第二十四話


 燃え盛る炎のような赤毛、左右の額から突き出た角、長身の精悍な身体は無骨な古びた鎧に包まれている。腰には一振りの錆びた刀を剥き出しに捧げているが、どうにも使いものになりそうではない。どこかちぐはぐな印象を受けるその人物は今、返り血に塗れた凄惨な顔を微笑みに象っている。

「もしかして、この騒ぎは君の所為?」

 娘は何もいえず、ただ呆然と首を振った。本当に、何がなんだかわからなかったのだ。そんな彼女を見下ろして、赤毛の男はふうん、と小首を傾げる。

「違うのか。じゃあやっぱり、俺を狙ってこんなとこまで来たってわけか。大層な暇人だね帝ってやつは」

 俺と一緒か、と男が笑って、そのまま、ヘたり込みかけていた娘を腕一本で軽々と引き上げる。その彼女の頭を追い越して背後を見、あーあ、と呟いた。

「焼けちゃったねぇ、あれ君の郷里?」

 娘が戸惑いながら頷くのを見て、その肩をぽんぽんと叩く。

「振り返らない方がいいよ。非道いもんだ。あいつらの方がよっぽど鬼の俺より鬼らしい」
「…鬼?」

 娘が初めて声を出した。それを聞き、男がうれしそうに笑った。

「そうだよ、俺は朱点童子。都の大将が追ってる大江山の悪鬼って奴。知ってる?」
「…いいえ」

 娘はこの時何故か嘘を吐いた。咄嗟だったが、その方がよいと思ったからだ。でなければ、よくないことが起きる気がする。娘の答えを聞いた朱点はあれ、と驚きに目を見開いて首を傾げる。

「知らない? あちゃぁ、俺もまだまだってことかな。結構有名になったと思ったんだけど…、ま、こんな田舎じゃ仕方ないかな」

 肩を竦めて笑った、次の瞬間である。未だ意識が茫洋としたままだった娘の肩をぐいと引いた。同時に甲高い音があがる。咄嗟に娘が目を遣った先には、へし折られた弓矢が転がっている。ち、と朱点が舌打ちした。

「危ないなぁ、この子に当たったらどうすんだよ」
「朱点童子か」

 物々しい声がして、暗がりからのそりと騎馬が数名現れる。全員抜刀し、掲げた刃には血が滴っている。声もでない娘を適当に押しやりながら、朱点童子が腰に手を当てふんぞり返った。

「いかにも俺が朱点様だ。アンタらはどちら様?」
「その娘を渡してもらおう」
「は?」

 君? と朱点が娘を振り返った。顔面蒼白の娘がうろうろと騎馬と朱点を交互に見る。馬上に居座るどの武者にも見覚えはない。その意味も込めて、娘が力なく首を振る。そんな彼女をじっとみて、朱点がなるほど、と手を打った。

「ヒトにしておくには惜しいツラだもんね。好色どもが考えそうなこった」

 うんうん、と頷く朱点がしみじみと怯える娘をのぞき込む。声をかけてきた騎馬武者が、刃を構えなおしながら酷薄そうに笑った。

「貴様の首は主への手みやげにしてやる。大人しく投降すれば苦しまずに殺してやるぞ」
「君、俺と来る?」

 男の言葉を聞かずに、唐突に朱点が娘に言った。目を見開いて固まる娘に、底の知れない顔で微笑む。

「俺の女になるなら助けてやる。ちょうど君みたいな可愛い子が欲しかったんだ。君はここから逃げたいわけだし、利害の一致だろ?」
「馬鹿な! 逃げられるはずが、」
「黙ってろ」

 目にも留まらぬ早さで投げつけられた錆び刀が、先ほどから口上を述べていた騎馬兵の喉元に突き立った。声も出せずに絶命した武者がどう、と地に落ちる。残る騎馬兵が一斉に色めき立った。怒号をあげながら棒立ちの娘と朱点童子を取り囲む。

「どうする? あんまり時間はないよ」
「連れてって」

 漏れ出るように、こぼれた言葉だった。二千年立った今でも自問するが、この時の気持ちは何によるものだったのか、よく思い出せない。それほど衝動的だった。あまりの早い返事に逆に朱点の方が面食らったらしい。きょとん、と瞬きして、やがて、暗闇と鬼にふさわしい顔で笑った。

「交渉成立だ。大江はいいところだから安心していい。きれいな着物も、美味しいものも、選り取りみどりさ」

 ぐい、と朱点が娘の腕を引いた。華奢な身を荷のように肩に担ぎ上げ、そのまま軽々と飛び上がる。襲いかかってきた騎乗の刃を交わし、笑いながら無造作に腕を振るう。その爪先は猛禽のように鋭利だ。二度、三度と繰り返すだけで、あっけなく武者どもの首が宙に舞い、すぐにあたりはシンと静かになった。
 血の滴る腕をぶんぶんと振って、朱点が汚れた腕を厭そうに払っている。目の前で繰り広げられた惨劇に呆然としていた娘がのろのろと立ち上がり、その腕をとった。取り出した手拭いで血を拭う彼女の行動を物珍しげに見つめていた朱点だったが、やがて、再び笑った。

「君、名前は?」

 娘が静かに名を名乗る。しかし朱点は首を振った。

「じゃあ、今から君の名前は茨城で。茨の城、とかいて、茨城」
「…何故ですか?」
「俺の好きな名前なんだよね、いばらきって。呼びやすいし」

 いいでしょ? といい、笑う朱点童子に、娘も僅かに微笑み返した。おいでと手招く彼の腕に、ゆっくりと自分の手を重ねる。こうして娘は朱点童子に連れられ、魑魅魍魎どもの巣食う大江山に棲み着くこととなる。

「三年、ほどでしょうか。…こういうと滑稽でしょうけれど、幸せに暮らしておりました」

 朱点童子は娘を妻として大江山に伴った。強面の鬼や外道の人間たちが犇めく中で最初は萎縮したが、彼らは皆訳ありらしく、郷里を焼かれた彼女に同情し快く仲間に迎え入れてくれた。朱点も娘に優しく、大らかで気安かったが、やはりその名を都に轟かせる悪鬼らしく、残忍で容赦がない面があった。それは自分に逆らう者にもっとも顕著であり、なんとなく気に喰わない者といった相手も含まれる。要するに、気まぐれなのだ。昨日まで腹心の部下と呼ばれていた鬼が、今日は首を切られ転がることも間々あった。しかし、彼には不思議な魅力があり、それは鬼も人も問わずに魅了する。通常なら反感を買うだろう行為の数々は無言のうちに黙殺されていた。
 やがて、朱点童子の元には各地から様々な鬼が集結し、その勢力はいつしか都を脅かすほどまで上り詰めていった。そうしてついに、事態を重くみた時の帝が腰を上げ、大討伐隊を結成し、朱点の首に懸賞金をかけたのである。

「大江山一体は鬼や物の怪の住処になっており、そこに毎日のように都から兵がやってきて、戦を繰り返していました。最初こそ、麓の手前で戦火が挙がるだけでしたが、日に日に旗色は悪くなっていって…」

 その日は、珍しく朱点童子本人が討伐対を返り討ちにするべく出陣の用意をしていた。彼に慣れた手つきで鎧を着せかける娘の顔色は晴れない。そんな彼女に気づいたらしい朱点がどした、と声をかけてくる。

「なんか心配ごとか? いや、もしや悪いもんでも喰ったか?」
「なっ、ち、違います!」
「どうだか。お前意外によく喰うからな」

 そういって、朱点がいつも通りにケラケラと笑った。言外に大食いを指摘された娘が頬を染めながら憮然とする。その彼女に手を伸ばし、朱点が笑いながら口付けてくる。

「心配すんなって。俺が負けるわけないだろ。お前はいつも通り、寝屋で俺の帰りを待ってりゃいい」
「ですが…」
「なんだよ」

 不思議顔の朱点から身を起こし、娘が俯きがちに口を開く。

「皆が噂しておりました。今回の討伐には、どなたか有名な鬼斬りの武人が送り込まれていると」
「ああ、なんか聞いたなそんな話。それが?」
「それがって…、危ないではありませんか。万が一ということもあります」
「俺が負けるかもしれないって言いたいわけ?」
「そ、そうではなく…、心配なのです」
「ふーん、そっか、わかった」

 そういいながら、朱点が立ち上がった。初めて会ったときには思いも寄らないような色鮮やかな陣羽織を無造作に着付ける。彼がこういった風に話を切り上げるときは、たいてい面倒がって適当に端折るときだ。おろおろと取り乱す娘に片手を上げてじゃ、と言いおいて、そのまま部屋を出てゆく。

「朱点!」
「ん?」

 歩みを緩めはしても立ち止まらず、朱点が肩越しに振り返る。口ごもる娘に些か苛ついたようで、何だよ、と再度声をかける。

「あの、…早く、帰ってきてくださいね」

 待ってますから、と娘が小さく微笑んで言うのに、朱点はいつも通りの薄笑いを返してくる。片手を軽く振り、今度こそ、振り返らずに出ていった。

「その日、朱点は戻りませんでした」

 朝になり、また夜になるを繰り返して、三日。大江山頂上に築かれた立派な御殿もにわかに騒然となる。情報は錯綜しており、なにが真実かは不明だが、どうやら都が差し向けた達人と朱点がやり合ったことは事実らしい。勝敗はわからず、朱点が一時引いたとも、討伐対が壊滅したらしいとも聞く。どちらでもいいから、早く帰ってきて欲しい。鬼の妻となった今、神仏に縋るわけにもいかず、かといってほかに祈る宛もないので、太陽や月に願を掛けていたときだった。

「と、討伐隊が来たぞぉー!」

 誰かの野太い悲鳴が轟き、屋敷中が大混乱に陥った。あちらこちらで絶叫があがり、まさかの奇襲に護衛衆がなすすべなく防戦を強いられている。矢が飛び、火花が散り、打ち合う刀同士の派手な金属音がどんどん迫ってくる。内殿の一番奥、朱点の私室にいた娘はまさに袋小路であり、どうすることも出来ずに我が身を抱きしめて立ちすくんでいた。やがて、閉じられていた木戸が派手な音を立てて蹴破られる。かろうじて悲鳴を飲み込んだ娘が後ずさる前で、黒光りする鎧を着込んだ武者が手下を連れて乗り込んできた。

「見つけたぞ、娘」

 そういって血にまみれた刀を肩に担ぎ上げた男に、娘は僅かな既視感を覚えた。この声と、こちらを舐めるように見つめてくる視線に覚えがある。

「あなたは…、」
「覚えておらぬか。いつぞやお前にこっぴどく振られた男よ」

 それで、合点がいった。この男こそ、かつて娘を望んだ都人である。何故此処に、と目を見開いて青ざめる彼女を見て、男は土足で一歩一歩とにじり寄ってくる。

「方々を散々さがしてみれば、悪鬼の妻になっているとはな。やはりその顔に見合わず魔性と見える。この俺より鬼の方がマシとでも言うつもりか」
「わ、わたくしは、丁重にお断りいたしました。それは都人のあなたとわたくしでは分不相応だと思ったからです!」
「小賢しいことを。それを決めるのは俺だ」

 ガン、と男の足が燭台を蹴倒す。行灯に点っていた火は小さく、幸いにして衝撃ですぐに消えたが、娘がますます萎縮するには十分だった。怯える彼女に暗い笑みを返して、どんどんと男が近づいてくる。

「ど、どうして、わたくしなぞ、」
「その顔がいけないのだ」

 ついに目の前に立った男がどうにかして逃げようともがく娘の顎を掴んで上向かせた。龍を象った籠手は堅く、ぬらりと血に塗れている。暴れる娘を無理矢理にねじ伏せ、この顔だ、と男が言う。

「貞淑そうな顔をして、男を誑かすふしだらな臭いがする。…一目見た時から、お前の顔が頭から消えぬよ。まるで呪いのようだ。だが、呪われているのはどうやらお前らしい。お前がいる所為であの里は焼かれ、大江の鬼どもは殺される」
「…え、」

 いま、なんといったのだ。言葉を失った娘が目を瞬かせるのへ、男はなんだ、と片眉を上げる。

「知らなかったのか。存外に鈍感だな」
「…わたくしの、所為?」
「全く、物分りの悪い田舎者にこの俺が頭を下げてやっているというのに、娘は渡せぬの一点張りよ。聞き分けのない輩相手に交渉事も面倒だろう。縦しんば朱点の首も上げれれば一挙両得、そう思ったのだがな」

 殆ど、男の言葉を理解できなかった。今すぐ反芻する勇気もない。しかし、紛れもない事実だけがまっすぐに胸を貫いてきた。それは鈍痛となって、破鐘のように頭の中へ響き渡る。そして脳裏に甦るのは容赦のない炎の影、右も左もわからぬ闇夜、必死で逃げた素足の痛み。あなたが、と娘が呟いた。

「あなたが、やったの、…あんな惨い事を、」

 男が笑った。

「そうさせたのはお前だ」

 お前の所為だ。
 そう男が繰り返す。そして、瞳にじわりと涙を浮かべる娘を満足そうに見下ろして、後ろの部下に乱暴に声をかけた。

「持ってこい」
「は」

 短く返す小姓が、なにやら銅の桶を抱えてくる。厳重にかけられた閂を抜き、ふたを取る。中身は娘からは見えない。ただ心臓が痛いくらいに脈打っている。耳の横から激しい血管の脈動が聞こえ、男の声を聞き漏らしそうになる。呼吸を乱す彼女の前で、男は桶に手を突っ込んで、中身をずるりと引き出した。

「受け取れ、愛しい夫殿だ」

 ボトリ、と血が顔に落ちかかる。無理矢理に握らされたのは、目をえぐられ、鼻と耳を削ぎ落とされ、口を大きく裂かれた首級だった。その額には、二双の角がある。

「そこで、わたくしの記憶は一旦途切れます」

 ただ、気を失う前に、腹の底から今まで感じたこともないようなものが膨れ上がり、一気に脳天までを駆け上がったことは覚えている。それは炎のように熱くもあり、底冷えするほど冷たくもあるような、不思議な感触だった。

「この方は、わたくしの故郷を奪って、今度また夫を奪った。そう考えたら、目の前が真っ白になって…、」

 気付いたときには、元の部屋に倒れ伏していた。外傷はない。着衣の乱れもなく、ただ、ほんの数瞬倒れ伏していたように思える。だが周りは違った。先ほどまで詰め寄せていた侍たちが全員絶命し、倒れている。娘に迫ったあの男は首を掻ききられ、すぐそばで事切れていた。娘が悲鳴を上げて後ずさる。口元に手を当てる。その手が真っ赤な血にまみれている。それだけではない。爪が伸び、氷柱のように尖っている。

「なにこれ…、」

 違和感を感じて、額に手をやる。そこには明らかな異物がある。こけつまろびつ、娘が備え付けの鏡台に駆け寄った。鏡に映る顔は見慣れた自分の顔、だがその額には、

「これが、生えておりました」

 娘は絶叫し、無我夢中で飛び出した。明らかに身が軽くなっている。内殿の高廊下を軽々と飛び越し、あっと言う間に屋敷の外へでる。そこはまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。あちこちに火の手が上がり、よく知る面々が事切れて倒れ伏している。その形相はどれも無念を訴える凄まじいものばかり。ほんのつい今朝まで、笑いあい、言葉を交わしていた顔ぶればかりだった。呆然と立ち尽くしていると、未だ上がる怒号が迫り、娘を見つけ、抜刀しきりかかってきた。悲鳴を上げて逃げる娘を執拗に追う彼らの口から、鬼だ、と叫ばれ、指さされる。違う、といいそうになって呆然とした。鋭い爪と額の角、それはよく知る彼らの特長である。

「何が何やらわからぬまま、わたくしは再び夢中で逃げました。大江山は程なく焼け落ち、生き延びたものは散り散りに逃げ、大半は殺されたそうです」
「茨城さんに会ったのは、まさにその時でした。大江山の大討伐は今でも現世に語り継がれるくらいでしょう。そりゃあもう、すごかったんですよ。木も随分焼けたので山神がたいそうお怒りで、私はちょうど様子を見回ってたところだったんです」

 月も出ぬほどの暗い森の中で、木霊が蹲る若い娘を見かけた。人間かな? と思いはじめはそーっとやり過ごそうとしたのだが、どうも様子がおかしい。あまり褒められたことではないが、別段人間と接触してはいけないという決まりはないので、迷った後に木霊は声をかけてみることにした。

「あのぅ…」

 ビク、と娘の身が跳ねた。そのまま獣のように身を竦ませて後退る。怯えきったその様子に木霊はあわてて両手を振った。

「ああああ怪しいものじゃありません! えーっと、この辺でよくいる木霊と申しまして…、あの、一応精霊です」
「…精霊……?」
「はい、アナタは…」

 そういって、テクテクと娘に近寄っていく。娘は再び肩を跳ねさせて下がろうとするが、いつの間にか生い茂る若木がその背を受け止める。頓着なくそばに寄った木霊が改めてまじまじと縮こまる娘の顔をのぞき込んで、やがて、どひゃあ! と飛び上がった。

「ななななななな生成りじゃぁないですか、わぁあ珍しい! え、何でこんなところに!?」
「な、なまなり?」

 驚く精霊に娘が戸惑ったように首を傾げる。あれ、と木霊も首を傾げた。

「あ、もしかしてご存じありませんか。そりゃそうですよね。えーと、生成りっていうのは…、うーん、平たくいうとさなぎ、みたいな…半人半妖の状態でしてぇ」
「…半妖、」
「あ、あ、ご心配なく! もし人に戻りたいなら方法はあります!」

 そのまま、木霊はぎゅっと娘の手を握った。驚く彼女に向かい、幼子の精霊は見た目に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべている。

「なにか、よっぽどお辛いことがあったのですね。さっきからお山が燃えているのと関係ありますか?」

 見開かれていた両目から、ふいにポロ、と涙が落ちた。一筋だけのかすかな滴が、頬にきらめく水滴となり儚く残る。

「…わたくしの所為です、」

 わたくしの、と繰り返し、娘が両手で顔を覆った。

「皆…、死んでしまいました。屋敷も焼かれて、朱点も、殺されてしまって…、」
「朱点? 朱点って、あの朱点童子?」

 娘の涙に慌てて手拭いをひっぱりだしていた木霊が手を止めて訊ねると、彼女が俯いたままこっくりと頷く。殺されたって、と木霊が首を傾げた。

「朱点童子なら、無事だと思いますよ…?」
「…え、」

 娘が顔から手を離した。焦点の定まっていなかった娘の瞳に力が戻る。長い睫がそよぎ、溜まっていた滴を散らしてゆく。がし、と今度は娘が木霊の手を掴んだ。

「それは誠でございますか、」
「あ、はい、たぶん、同姓同名の他人じゃなければ…」
「赤毛で背の高い、二角の鬼の殿方です」
「あー、じゃあたぶん間違いないです。彼なら先日地獄に戻られたはずですよ」
「…生きてる、」

 娘が呆然とつぶやき、やがて、安堵と歓喜、脱力が綯い交ぜになった顔でくしゃくしゃに微笑んだ。よかった、よかった、と口にして今度こそ涙を流す彼女に、木霊もなにが何やらながら、感動してもらい泣きしそうになる。

「なんだかよくわかりませんけれど、喜んでいただけたようでよかったです。ではではお姉さん、一刻も早く人に戻りましょう。時間が経つと難しくなりますからね」

 そういって、木霊が娘の手を引いて立ち上がった。そのまま、どこへともなく誘おうとする。娘が引かれながらも躊躇いがちに、あの、と口を開いた。

「朱点は地獄にいるのですか」
「ああ、はい。彼のご実家が地獄なので、どうもそこにいるみたいですよ」
「…わたくしを、そこへ連れてっていただけませんか」
「え、いや、はぁ!?」

 木霊が再び飛び上がった。いやいやいや、と小さな手をぶんぶん振る。

「駄目ですよ! そんな状態で地獄なんかに来たら、もう一生人間に戻れませんよ!? かといって鬼になれるかどうかもわからないし…、」
「構いません」

 娘がきっぱりと言って首を縦に振った。先ほどまでの儚げな雰囲気もどこへやら、しゃんと伸ばした背筋でまっすぐに木霊を見つめてくる。

「鬼でも、人でも、何になっても構いません。朱点に会えるなら、わたくしはどこへなりとでも参ります。お願いします、連れていってください」
「いやぁ、でもぉ…」
「お願い致します!」

 そういって、娘は地に深く額付いた。木霊が慌ててとり縋るが梃子でも動かない。やがて、根負けした精霊は彼女の望み通り、娘を地獄へ誘うのである。

「やっぱりアナタが悪いじゃないですか」

 そういって、鬼灯が身振り手振りで語っていた精霊の頭に容赦なくヘッドロックをかける。悲鳴を上げた木霊が再びかき消えると、娘の背からひょっこりと顔を出した。舌打ちする鬼灯に半泣きの顔で抗議する。

「ほんっと、あのときは仕方なかったんです! 大江山の討伐に当たっていたのは当時の帝の寵愛も篤い有名な方々ばっかりだったみたいで、そのうち何人かを失った権力者の怒りはすさまじかったんですよ! あのまま茨城さんを放置するなんて、それこそ外道のすることです!」
「それでも、彼女は人として死ねたはずです」

 え? と枳殻が首を傾げた。茨城は黙って鬼灯を見つめている。珍しく感情を露わにした官吏は、眉間に皺を寄せて茨城を見下ろしている。

「転生もせず、ましてや鬼にもなりきらずに地獄に渡るなど、そんなことをしたものは輪廻というシステムから外れてしまう。我々は須く長生きですが、それでも皆寿命があり、全うした後には新しい生がある。ですがアナタにはもうそれがありません。どれだけ長くかかるかわかりませんが、この先行きに待つのは完璧な消滅です。それでも構わないというのですか。というかそれを止めるのがお前だろ」

 終いは精霊に向け言い放ち、鬼灯は再び金棒を振り被った。どうやら、なかなかに怒髪天を衝いているらしい。いつも冷徹無慈悲な官吏様が激情も露わに振りおろそうとするのを、何とか我に返った枳殻が捨て身のタックルで飛びかかった。

「ストップストップストーーーップ! 暴力はいけません暴力は!は、話し合いましょう穏便に!」
「話し合ってるでしょう、肉体言語という奴です」
「どこぞのヤンキーと同じこといわないでくださいよ!!」

 ぎゃいぎゃいと叫ぶ枳殻が一見冷静な鬼灯に取り縋って止める前、うーん、と木霊が眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「わ、私も正直、何であのとき頷いたのか…、冷静に考えれば、鬼灯様のいうとおりなんですよね。私の一存で魂のどうこうを変えたりするなんて、そんなおこがましいこと、できるわけがないのに…」
「彼女の気に当てられたのでしょう」

 ぺい、と枳殻をひっぺがした鬼灯がこともなげにそういった。はてなを飛ばす面々に嘆息しながら、ひとまず鬼灯が金棒をおろす。

「生成りになれるのは女性だけです。その姿は半人半妖、人の美しさと魔性の魅力を兼ね備えるのです。故に、生成りは何もせずとも異性をテンプテーションの術にかけてしまう。阿修羅王が仰っていたでしょう。それが茨城さんの性だと」
「ああ、そういえば…、」

 枳殻が頷くのをみて、改めて鬼灯が茨城をみる。気まずげに上目遣いで見上げてくる彼女を見下ろして、再び鬼灯が嘆息した。

「茨城さんの場合、人であった頃から群を抜いていたのでしょう。であれば、そのまま生成りになればあの髭の配管工が星を取った状態と同じ、というわけです。若い鬼や、単純な木の精霊などは惑わされてしかるべきでしょうね」
「た、単純っていうなー…!」

 木霊が小声で抗議をするが、その体は未だ茨城の背に隠れたままだ。茨城さん、と鬼灯が改めて彼女を呼ぶ。

「アナタが女性に疎まれ、逆に男性にモッテモテなのもコレで納得です。それで、無事地獄に渡ったのになぜ修羅界に行かれたのですか?」
「…、地獄に着いたのち、わたくしはその足で朱点の元へ会いに行きました」

 地獄は、当たり前だが鬼や妖怪しかいない。見慣れぬ植物に見慣れぬ景色、おまけに責め苦を受ける亡者の耳を劈く絶叫がそこかしこから響いてくる。しかし、不思議と恐怖や嫌悪感はなかった。炎や血、あからさまな拷問の類を見ても、それは暑さや寒さのように心の外側を通り過ぎてゆく。木霊に言われた、もう人には戻れないという意味がようやくわかった気がした。
 人外だけの世界はどこもかしこも大賑わいである。それは争いや混沌からくる騒々しさではなく、活気に満ち溢れた喧騒で、なんだかとても平和そうなのである。娘がいた頃の現世ではなかったものだ。彼女はほっかむりをして慣れない街中を進んだ。これは木霊の提案である。生成りを正しく知るものは一部の長寿者か物知りぐらいだが、どうしても額の角を見られれば不審に思われ、余計なトラブルを招くだろう。多忙らしい精霊は朱点の居住先だけを伝えて、そのまま現世へと戻っていった。たいそう心配してくれていたが、こればっかりは仕方ないらしい。よくよく礼を言って別れた娘は、その後、無我夢中で朱点の実家という屋敷を目指す。それは現在の衆合地獄の奥、たいそう立派な武家屋敷のような御殿だった。
 なんとか着きはしたものの、どういう風に戸を叩けばいいかわからない。そもそも、なぜ朱点は何も言わずに娘の前から姿を消し、現世を放り出して地獄へ渡ったのだろう。怪我とか、病気などだったらどうしよう。そう考え、暫くうろうろと屋敷の門が見える路地を行ったりきたりしていたところだった。突如、ゴゴゴゴという地鳴りのような音を立てて門が開かれる。わらわらと揃いの衣装を着付けた鬼が大量に出てきて、そのまま門の前に整列する。何が始まるのだろう? と娘が呆気にとられて眺める前、門の中央を恰幅の良い中年男性がふんぞり返りながら歩いてきた。その後ろに、実に不服そうな顔つきの朱点が続いている。

「朱点、」

 そう、声をかけかけたときだった。朱点の後ろから、まばゆい金髪の若い女が飛び出してくる。そのまま彼女は朱点の腕に取り付いた。相変わらず面白くなさそうな顔つきだが、朱点は女の好きにさせたまま、そのまま前を行く男性とともに、待たせていた籠のようなものに乗り込むなり、何処へともなく消えていった。

「それが車という乗り物だということも知らず、その時のわたくしはただ、ぼうっと立ち竦んでいるだけでした」

 今の女性は誰だろう、何処に行ったんだろう。やはり無傷で、無事だったようだ、それは安心した。でもなぜ、無事ならそう教えてくれなかったのだろう。
 そんなことをぼんやりと考えて、宛もなくフラフラと歩いていたのがいけなかった。今でこそ理路整然と歓楽街と繁華街の棲み分けが出来ている衆合地獄だが、当時はその辺りの境界が曖昧で、地元民ですら近寄らない特殊な路地がわんさとあった。娘は知らずそこへ迷い込み、お約束のように柄の悪い連中に取り囲まれてしまうのである。

「…お恥ずかしい話ですが、無体を強いられそうになったところでした。その時に、出会ったのです」

 どれだけ断っても、抵抗しても、取り囲んだ男どもは面白がって笑うだけで話も聞いてはくれない。どうしようどうしよう、と娘が恐慌に陥りかけたとき、目の前の一人が容赦なく吹っ飛ばされたのである。

「ちょっと、ナンパなら他所でやってよ。ここアタシの家の前なんだけど」

 そういって今しがた振るった拳を払うのは、目にも鮮やかなブルーのチャイナドレスを身につけた、美青年であった。絹地に金糸で花鳥風月を縫い取った装丁には女性らしい丸みは全くない。背も高く、肩幅もあり、目元も涼しい何処からどう見てもれっきとした男性だ。しかし、仕草は女性、言葉も女性である。娘がはじめて両生類と相対した瞬間だった。



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