今までいろいろな仕事についてきたが、正直接客メインの仕事は初めてに近かった。勝手がわからないのももちろんある。しかし、その不慣れさを差っぴいたとしても、此処はなんだか摩訶不思議なのである。
まず、入店早々通り名のようなものを考えるようにいわれる。なるべく印象強く、かといって奇抜すぎてもいけない。呼びやすく覚えやすく、かつ親しみやすい名を、と要求され、困り果てた娘は苦肉の策として一番身近で御世話になっている人の名を告げる。どうやら合格だったらしく、娘をスカウトした夜干の男は相変わらず斜な態度でにんまり笑って頷いた。仕事の間はその名を使って励むように、と命じられ、晴れてデビューとなる。
御仕着せの制服は見たこともないような着物で、袂や袖は普通だが裾がとんでもなく短い。これを着るのか、と気が遠くなりかけたが、幸いにして足を覆う別布の用意があり、たいそう心もとないが落としどころということにする。踵の分厚い妙な履物は歩けるかどうか不安だったが、履いてみると意外に安定しており、すぐに慣れた。出来上がった己の奇天烈な格好に随分長い間葛藤したが、仕事を選べる身分ではない、と思い直して、耐えるほうを選んだ。
そのほか、なんだか店内での行動の一々に不思議な儀式のようなものが付属していて、それも娘の頭にはてなを寄越してきた。ただお茶を出すだけの後に妙な呪文を唱え、腕を振ったり妙な構えをとったりするとお客は喜ぶのである。何がなんだかいまいち不明だが、此処は地獄、現世とは違って当たり前なのだ。なにか、己では計り知れない事情でもあるのだろうということにして、そのあたりは特に抵抗もなく順調に精を出していた。従業員は多くはなく、店長以外は全て女性だ。どのみちここもそう長くは働けまい。しかし客は皆娘に親切で、給料も不思議なくらい高い。心配していた角も大振りのヘッドドレスが隠してくれるので事なきを得た。妙だけど良い職場だわ、とだんだん所帯じみてきた娘がしみじみと思っていたところへ、それはやってきたのである。
「ちょっと、いばらきって女はアンタ?」
眠り端のようにゆるい午後のことだった。それなりに繁盛する狭い店内に、牛鬼の供を二人つけた派手な金髪美女がずかずかと乗り込んできた。その顔は忘れようと思っても忘れられない、あの顔である。ぽかん、と口をあけて固まる娘に向かって、柳眉を逆立てた美女がぐい、と親指で表を指す。
「ちょっと顔貸してくんない。話があるんだけど」
「あ、えっと、その、い、今就業中でして…」
「そんなことあたしに関係ないわよ! いいからさっさとでろっつってんでしょーが!」
いきなり噴火した美女にびく、と娘が後退る。そこかしこで賑わっていた店内が一瞬静まり返るが、そんなことは露とも気にしない美女が戸惑う娘の腕を乱暴に引いた。
「いいから来なさいよ! アンタなんでしょいばらきって!」
「え!?」
「えじゃないわよ、ネタは上がってんのよ!」
狭い店内をあっという間に通り抜けて、扉を押し開け二人は文字通り表に出る。こけつまろびつ店内から躍り出てきた娘二人に路上の人々がなんだなんだと見物の呈だ。そんな周囲もなんのその、次に娘が食らわせられたのは、美女の容赦のない平手打ちである。ぶわっちぃーん!と音がして、咄嗟に顔を庇った銀の丸お盆が宙に舞った。
「い痛ぁぁああい!」
「あ、あ、ごめんなさい、つい!」
真っ赤になった掌を取り上げ、美女が悲鳴を上げる。屈強な取り巻き二人がおろおろと取り縋るなか、涙目の美女がキッと娘を睨みあげてきた。
「なによアンタ、反省も謝りもせずに暴力!?」
「え!? いや、その、そういうことではなく、」
まさに寝耳に水なのである。まさか、こんなところに、あの茨木嬢がやってくるとは露とも思わなかった。両手を振って誤解だ、と弁明する娘に向かい、長い金髪を華麗に背へ払った茨木嬢がふんぞり返る。
「あたしは茨木童子よ! 知ってんでしょ!」
「あ、いえ、その、あまり…」
「はぁ!? 知らないっての!? あんた何処の田舎者よ!」
「も、申し訳ありません…」
なんに対する謝罪かはいまいち不明だが、ひとまず茨城が頭を下げる。それに聊か怒りの矛を収めたらしい茨木嬢が改めてふんぞり返るのである。
「知らないなら教えてあげる! あたしこそ朱点童子の許婚、茨木よ。茨の木、と書いて、茨木! 鬼の中じゃ名門なんだから!」
「あ、はい」
「はいじゃないわよ! で、アンタが茨城とかいう女で間違いないわけ?」
「い、いえ! ヒトちがいです!」
咄嗟だったが、必死で嘘をついた娘がお盆を盾にしてぶんぶんと首を振った。すかさず茨木嬢の胡乱げな視線が返る。
「嘘仰い、ネタは上がってんのよ! 黒目黒髪のそこそこかわいい女ってアンタのことでしょ? ま、あたしには敵わないけど!」
「た、確かにわたくしは黒目黒髪ですけれど、そのような容姿でしたらこの辺りには沢山いらっしゃいますし…、」
「はぁ? じゃあアンタなんて名前よ?」
「…名前、」
名なら、ある。けれどそれは、名乗るべき名前ではない。ぐ、と唇をかんだ娘をどうとったか、さらに柳眉を逆立てた茨木嬢が八重歯の覗く口を大きく開いた、その時である。
「やめろ、おまえたち!」
なんだかいまいちしまりのない情けない声がして、二人同時に振り返る前、横幅の大きな男三人が娘の前に立ちはだかった。それぞれが店内からここまでのちょっとの移動で息を切らしながら、ずり落ちそうなめがねを押し上げ、妙なポーズを決める。
「我らすみれちゃん親衛隊、白い三連星である!」
「オイビッチ、すみれちゃんに乱暴は許さないぞ!」
「どうしてもっていうなら、俺たちを倒してからいきな!」
「誰がビッチよ失礼ね! あたしは今その女に用があんの!部外者は引っ込んでなさいよ!」
「み、みなさん、あの、いまちょっと取り込み中ですので、申し訳ありませんが向こうのほうへ…」
娘がそういって一番近くにいた男の肩をそっと押しやった。途端、オタクは大歓喜である。
「うっほほぉおおい! すみれちゃんのタッチ!すみれちゃんのタッチ!」
「え? え?」
「ずるいでござるぞ! 拙者もすみれちゃんに触って欲しいでござる!」
「控えよ!我々のごとき下賎の者が、すみれちゃんの白百合のような手を撫でさすろうなどと、万死に値する!」
「はぁ…」
愉悦の表情にテカる脂汗。意味はいまいちわからないながら流石の娘もドン引きしてそのまま二・三歩を退いた。対して、それ以上に鳥肌を立てたのは茨木嬢らしい。頭を掻き毟りながら絶叫する。
「もぉおおおおうるっさい! 気持ち悪いのよアンタら! 向こう行ってろっつーの!」
止める間もあらばこそ、憤慨した茨木嬢が鋭い爪を逆立てて男どもに容赦なく襲い掛かった。そこは鬼同士、御互い頑丈な為血こそ流れないが、痛いものは痛い、はずだ。しかし殴られまくっている男三人は何故か至福の笑みである。
「ぁぁあああ〜いいないいな! 金髪美少女のビンタが我が身を打っておるでござる!」
「フヒヒ! こういう娘っ子がツンデレだったりするんですよねぁ〜たまらんのぅたまらんのぅ!」
「もっと罵ってもいいよはぁはぁ!もっと、もっと!」
「なんなのよアンタラァァアアア!!」
鳥肌を立てた茨木嬢が向きになって男どもを打ちまくるが、彼らはますますの狂喜に打ち震えるだけである。文字通りワケがわからない状況に、取り囲む通行人含め、周囲は固まるだけだ。やがて、状況を見限ったらしい茨木嬢が再び美しい金髪ごと頭を掻き毟りつつ、ひとまずの距離をとった。
「あー、もう! なんなのよ一体!邪魔しないでよ気持ち悪いわね!」
「オホ!気持ち悪いでました!」
「次なにかな!? しねこの豚野郎!とか言ってほしいなぁ!」
「拙者大歓喜でござる!」
「喜ぶな!」
もーいい!と叫んだ茨木嬢が、おろおろと状況を見守るだけだった取り巻きの屈強二人組みを語気荒く呼びつける。
「もう勘弁ならない! アンタたち、この店ごとぶっ壊しちゃって!」
「はぁ!?」
これに驚きの声を上げたのは、遅れてやってきた副店長である。彼女はカラーリング仕立ての紫髪を靡かせて、冗談じゃないわよ、と何故か娘に食って掛かる。
「アンタまたなんかやらかしたの!?」
「ま、また!?」
身に覚えのない事に娘が戸惑っていると、せまる副店長は地団駄を踏むようにして娘の胸倉を掴んだ。
「この間アタシの客盗ったじゃない! その前も別のコの上客掠め取ってたでしょ! そーいうのはね、暗黙の了解ッつーモンがあんのよ、なんでわかんないのよ!?」
「す、すみません不慣れなもので…、あの、どなた様でしょうか、よければわたくしから指名は無理だとお話して、」
「アンタ馬鹿じゃないの!? 出来るわけないでしょそんなこと!」
娘の発言に更に激怒したらしい副店長が彼女の身をそのままブン投げた。堪らずと倒れこむ娘の裾がまくれ上がり、白い太ももが露になると、今度こそ豚どもが一斉に雄叫びを上げてカメラを構えた。場は大混乱だ。真っ赤になった娘が慌てて裾を直して立ち上がると同時に、ドガァッ!という激しい破壊音が轟く。振り返れば、いつの間にか大槌を振りかぶった手下二名が容赦なく店の表を破壊しているところである。
見ている間にも第二撃が振り下ろされ、メリメリと派手な音を立てて軒先がへし折れる。
「きゃぁあああああ!妲己様に殺されるぅうう!!」
副店長の絶叫にはっと我に返った娘が慌ててふんぞり返る茨木嬢に取り縋った。
「お、おやめください! お話はわたくしが聞きますから!」
「うるさい! あたし、不潔と醜悪とわけのわからないものがこの世で一番嫌いなの! こんな店ないほうが平和よ絶対!」
娘を乱暴に突き放し、徹底的にやっちゃって! と茨木嬢が叫ぶ。その声に応える様に、牛鬼は二人しての破壊工作は勢いを増した。あっという間に戸が破れ、庇が落ち、看板は真っ二つ。中に残っていたらしい従業員と客が叫びながら逃げ惑っている。瓦礫と化してゆく店を見、なんとかしなきゃと焦る娘が手足をばたつかせて今度は牛鬼二人に捨て身のタックルで取り付くのである。
「おやめください! お願いします、お願いします!」
お願いします!との繰り返しの懇願に、牛鬼がうっとうしげに腕を振り回した。娘がよろけ、再びたたらを踏んで尻餅をつきそうになったとき、ふと牛鬼の顔が娘の目に釘付けになった。手が止まる。振り上げていた腕が下ろされる。ぽっかりと口をあけ、固まった片割れを不審そうに見遣ったもう一人の牛鬼も娘を認めて手を止めた。やかましく鳴り響いていた破壊音が止まり、場はしんと静まり返る。よもや効果があると思わなかった娘が恐る恐ると状況を確認していると、口を開け放したままだった牛鬼がごくり、と生唾を飲み込んだ。
「い、茨城様…?」
「え?」
名を呼ばれた娘が目を瞬かせると、牛鬼二人は揃って慌てたように俺です俺!と自分を指差してくる。
「大江にいた阿と吽です! 茨城様ですよね!? どうしてこんなところに!?」
「…あ!」
言われて思い出した。彼ら二人は大江山でかつて門番を任されていた牛鬼たちだ。大所帯の大江の中でも群を抜いて大きな図体と、それに似合う見事な大食漢で、朱点の中々のお気に入りだった二頭だ。無事だったのか、と思わず頬が緩む。
「良かった、お二人は無事だったのですね。よくぞあの炎の中を生き延びられました!」
「いや、それを言うなら茨城様ですよ! 人の身でよくこんな…、え、でも、ヒト?」
そういって阿が首を傾げたところで、茨木嬢が何処から取り出したのか、切っ先鋭い矛を振るってきた。
「ちょっと、アンタら、今いばらきっていった…!?」
「げ」
「まず」
阿吽が同時に言って、慌てて呆然とする娘の身を押しやった。逃げてください、と小声で言う。
「この女わがままできつくて大変なんすよ。でも、朱点の兄貴の今嫁だから逆らえなくって、」
「すんません茨城様。でも茨城様が戻ってきてくれたら百人力っす! 兄貴も茨城様を選ぶに決まってますから!」
「そ、え、ど、どういう…!?」
おろおろと取り乱す娘に、兄貴には伝えておきます!と阿吽が笑顔でいい、止めていた破壊工作を再開しだした。瞬く間に再び店が瓦礫の山と化してゆく。先ほどの一瞬の隙を突き、店員と客は脱出したようだ。空になった店内には泥と屑の雨が降る。にげろ、といわれても固まったままだった娘に、今度こそ茨木嬢の切っ先が喉元に突きつけられるのである。ひ、と息を呑む娘に、憎しみに燃えた鋭い視線が叩きつけられる。
「アンタね…っ、ようやく見つけたわ! アンタこそ、現世であたしに成りすましたヤツ!!」
前後の理解できない言葉と怒りに、ブンブンと声もなく娘が首を振る。その拍子に細い首筋を刃が掻いて、僅かに血が流れ出した。その傷を更に抉らんばかりに茨木嬢が矛を推し進めてくる。
「知らないわけないでしょ!? アンタがあたしの名を騙って現世で好き勝手してたおかげで、婚期は逃すわ親には怒られるわ現世では悪鬼だの何だの言いたい放題いわれるわ、いい迷惑なのよ! この、偽者が!」
娘が目を見開いて固まった。その様子を見、茨木嬢は更に苦虫を噛み潰したような顔に憎悪の瞳を載せて歯噛みする。
「虫も殺せなさそうな顔して、やってることはあたし異常にえげつない。どうせその態度も芝居でしょ! かかってきなさいよ! 調子に乗った人間どもを皆殺しにしたアンタの力、みせてみろっつーの!」
皆殺し。
娘の脳裏に、燃え盛る伏魔殿に横たわる死屍が浮かび上がる。確かに絶命していた。何人もの男たちが、首筋を一息に掻き切られて。鋭利な刃物で一瞬に切り裂いた如く、喉笛に赤い花が咲いたようだった。その花は、娘の指先にも咲いていた。だが、何をいわれても、答えようがない。覚えていないのだ、なにも。ただ唇を噛み締め、ゆるく首を振って、じりじりと刃から後退しだした娘に向かい、茨木嬢が髪を逆立てながら激しく首を振る。
「ああ、もう、じゃあいいわ! 黙って死ね!」
「やっ、きゃぁああ!!」
ブン、と振るわれた刃が娘の喉を掻き切る前、何かが二人の間に派手な音を立てて落ちてきた。咄嗟に茨木嬢が刃を返して飛び退る。みれば、それは叩き折られた看板の破片だった。
「すんませーん」
ちっともそう思っていない声で吽がそういった。毛を逆立てた茨木嬢が怒り心頭で怒鳴る。
「危ないじゃない!あたしに当たったらどうすんの!」
「や、いま作業中なんでこの辺一体マジ危ないっす。茨木様もそんなとこにいないで、どっか適当なとこに非難してくださいよ」
「ちょっとアンタ何よその態度!破片飛ばないように気をつけなさいよ!」
「無茶言いますねぇ、急ピッチでやれってさっき仰ったじゃないですかぁ」
ははは、と乾いた笑いで腕を振るう牛鬼に、茨木嬢が歯噛みしたそのときである。ピピピーッ!という耳を劈く警笛が突如として鳴り響いた。
「コラー! お前ら何しとるんじゃー!」
「事件じゃ事件じゃぁぁああ!」
「神妙に御縄につけい!!」
なんだか妙に張り切った様子の烏天狗の集団が凄まじいはばたきでコチラに文字通り飛んでくる。華麗に着地を決めた彼らはそのまま、上気した頬も艶やかなうきうき顔で暴れる牛鬼を取り囲む。
「器物破損、迷惑防止条例違反! 貴様ら全員動くな!」
「っち、めんどくさい、ここまでね」
茨木嬢が小声で吐き捨てて、握ったままだった豪奢な矛を投げ棄てる。牛鬼二人が武器を放棄して諸手を上げて投降の呈にも拘らず、その彼らに背を向けて容赦なく走り出した。人ごみに邪魔よ!と叫びながら掻き分け掻き分け、無理やりに進んでゆく。剣幕に負けた衆目が左右にわれ、道が出来た。その道をまっすぐ走りぬけながら、茨木嬢が肩越しに振り返る。爛と燃える目でまっすぐに娘を射抜いた。
「アンタ、そのツラ覚えたわよ!」
立ち竦む娘に向かい、白く手入れの行き届いた中指がまっすぐに天を衝く。
「何処に逃げたって、何処に隠れたって、絶対に探しだして殺してやるから!」
「その言葉どおり、その日から茨木様の追っ手が何処へ行っても現れて、地獄で暮らし続けることが難しくなりました。わたくしは阿修羅王とすみれさんの好意に甘えるまま、暫くをハッテンで匿っていただいた後、そのまま修羅界へ渡ったのです」
ひゅう、と風が吹いた。篝火が一斉に揺れ、静まり返る夜半の閻魔殿を儚く浮き上がらせる。伏せ目がちに何処へともなくと視線を向けていた茨城がついと目を上げ、黙りこくってこちらを見る一同を見渡す。ふと、はにかむ様に微笑んだ。
「やはり、つまらぬ話でございました」