「すみれさんはその後、逆上して襲いかかってきた方々をあっという間に返り討ちにされました」
それは本当に、美しい舞をみているようだった。朱点の攻撃はまさに殺戮と言っていいような相手を甚振るのを主にした残虐なものだったが、その者の拳や踵が唸る様は、まるで暴力とは正反対のものに見えた。実際やっていることは相手を完膚無きまで叩きのめすということに違いないのだが、少なくとも娘は目を逸らさずに、呆気にとられてそれをみた。ものの数秒で体格の等しい数人を地に沈め、ドレスの麗人はふん、と鼻を鳴らして手を払い、そのまま近くの戸の鍵を開けている。どうやら、ここが家という話は本当らしい。
「あ、あの」
「あん?」
ギロリ、と形容するにふさわしい視線が投げつけられる。娘は一瞬怯んだが、やがてぺこりと頭を下げた。
「危ないところを、どうもありがとうございました…」
「ああそう、別にアンタの為じゃないから気にしなくていいわよ」
素っ気なくそういって、鍵を開けた麗人が戸を開けて室内に入る。閉める寸前で戸惑う娘を振り向いて、しっし、と手を振った。
「こんなところに何の用か知んないけどさ、ここはアンタみたいなお嬢がくるところじゃないんだよ。さっさとお家に帰んな」
「あ、あの、」
朱点のことを知っているかと訊ねかける娘の鼻先で、無情にも扉は派手な音を立てて閉まった。
娘はしばらくそこに呆然と佇んでいた。振り返れば、元々田舎の長閑な生まれであり、領主の娘という身分もあったため、それはたいそう周りから可愛がられてきた。大江山にいたときも朱点の妻というだけで傅かれていたし、冷たくあしらわれた事などただの一度もない。これが彼女にとって初めての「他人からのあからさまな拒絶」、というのものだった。
したがって、こういうときにどうするべきなのかがわからなかったのである。
「…どうしよう」
もう一度戸を叩いて、改めて朱点のことを訊ねてよいのだろうか。でも、なんだかとっても怒っていた気がする。当然かもしれない。不可抗力とはいえ、誰だって自分の家の前であんな騒ぎを起こされたら不愉快になって当然だろう。ではせめて、謝罪するべきだろうか? でもなんだかそれも違う気がする。
そのまま、再びうろうろと行ったりきたり、麗人の家の前をふらついていたが、やがて張っていた気が徐々に緩んだのか、疲れと眠気がおそってきた。しかし、よく考えれば行く宛もない。とりあえず、休憩しよう。そう思い、先ほどの家の通りをひとつ入った、さらに薄暗い路地にうずくまった。
少しの間息をつくだけのつもりだったが、どうやら眠ってしまっていたらしい。うとうととした安息は突如ぶっかけられた冷水によって強制的にたたき起こされる。
「アンタ! どこの誰だか知んないけどね、こんなところでうたた寝されちゃ迷惑なんだよ、迷惑!」
呆然とする娘の前で、中年女性が古びた鍋を手に激怒している。何が何やら理解する前に、娘は謝罪とともに一目散に逃げ出した。いまだ慣れない路地を無我夢中で駆けると、いつのまにか、朱点が出てきたあの立派な屋敷の前に出てしまった。あたりはすっかり夜になっており、立派な門は同じく立派な提灯で煌々と明るい。寝ている間に、朱点は帰ってきているかもしれない。門の前には、いかにも屈強そうな二人の門番が槍を抱き、通りを睨みつけて立っている。あの二人に、訊いてみようか。そうも思ったが、今の己の格好を見下ろして急速に気持ちが萎んだ。どうやら、先ほど浴びせられた冷水はただの水ではなかったらしい。人界にいた頃の名残である、朱点から贈られた美しい小袖は、泥で台無しになっていた。
「…こんな格好じゃ、駄目ね」
朱点は醜いもの、汚いものを嫌悪するきらいがあった。彼自身が自覚のある美丈夫だったのもあるが、己の周りにあるものは全て粋でなければならない、といつも豪語していた。きっと、今の自分をみたら、幻滅してしまうだろう。
ふと、涙がこぼれた。泣いても仕方ないのはわかっている。けれど、あとからあとから溢れて止まらない。元来た路地を引き返して歩くうち、すれ違う何人かが胡乱な目を向けてきて、それもまた涙に拍車をかける。しゃくりあげながら、気づけばまた、先ほどの麗人の家の前にたどり着いていた。
また、怒られるかもしれないという危惧はあった。だがそれ以上に心が萎えていた。もう歩きたくないし、変な事をいわれたくない。変な輩に囲まれるのもたくさんだ。その上では、少なくともここは安全に思えたのだ。しゃがみ込み、手で顔を覆ってどれほどたったのか、唐突に固く閉じられた扉が開き、ゴン、と娘の頭を殴打する。
「ふぐ、」
「あ?」
衝撃に娘が呻くと同時に、部屋の中からひょっこりと先ほどの麗人が顔を出した。まさか家の前に異物があるとは思いも寄らなかったようで、不審そうな顔であたりをキョロキョロと見回している。やがて足下にうずくまって頭を抱える娘に気づき、ちょっと、と仰天した。
「アンタずっとここにいたわけ!?」
「いえ…、ずっと、では、ないです…」
「ちょっとヤダ、なにそのカッコ! てかアンタ泣いてんの!?」
なんなのよもー!と毛を逆立てる麗人は先ほどまでのチャイナドレスを脱ぎ、身軽な菖蒲色の小袖姿である。娘には見慣れない肩口で切りそろえた黒髪が、室内から漏れる薄明かりでつやつやと輝いている。それをみてまた己の情けない姿を思い出し、娘の目に涙が盛り上がる。
「泣くな!みっともない!びーびー泣けば何とかなるとでも思ってんの!?」
眉をつり上げた麗人が一喝する。それに、娘は渾身の力で首を振った。
「ち、ちが、ちがいます、あなた様が、と、とっても、お綺麗だから、」
「…は?」
思いも寄らない台詞に気を殺がれた麗人が固まった。娘が後から後から沸いてくる涙を必死で拭いながら、だって、と言う。
「わ、わたくし、こんな姿で、あ、会いになんか、いけないし、でも、ほ、ほかに行くところも、な、ないし、」
「…会いにって、誰に」
「しゅ、朱点、に、」
「朱点、って、あの朱点童子?」
「…ご存じ、なのですか、」
朱点の名を正しく言った麗人に、少し涙を引かせた娘が顔を上げた。泥まみれのその顔を心底厭そうに見下ろしながら、麗人ははぁあ、とため息を吐く。
「知ってるに決まってるじゃない。このあたりであのボンボンの名を知らないなんてあり得ないわよ。で、アンタ、アイツにこっぴどく振られた女かなんか?」
「…ふられた」
振られた。その単語が娘の頭の中で木霊する。
そう、なのだろうか。しかしそう考えればすべてが合致する、気がする。突然帰ってこなくなったのも、なにも言わずに郷里の地獄に戻ってしまったのも、すべては己に飽いてしまったから、なのではないか。言葉を失った娘が涙を収めて青ざめるのをみて、麗人がちょっと、と柳眉を寄せた。
「アンタ、顔色悪いわよ? 大丈夫」
「…はい」
こくん、と反射のように頷く娘をまだ不振そうに見つめていたが、やがて嘆息した麗人が娘の肩をぽんぽんと叩いた。
「まぁ、変な男に捕まって災難だったわね。どこまでされたか知らないけど、犬に噛まれたとでも思ってさっぱり忘れちゃいなさいな。で、とっととお家に帰りなさい。家の人が心配してるわよ」
「家…」
鸚鵡返しにつぶやく娘を見つめながら、麗人は頷く。
「そうよ、家。アンタ、みた感じいいとこのコでしょ? ここまで来たらしょうがないから送ってってあげるわ。何処よ?」
「…ないです」
「はぁ?」
唐突な娘の言葉に麗人の盛大なハテナが返る。娘が目を伏せ、ないんです、と繰り返した。
「家…燃えてしまいました」
「は!? え、火事!? 何処で!?」
「遠くです、…すごく、遠く」
そういって、言葉を切った娘の目から、またはらはらと止まっていた涙がこぼれ落ちてきた。それはしゃくりあげるようなものではなく、彼女も意識しないままただ流れているだけのようだ。ぼんやりとどこかを見つめたまま、だらだらと滝のような涙を流す娘を前にして、麗人は頭を抱えて絶叫するのである。
「何なのよもーーーー!アタシは犬も猫も拾わない主義なのにィいい!!」
泣きたいのはこっちよ! と激怒した麗人に頭をこづかれて、娘は痛みにまた泣き、場は益々の悪循環に陥るのである。
「すみれさんはそのまま、とってもお怒りながら汚れたわたくしを伴って、あのお店に連れてって下さいました」
ばっちいわね! とぷりぷり怒りながらも、これから仕事だというその麗人に伴われて、まばゆいネオンが迸る通りを歩く。麗人はすみれと名乗った。アンタは?と訊かれたので、娘は朱点に貰った名を名乗る。ふぅん、と気のない返事が返ってきた。
歩くことしばし、薄暗い道も派手な道も乗り越えて、彼女たち二人は目にも艶やかな丹塗りの大門へたどり着く。今も昔も変わらない堂々たる構えを前にして、娘はほぅ、と目を丸くした。
「大きい…」
「そう? ありがと。これアタシのお店」
「えっ、そうなのですか」
娘の瞳にこもる尊敬のまなざしに気を良くしたのか、すみれがふふん、と鼻を鳴らして手招いてくる。その先は大きな門ではなく、白漆喰の壁沿いに進んだいかにもな裏口だった。木戸をたたき、アタシよ、と声をかければ、たちまちに内側に開く。
「おはよーママ、遅かったわねぇ」
夜におはようとはいったいどういうことだろう。その台詞にまず首を傾げた娘は、次いでどう訊いても男の低い声音で娘言葉を操る相手に疑問を持つ。地獄ではそれが普通なんだろうか? と首を傾げ傾げ、なりゆきを見守っていると、すみれが鷹揚に手を振って挨拶に答えた。
「おはよ五十鈴。なぁんもない?」
「うん、今日は平和よ。上がりもいい感じ。こりゃアタシの出番はないわねぇ」
「そりゃなにより。…ちょっとアンタ、ぼさっとしてないでとっとと入んなさいよ」
「え、誰かいんの?」
すみれにいわれて慌てて木戸を潜ると、そこには声音に違わないむくつけき大男が桃色のドレスを着付けて立っているのである。しかし、悲鳴を上げたのはなぜか相手である。
「ぎゃぁああああ!なによこのコばっちいわぁああ!」
「うるっせぇなぁてめえ耳元でぎゃんぎゃん騒ぐんじゃねーよ!!」
すみれの一喝はまるきり男性のそれだ。娘は状況も忘れてきょとん、と首を傾げた。女性なのか、男性なのか、いまいち不明だが、ここは現世と違うのだ。こういうこともあるのかもしれない。ひとまず、すべき事はひとつである。
「あのぅ、夜分遅くに突然すみません。お邪魔いたします」
そういって、娘はぺこり、と頭を下げる。突然の礼儀正しい挨拶に相手は出鼻を挫かれてそれ以上言葉が出ない。五十鈴と呼ばれた鬼は目でちら、とすみれを見る。彼女は至極面倒くさそうにため息を吐いた。
「成り行きよ、なりゆき。ちょっと家の前で拾ったの」
「ママ、両刀だったの!?」
「人聞きの悪いこといわないでちょうだい!アタシはオトコ一筋に決まってんでしょ!」
すみれの一喝に五十鈴がてへ、と舌を出す。フン!と鼻を鳴らして、そのまますみれがズンズンと突き進むので、娘が慌ててその後を追った。通り過ぎるとき、五十鈴に再び会釈をするのを忘れない。
「こりゃ、大変なことになりそう…」
五十鈴のつぶやき通り、大遊技場キャバレー・ハッテンの控え室はまもなく大恐慌に陥るのである。
「皆様、女性と汚いものが大層お嫌いで、苦手だったらしいのです。そこへいきなり現れた泥まみれのわたくしはまさに青天の霹靂だったらしく、すみれさんが激怒しても暫くは収まり切らぬほどでした」
やいのやいのと言い合いを繰り返す状況を見限って、すみれが適当な着替えを投げてよこしてきた。風呂に入れ、と言うことらしい。いわれたとおりに汚れた衣服を脱ぎ、湯を使ってさっぱりして戻ってきた娘は、すっかり頭のほっかむりの事を忘れていたのである。
「…アンタ、なにその頭」
イスに座ってキセルをくわえるすみれに指さされ、娘は首を傾げる。そのまま、手でさわさわと頭を探って、ようやくあ! と青ざめるのである。
「こ、これはその、あの、き、気にしないでくださ」
「するでしょ。見ちゃったし。なにそれ包●?」
「ちょっとヤダ! ママったらこんな小娘に!」
「ほう…? なんでしょう、それ」
「ほらぁ!」
きゃぁあ純だわぁ! となぜかオカマたちが大喜びしている。その様を不思議そうに見つめる娘に、すみれがはぁ、とため息を吐いた。
「なんかちょっと思い出したわ。むかぁし、聞いたことがある。たしか鬼のなりそこないね」
「さすがママァ、伊達に長生きしてないわね!」
「お黙り!」
すみれが再び一喝して、ふぅ、と紫煙を吐き出した。それで、と話を仕切りなおしてくる。
「そのなりそこないのアンタが、何がどうしてあんなところでびーびー泣いてたわけ?」
「それは…、」
娘がうつむいて、言いにくそうに顛末を語ろうとしたときである。すみれから離れたところに腰掛けた面々がやいのやいのと野次を飛ばしてくる。
「ちょっと小娘! いっとくけど、お涙ちょうだいの身の上話はアタシら聞き厭きてるわよ!」
「そーよ! くだらない話ならぶっとばすからね!」
「え、ど、どうでしょう、くだらないかもしれませんけれど…、」
そういって、娘が躊躇い躊躇いながら、ここにたどり着いた経緯を静かに語る。なるべく余計なところは端折り、小さく纏めたつもりだが、それでも小一時間ほどかかってしまった。やっぱり、つまらない話をしてしまったかな、と娘が伏せていた顔を上げると、そこはまるで通夜のように静まり返るオカマたちが居た。
「え、え?」
おろおろと取り乱す娘をよそに、青褪めた彼女たちは思い思いに口元を押さえたり、意味深に目配せをしあう。
「アンタ…」
「そりゃ難儀な…」
「ヒトを捨てて地獄にねぇ……」
先ほどまで娘に噛みついていた面々が、打って変わってどん引きのまなざしである。取り乱す面々とは違い、冷静なすみれはふう、と再びキセルを口からはなし、それで?と促してくる。
「アンタ、これからどうしたいわけ?」
「どう、とは…」
「だから、あの朱点童子に会いにこんなトコまで来たんでしょ? で、どうやら新しい女が居るみたいですごすご逃げ帰ってきた、と。で? これからどうすんのよ」
「それは…、」
確かに、すみれのいうとおりである。あの金髪の若い女性が仲むつまじそうに朱点の隣を歩いているのを見て、己はすっかり萎縮して逃げ出してしまった。朱点に会う事ばかりを頭に置いてここまできてしまったために、想定外の状況に直面してのち、この先どうするかなど、考えすら至っていなかったのだ。ここでは知り合いも、もちろん親しい家族もいない。大江の鬼たちが帝の刃を逃れ地獄に来ていたとしても、あの山が燃え落ちる間接的な原因となった自分の顔などは、もう見たくもないだろう。
では、これからどうするのか。
それを考えて初めて、娘は先ほどとは違う焦りと不安に苛まれるのである。おろおろとさまよった視線がすみれにすがる。
「ど、どうしましょう…」
「そんなの知らないわよ。アンタがわからないことアタシたちが分かるわけないでしょ」
もっともである。娘が小さくうなずいて、唇に手を当てて考え込みだした。なにせ、自活とは縁遠い生活を送っていた箱入りの身だ。大江山での生活では炊事や洗濯なども行ってはいたが、労働、とはちがう気がする。そもそも、住むところも考えなければ。家、とはどうやって手に入れるんだろう。
しばらく黙って思考に沈んでいた娘が、やがて恐る恐るとすみれをみる。彼女は辛辣だが、誰よりも率直で的確な指摘をくれる、ような気がする。
あのう、と娘がすみれに言った。
「家、って、どうやれば、手にはいるのでしょう…」
「はぁ!?」
アンタそっからなわけ!? と一同の総突っ込みを食らった娘が後ずさる。あの、その、と取り繕おうとする娘そっちのけで、オカマたちはひそひそと角を突きあわせた。
「いまどきこんなコいる? さすがにそれはないでしょ、貨幣も知らないとか言い出す勢いよ?」
「地獄にきたのがつい先日、とかいってたじゃない。天の一日は地上の百年。地獄はもっと遅いけど、まぁそんな感じじゃない? このコきっと大昔の子よ」
「そういや、なんだか古風な感じするもんねぇ」
「着物しか着たことなさそうだし」
「でもツラは今時じゃない?」
「流行が一周回ったんでしょ。みてみて、憎らしいくらい肌ツヤッツヤよ」
「まーほんと!見て、髪もとぅるんとぅるん!」
「睫も長いわぁお人形さんみたい」
「はぁああ、やっぱ若い女ってほんっっっっっと、小憎らしいわぁあ!」
「アンタたち、そのコどん引きしてるわよ」
いつの間にか迫ってきたオカマたちにもみくちゃにされ怯える娘に、すみれがキセルを加えたまま助け船を出してきた。そのまま、彼女はようやく火を落とし、かき混ぜられてボサボサ頭の娘にあのね、と話し出す。
「家は買うものなの。で、ものを買うにはお金がいるの。ここまでは分かるわね?」
「あ、はい。それは分かります」
さすがに物の売買は知っていた娘が大きく頷いた。よし、とすみれも首を縦に振る。
「じゃ、お金を稼ぐのはどうすればいい?」
「は、働く…?」
「そうよ、正解。なんだ、知ってるじゃない」
キセルを丁寧に拭き、仕舞いながらすみれが大きく頷いた。そのまま、ずい、と一本指を娘の鼻先に突きつけてくる。
「働かなきゃお金はもらえない。お金がなきゃ食うにも困るし、寝るとこもないまま野ざらしよ。いい? まず働くの。オトコのことはそれから考える。アンタがあの朱点に特攻かけるにしても、三行半叩きつけるにしても、他人に生意気言っていいようになるにはまず地に足着けなきゃいけないのよ」
「地に、足を…」
「そう。世の中お金がすべてとは言わないわ。でもなにをするにもまずお金がいるの。わかった?」
すみれの真剣な眼差しに気圧され、娘はぶんぶんと首を縦に振った。勢いが強いその様子に彼女はいささか眉根を寄せたが、結局はよし、と頷く。腰に手を当て、娘を顎でしゃくった。
「じゃあ稼ぎなさい。血反吐でるまで働いて働いて働きまくるのよ!」
「ママ、それ目的変わってない?」
「このコ愛しいオトコに逢いたいってだけよね? 働きたいってわけじゃないでしょ」
「いいのよ! あんなどぐされに惚れる馬鹿なんだから!」
「どぐされ?」
聞き慣れない単語に娘が首を傾げるが、すみれは何でもないと手を振ってかわす。ぶかぶかの小袖を体に巻き付けた状態の娘の両肩を掴み、ずい、と顔をのぞき込んだ。
「家賃、一日一万円。とりあえず仕事が決まるまで後払いでいいわ。それでいいならアタシんちに置いてあげる」
「たっか!」
「一ヶ月30万!? どこの豪邸よ!」
「ママ鬼畜!」
アンタの血は何色よ!とブーブー野次を飛ばす一同には中指を立てて返し、まなざしは未だ娘を見下ろしたままだ。
「そうよ、アタシ鬼だもん。その鬼が、見ず知らずの他人をうちに置いてあげるってだけでも優しい方じゃない?」
「鬼…」
娘が瞳を一度瞬かせる。何事かを考え込むようなその顔をじっとのぞき込み、再びすみれが固く頷く。
「アンタが決めなさい。厭なら勿論断っていいわ。どうする?」
「…、お、お願いします!」
娘が慌てて立ち上がり、作法もなにもないままがばっと腰を折った。そのまま、娘の口上は続く。
「もう一度朱点に会えるなら、会って、きちんと話ができるなら、きっとどんなことでも耐えて見せます、頑張ります! あの、本当に、大変ご迷惑をおかけするでしょうけれど、どうかわたくしを置いてやって下さいませ!」
「…よし、」
ぺろ、とすみれが唇を舐めた。妖艶なその仕草に気づかぬまま顔を上げた娘に、ハッテンのボスはにっこりと微笑んで彼女の肩を叩くのである。
「これは後ですみれさんが笑いながら話して下さったのですが、最初はわたくしの話など、まるきり信じていなかったそうです。どこぞの家出娘が適当な作り話でもしていて、つかの間いい夢を見せてくれた相手を勢いで追いかけてきただけだろう。ちょっと辛く当たってやれば、すぐ音を上げて逃げ出すに決まっている。もし意外に根性があって長引きそうなら、頃合いを見て知り合いの店に高値で叩き売ってやろう。そう思っていた、と」
しかし、すみれの思惑はその遙か斜め上を音速でぶっちぎるのである。
娘がそわそわとしながら、改めてすみれに向き直る。
「あの…、ところで、いちまんえん、っておいくらですか?」
「はぁぁああ!?」
こうして、奇妙な同居生活は貨幣価値の講義から始まったのである。
「すみれさんの提案で、生えかけの角は隠した方がいいだろう、ということになり、最初は"頭巾か帽子の着用必須"という求人を片端から尋ねて回りました」
当時はちょうど、混沌としていた黄泉が地獄という領域に切り替わって幾ばくも経っていない頃だった所為か、人口に対しての有効求人倍率は大層よく、ほどなくして娘の勤め先はあっさりと決定する。しかし、ここからが怒濤の流転の始まりだった。
最初に勤めたのはパン屋だった。まさに"地域で人気"、"手作りが売り"、といった感じのお店で、店員は女性、製造者とオーナーが男性のこじんまりとした構えだった。娘は面接を担当した製造者に気に入られて採用となり、品だしや会計を担当することになる。しかし、昨日までパンという物の存在自体を知らず、接客などもってのほかだった者がそうそううまくできるはずもなく、序盤は目も当てられないような失敗続きだった。それをカバーするのは当然彼女の教育係りや先輩方である。最初はにこやかだった周囲も、時間が経つにつれて不満を隠さないようになる。それは、少しずつ少しずつ仕事に慣れてゆく娘に対してではなく、彼女をやたらかばい立てする男性陣に対する不満だった。
やれ、注意の仕方が厳しすぎるのではないか。新人なのだからもっと丁寧に教えてやれないのか。挙げ句の果てには、指導の仕方が悪いからミスが起きるのではないか、ときた。これにはとうとう既存の女性店員一同が大いにキレて、ついにストライキを起こすに至る。娘をとるか自分たちをとるか選べ、とまでなってしまい、結局、溜まりかねた娘が辞職を申し出て、事態は収束を計るかに見えた。
しかし、生まれた亀裂の溝はすでに修復不可能だったのだ。そのパン屋は程なくして、呆気なく閉店してしまう。
「その後も、似たり寄ったりでした。今度こそうまくやろう、うまくやろうと思っても、どうしても何かが起きてしまう。最初は、己の身の所為だとは気づきませんでした。…愚かなことでした」
何度か同じことを繰り返した。製造、清掃、配達員などなど、片っ端から勤める度になにかしらの問題を起こしては辞めてしまう娘に、すみれは最初たいそうお冠だった。この根性なし! と詰られてまた泣く娘に再度怒り、と見事な悪循環を繰り返した矢先、である。当初の思惑からはずれ、どれだけ辛辣に当たっても娘がすみれの家から出ていこうとする気配はない。そろそろ売り飛ばすか、と算段していたところへ、娘が喜色を浮かべてやってきたのである。
「すみれさん、とてもよいお勤め先が決まりました」
最初、すみれ様と呼んでいた娘だったが、本人が頑として許さずに結局さん付けで落ち着いた。呼ばれたすみれは居間で爪の手入れをしていたところであり、面倒くさそうに視線を投げる。
「そ。次は途中で逃げ出したりしないようにね。ほんっと、これ言うの何度目かしらねぇ」
「こ、今度は大丈夫です。それと、あの、住み込みのお仕事らしいので、こちらもお暇することができます」
寂しそうに、だがややの安堵を込めた声で娘が言った。それは純粋に、すみれが心底この同居を迷惑がっているのを汲んでの言葉だったが、本人はそうと取らなかったらしい。返るのはああそう、という素っ気ない返事である。そのまま沈黙がおりて、娘があわててあの、と続ける。
「お待たせしてしまっているお家賃は勿論すべてお支払いいたします。どれだけかかるかは分かりませんけれど、今度のところはお給金もいいらしいので、そう長くはかからないかと」
「ふーん」
「ですから、あの、…またお伺いします、ね」
すみれの気のない返事を聞きつけて、最後に娘が小さく笑って頭を下げた。そして荷造りを始める。とはいえ、持ち物と言えばハッテンの面々から与えられたお下がりの小袖と、細々として日用品くらいの物だ。物の数分で終えて、再度、すみれにお世話になりました、と頭を下げる。そのままそっと退室しようとしたところで、ちょっと、と声がかかった。
「なんてところよ」
「…え、」
「だから、そのバイト先。なんていう店?」
途端、娘が嬉しそうに笑った。なにがそんなに嬉しいのか、ただ借しにした家賃を踏み倒されないように先手を打っただけだ、と憮然と思うすみれの前、はい、と娘が口を開く。
「大天狗様のお屋敷です。住み込みで、身の回りの世話をしろ、と」
それを聞いただけで、大体の仕事内容は見えた。この世間知らずもさすがにそれがどういう仕事かはわかっているだろうと思い、すみれはこともなげに頷く。
「そう。じゃあもう、なりふり構わず稼ぐってわけね」
「はい。住み込みなら油断もせずに仕事に励めると思うので、よいと思います」
「まぁ、アンタが決めたことなら止めないわ。せいぜい頑張りなさい。言っとくけど天狗はしつこくてねちっこいわよ。潰されないようにね」
「…? はい、わかりました」
すみれのいう「しつこくてねちっこい」というのを、「仕事に対して厳しく口うるさいこと」、と勘違いした娘は、再度固く頷いて礼を言った。そのままきれいなお辞儀と挨拶をして、少ない荷を担ぎ、すみれの家を出ていった。