第二十六話


 大天狗の元に勤めることになったのは、町中で従業員を探しているという男に声をかけられたことが始まりだった。いわく、大天狗様はたいそう礼儀に厳しく、それなりの器量を持った者しか勤めることはできない、その点貴方なら文句なしだ、是非勤めにきてほしい、もちろん給金ははずみます、という熱烈な勧誘を受けたのだ。聞けば確かに、今までのどの職業よりも格段に高い給料に、三食付き・住み込み、といった、娘にとってまたとない条件である。気になるのは仕事内容だが、お茶くみや話し相手などの簡単な身の回りの世話ができればそれでいい、といった、夢のような話にすっかり舞い上がった。娘は二つ返事で了承し、その足ですみれのもとへ向かったのである。
 大天狗は齢何千年というたいそうな好事家らしい。屋敷は朱点の実家ほどではないが大きく、何十人といった女性が侍女として勤める大所帯だった。女性多数に男性少数、という編成で失敗続きだった娘は多少なり警戒したが、この職場は今までと違い、ピンとした緊張感がない。なんだか、一種独特の甘ったるい雰囲気がある、気がするのだ。不思議に思いながらも主人に目通りを願い、奥座敷に通される。開け放された障子から見える見事な日本庭園を眺めていると、程なくして大天狗本人が現れた。赤ら顔に長い鼻。高下駄や山伏装束こそ脱いでいるが、絵巻物で見かけた天狗と何ら変わりない相貌である。その妖怪は今、喜色満面と言った様子で上座に座り、上機嫌に声をかけてくる。

「おうおうおう、よくきたのぉ! おまえが噂のいばらき、とやらか!」

 噂? と首を傾げたが、ひとまず娘は青畳に額付いた。

「はい。この度はお雇い入れくださり、誠にありがとうございます。不束者ですが、幾久しくよろしくお願い申し上げます」
「ああ、よいよい、よいぞ、堅苦しい挨拶は抜きにして、早速その顔を見せておくれ」

 言われるまま顔を上げると、いつの間にかにじりよっていたらしい天狗の顔が近くにあり、思わず腰が引けてしまう。その彼女を意味ありげに笑みながら見つめ、天狗の分厚い手が娘の顎を浚った。しげしげと見つめてくる目が怖い。

「おお、おお、この顔じゃこの顔じゃ。やはりよいのう、かわゆいのう」
「な、なにがでしょう…」

 なんだか妙な風向きに、さすがの娘の胸中にも、じわじわと疑念が吹き出してくる。竦んだ娘の前で、独特の赤ら顔がにやり、と笑む。

「わしのコレクションはな、みな全てとびきりの粒ぞろいじゃ。だが、その中でもそなたは一番の玉石になろう。特にこの目、目がいいな。しとどに濡れて、まさに吸い込まれそうじゃ。これが魔性の匂いというわけか…」

 そういい、どんどんと天狗の顔が近づいてくるので、娘は溜まらずその手を乱暴に払ってしまった。しまった、と思ったときにはもう遅い。なにも言わずに冷めた目を向けてくる雇い主に向かい、ひとまず彼女は頭を下げる。

「も、申し訳ありません。ですが、お戯れはご勘弁を…」
「戯れ? なにを言う、これがそなたの仕事じゃろ」

 へ?と目を見開く娘に、更に天狗がにじりよってくる。

「身の回りの世話をせよ、と言っておいたであろう。ほれ、今がその時じゃ。はようわしの着物を剥いでくれんか」
「え、いえ、その、え?」
「それとも、わしが先に剥いでしんぜようか。おうおう、その方がよいかもな。何せ、そなたは新入りじゃ。新入りには、優しくせねばな」

 そういって、天狗がのしかかってきた。五十鈴から譲られた浅黄色の小袖の袷に手をかけられるに至って初めて、この仕事がどう言った類の者か理解する。悲鳴を上げて無我夢中で腕を振り回す娘を、天狗がさも嬉しそうに見下ろした。

「なんじゃ今更。そなたも知らなかったとは言わせぬぞ。まさか、ただの女中であれほどの給金をはずむわけがない。ちょっと考えればわかることじゃ」
「ぞ、存じませんでした! すべては不勉強なわたくしの至らぬところです、ですからおやめください!」
「馬鹿な」

 ふん、と天狗が鼻を鳴らした。油断か余裕か、天狗が僅かに身を起こしたその隙に、娘が素早く立ち上がって身を翻す。しかしいつの間にか開かれていたはずの障子が閉じ、押しても引いてもビクともしない。なぜ!と焦る娘の後ろで、天狗はたいそうな高笑いである。

「往生際が悪いのう。もう諦めたらどうじゃ。それが、生成りであるそなたの宿命じゃ」
「え、」

 知っていたのか。とっさに両手を頭に置く娘に、天狗はニタニタと笑いながらゆっくりと忍び寄ってくる。

「黒曜の髪と黒真珠の瞳、桃の如く熟れた唇にぬめる凝脂の肌、そして、子鹿のように頼りない生えかけの角。どうじゃ、そなたのことであろう。ついでに、この近郊の商店を潰して回っておるそうな」
「そ、それは!」
「不可抗力だとでも? 愚かな。そなたのせいじゃよ」

 おまえの所為だ。
 呆然とする娘の耳元で、いつぞやの男の声が蘇る。

「えもいわれぬ色香を纏いて男を惑わすが生成りの性じゃ。それを押さえることはできん。少しの間なら影響も少なくてすむだろう。だが、長くなればなるほど毒気は回り、やがては抜けなくなる。男は須くそなたを望み、求め、果ては争い滅びてゆく。それに巻き込まれる女は子を失い、家を失い、また滅ぶ。ゆえに皆がそなたを詰る。身に覚えがあるのではないか?」

 そんなものはない。そう叫びたかったが、娘は喉に手を当てて目を見開いたままだ。天狗が一歩一歩と近寄りながら、鼻息を荒くしてゆく。もともと崩し着ていた袷を乱暴に開きながら、ついにへたりこんでしまった娘の前に立った。

「げに恐ろしきかは半妖の罪深さよ。人の心は失えど、人の如く未練を捨てられぬ。妖の中でしか生きられぬのに、妖とは決して相容れられぬ。まさに呪いじゃな。だが寿ぎでもある。この上で平和を望むなら、そなたはわしのような者のところにいるのが一番ではないか?」
「そんなわけねーだろエロジジイ」

 ドガァッ!と派手な音を立てあれだけ固く閉じられていた襖が吹っ飛んだ。そばに立っていた大天狗も見事に巻き込まれ、青畳の上を情けない悲鳴を上げてごろごろと転がってゆく。
 娘がぽかん、と顔を上げると、後ろからトレードマークのボブカットを靡かせたすみれが現れる。この時間はちょうど夜の出勤前だ。その証として、目にも鮮やかな菫色の着物姿である。

「だ、誰じゃあ!? ここを天狗様の住処と知っての狼藉、」
「ごきげんよう、旦那」
「げぇ!? す、すす、すみれ…!」
「あ? 様をつけろよゲス野郎」

 ガン、とさらに隣の襖を蹴倒してすみれが凄む。情けない悲鳴を上げて天狗が頭を抱える。これだけ暴れても一切着物が乱れないのが不思議だ。呆然としたままの娘の腕を乱暴に引っ立てて、すみれが天狗に向かい顎をしゃくる。

「悪いけど、このコは返してもらうわよ。アンタは好きもんの女共とでも変わらずよろしくやってなさい」
「な、馬鹿な! その生成りはわしが目を付けたんじゃぞ! いくらお前でもそんな勝手が、」
「通るわよね?」

 こともなげにいうすみれに、なぜか天狗は言葉を返せないようだ。ぐ、と黙り、憎々しげにこちらを見つめるだけである。

「…あまり調子に乗るなよ。ここいらで派手にやればどうなるか、まさか知らぬわけもあるまい」
「あらご丁寧なご忠告。痛み入るわね」
「生成りなんぞどうする気じゃ。お前が飼っても意味などないじゃろ」
「アンタに関係ないわね」

 ふふん、とすみれが笑い、一転険しい顔で娘に行くわよ、と告げてきびすを返した。娘があわててその背を追う。

「愚かな!」

 背後から、天狗の哄笑が追いかけてきた。

「何処へ行けども疎まれる、それが生成りのさだめじゃ! 鬼でもない、人でもない、恨むなら鬼になりきれなかった己を恨め!」

 新天地と定めた天狗の屋敷は、ものの一時間も滞在しなかった。






 結局、そのまま出勤するすみれとともに、娘もキャバレー・ハッテンの門を叩いた。会話はなく、いつも通り裏門の閂を開けて迎え入れてくれた五十鈴に挨拶もできず、そのまま控え室に入る。出番前のオカマたちがぎょっとする前で、すみれがひとまず娘を椅子に座らせた。そして、大上段に振りかぶった手で容赦なく娘の頬を打つのである。

「泣くんじゃない!」

 激しく傾いだ顔から滴が飛ぶ。すみれの剣幕に、流石のオカマたちも息をのむだけで口を挟めない。打たれた頬を押さえることもせず、のろのろと身を起こした娘は、天狗の屋敷を出てから流れ続けている涙を手の甲で拭う。

「アンタ、今何で泣いてんのよ。あのくそジジイに妙なこといわれたから? 迫られたから? それがどうした。ここじゃあの程度の野次やセクハラなんか日常茶飯事よ。それをわかっててここに来たんでしょ? あの程度の輩に流してやるほど、アンタの涙はそんなに安いわけ?」
「…、」
「アンタも女なら、自分の涙はここぞというときにとっときなさい!」
「……鬼に、」

 黙って聞いてた娘が、ぽつり、とつぶやいた。しんと静まり返る面々が黙って続きを待つ。

「鬼に、なれないから、駄目なんだと。なれさえすれば、全部うまくいくんでしょうか。ただ、会いたいんです。会って、話がしたい。訊きたいことがたくさんあるんです。でも、わたくしが駄目だから、駄目なんでしょうか…」

 パン! と再度娘の頬が張られた。ちょっとママ!とオカマが悲鳴を上げる中、激怒したすみれが周りの制止も止めずに娘の胸ぐらを掴みあげる。

「ふざけたこといってんじゃねぇぞ、ぁあ!? てめぇ人様に胸張れねぇような生き方してんのか!? ちがうだろうが!!」
「タンマタンマタンマぁ、ママ落ち着いて! 顔は駄目よ顔は!」
「離せ! こういう馬鹿はなぁ、殴らなきゃわかんねーんだよ! 鬼だの人だの、そんなもん言い訳じゃねぇか! それだけ心底好きなら今すぐ、」

 そこで、すみれの言葉は途切れた。ぐ、と奥歯をかみしめて娘を睨みつけて、ブンと椅子に投げ捨てるように座らせる。
 しばらく静まり返る面々の中で、すみれがキセルをふかす微かな吐息だけが木霊していた。無言で怒るすみれのオーラが充満して、誰一人として口を開けない。どれだけそうしていたのか、やがて、はぁあああ、というすみれの盛大な吐息が漏れた。灰を落とし、頭を乱暴にかき混ぜながら、娘に小さく頭を下げる。

「……悪かったわ」
「え…、」

 娘がのろのろと顔を上げた。乱れた髪もそのままの憮然とした表情で、すみれが頬を掻いている。

「アンタのこと、信じてなかったのよ。でも本気だったのね」

 目を瞬かせる娘に向かって、すみれが身体ごちきちんと向きなおる。キセルを袂に仕舞いながらあのね、と口を開いた。

「今まで黙ってたけどね、アンタの好きなあの男、アタシが知る限り最低の男よ。女を女とも思っちゃいない。とっかえひっかえは当たり前、挙句の果てには孕ませておいて捨てるなんてしょっちゅうだったわ。でも誰も何も言えない。この辺り一帯全部、あいつの親が仕切ってんのよ。ウチも例外じゃない。あのボンボンに逆らった途端、息子に激甘のバカ親に商売上がったりにされる恐れがあんのよ」
「そう、なのですか…」
「でもさすがに、親もとびきりの馬鹿ってわけじゃない。そろそろ本格的に跡目を継がせようって、現世にいた朱点を呼び戻したの。許婚と結婚させる為にね」
「…いいなずけ、」
「そうよ。茨木童子っていうんだって」

 ひゅ、と娘が息を呑んだ。何も言わないまま、じ、と見つめ続けてくる娘にむかって、彼女は小さく首を縦に振った。

「とりあえず、アタシが知ってるのはここまで。…黙ってて悪かったわ」

 娘が首を振った。消え入りそうな声で小さく礼を言ってのち、ゆっくりと俯いた。そのまま、場にはさっきの騒動とは打って変わっての静寂が落ちる。固唾を呑んで見守るオカマ一同の前で、娘は寝入っているかのように微動だにしない。ただ、瞬きのゆるい瞳だけが辛うじてそうではないことを物語る。意識の希薄らしいその様子を、すみれはしばらく黙ったまま見つめていた。やがて、肘掛に片腕をつきながら張り詰めた息を吐く。

「最初、アンタの名前を聞いて正直驚いた。ちょっとやな予感はしたのよ。偶然にしちゃ出来すぎてるし、あの馬鹿が帰ってきた途端でしょ。でも、ヒトを捨ててまでこんなところに堕ちてくる馬鹿がいるなんて、まさか本当だと思わなかった。なりそこないは確かに珍しいけど、絶対いないってわけじゃないからね」

 すみれの言葉に、娘がわずかに口角をつり上げる。それはそうだろう。この名は他でもない、朱点自身が娘に与えた名だ。俺の好きな名前、というのは、こういうことだったのか。娘のまなじりは下がったまま、赤い目尻を指先が僅かに掻いてゆく。

「確かにアンタの言うとおり、いつものアイツ通りに手酷く捨てられただけかもしれない。でも違うかもしれない。それは何度も言うようだけどアイツ本人に訊くしかないのよ。どうする?」

 いますぐ会いに行くか、とすみれが問う。それに娘はしばし考え込んでから、やがて静かに首を振った。すみれが以前言った、何かを望むのは地に足を着けてから、という尤もな意見は達成できていない。それになにより、大天狗に言われた言葉がいまなお心の中で木霊して、それが動きを鈍らせてくる。かつて娘を求めた男も、同じことを言っていた。今の自分が朱点にあって、どんな顔をすればいいかもわからない。何を言えばいいかすら、今はもうわからない。ぼんやりとどことも知れない宙をみる娘をすみれがじっと見つめ、やがて口を開いた。

「どうしようもならないことも、ある」

 すみれが自失する娘の顔を見ながら、おもむろに口を開いた。

「どれだけ好きでも、好きだけで立ちゆかないこともある。会いに行きたいって思ったって、それが許されないときだってある。邪魔もされるし、ままならないし、なにより、相手が振り向いてくれないことも勿論ある。でも、想うのは自由よ。それはアタシの気持ちだもん。想って想って、側にいるのが辛くなって逃げ出したって、どうしてもまた想っちゃう。難儀なもんよね心って。…アンタの気持ち、わかるわ」

 悪かったわ、と再度すみれが頭を下げた。宙をみていた娘に焦点が戻り、ふたたび、緩く首を振った。その拍子に再びこぼれかけた涙を慌てて乱暴に擦る。真っ赤になった顔を上げ、娘はきちんとすみれに焦点を合わせた。

「すみれさん」
「なに?」
「わたくし、また職を失ってしまいました」
「…そうね」

 すみれの頷きが返り、娘が一度唇を掻む。その次に、すー、はー、と慎重に呼吸する。そして、椅子に座ったままだった身体を立たせ、お願いします、と腰を折った。

「また、お家に置いていただけないでしょうか。仕事は、どうにかして見つけます」

 すみれはすぐに何も言わなかった。固唾を呑んで一連を見守るオカマ一同の視線が、優雅に肘掛けへと頬杖をつくすみれへ集中する。

「…いいわ」

 がば、と顔を上げた娘に、すみれが最初と同じようにずいと人差し指を突きつける。

「ただひとつ、条件がある。二度と仕様もないことでびーびー泣かないこと」

 突きつけた指を五指にして、すみれはそのまま赤く腫れた娘の頬を撫でる。擦って赤くなった目尻を優しくなぞり、すみれがじんわりと微笑んだ。

「女はね、ここぞ、というときにしか泣いちゃ駄目なの。それは誰かに心無いことを言われたとか、自分じゃどうしようもないことに打ちのめされたとか、そういう時じゃ絶対にない。それまでは大事にとっておくの。来るべき時に流す涙は、きっとアンタを救ってくれるわ」
「…はい、」
「今は、わからないかもしれないけどね!」

 バン、とすみれが盛大に娘の背中を叩き、そのまま口を開けての大笑いである。途端、室内に張りつめていた見えない緊張の糸も切れる。口を噤んで成り行きに耐えていたオカマたちが盛大にため息を吐き出して、なんなのよもー! と、にわかにやかましくなった。次に代わる代わると娘を囲み、頬を冷やしたり、慰めたり、抱きしめたりとせわしない。この瞬間から、キャバレー・ハッテンは正式に娘を仲間と認めたのである。

「とはいえ、わたくしの状況は大きく変わりません。相変わらず、男性には目を付けられ、女性には嫌われておりました。まさに蛇蝎の如く、でございます」

 おまえは呪われている。
 大天狗も、あの男も、同じことを言った。
 事実、そうなのかも知れない。半妖の身になる以前から、郷里を焼かれ、婚家も追われてと災い続きだったし、今こうして地獄に来たが、ここでもまた歓迎されているとは言い難い。何がいけないのかは未だに不明だが、どうやら己の預かり知らぬところで、何かが起きているのは事実らしい。
 その上で、大天狗がついでのように漏らしていた生成りの特徴は大いに参考になった。要するに、短期間であれば影響は少ないのだ。相手によって影響を及ぼす間隔が異なるため時々失敗もしたが、それからしばらくは主に短期バイトなどを繰り返しては糊口を凌いでいた。ただ、すっとこうしているわけにもいかない。何とかして生成りから人に戻るか、鬼になるか、もしくはこのやっかいな体質を封じられたりできないものだろうかと、日々葛藤していた。しかし、生成りに関する情報は甚だ乏しく、すみれが方々手を尽くしても依然まんじりとして判明しない。あとひとつ、心当たりがないこともないんだけど、と言いにくそうにため息を吐くすみれに、娘は笑って首を振った。
 そんなある日だった。仕事のなかった娘がハッテンで細々とした雑務をこなしていたときである。

「初めて、阿修羅様がお越しになられたのです」

 昼時の営業に出ていたすみれが嬉しそうに娘を呼んだ。普段、女の身で営業中の店内へ出ることは憚られていたのだが、どうやら今回は特別らしい。悩みはしたが生えかけの角を隠すほっかむりをしたまま、薄暗い店内を進めば、一番奥の特等席にすみれと、そこに並んで座る大きな人影が見えた。
 鬼、ではないようだ。だが、今まで見たどの鬼より鬼らしい風貌である。筋骨隆々というにふさわしい巨躯は見慣れぬ派手な衣服に包まれ、どっかりと重厚な椅子に納まっている。すみれとなにやら話し込んでいるが、その立ち居振る舞いに隙はない。思わず、近寄るのを躊躇って歩みを緩めた娘にむかい、ふと煙るレンズ越しに射殺されそうな視線が投げつけられてきた。

「お、あれか」

 野太い声が誰に言うともなしにあがる。すみれがつられこちらを見、笑顔で手を振るのである。

「アンタ、何してんの早くおいで!」
「あ、はい」

 恐る恐ると近付く間にも、大人物の視線は揺るがない。上から下までじろじろと不躾な視線を送られるが、今までの有象無象のようにどこか舐めるような代物ではなかった。いきなり現れた何処の馬の骨ともわからない相手を見極めるような、要するにメンチだ。娘が混乱したまま、ひとまず反射のように腰を折った。

「お、お初にお目にかかります。わたくしは…」
「おう、聞いとる聞いとる。お前がすみれんとこに厄介なっとるヤツやろ。なんや、生成りらしいな」

 銅鑼声が鷹揚にそう言い、娘の挨拶を遮った。先ほどからにこにこと機嫌の良いすみれがあとをさらう。

「コチラ、修羅界の阿修羅王よ。ウチの上得意様」
「アホ抜かせ、誰が上得意じゃ。酒飲みに来とるだけやろが」
「それが上得意って言うの! 阿修羅王は元を正せば天部の方よ。あたしらの誰よりも長生きだから、生成りのことも詳しいんじゃないかって。そう思ってずーっと来て下さるようにお願いしてたのに、こんなに遅くなっちゃって」

 剥れるすみれを阿修羅が鼻で笑った。

「お前と違ってこっちゃ現役じゃ、そうそう遊んでられへん。で、お嬢」

 ウイスキーのロックがなみなみと注がれたグラスごと、阿修羅王が恐縮したまま棒立ちの娘を手招いてくる。

「そんなとこ居らんとこっち来いや。折角やから酌でもしてくれ」
「あ、はい」
「なによ、アタシがしてあげるっつってんのに」
「そりゃお前、何ぼ小奇麗でも酌は本物の女の方がええに決まっとるやろ」
「ご挨拶ねぇ!」

 この手の話をするといつもは割と本気でキレるすみれだが、特に文句を言うでもなく高笑いである。今日は本当に機嫌がいい。恐る恐ると娘が阿修羅王の隣に腰掛けると、ぐい、とグラスを飲み干した阿修羅がそのまま差し出してくる。何とはなしに酒を注ぐと、はぁ、という阿修羅の溜息が漏れた。

「すみれ、コイツには何も仕込んどらんのか」
「ええ、だって必要ないでしょ。この子はまっとうなところで働いた方がいいし、余計な特技は邪魔になるだけよ」
「せやかて酌の仕方ぐらいは教えたれ。使うところもあるかも知らんやろ」
「そうかしら? 素人くさいほうが可愛いと思うんだけど…、ま、おいおい考えとくわ」

 ぽんぽんと飛び交う会話はどうやら自分が基点のようだ。何か失礼なことでもあったか、と怯える娘の前で、阿修羅が胸元から葉巻を取り出して咥える。すかさず火を差し出すすみれに向かって屈みこみながら、ふぅん、と鼻を鳴らした。

「あの鬼畜がなぁ、なんやごっつい丸なったんやのぉ」
「鬼畜?」

 思わず問い返した娘に、葉巻をふかしながら阿修羅はせや、と頓着なく頷いて返す。

「コイツが俺ンとこに居った時にはな、そりゃぁもう手のつけられん暴れん坊やったんや。ちぃとの事ですぐキレよるし、敵やいうたら女子供でも容赦せぇへん。獲物はこーんなごっつい鉈でな、一回抜いたらあたり一面血の海や」
「厭ね、昔の話を!」

 すみれが照れたように忙しなく手を振った。色っぽいその仕草を阿修羅王がなんともいえない目で見つめる。

「それがある日突然女になりよって、気がついたらこんなとこで商売やっとる。…正直、ワシは今でも惜しい思とるわ。お前さえおったら、あのクソガキも今頃は血祭りに…、」
「ストップ! その話はなーし! あたしは今で満足だもん。好きなカッコして好きなことして、そこそこ繁盛してて、そこにたまァに、阿修羅様が飲みに来てくれればそれでいいのよ」
「せやけどなぁ…」
「んもぅ、今日はアタシじゃなくてこのコの話! ちょっと聞いてやってよ、聞くも涙、語るも涙なんだから」

 そういったすみれに手で示されて、俄かに娘の背筋が伸びる。ああ、せや、と阿修羅がまだ躊躇いながらも応じて、薄紫のレンズ越しに再びしみじみと腰掛ける娘を見た。

「お嬢、そのツラは元々か」

 ツラ、とは、確か顔のことだったか。間をあけて理解した娘が頷く。

「はい」
「ほうかい。せやったら、難儀な人生やったやろな。まあええ、とりあえず何がどうしてそうなったか、いっぺん言うてみ」

 葉巻の火を消しながらやや面倒くさそうにそう促されて、娘は躊躇いがちにすみれを見た。阿修羅に寄り添うように控える彼女は微笑んでウインク一つを寄越してくる。とりあえず話せ、という意味だろう。彼女がそういうなら、とあまり反芻したくはない己の状況を、娘は再度口を開いて語りだした。

「その後、再び小一時間ほど話し込みました。阿修羅王は特に相槌も質問もされずに黙って耳を傾けていらしたので、さぞつまらないのだろうな、と萎縮していたのです」

 恥や外聞を捨て、伝記のように自分のことを語るのは難しい。現世のこと、朱点のこと、地獄でのこと。基本は客観的な視点を心がけ、感情や情景は省き、なるべくかいつまんで、かいつまんで、と心がけていたが、それでもやはり多少の時間はかかってしまった。とりあえずすみれのところへ世話になる課程までを語り終え、息をついた娘の前で、盛大に鼻をかむ音が響いたのである。驚いて顔を上げると、薄紫のサングラスを放り投げ、顔を真っ赤にしてえづく修羅界のドンがいた。みるからに高級そうな絹の手巾をくしゃくしゃに丸めて、しょぼつかせた目を強く押さえている。大小さまざまな宝石を載せた手を取り上げ、分厚い手のひらで乱暴に娘の背をさすった。

「ほうか、ほうか。おまえ、人の子の身の分際で、そんな男のためにこんなとこまで来よったんか…」

 一途な女じゃ、と阿修羅が乱暴に顔を拭きながら呟くのへ、すみれがん、と箱ごとのティッシュを差し出す。聊かぞんざいなその仕草にも何もいわず、阿修羅は素早くその何枚かを引き抜き、再び大きな音を響かせて鼻をかむ。状況が飲み込めない娘をさておいて、すみれがぐいと身を乗り出した。

「ここまできたのは本人も覚悟ずくよ。それよりもやっかいなのはこの体質! そもそも、なんでアタシらは平気なのに、そこらの連中には不倶戴天の敵みたいに嫌われるのかしら?」

 この問いに、未だ顔の赤い阿修羅が鼻をすすりながらも大きく息をつき、分厚い革張りの背もたれにどっかりと上半身を投げて倒す。

「そりゃ、相手のレベルの問題やな。ワシや、腐ってもおまえは元々天の端くれ、生成りごときの毒気は届かん」
「腐ってるって失礼ね!」
「たとえやアホ。ほんであと、ここの連中は男やけど女や。そういうヤツにも効かんやろな。長生きしてるヤツや、それなりに位のある獣どもも同じやろ。惑わされんのはそこいらに溢れとるフッツーの連中やな」
「ど、どうすればよいのでしょうか、」

 たまらず訊く娘に向かい、阿修羅王が静かに首を振った。

「こればっかりはどうしようもない。生成りだけやのうて、半妖どもが疎まれるんは宿命や。かというて今更人にも鬼にもなれん。これを曲げれんのは六道広しといえども、一人もおらんわな」

 阿修羅の言葉に、あからさまに顔を曇らせた娘がうつむいた。その彼女のつむじを見つめながら、ただな、と修羅が続ける。

「多少、毒気を和らげる方法ならある」
「え!?」

 がば、と顔を上げた娘へ、難しい顔をした阿修羅が葉巻をくわえた唇をつきだして小さく頷く。

「全くのうすることはでけんで。気休めみたいなもんや。あんまええ方法ともいえん」
「よ、よいのです! 是非お教えください!」
「…顔や。顔を焼いてしまえばええ」
「はぁ!?」

 これにはすみれが盛大に叫んだ。阿修羅が厭そうにガリガリと頭をかきむしる。

「生成りっちゅうのは、いうなれば究極の女や。人間の女が恨み辛みや情念で妖化した状態やからな。その色香は魂も凍るほど、ちゅうくらい、顔の造形からにじみ出てきよる。そこんところを焼いてしまえば、まあ物理的にはアレやろな」
「いや、そりゃそうでしょうけど、駄目! 駄目よ却下却下! 顔は女の命なんだから!」
「せやから悪手や言うとるやろ」
「あの、」

 娘が顔を下げたまま、割り込むように声を上げた。黙って振り返る二人に向かい、一度唇を噛んでから、ためらいがちに口を開く。

「全部、焼いてしまわなければならないのでしょうか」
「茨城!」

 すみれが怒鳴るが振り向かず、娘がじっと阿修羅をみる。

「一部だけとか、どこがいいとか、…そういうのはございますか」
「…一番いいのは目やな。両目を潰してまうのがええ。まぁほんでも、そこだけやっても効果が十分とはいえん。まぁ、他も満遍なくやな」
「目…」

 たおやかな指先が、言われたとおりのところをゆっくりとなぞってゆく。そのまま黙り込み、何事かを考え込む娘を、怒り心頭らしいすみれがなに考えてんの! と怒鳴りつけてきた。

「顔を焼くなんてもってのほか! そんなことするくらいなら死んだ方がましよ!」
「そらお前の考えや。このお嬢にはそれより辛いことがあるんやろ」
「アンタ、顔なんか焼いたらそれこそ朱点に会えなくなるわよ!」

 すみれの一喝に、一瞬娘の瞳が揺れた。阿修羅が再び葉巻を取り出して、自分の指先から火をつける。そのまま人差し指にともり続ける炎をぼう、と見つめる娘に対し、阿修羅がふん、と鼻を鳴らした。

「その方がええかもしれん。そんな、男の風上にも置けんようなクソガキ、会う価値もないやろ」

 言い切ってから、阿修羅王は未だ黙り込む娘に向かい、ずいと顔を近づける。目を瞬かせる彼女を間近でのぞき込みながら、ふうぅ、と横に煙を吐き出した。

「しかし潰すには惜しいツラや。お前には忌々しいやろが、少なくともワシは協力せんで。焼きたかったら自分の手でやり。ただな、何も知らん外野にガタガタ言われたくらいで、己のもんを差し出すことは一個もあらへんぞ」
「…外野、」
「そや。お前ももっと強ならなあかん。ワシもそうやが、どうしたって半端もんは疎まれるんや。それにいちいち惑わされんで、己にとっての正義は何かだけ常に考え」
「……はい」
「ま、ワシはそればっか考えてもて、気がついたら天から追放されとったけどな!」

 ガハハ、と腹の底からの大笑いをあげて、そのまま神妙な顔をした娘の頭を乱暴に撫でる。その拍子に頭巾がとれ、娘は慌てるが、この大人物は特になにも言わずに、いびつな角ごと娘の髪をひっかき回すのである。

「阿修羅様は、それからも何度かハッテンへお越しになられました。…そのうち、何となく気がつきました。すみれさんが、わたくしの気持ちをわかると仰られた理由が。とはいえ、確かめたところで詮無いことです。お二人のお心遣いに感謝しながら、しばらくは平和な日々でした」

 状況は一つも変わっていない。相も変わらず世間には疎まれ巷では失敗続き、思い出すだに顔から火が出て居た堪れなくなることばかりだ。変わったことといえば、すみれの元へ訪れがてら、阿修羅王が娘に声をかけるようになったことくらい。だが、この阿修羅の言葉が沈みかけていた娘の心を大いに掬い上げた。
 なにも曲げる必要はない、それがいいと思ったらいい。他人への影響や世間の目、周りに与えるだろう損害などはひとまず横に置き、まずは己がどうしたいかだけを考えてみろ。考えて、見定めたら、それをそのままやればいい。お前に気を使ってもらうほど世間の他人は弱くない。その助言は、今まで娘の心に一度として訪れたことのない考え方だった。自分を取り巻く毒の気配は未だ掴みきれないが、とりあえず、やれるところまでやってみよう。そして、いつか必ず朱点に会いにいこう。再び、拳を握る力が戻ってきたようだった。
 ある日、町中をなるべく顔を隠しながら歩いていたときだった。短期バイトの期間が終了し、今度はどこで雇ってもらえるか、と考えながら帰路に就いていたところを呼び止められる。声をかけてきたのは野干らしい優男だった。細い目に額へ刻まれた朱の六花、着崩した小袖は少し綻んでいる。キセルを吸いながらの斜な態度にあまりやる気は見えないが、訊けば、バイトの勧誘だという。以前似たような手口で痛い目を見た娘は一応学習しており、相手の名と、名刺を求めていったん保留にしてから、すみれに相談した。彼女は一通り話を聞き、難しい顔をしたが、まあ、いかがわしいものではない、ただ特殊で暑苦しい客層の相手をしなければいけない、という。大丈夫は大丈夫だろう、というので、娘は腰は引けつつも野干に連絡を取り、とりあえずお試しという事でその店で働くこととなった。

「それでメイド喫茶ですか」
「ご、ご存じでしたか…」

 鬼灯の指摘通り、そこはぼったくりすれすれのメイド喫茶だったのである。



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