したい気持ちを何とか押さえつけて、は前を行く頼もしい女中頭の背だけを頼りに進んでいた。

「上田の現ご当主は、先頃代替わりをされたばかりの御方です。御名を存じておりますか」
「は、えと、たしか、真田源二郎信繁様…、だと」
「左様。まぁ弁えておいででしょうが、一応申し付けておきましょうね。決してその御名を口には成してはいけませぬ。我らは皆一様に"殿"と御呼び致しております。もちろんお前も必ず従うこと。よいね」
「はい」
「よろしい。それからあともう一つ」

振り返りもしないまま言う女の声は相変わらず通りがよい。それほど大きくない筈なのに、発音がしっかりしている所為かよく通る。が視線だけで先を待つ気配を渡すと、女は渡廊を超えながら続ける。

「殿方らに"幸村様"のことを尋ねられた場合は、殿のことであると考えて結構です。呼び名が混在しておりますから、咄嗟の判断に澱みを齎さないよう注意なさい」
「幸村、さま」
「そうです。まだ御若い方ゆえ、気安いものは皆そう御呼び致して居るのです。風紀が乱れるというのに、ちっともお耳を貸しては下さらぬがね」
「…御若いのですか」

てっきり城主などという生き物は、皆一様にたっぷりと髭と白髪を蓄えた老成たる人物が相場と決め込んでいたが、訊けばとそう歳は変わらぬ若さだという。先程からの居心地悪さも忘れ、仰天してぽっかりと口を開け未だ見ぬ城主を思う。一目だけでも見てみたい。そのの気持ち運びを敏感に察して、女中頭はため息交じりに新参者を諭した。

「余計なことを考えぬことです。まずお前が成さねばならぬのは、一日でも早く城の仕事に慣れること、それからそのはしたない口を面に出さぬすべを身に着けることです」

思惑は数瞬で破られ、ぴしゃりと叱られたは慌てて口を閉じぶんぶんと頷いた。小娘より何枚も上手の彼女はまるで背中に目があるように、よろしい、とだけ呟いて、更に歩を強めた。





ひとまずの顔合わせのために準備が必要とのことで、はまず女中たちが使う相部屋へと通された。日が高いうちは何処であっても仕事が多い。部屋には誰も居らず、開け放された襖障子から燦々と陽の光が差し込むばかりだった。相部屋は四人使用のようで、十二畳ほどの室内を梅と鶯の描かれた屏風で巧みに区切っている。一区域だけ、がらんどうとした空間があり、はそこを自分の陣地と決め込んで、ひとまず所在投げに座り込んだ。何しろ、「大人しく待つように」、とだけ言い置いて、女中頭は既に姿を消している。物音といえば庭園の雪柳を撫で、白雪のような花弁を散らす微風だけの室内で、着慣れない設えたばかりの小袖に重く圧し掛かられながら、無為に板敷きの木目を指でなぞり、時を稼いでいた。
じき、それも飽きる。

「…暇だな」

本格的に城での仕事が始まればそんなことも言ってられなくなるのだろう。しかし今、何もせず待たされるだけの身は確かに時を弄んでいる。きょろきょろと辺りを見回せば、仕切りの先の陣地内に、布の掛けられていない鏡台が見えた。豪奢な黒檀で出来た行李の上にぽんと載る丸鏡に、間抜けで不安そうな小さい顔が映っている。思わずにじり寄って、まじまじと覗き込む。天気がよいとはいえ、室内の薄暗さでは異形の目も幾分大人しい色をしている。改めて確認ができて、思わずほっと胸を撫で下ろした。これなら伏せ目がちに居さえすれば、当分はやり過ごせるかもしれない。
生まれた時から不思議な色をしていた。物心ついた頃から、水鏡に映る自分の両眼が尋常ではないと悟り、なるべく大人しく振舞ってやり過ごしてきた心算だった。けれど、他人とは明らかに異なる特徴というものは、どうしたって周囲がそっとしておいては呉れない。日中を伏せ目がちでやり過ごすに気づくものは、遅からずこの異端にも気づいて、恐々といった表情で遠巻きにこちらを伺うのだ。まさか、鷹より鋭い目を持っていたり、人の心が読めたり、幽霊が見えたりするなど、不思議な力があるわけではない。けれど、ならば自分が魔性のものではないと言い切れるかといえば、それは判らないのだ。
父親が死の間際に吐いた、まるで呪詛のような懺悔。何度も殺されかけ、捨てられかけ、その度に今はもう居ない兄に助け出されていたという過去。記憶にひとかけらも残っていない当時を思い出そうと目を閉じても、脳裏に蘇るのは両親や兄弟たちの他愛ない笑顔、そして、目を覆い身を焼いたあの炎の海だけだった。果たして本当にそんな過去があったのだろうか。本当に、夢のように頼りない面影の兄は存在するというのだろうか。今はもう生きているのかすら怪しい唯一の肉親に会いたいという気持ちは同時に、善良に見えた両親に疎まれていたという真実を認めるということだった。否定したい、しかし諦めきれない。繰り返し訪れる懊悩の果てに全てを投げ出したい衝動に駆られても、その度にこの両の瞳が静かに映る。
兄もきっと、この眼を持って生れ落ちたのだろう。何の変哲もない只の人から異形の目を持つ子供が生まれれば、畏怖するのも無理は無いのかもしれない。より先に生まれた分、兄がどのような扱いを受けていたのかは想像に余る。それでも尚、彼は自分よりを庇ってくれていたのだ。殺されかける度、捨てられかける度、幼いの手を引いて、きちんと家まで連れ帰ってくれた。面影や名さえ忘れても、皮膚にだけは残っていたあの手の感触は、まさしく兄そのものだったのだ。黄泉に投げられた幼子の命を掬い上げる唯一の糸。
その彼が如何して突然居なくなってしまったのか、如何してを置いていってしまったのか。考えうる最悪の末路は常に付き纏う。けれど、を疎んだという父は、その娘を育て上げ、最期には彼女を庇い、呪いの言葉を吐きながら、燃え盛る瓦礫からその身体を押し出した。ならばきっと、兄だって。

「…逢いたいな」

逢って礼が言いたい。忘れてしまったことを謝りたい。喪った空虚さを補いたい。砂漠に落とした針を探す如く、途方も無い願いだということは理解している。けれど、募る思いは同時に唯一の心の拠り所となった。思い出を思い出として思い出すには、はまだ幼かったのだ。