第二十二話


 その後、キャバレー・ハッテンにてご相伴に預かった茨城は、すっかり夜も更けた頃に衆合から閻魔殿付近まで戻ってきた。駅まですみれ達に送ってもらい、そのまま一人で電車に揺られ、最寄り駅で降り、静かな夜道をゆっくりと歩いている。星はないが、代わりに地獄特有の植物らしきものが時折不気味な笑い声をあげながら明滅を繰り返している。そのほかなじみの篝火や、時折宙をゆくおぼろ車タクシーの光で、あたりはあまり暗くない。黒縄と比べて、その差は明らかである。
 内殿への仮勤めになってから、茨城が与えられていた寮も内殿内への一室に移されている。閻魔殿内は広く、出仕する人員も多いながらなぜか部屋は有り余っているらしく、あまり人気はない。移った当初挨拶に赴いた両隣の部屋は空き部屋だった。生活に必要な類はおおむね備え付けられた、黒縄で与えられていた部屋よりも遙かに広く豪華な設えである。便利は便利だが、茨城にとっては正直、複雑だった。分不相応なものを与えられている気がするのだ。しかし、好意で与えられたものに文句を言っている場合ではない。一刻も早くこの部屋を使うに値する能力を身につけて、誠心誠意奉公するのが先だ。
 …などと、いつもならツラツラと考えごとをしたとき、その気持ちに行き着くなりフン、と両拳を握って気合いを入れるのだが、今はそれも億劫だった。口が渇いていて、もう溜息もでない。

(…なんだか、すごく眠いわ)

 笠の下に手を差し入れ、額を指で撫でながらぼんやりと思う。目を瞬かせても、瞼の重みはとれない。こういう時は身体が求めるまま眠るのがよいのだろうが、なんだか良くない夢を見そうで、それも気が進まない。本でも読むか、掃除でもしようか。ぼんやり考えながら進み、足はようやく閻魔殿内へ入った。そのまま、ゆっくりと部屋へ向かおうとしたときである。

「い、茨城さぁあん!」

 聞き覚えのある声音が大絶叫しながらこちらにやってくる。振り返ると、大粒の涙を流した木霊が突撃してくるところである。
 とっさに両腕を広げた茨城に、精霊は躊躇いなく飛び込んでくる。戸惑う茨城がおろおろとその背を撫でる。

「ど、どうされましたか!? なにか、」

 ありましたか、という声は再びの絶叫にかき消される。

「にににに逃げてくださぁい!」
「え?」
「お帰りなさい、茨城さん」

 大層平坦な声音で、篝火の隙間、暗闇の中から鬼灯が現れる。その後ろには枳殻がおり、なんともいいがたい顔でこちらを見つめている。同情と怪訝が相混じるその顔は茨城と鬼灯を二往復したあと、諦めがちに宙へ投げ出され、再び茨城に戻ってくる。茨城にはその表情に見覚えがあった。あれだ。ハッテンの控え室においてあったテレビで、現世の番組がやっていた。異国のサバンナとかいう自然に暮らす野生動物を扱う内容で、肉食獣が獲物を捕食する様子が鮮明に映し出されていたのだが、まさにそれを見ていたキャストたちと同じ顔だ。
 戸惑う茨城が木霊を抱きながら僅かに後ずさる。官吏殿は決まりのように金棒をかつぎ上げ、どす黒いオーラをまき散らしながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「二人ともお揃いとはちょうどいい」
「な、なにがでしょう…?」

 鬼灯が寄る分、茨城もじりじりと後退する。腕の中の木霊が焦りながら手をぶんぶんと振り回す。

「ほ、鬼灯様、さっきから言ってますが話し合いましょう、暴力はいけません暴力は!」
「失礼な。私が女性に暴力を振るうわけがないでしょう。殴るのはアナタだけです」
「ぇぇええええ!? 差別!?」
「精霊は殴っても死にません。多分」
「多分すか…」

 枳殻のささやかなつっこみはスルーされ、状況についていけない茨城がそれでも物騒な気配に身を竦ませ、更に下がる。

「か、官吏様、ひとまず矛をお収めください。何かわたくしに不手際がございましたか?」
「不手際、」

 言うなり、あっと言う間に鬼灯の腕が伸び、茨城にとりすがる木霊の首根っこを掴み上げる。

「それを言うならコイツです」
「ぎゃぁあああああ! 死んだー!!」

 じたじたじた、と木霊が必死で手足をバタつかせるが、鬼灯の腕はビクともしない。呆気にとられていた茨城がはっと我に返り、高く掲げられた木霊に取り縋る。

「おやめください! こんな子供に乱暴なんて、」
「これは私やアナタより年上ですよ。その癖に」

 ぐ、っと鬼灯が僅かにふりかぶる。

「物の分別もない」
「ひぎゃぁああああああああ!」
「きゃぁああ!」

 ぶん、とひとふり、あらかたの予想通り腕一本で宙高らかに木霊を放り投げる。絶叫上げて頭から落ちかかる精霊を何とか受け止めようとした茨城の目の前で、突如木霊の姿がかき消えた。驚く彼女の横に、ポン、と音を立てて顔面蒼白の木霊が現れる。詰まった首元を押さえ、ガタガタと身を震わせている。

「マジで投げた…このヒトまじでブン投げた……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「九割九分死にかけですぅ…」

 木は繊細なんですぅ、と木霊がえぐえぐと泣き出した。おろおろと取り乱す茨城の後方より、鬼灯の平坦な声が続く。

「茨城さん」
「は、はい」
「笠を取ってください」

 突然の言葉に声もでず、茨城がぽかんと動きを止める。その前で、世紀末の住人のように金棒を手に叩きつけながら、鬼灯がほら、と言った。

「約束しましたよね。私が取れといったら取るって」
「それは、そうですが、い、今でございますか?」
「今です。今取らずにいつ取るんですか」
「いえ、その、でも…」

 ちら、と茨城が鬼灯の後方で佇む枳殻をみる。彼は先ほどから微妙な顔で棒立ちの呈だが、立ち去るような素振りはない。なんとか風向きを変えなければ、と焦る茨城が、泣く木霊を背に庇いながら身構える。

「な、何故いきなり、そんなことを仰られるのでしょう。せめて理由を…」
「あなたのお話を阿修羅王から聞きました」
「…え、」

 固まる茨城の笠の下を見透かすように、鬼灯がひたと視線を添えてくる。いつも冷たそうで、なにを考えているかいまいち読めなかった彼の目は今、僅かながらの怒りが見える。

「といっても一つだけ。後はアナタ自身に聞けとのことでした。ですから話していただきます」
「決定事項なんすか…」
「当たり前でしょう。私は上司です。職場でのホウレンソウは基本です」

 枳殻の小さな庇いたても一閃し、鬼灯がたしたしと叩きつけていた金棒を取り上げ、まっすぐに立ち竦む茨城を指す。

「アナタ、鬼ではありませんね」

 ビク、と茨城の肩が揺れた。両の手を胸の前で握りしめ、身体が僅かに後退する。鬼灯は特に距離を詰めることなくその様子を眺め、沈黙した両者はしばし相対した。立ち直ったらしい木霊がおろおろと立ち上がり、何事かを言う前に鬼灯が金棒をおろす。

「いえ、正確には、完全な鬼ではない。…ここまでいってもまだ取りませんか」
「ほ、鬼灯様! ちょっと落ち着いて話を、」
「いいえ!」

 木霊の庇い立てを遮り、茨城が珍しい大声を上げた。胸に手を当て、すー、はー、と一度深呼吸をして、沈黙。そして深編笠の顔が上がった。

「大変失礼致しました。約束は、約束ですもの。…申し訳ありません」

 小さな謝罪とともに、茨城の手が躊躇いがちに笠の縁に掛かる。両手を構え、後は持ち上げるだけだが、再び固まって沈黙する。
 風がとおり、また戻り、そのまま五分ほど経過した。

(長ぇ…)

 状況を猫背がちに見守っていた枳殻が生唾を飲み込みながら反芻する。そこではたと気づき、そのまま、前方に佇む鬼灯にひそひそと話しかける。

「つか、アレって取れるんですか…? たしか神器とかいう呪いのアイテムなんじゃ…、」

 鬼灯が振り返らずに頷いた。

「可能でしょう。ご本人ならばね。余人には解けないが本人ならば解ける、孫悟空とは真逆のパターンみたいなものですよ。ですから、いつぞやのときのように逃げ果せる事は出来ません」

 語尾は、どうやら茨城に向けて言い切ったらしい。その言葉に触発されたのかどうか、華奢な肩がぐっとこわばるのが見えた。彼女は笠に手をかけたまま再び僅かに俯き、大きく息を吸い、吐いてを繰り返している。そんなに厭なのか、と枳殻の胸に若干の憐憫が湧き上がってくる。しかし流石の官吏様、鬼灯は再び口を閉じ、茨城をじっと見つめたまま黙って成り行きを見守っている。やがて、ふーっと大きな吐息が上がる。長い長い葛藤の末、えい!という気合いとともに、封印されし竹の深編笠は宙に舞った。



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(今度こそ)





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