第二十三話


 煌々と焚き上げられた篝火の所為で、あたりはさながら祭り夜のようだ。視界に不自由はないながら、ふとした拍子に出来上がる陰影はひときわ濃い。炎の間を縫ってできあがるそれは、物や人に一種独特の陰影をもたらしてゆく。撫でるような光と這うような闇、現れた茨城の顔にも、その面影は色濃い。
 髪はまとめて仕舞っていたらしい。笠を取った途端、縛られた長い黒髪が肩口から滝のように落ち掛かってゆく。炎を受けてぬらりと輝くそれが一糸乱れず落ちる様は、枳殻に墨壷を誤って取り落としたときのことを思い寄越させる。そんな仕様もないことを考える彼は今、あんぐりと大口を開けて固まっている。視線は現れた茨城のかんばせに固定されたままだ。彼女はその視線を受け、僅かに目線を下げてうつむく。それは、枳殻のような視線に慣れている者の仕草だった。

「阿修羅王のお話は本当のようですね」

 現れた彼女の顔をじっと睨みつけてから、鬼灯が言った。

「アナタは生成りですね?」
「…はい」

 茨城が静かに頷いた。慎ましい唇を僅かに噛み締めている。

「鬼灯様! ちょ、ちょっと待ってください、俺が聞いてた話とだいぶ違うんですけど!? 生成りって二目と見れぬ顔っていってたじゃないですか!」
「二目と見れぬでしょう」
「いや、まぁ、そりゃ、その、」

 真っ赤になった枳殻が茨城と鬼灯を交互に見る。ちらちらと視線を寄越す度に、まるで見てはいけないようなモノを見る罪悪感に苛まれる。戸惑う枳殻の気配を背で受け、鬼灯がにわかに嘆息した。

「そもそも、生成りというモノをよくご存じないのでは?」
「そ、そっすね、なんか、ちらっと習った記憶はあるんですけど…」
「まあ、若い鬼なら無理もありません。私も実際にお会いしたのは初めてです」

 そういって、うつむきがちに視線を伏せる茨城を見る。彼女は落ち掛かる髪をすい、と持ち上げ、静かに背に流したところである。その額、左右のこめかみよりやや前のあたりが肉ごと盛り上がっている。二双の角が皮膚を突き破る手前で止まっているのだ。

「生成りとは、人が生きたまま鬼になりかけた状態を指します。そのまま変化を遂げれば般若となり、完全な鬼となる。しかし多くは人に戻るか、大半は変化に耐えきれずに死に至る。この状態で居続ける事は事実上不可能に近いのです。普通は、ですが」
「よ、ようするに、ハーフ?」
「いえ、どちらかというとただの鬼が高卒なら生成りは中卒です」
「そっち!?」

 なんだそりゃ!と枳殻が上げる抗議はさておいて、そして、と再び鬼灯の纏うオーラが沈む。

「生成りは人界にしか現れません。元が人ですから。故に、そのアナタが地獄に居るということは、ここへ引き入れる手引きをした誰かが居るということ。そんな事ができる輩は、」

 ガシ、と鬼灯が再び逃げ駆けていた木霊の首根っこをひっ捕らえる。

「お前しかいないだろうが」
「ぎゃぁああー !二回目ぇ!!?」

 じたじたじたじた、と手足をバタつかせる木霊をつまみ上げ、ずいと顔を寄せる。その目はいつものつり目ながら、今は明らかな怒気に顰められている。

「これはあからさまな規律違反ですよ。ただの鬼ならいざ知らず、人界に居るべき方を独断でお連れするなど」
「そ、それはあわわわわっ、」
「わたくしがお願いしたのです!」

 茨城が叫び、掲げられた鬼灯の腕に取り縋る。ギロ、と睨みつけられて怯みそうになりながらも、気丈に木霊の身柄を奪い取って後ずさった。

「木霊様はただ、わたくしを此処へお連れくださっただけです。わたくしが無理にお願いして、」
「何故」

 端的な鬼灯の問いに、再び茨城が口を噤む。言葉を失ったその表情は、まさに阿修羅王が称した"二目と見れぬ顔"に相違ない。直視するには、あまりにも眩しいのだ。息を飲むに相応しい相貌に枳殻は怯むが、鬼神はいっさいの躊躇を見せずに厳しい視線を叩きつける。

「そうまでして地獄にきて、アナタは何がしたいのですか」

 茨城の眉尻が下がった。それは、何度も自問した問いである。悩み、考え考えて、いつもたどり着く結論は一つ。

「…夫に会うためです」

 この答えに、鬼灯は首を振った。

「アナタは茨木童子ではありません。朱点の妻ではないはず」
「それは…、」
「わ、わけがあるんですよぅ!」

 茨城に庇われたままだった木霊が復活し、両手を広げてにらみ合う両者の間に立った。ためらいながら二人を見比べて、人差し指同士をつつきあい、実にいいにくそうに口を開く。

「わ、私はたまたま居合わせただけで、そんなに詳しくは知りませんけれど…、茨城さんはそりゃもう大変な身の上で、」
「それとアナタの規律違反に何の関係があるんです」
「だから仕方なかったんですってぇ!」
「ですから、その理由を訊いているのです。人が生きたまま鬼に転じるなど、生半可なことではありえません。ましてや生成りは正しく鬼ではない。もっといえば、獄卒になどなれやしないのです」
「まぁ、鬼灯様曰くの中卒ですからね…」

 それが言いたかったのか、と枳殻が合点が言ったようにぽつりとつぶやいた。鬼灯はそれには特に返事をせず、ただひたすらに、思い詰めた顔の茨城を見つめている。

「私にもアナタを採用した責任がある。何がどうなってこうなったのか、詳しく話していただきましょうか」

 そういったきり、あたりは沈黙に包まれる。そわそわと木霊が茨城をのぞき込んだり、鬼灯を見たりとせわしないが、特に言葉はない。枳殻は現れた茨城の顔を見つめ続けるうち、徐々に意識が釘付けになるのを感じていた。これも阿修羅王の話の通りだ。その顔を見つめ続けてはいけない、との忠告があった。その目、その肌、その唇、いずこかへでも嵌ってしまえば、たちまちに魂を奪われる、と。まずい、やばい、と思いだしたころには、すでに視線は彼女の憂い顔から逸らすことができなかった。瞬きが止まるに至った頃、ガン、とおなじみの衝撃が後頭部に走る。

「寝ないでください。もう担ぎませんよ」
「寝てないっすあぶなかったっすありがとうございます超痛ぇ…」

 うずくまりながら言う枳殻に視線は向けず、鬼灯がふりかぶった金棒を下ろしたときだった。

「…わかりました」

 茨城が頷いて、伏せていた顔を上げた。やや躊躇いを残しながらも、腹を括ったらしい顔で鬼灯を見る。

「すべてお話致します。わたくしが此処にくる前から、来た後のこと。長く、つまらない話でしょうけれど…、」
「いいえ、大事な話ですよ」

 すかさず否定する官吏に、茨城がわずかに微笑んだ。噛みしめ続けた所為か、木蓮のように淡紅の容よい唇が撓む。そしてその唇は、かつて枳殻が耳を奪われた鈴の鳴るような声音で、二千年前の現世を紡ぎ出すのである。






 娘が生まれたのは、未だ現世が小競り合いと領地争いの戦火に混沌としていた頃。
 彼女は山深い寂れた村の領主の一人娘として生を享けた、いわゆる田舎者の姫、というやつである。実母が百度参りを見事成就した暁に告げられた懐妊だったことと、両親共に諦めかけていた末の一粒種だったため、その誕生は大層な期待と喜びに包まれていた。
 そして生まれ落ちた赤子は、取り上げた産婆曰く「夜明けの朝靄をたやすく退けるほど光り輝いていた」という。これは当時、期待されていた嫡子ではなく女児が生まれた際に産屋で唱えられていた慰藉の常套句である。しかし、ぐずりもせずにすやすやと眠る赤子は、まだ稚いながら目鼻立ちや見目がはっきりとわかるほど麗しく、凛々しい。これは確かに神仏に加護を受けたに相違ないと、親族一同大いに沸いた。何せ、娘の生家は元を辿れば主君の荘園を一部拝借したにすぎず、攻め込まれればたちまちに吹き飛ぶような国とも呼べない弱小家だ。この上はよりよい縁談を結び、婚家の加護を受けなければ瞬く間に蹂躙されてしまうだろう。その上で、美しい娘の誕生は願ったり叶ったりだったのだ。
 のどかな山野ですくすくと育ちながら、娘は都に出しても恥ずかしくない美姫として、周囲からそれなりの期待と重責を込められていた。とはいえ、元々が田舎者の暢気な両親だ。教養とて田舎で享けるには限度がある。口煩く窘められるのは礼儀や行儀作法くらいのものであり、多少のことは苦笑とともに目を瞑られていた。とりわけ彼女の興味はもっぱら外にあり、歳の近い子供たちと一緒に泥だらけになって走りまわったり、花を愛でたり虫を捕まえたりと、いかにもお転婆らしい毎日を過ごしてゆく。領地には名産も何もなく、特に交通の要所というわけでもない。人様に誇るささやかな名物と言えば、四季折々に見事に咲き誇る山野の花だけ。そんな田舎にわざわざ攻め入る物好きは、彼女がすっかり娘らしくなるころまで、ただの一度も現れなかったのである。
 その日も、いつものように日課である何かの稽古を捌いたのち、屋敷裏の山へ散策に出かけていた。白連と辛夷が散り、そろそろ桜が見頃になる頃合である。一足早くと供も連れずにお気に入りの場所にたどり着けば、馴染みの桜の古木は見当どおり落ちかかりそうなほどの花を咲かせ、仄白く輝いている。幹は大人十人が手を繋いでやっとという太さ、枝葉は豊かに撓って地に届く壮観なその光景を目に入れながら、胸いっぱいに春の陽気を吸い込んだ。いい天気、と両手を挙げて伸びをしたとき、ふと、耳が微かな馬の嘶きを拾った。
 このあたりの人気はないに等しいとはいえ、さすがに山越えはできるように人馬が通る道はある。珍しい、と娘が振り向いて、念のために跪いたときに、それは大層立派な軍馬が数頭現れたのである。
 そこからはまるで王道だった。たまたま通りかかったその軍馬に騎乗していたのは、都でも大層名高い御仁であり、帝の命を受けて都周辺を荒らし回る悪鬼を退治すべく、その身柄を求めてあたりの山野を虱潰しに回っていたらしい。この御仁は、一目見ただけの娘を是非にと所望して、両親に使いを出して寄越してきた。その使いの操る言葉は都人らしく丁寧で優雅だったが、根底には田舎者よと謗る性根がありありと見えた。そして、断ることを許さない圧力をにじませた内容に、娘の両親は困惑する。確かに、よい縁談ではある。しかし、返事をする前からこう高圧的では、もしもの時に助けを乞えないのではないか。それでは大切な一人娘を差し出すのに何の意味もない。結局、娘の母親が大いに反対して、この話は断ろうという結論に落ち着いた。都人のような分不相応ではなく、同じく田舎者でそこそこ強い家の、そこそこ誠意のある方に嫁げればよいのだ。
 そうして、丁重な断りの文を出して、それから一月も経たなかった。娘の生家は悪鬼の隠れ処とみなされて、都より差し向けられた軍勢により、あっけなく焼け落ちてしまう。

「わたくしには、まさに寝耳に水でございました」

 きらびやかな鎧に包まれた武人が大挙して、あまり若者のいない静かな村の家々に容赦なく火をつけてゆく。娘は何がなにやらわからぬまま、夜の山野を必死で逃げた。両親がどうなったかもわからない。家がどうなったかもわからない。混乱したまま、険しい獣道を走る。どうやら追っ手がかかっているらしい。篝火や、馬の嘶きが僅かに背を叩く。息が上がり、少し気を抜いたとたん、何かに蹴躓いた。あわや、倒れ込みそうになったところ、腕をとられ引き起こされる。

「あっぶな。大丈夫? お嬢さん」

 それが、朱点童子との出会いだった。



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