第二十八話


 修羅界は、一言で言うと派手な世界だった。
 地獄は多種多様な魑魅魍魎が混沌と入り混じり、たいそうにぎやかなところであるが、景色はどこか色彩に欠ける水墨画のような世界だ。修羅界はまさにその逆、極彩色の花があたり一面に咲き乱れ、その上を黄金の雨がしずしずと降り、止み、虹が出るまでの夢のような光景を延々と繰り返している。しかし生き物の気配は乏しく、動物や、昆虫すらもまず見かけない。それもそのはず、ここでは目に入るもの全てが猛毒を孕んでいるからだ。花は勿論、土ですら長く触れると危うい。あちこちにある澄んだ泉に手でも差し入れれば、鬼ですらものの一分ほどでのた打ち回る、修羅界はそういう、なんともあべこべな世界なのである。曰く、創生者である阿修羅が持つ天の摂理と修羅の業が交じり合ってこうなったらしい。
 阿修羅王の屋敷は表向き殺風景だが、奉公人は男女とも数多い。だが聞けば、屋敷にいる人数の数倍以上が戦地に赴いていて不在だという。色町の衆合に長く居たとはいえ、平和な田舎生まれの娘に戦、という概念はどこか遠い。だが、彼らの雰囲気の多くは大江山にいた男どもに似ていて、粗野だが大らかで気安く、何でもあけすけな為話はしやすかった。炊事洗濯掃除に裁縫、男性では難しいこまごましたことはすべて女手でこなさなければならない。目の回るような忙しさだったが、逆にそれがありがたかった。暇が出来れば考えてしまう。考えれば、思い出して辛くなる。
 自分は逃げ出したのではない。いや、やはり、逃げたのだ。
 その両極端な気持ちを振り切るようにして、日々与えられた仕事に精を出していた。そして時は矢のように過ぎ、気づけば、いつのまにかヒトを辞めて二千年が過ぎていた。






「…茨木童子は二人いた、と」

 低く、わずかに掠れた鬼灯の声が夜陰に紛れ溶けてゆく。
 話しこむうちに夜は更け、辺りからはすっかりと人気が絶えた。もう亡者の悲鳴すら、かすかにしか聞こえてこない。地獄は一応二十四時間営業という名目だが、夜半は誰であれやる気が鈍るというものなのだろう。それほど、今はもう草木も眠る丑三つ時、ということだ。しかし、眠気はない。ぼうっと痺れたような頭をもてあます枳殻の前で、木霊がブーッ!と盛大に洟をかんだ。

「わ、私が思っていたよりもずっと、い、茨城さんは、はは、は、波乱万丈だったんですねぇ…!」

 精霊らしからぬ滂沱の涙でその顔はぐずぐずである。大丈夫すか、と枳殻が差し出した新しい手ぬぐいでうぐうぐ言いながら流れる涙を拭っている。その枳殻も、若者らしいしょっぱい顔で顰められている。苦労したんだなぁ、と、単純に感動したのだ。一人で右も左もわからぬ世界に来て、その時からいままで、一体どんな気持ちだったんだろう。スン、と思わず枳殻も洟をすするが、やはりというかなんというか、官吏殿は変わらぬ呈でそれで? と再度の促しを寄越すのである。

「修羅界に行かれてからは何もなかったのですか?」

 茨城がうっそりと頷いて返す。

「はい。特には、つつがなく過ごしておりました。あちらではわたくしの毒気もなりを潜め、逆に屋敷の方々にはとてもよくしていただきました。女手が少ないのもあったのでしょうけれど、戦で忙しい最中、まさに猫の手も借りたいといったところでしたから。…本当に、良くしていただきました。でも、結局、戻ってきてしまいました」

 愚かな事です、と茨城が言った。今度は鬼灯も何も言わず、ただ彼女が話し出すのを待っている。

「あのときの、阿と吽の言葉が耳に残って離れなかったのです。朱点はもしかしたら、わたくしのことを忘れていないかもしれない。いいえ、会えば再び、思い出してくれるかもしれない。そうしたら、今度こそ、話が出来るかもしれない」

 声音は次第に大きくなり、語尾は、微かだが震えていた。そんな己を恥じたのか、茨城はひとつ大きく息を吸い、吐いて、ごく、とかすかに嚥下する。

「…そう、思うと、どれだけ忘れようと思っても、忘れられませんでした」
「では本当に、朱点童子に会うためだけに地獄に戻られたと」
「…はい」

 茨城がこっくりと頷いて、まっすぐに鬼灯を見つめ返した。なるほど、と鬼灯が呟きながら心得たよう頷き返し、顎に手を当て思案に沈む。そのまま、辺りには沈黙が満ちた。黙り込む面々の間をぬるい風が駆け抜けること暫し、ほどなくして木霊が再びブー!と洟をかむ音が響く。え゛、と枳殻が振り向けば、先ほど差し出した自分の手ぬぐいは名誉の犠牲になっていた。

「では」

 ややあって、鬼灯が再び口を開いた。三者三様に交錯していた視線が、闇夜の間隙を縫うようにして佇む官吏へと集中する。茨城と向かい合う彼は、組んでいた腕を解きながらこともなげに言い放った。

「やはりあなたは詐称を行っていたというわけですね」

 ひゅぅううううう、と静まり返った場のあいだを、むなしく風が通り過ぎてゆく。

「………え?」

 空いた口がふさがらないまま、枳殻と木霊が呆然と呟いた。そこ? と弱々しく突っ込むその彼らの前、変わらぬ佇まいで鬼灯がぴ、と気安く人差し指を立てる。

「生成りということを隠していたのがまず一つ。これは性別を偽るより由々しき問題です。六道の理から外れた方を本来きちんとした審議にかけずに公僕にするわけには参りません。それほど、我々の職務は責任重大なのです。しかし、このことを阿修羅王がご存じないはずがない。隠すようにと助言されたのはあの方ですね」
「あ、え、いえ、その、それは、」
「そしてやはりアナタこそ、現世で無法をなした悪鬼・茨木童子に相違ありません。勿論、伝聞のままに悪行の限りを尽くした、というわけではないでしょう。ですが少なくとも、焼け落ちる大江山の中心に、アナタはいらっしゃった。己が身を守るためとはいえ、押し寄せた何人かを手にかけて」
「う」

 茨城がたじろぎ、青い顔になりながら俯いた。その様子に触発され、枳殻が慌てて鬼灯と彼女の間に諸手を上げて割り込む。

「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ! さっきの今でそんな話は止しませんか!?」
「今せずにいつするというのですか」
「ちょいちょいジブリネタ挟むのやめてくださいよ!」
「じぶりねた?」
「あ、いや、その、」

 枳殻が戸惑う間にも、官吏殿はしらっとした顔つきで再び金棒を担ぎ上げる。その拍子にゴキッ、と凝りに凝った首筋が鳴った。

「私がお伺いしたかったのは、茨城さんが詐称をしているかどうか、とどのつまりその一点だけです。それ以外はまぁ、ぶっちゃけどうでもいいやという感じです」
「どぇええええぇえええ!?」

 絶叫は木霊と枳殻からである。こんだけ聞いといて!? と見た目若者の二人がすっかりと青褪めてブルブル震えるのを尻目に、官吏様は洗い立ての御影石のような目を瞬かせた茨城に改めて向き直る。

「アナタは笠を被って現れたとき、シロさんの質問に"事情があって二目と見れぬ顔をしている"、そう申されましたね」
「はい…」

 茨城が枳殻の肩越しで神妙に頷いた。そこへ、再び鬼灯の嘆息が落ちる。

「その言葉には文字通り嘘偽りはなかったのでしょう。ですが、その意味が相手にどう伝わるかわかった上でああ仰った。それを詐称といわずになんと言います」
「いやアンタ確かめもせずに採用したじゃないすか…」
「そのとおり。責任は私にもあります。短期契約者の採用だと甘く設定したのが間違いでした。生成りはそれほど罪深いのです」
「そ、それはいいすぎでしょ! ただ半妖とかそういうアレってだけでいくらなんでもそこまで、」

 思わず言い募った枳殻は、鬼灯の容赦ない一瞥を受けてぐげ、と妙な声を出す羽目になる。

「彼女の話を聞いていましたか? 現に今まで多くの方が惑わされ、実際に被害も出ている。知っていて対策を取るのと、知らずに見逃すのとでは事は大きく異なるのです」

 そう鬼灯が言いきり、茨城が顔を曇らせた。申し訳ありません、と小さな声が謝罪を口にする。枳殻が何か言おうと振り返り、腰が引けながらも茨城の顔を覗き込もうとするが、その前に鬼灯が続けて口を開いた。

「とはいえ、朱点童子の奥方だったというアナタの主張には一点の偽りもなかったわけです。私ははじめ、そこのところからしてキナ臭いと思っておりました。ですから色々嗅ぎまわりましたし、根掘り葉掘りお伺いしたり、恐らく伏せておきたい事柄まで言わせてしまいましたでしょう。それについては謝罪致します」
「あ、いいえ、そんな」

 ちっとも謝っているような顔と態度ではないわけだが、茨城は恐縮し慌てて首を振った。それに頷き返し、官吏殿は再び淡々と言い募る。

「しかし、身元を偽っていた罪は逃れられぬもの。これには追って沙汰を出しましょう。それまであなたの身柄は然るべき処にて勾留させて頂きます」
「おおお横暴だー横暴だー!」
「まってくださいよ!そりゃぁいくらなんでも」
「はい、かしこまりました」

 お前の血は何色だー! と抗議の声を上げていた外野二人組みは、意に反してあっさりと頷いた茨城に拍子抜けし、思わず口を噤む。それは鬼灯も意外だったようで、次の言葉を選ぶようにして茨城を見た。彼女は諦観と落胆にやや顔を曇らせながらも、どこか安堵したように固く口を結び、まっすぐに鬼灯を見ている。

「申し開きはありませんか」

 茨城は儚く頷いた。

「今お話したことが、わたくしの二千年の全てです。官吏様の仰るとおり、してはいけないことを沢山…、沢山してきたように思います。仕方ありません。それに、」
「それに?」
「…今、官吏様にどうでもよい、と仰っていただけて、実は、少し嬉しいのです」

 ふふ、とはにかむように笑う。それは、笠を被った彼女が何度か零していた笑みと同じであろう仕草だ。

「わたくしの悩みなど取るに足らぬもの。そう断じていただけて、なんだか少し、肩の荷が降りたようです」

 朱点に逢えないのは、残念ですが。
 そう呟いて、茨城は再び小さく笑った。あらわになった面で同じことをすると、こんなにも心臓に悪いのか。それともこれが生成りの業というものなのか。首まで真っ赤になった枳殻が腕ごとで口元を押さえて仰け反るのへ、相変わらず平素と変わらぬ官吏様は黙ったまま、顎に手を当て再び思案しているようだ。やがて、薄い唇を開く。

「ここからは純粋な好奇心なので、無理に答えていただく必要はありませんが…、ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「…? はい」

 茨城が小首を傾げつつ頷いた。鬼灯も顎に手を当てたまま、ゆるく首を傾げる。

「アナタは朱点童子に会うためだけに再び地獄へ戻られた。ならば何故、彼に一等すぐ逢いに行こうとなされなかったのですか」

 この言に、茨城は再び笑った。

「地に足がついていないからです」

 それは、彼女がすみれに言われた最初の一言だ。何かを望むなら地に足をつけてから。この言は、彼女の中で不動のものになっている。

「まずはきちんと働いて、衣食住を確かにして、それから、逢いに行く算段を付けようと思っておりました」

 黙りこくる鬼灯の視線を受けて、でも、と茨城が続ける。

「それだけじゃありませんね。きっと、いつぞや官吏様に言われたとおりです。…わたくしに足りないのは、問題を解決する心構え」

 茨城が笑みを消し、再び物憂げな顔で何処とも知れぬ闇の先を見る。篝火は燃え尽きることなく轟々と盛り、広大な閻魔殿を照らし続けている。緋塗りの瓦屋根に踊る影を見つめ、濡れた瞳が細められる。

「目を背けてでも、望みだけを持っていたいのかもしれません」
「それは詭弁ですね」

 突如容赦ない鬼灯の一刀両断が襲った。ぎょっとしたのは当の本人ではなく、固唾を呑んで生成りの気に気圧されていた外野二名である。舌鋒鋭く言い切った当の官吏様は、いまだ担いだままの金棒で張った肩の付け根を叩きつつ、弓を射る様にして茨城の顔をまっすぐに睨みつける。ヒッ、となぜか枳殻が仰け反った。

「ようは尻込みした、ということですか。何を弱気になっているのでしょう。茨木嬢がアナタに会えば血で血を洗う大戦争となるのは目に見えていて、それでもアナタは修羅からここへ戻ってきた、つまりそういうことだ。それを、わからなくなった、とは。それが分からないまま当たって砕けろと地獄にまで突撃したアナタの台詞ですか。白々しい」
「ちょ、ちょっと! いくらなんでもそんな言い方…!」
「事実でしょう」

 狼狽した枳殻が再度鬼灯に食って掛かるが、官吏殿は何処吹く風だ。あんまりなその態度にこの野郎、とムキになった枳殻が牙を向く。

「なんなんすかいきなりそんなこと言って! 茨城さんのことなんかどうでもよかったんじゃないんですか!?」
「だから言ったでしょう。今のは完全に好奇心だと」
「じゃあ女の子に対するその態度は何すか! ぶっちゃけ彼氏追いかけてそこに他の女が居て挙句の果てには結婚してた、なんて! 萎縮すんのは当たり前でしょ!?」
「ですから、それがわからないと言っているのです。白黒はっきりつけたらいいじゃないですか。私なら自分を選ばないといわれた時点で微塵に切り刻んでやりますよ」
「それはアンタが超合金だからでしょ! 茨城さんは繊細で儚げでか弱い乙女です!」
「繊細で儚くてか弱い乙女は思い切りだけで地獄に来ない」
「うっ、いや、まぁ、そりゃそうでしょうけど、いやいやいやつーか話をすりかえないでください! 今の論点はアナタの婦女子に対する態度であってですね!」
「だって、」

 黙って俯いていた茨城が、思わずという風に零した。侃侃諤諤、がなっていた枳殻も思わず黙り、男二人は揃ってそろりと背後の彼女を見遣る。身長差も相俟って、深く俯いた彼女の顔は見えず、綺麗に巻いたつむじだけが見える。だって、と再び小さな声が上がるが、それ以上は喉につかえる様にして、出てこない。ふと、あわあわと成り行きを見守るだけだった木霊が茨城に駆け寄って、着物の裾を強く掴んでいた白い手を取り上げた。伏せられた顔を下から覗き込み、だって、なんですか? と穏やかに訊く。小さな手を握り返し、茨城がこくん、と喉を鳴らした。

「だって…、…恥ずかしい」

 俯いたまま、そういった彼女の顔は相変わらず見えない。ただ、長い髪が肩口からするすると落ち、現れた小さな耳は熱湯を浴びたように真っ赤である。うわ、と枳殻が呟き、よろよろと後退する。

「三年なんて、ここの皆様には瞬きの間ほどもない。でも、わたくしにとっては、よすがでした。でも、そう思ってるのが、自分だけだったなんて、今更、そんなこと、突き詰めるなんて、は、恥ずかしくて、」
(か、かわいい…!)

 場違いながら、必死に言い募る茨城に対して枳殻が思ったのはその一つだけである。彼女はそのまま、おろおろと木霊から手を取り上げて顔を覆って更に俯く。まさか泣くか!? とぎょっとした若者二人を捨て置いて、再び官吏殿の容赦ない溜息が場を切り裂くのである。

「なるほど。こんなに思いを寄せているのは自分だけかもしれない、との懸念があるのですか」
「(淡々と言いやがって…)こ、こういうことって、俺らみたいな男相手に曝け出すのも厭ですよね、ね? もうよしましょこんな話! な、泣かないでください…」
「あ…いえ、大丈夫です」

 茨城が顔から手を離し、伏せていた顔を上げた。気まずげに無理に微笑んで枳殻を見る。どうやら言葉のとおり泣いてはいないようだ。そのまま、真っ赤になった頬に恥ずかしそうに手を当て、ふ、と可憐な吐息をつく。再び官吏殿が無表情のまま、顎に手を当て小首を傾げる。

「では尚更、砕けてでも特攻したほうがいいと思うんですが」
 
 まだひっぱんのか!と枳殻が目を見開いた。亀みたいなつり目はじっと茨城を見つめたまま、微動だにしない。最初のほう、静かながら燃えるようだった怒りのようなものは霧散しているようだが、今は、なんだかよくわからないが苛々している気配がする。何故そう思うのかは不明だが、枳殻の空気予想はなんだかそんな気がすると告げているのだ。その何故だか苛々しているらしい官吏様は、阿修羅王の言うとおりですよ、と更に言い募っている。

「アナタの語る話がそっくりそのまま朱点童子の人となりとすれば、確かにオスの風上にも置けないような輩です。ですが、それとあなたの思いは別。外野が何を言っても無駄なのかもしれませんが、一つ忘れてはいませんか?」
「わ、忘れるって…?」

 問い返したのは木霊である。もう止めましょうよう、とその顔が訴えているが、神妙な顔をして鬼灯の話に耳を傾ける茨城をみて、思わずといったように口をついて出たようだ。官吏は外野から寄越される視線や問いかけにも一切視線をそらさず茨城を見る。ふむ、と呟き、彼女の瞳を確かめるように見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

「自覚がないようなのではっきり言いますけれど、アナタ、地獄に落ちたんですよ。此処はこの世の地獄です。にぎやかなので忘れがちですけどね」

 この言葉に、木霊と枳殻は揃って顔を見合わせ、小首を傾げるのである。確かに、此処は地獄だ。六道の最下層、罪と罰を司る薄曇りの世界であり、鬼や妖怪・精霊や神獣までがあるものは規則正しく、あるものは自堕落に生活している。桜も咲くし雪も降る。子供も生まれるし、喧嘩もある。それの、何に、自覚がいるのだろう? 戸惑うまま、何もいえない二人を差し置いて、茨城が小さく息をのんだ。

「…そうですね」

 その声は、負け惜しみでも落胆でもない。ただ小さな子供のように驚きと素直さをもって、指摘された言葉を受け入れた響きだった。

「わたくし、地獄に落ちたのですね」

 誰に言うとはなしに呟いて、茨城は何度か頷いた。枳殻も木霊も何も応えてやれないでいると、やがて、再び官吏殿の細く棚引くような吐息が場を割いた。

「…いいでしょう。ここまできたら止むを得ません」

 誰にもわからぬ呟きを吐き、再び鬼灯が人差し指を立てた。

「素直なアナタに免じて、我々がこの二千年の集大成に協力して差し上げましょう」
「は!?」
「えぇぇぇえええ!!?」

 驚きに飛び上がったのは張本人ではなく、やはりというかなんというか、成り行きも見守る外野二名である。当の彼女が言われた意味がわからず、不思議そうに目を瞬かせている。その彼女をじっと見下ろしながら、官吏様は鼻を鳴らして深く頷いてみせる。

「アナタが羞恥心から今一歩を踏み出せないというのであれば、ふん捕まえてでも踏み出させて差し上げます。沙汰を出すのはそれからと致しましょう。此処まで嘘偽りなくお答えくださったアナタに対して、私からせめてもの礼儀です」

 うっそくせぇえ、と思ったのはどうやら外野だけらしい。いえ、そんな、と当の本人は恐縮して諸手を振っている。箱入りなんだなぁ、と枳殻がしみじみと狼狽える茨城を見て思う。人を疑うことを知らないというかなんと言うか、何度か痛い目を見て学習した事柄と、目の前の男が曲者ということは切り離して考える性質らしい。案の定、どサドの官吏殿はですが、と注釈をつけてくる。

「アナタも是非私に協力していただきたい。現世で朱点の奥方であったアナタなら、色々とご存知のことも多いはず」

 この言に、茨城はうっすらと顔を曇らせた。

「…どうでしょう、あまり、知っているとは言いがたいと思いますが」
「ご存知の範囲で、お答え頂ける限りで結構です。当時の大江山の仔細は現世でも資料がなく、生き残りの方々も少ないのでアナタの証言は結構貴重なものなのですよ」
「確かに…、私もあの頃のことは焼け落ちる前後のことしか見てませんでしたからねえ。実際、大江の御殿がどういうものだったか、というのは記憶にないですよ」

 木霊が腕を組み、ふむふむと頷く。茨城はいまだ半信半疑の表情で小首を傾げているが、鬼灯は満足げに木霊に向かって首を縦に振った。

「断片的な証言ならあるにはあるんですがね。実際にあそこで生活されていた方の意見はぜひとも聴取したい。鰯網へ鯛がかかるとはこのことですね」
「…あれ、趣旨変わってません?」
「冗談です」
「(うそつけこの野郎)で、でも、茨城さんはそれでいいんですか? 厭なら厭って言ったほうが…」

 枳殻に言われ、茨城が視線をさまよわせる。どうやら、場の急展開に頭がついていっていないらしい。勿論、と鬼灯が頷いた。

「お厭なら断ってくださって結構。無理にとは言いませんよ。ですが、あなたにとって悪い話ではないはず。ハッテンのママも阿修羅王もとどのつまりはアナタに甘いんですよ。ガツンと言うべきときは何度かあったはずなのに、アナタの気持ちを尊重し続けて此処まで来た結果がコレです。ならば、私のような辛辣な者の意見を取り入れたほうが身になる気がしませんか」

 しますよね、と官吏殿は流れるまま言い切るのである。なんつー偏った意見だ、と枳殻が半笑いになる前、なにやら神妙な顔つきになった茨城が頷いている。唇に手を当て思案に沈んでいた彼女が、恐る恐ると手を離した。

「あの…具体的には、どのような…、」
「茨城さん!?」

 ぎょっとした枳殻が駄目ですって!と止めに入る間もあればこそ、こういうときだけは亀から兎になる官吏殿はでは、と電光石火に口火を切る。

「その聞き取りはおいおい。まずはアナタの問題から片付けると致しましょう。それにあたって、是非見て頂きたいものがあります」
「? なんでしょう?」

 枳殻と木霊が止める間もあればこそ、茨城はそう訊いてしまった。官吏はそれに応えず、にこりともしないままひとりでに何度か頷き、何処とも知れぬ虚空を見上げ、おもむろに呟くのである。

「うまいくいけば、アナタの朱点童子に対する決着と、我々獄卒と烏天狗警察が追っている事柄、同時に解決できるかもしれません」




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