02
無我夢中で走り、逃げたは、結局そう離れていない風上方の村に辿り着いて助かった。ひとまず庄屋の屋敷に保護され、衰弱と動揺の激しい心身に手厚い看護を受ける。一晩走りに走ったとはいえ、所詮は女の足での距離だ。そう遠くない此処も遅からず強襲されると見て相違ないと村中で警戒していたが、以後新たに焼き討ちが有ったとか、織田軍の搾取が行われたなどの報が届くことはなかった。十日経ち、二十日経った所で、結局あの焼き討ちは行軍中の気まぐれに過ぎなかったのだと結論が出る。一夜にして故郷すら失った娘を除いて、近隣の住民はほっと胸を撫で下ろした。
行く当ての無いは、結局傷が癒えた後に庄屋の御隠居の元へ女中として引き取られた。裕福で気のよい主人は既に子供らを育て上げて、役目は終わったとばかりに村はずれの屋敷にてひっそりと余生を送っていた。あまり傍に人を置きたがらない性分なのか、その規模に反して小間使いは必要最低限しかいない。よって、こなさねばならないことは沢山あり、は毎日朝から晩まで働き詰めの日々を送った。それが救いだった。暇な時間が出来れば考えてしまう。考えれば思い出して、思い出せば恋しくなる、悲しくなる。何故、如何して、生きていただけなのに、死ななければならなかったのだろう。今更答えの出ない思考の海に呑まれまいと、は一層懸命に働いた。隠居は何も言わず、張り詰めた華奢な身体を気遣いつつも、見守るに留めた。出来ることといえば、この可哀想な娘に時折声をかけてやることぐらいだった。
癒え切らない傷を抱えたまま冬が終わり、春が来た。十六と少しを過ぎたに上田城へ奉公に上がる誘いがかかったのは、白蓮と辛夷が散り、そろそろ桜が綻ぶ頃合だった。
支度が済んだら声をかけるように、と迎えに寄越された年嵩の女が玄関先で言った。支度も何も、私物といえば仕事着の粗末な小袖と割烹が一着ずつ位の身軽さである。決まり悪そうに左右を見回してから、上目遣いにが言う。
「あのぅ…」
「何です」
「わたし、行儀作法も何も身については居りません。ここで御世話になっているのだって、偏に庄屋様の御情けによるものでして…」
「存じておりますとも。村方三役から粗方のことは聞きましたからね。それがなにか?」
「いえ、その、でも」
ハキハキとものを返してくる女の勢いに押され、が身振り手振りで混乱を表していると、恐らく女中頭であろうその女は豪快に笑った。
「城内奉公に通用する行儀作法など、村娘が知らなくて当たり前のことです。それを今から学ぶために城に上がるのですよ。それとも何か、お前は城内勤めが厭だとでも?」
「め、滅相もありません!」
「ならばよいであろう。さ、早く支度をおし。今日中に方々へ挨拶に伺う心算だからね」
言うなりくるりと踵を返し、さっさと門代わりの生垣を越えて外へ出て行ってしまった。は途方に暮れつつも、ひとまず立ち上がって、ふうと息を吐きつつ踵を返した。支度というほど大仰なものは必要ない。けれど、別れの挨拶を済ますにはちょうどよい余暇である。今回のことは御隠居たっての推挙によって決定したとのことだが、はあまり気乗りしていなかった。同じ年頃の娘が聞けば気でも違ったかと思われるかもしれないが、如何せんよそ者であるは、近頃やっとこの村での暮らしに慣れた頃合だったのだ。それを、また住み替えなければならない。見知らぬ土地は恐ろしくて淋しい。それに、きっとあの女人はの目のことについては何も知らないのだろう。父親が恐ろしいといったこの目は、暗いところで見れば少し明るいくらいの黒褐色である。けれど何か強い日差しを享けた時に見るその眼球は、かつての形容通りまさしく炎となる。紅葉でも柿でも、ましてや血でもない。大気を吸って躍り上がる原初の色。これを不吉といい、それでもいいと言ってくれた人に、また別れを告げねばならないのだ。
「や」
声を掛けられて振り返れば、濡れ縁伝いに隠居が居て、微笑みながらを手招いていた。呼ばれていると気づくやいなや、パタパタと子犬のように駆けてくる彼女を見て、隠居はすっかり弱くなった双眸を柔和に細める。
「村の皆への挨拶は済んだのかい」
「はい、先程。今はお迎えの方に支度をするようにと仰せ付かったのですが、何をすればいいのか検討がつかないものですから…」
考えながら歩いておりました、すみません、と申し訳なさそうに言う彼女に、隠居は呵呵、と笑いを返す。
「そうさな、それは困ったな。生憎わしも、年頃の娘がどのようなものを好むのか、とんと見当がつかなかった。お前には悪いが、適当に見繕わせて渡してあるぞ。気に入らなくても許しておくれ」
「? 何をですか?」
「城へ奉公に上がる娘が、まさか着の身着のままというわけにも行くまいて」
そういえばやっと合点が言ったのか、白い顔を興奮で紅くして、またすぐに青く染めかえると、は無意味に両腕を忙しなくバタつかせた。
「え、えっ!? ご、御隠居さま!? ま、まさかわたしに何ぞ御恵みを…!?」
「年寄りの道楽に付き合うて呉れた礼じゃよ。あとは、お前が立派に生きれるように、餞も込めてな」
「そんな! わ、わたし、ご恩返しもまだ…!」
「いいや、もう充分貰った」
どっこいせ、と掛け声一つ、熱の通わない簀子の上に腰を下ろす。視線は下がるにつれてまだ黄色い花を綻ばせる山茱萸を見、やがて狼狽したままのの元へ戻ってくる。
「短い間だったが、孫に面倒を見て貰っているようで、楽しかったよ。お前がいなくなるのは寂しいが、こればっかりは仕方が無い。達者でな」
淡々とした言葉は内容ほど重くなく、その所為か、思っても見なかった餞別に動揺していたの心はまたゆっくりと沈んでゆく。老人の視線はまた娘から離れて、手水鉢に湛えられた水影が春の陽にうつろう様を眺めていた。水面は温んで、吹き落ちた花弁が浮かんでいる。は一度唇を湿らせてから、恐る恐ると口にした。
「わたしはやはり、行かねばならないのでしょうか…」
「行きたくないのか」
隠居が穏やかに尋ねると、は俯きながら頷いた。そんな彼女は見ずに笑って、枯れた首を静かに首を振る。
「贅沢を言ってはいけないよ。身寄りの無いお前が、まさか城主様の御傍に控えられるというのだ。ひとまずの落ち着き先として、これほどのことは無い」
「わかってます、でも」
「怖いか?」
枯れた手が持ち上がってきつく握り締められていたの手をとった。痩せて老い寂びた冷たい手が、酷使の果てに荒れ果てた小さな手を優しく握り締める。
「それとも不安か。他人に紛れて生きるのが恐ろしいか。その目がまた、災いを呼ぶのが見えるのか」
未だ幼さの残る面が容赦ない指摘に歪む。陽の光を背に享ける今こそ薄茶を帯びるこの異端は、人の負の感情を呼び寄せるだろう。それでもなお、隠居は行けという。だが単純にこの翁に疎まれていると思うほど、は浅はかではない。けれどそんなものだと割り切れるほど、大人でもなかった。ただ選ぶ余地の無い道行に悲しむことも出来ない。
「哀れなものよ」
の掌を離れた指先が、不安に揺れる少女の眦をなぞる。
「だがそれでもお前はただの娘ぞ。ただの娘が何時までも、死にゆくばかりの老いぼれと暮らしていてはいけない。それはお前が一番よく判っているだろう」
「御隠居様」
「行きなさい」
ぴしゃりと言われて、は募りかけた言葉を霧散させて口を噤んだ。もうどうしようもないのだ。当たり前のことが繰り返し繰り返し、寄せては返す波となり、胸の内に押し寄せる。仕舞いに、は残る隠居の掌をゆっくりと振りほどいて三歩下がり、無言のまま深々と腰を折ってお辞儀した。突風が吹けば飛ばされそうなほど頼りない華奢な身体を見つめながら、老人は一つ頷いて「達者でな」と言葉を重ねる。短い別れの儀式だった。
行く当ての無いは、結局傷が癒えた後に庄屋の御隠居の元へ女中として引き取られた。裕福で気のよい主人は既に子供らを育て上げて、役目は終わったとばかりに村はずれの屋敷にてひっそりと余生を送っていた。あまり傍に人を置きたがらない性分なのか、その規模に反して小間使いは必要最低限しかいない。よって、こなさねばならないことは沢山あり、は毎日朝から晩まで働き詰めの日々を送った。それが救いだった。暇な時間が出来れば考えてしまう。考えれば思い出して、思い出せば恋しくなる、悲しくなる。何故、如何して、生きていただけなのに、死ななければならなかったのだろう。今更答えの出ない思考の海に呑まれまいと、は一層懸命に働いた。隠居は何も言わず、張り詰めた華奢な身体を気遣いつつも、見守るに留めた。出来ることといえば、この可哀想な娘に時折声をかけてやることぐらいだった。
癒え切らない傷を抱えたまま冬が終わり、春が来た。十六と少しを過ぎたに上田城へ奉公に上がる誘いがかかったのは、白蓮と辛夷が散り、そろそろ桜が綻ぶ頃合だった。
支度が済んだら声をかけるように、と迎えに寄越された年嵩の女が玄関先で言った。支度も何も、私物といえば仕事着の粗末な小袖と割烹が一着ずつ位の身軽さである。決まり悪そうに左右を見回してから、上目遣いにが言う。
「あのぅ…」
「何です」
「わたし、行儀作法も何も身については居りません。ここで御世話になっているのだって、偏に庄屋様の御情けによるものでして…」
「存じておりますとも。村方三役から粗方のことは聞きましたからね。それがなにか?」
「いえ、その、でも」
ハキハキとものを返してくる女の勢いに押され、が身振り手振りで混乱を表していると、恐らく女中頭であろうその女は豪快に笑った。
「城内奉公に通用する行儀作法など、村娘が知らなくて当たり前のことです。それを今から学ぶために城に上がるのですよ。それとも何か、お前は城内勤めが厭だとでも?」
「め、滅相もありません!」
「ならばよいであろう。さ、早く支度をおし。今日中に方々へ挨拶に伺う心算だからね」
言うなりくるりと踵を返し、さっさと門代わりの生垣を越えて外へ出て行ってしまった。は途方に暮れつつも、ひとまず立ち上がって、ふうと息を吐きつつ踵を返した。支度というほど大仰なものは必要ない。けれど、別れの挨拶を済ますにはちょうどよい余暇である。今回のことは御隠居たっての推挙によって決定したとのことだが、はあまり気乗りしていなかった。同じ年頃の娘が聞けば気でも違ったかと思われるかもしれないが、如何せんよそ者であるは、近頃やっとこの村での暮らしに慣れた頃合だったのだ。それを、また住み替えなければならない。見知らぬ土地は恐ろしくて淋しい。それに、きっとあの女人はの目のことについては何も知らないのだろう。父親が恐ろしいといったこの目は、暗いところで見れば少し明るいくらいの黒褐色である。けれど何か強い日差しを享けた時に見るその眼球は、かつての形容通りまさしく炎となる。紅葉でも柿でも、ましてや血でもない。大気を吸って躍り上がる原初の色。これを不吉といい、それでもいいと言ってくれた人に、また別れを告げねばならないのだ。
「や」
声を掛けられて振り返れば、濡れ縁伝いに隠居が居て、微笑みながらを手招いていた。呼ばれていると気づくやいなや、パタパタと子犬のように駆けてくる彼女を見て、隠居はすっかり弱くなった双眸を柔和に細める。
「村の皆への挨拶は済んだのかい」
「はい、先程。今はお迎えの方に支度をするようにと仰せ付かったのですが、何をすればいいのか検討がつかないものですから…」
考えながら歩いておりました、すみません、と申し訳なさそうに言う彼女に、隠居は呵呵、と笑いを返す。
「そうさな、それは困ったな。生憎わしも、年頃の娘がどのようなものを好むのか、とんと見当がつかなかった。お前には悪いが、適当に見繕わせて渡してあるぞ。気に入らなくても許しておくれ」
「? 何をですか?」
「城へ奉公に上がる娘が、まさか着の身着のままというわけにも行くまいて」
そういえばやっと合点が言ったのか、白い顔を興奮で紅くして、またすぐに青く染めかえると、は無意味に両腕を忙しなくバタつかせた。
「え、えっ!? ご、御隠居さま!? ま、まさかわたしに何ぞ御恵みを…!?」
「年寄りの道楽に付き合うて呉れた礼じゃよ。あとは、お前が立派に生きれるように、餞も込めてな」
「そんな! わ、わたし、ご恩返しもまだ…!」
「いいや、もう充分貰った」
どっこいせ、と掛け声一つ、熱の通わない簀子の上に腰を下ろす。視線は下がるにつれてまだ黄色い花を綻ばせる山茱萸を見、やがて狼狽したままのの元へ戻ってくる。
「短い間だったが、孫に面倒を見て貰っているようで、楽しかったよ。お前がいなくなるのは寂しいが、こればっかりは仕方が無い。達者でな」
淡々とした言葉は内容ほど重くなく、その所為か、思っても見なかった餞別に動揺していたの心はまたゆっくりと沈んでゆく。老人の視線はまた娘から離れて、手水鉢に湛えられた水影が春の陽にうつろう様を眺めていた。水面は温んで、吹き落ちた花弁が浮かんでいる。は一度唇を湿らせてから、恐る恐ると口にした。
「わたしはやはり、行かねばならないのでしょうか…」
「行きたくないのか」
隠居が穏やかに尋ねると、は俯きながら頷いた。そんな彼女は見ずに笑って、枯れた首を静かに首を振る。
「贅沢を言ってはいけないよ。身寄りの無いお前が、まさか城主様の御傍に控えられるというのだ。ひとまずの落ち着き先として、これほどのことは無い」
「わかってます、でも」
「怖いか?」
枯れた手が持ち上がってきつく握り締められていたの手をとった。痩せて老い寂びた冷たい手が、酷使の果てに荒れ果てた小さな手を優しく握り締める。
「それとも不安か。他人に紛れて生きるのが恐ろしいか。その目がまた、災いを呼ぶのが見えるのか」
未だ幼さの残る面が容赦ない指摘に歪む。陽の光を背に享ける今こそ薄茶を帯びるこの異端は、人の負の感情を呼び寄せるだろう。それでもなお、隠居は行けという。だが単純にこの翁に疎まれていると思うほど、は浅はかではない。けれどそんなものだと割り切れるほど、大人でもなかった。ただ選ぶ余地の無い道行に悲しむことも出来ない。
「哀れなものよ」
の掌を離れた指先が、不安に揺れる少女の眦をなぞる。
「だがそれでもお前はただの娘ぞ。ただの娘が何時までも、死にゆくばかりの老いぼれと暮らしていてはいけない。それはお前が一番よく判っているだろう」
「御隠居様」
「行きなさい」
ぴしゃりと言われて、は募りかけた言葉を霧散させて口を噤んだ。もうどうしようもないのだ。当たり前のことが繰り返し繰り返し、寄せては返す波となり、胸の内に押し寄せる。仕舞いに、は残る隠居の掌をゆっくりと振りほどいて三歩下がり、無言のまま深々と腰を折ってお辞儀した。突風が吹けば飛ばされそうなほど頼りない華奢な身体を見つめながら、老人は一つ頷いて「達者でな」と言葉を重ねる。短い別れの儀式だった。