第二十話


「お久しぶりです、阿修羅王。本日はお日柄もよく」

 鬼灯が全く膝を折らずに、立ったまま軽く会釈した。このヒトまじ歪みねェ、と枳殻が憤死しそうになる前に、おう、とやかましく野太い声が挙がる。

「久しぶりやの、地獄の若造。まあ入りや。堅苦しい挨拶はいらん」

 そういって、ぞんざいに手招いてくる。その指には大小さまざまな石の指輪がはまっており、ぎらぎらと好き勝手に輝いている。そうこうする間に案内の女が挨拶をして下がり、室内は阿修羅と鬼灯ら三人になった。手招かれるまま鬼灯がスタスタと進むので、枳殻も戦々恐々と続く。そしてついに、阿修羅王との謁見を果たすのである。
 まず、でかい。物理的に大きな人物である。今は椅子に腰掛けふんぞり返っているが、それでも目線は直立不動の枳殻と大差ない。閻魔大王と並んでも引けを取らないか、それ以上の筋骨隆々たる巨漢である。その巨漢はお世辞にも趣味がいいとはいえないエンジのスーツに身を包み、シャツは黒、雑に緩めたネクタイは驚きの玉虫色だ。浅黒い肌に、黒々とした髪をすべて後ろに撫でつけ、とどめのごとく薄紫のサングラスである。透けたレンズ越しに、ひと睨みで千人は吹き飛びそうな視線を投げて寄越してくる。

「そっちのガキは誰や?」

 睨まれるやいなや思わず気を付けの姿勢をとった枳殻を、鬼灯は振り返らずに手で示す。

「私の部下です。どうしてもついてくると言い張りまして」
「いや、ちょっ、」
「なんや、茨城は置いてきてそんなガキ連れてきよったんかい。気ィ利かんのぉ!」

 そういって豪快に笑い、そのまま握ったワイングラスを煽る。手酌で継ぎ足しながら、で、と続ける。

「わしの茨城に何ぞ文句があるらしいな」

 先ほどまでとは打って変わって、思わず目を瞑りたくなる声音だった。葡萄酒がなみなみと満ちるグラスを握り、その手ごとでこちらを指し示してくる。

「お互い忙しい身や。特にこっちは戦争中じゃからの、下らん話にまごまごと付き合っとられんのや。あの女の何が気に食わんのか、とっとと言ってみい」

 阿修羅王はそういってグラスを置くや、傍らの卓から今度は葉巻を取り上げた。ぶん、と無造作に太い指を振ると、その先に一瞬火花が走る。そのまますうう、と葉巻を吸い上げ、豪快に煙が吐き出された。

「ふざけた因縁やったら、わかっとるやろな」

 うぉ死んだ、と枳殻が固まる前、鬼灯が軽く頷いた。

「勿論です。こちらもわざわざ時間を割いていただくのに、下らない言いがかりなどで訪れたり致しません」
「ほんならなんや。早よ言え」
「では単刀直入に。茨城さんはなぜ地獄へお越しになられたのですか?」

 ん? と枳殻が鬼灯の方をみた。官吏は枳殻の斜め前にいるので、その顔は少ししか見えない。その少しだけ垣間見える顔はいつも通りである。
 どういう意味や、と阿修羅王が返す。

「いえ、そのままの意味です。なぜ修羅界をでて地獄へ?」
「本人の希望や。わしは反対やった」
「ですから、その希望の理由は?」
「…旦那や。あいつのクズ亭主が地獄におるからや」
「それは朱点童子ですよね」
「え!?」

 ついうっかり枳殻が声を上げた。しまった、とあわてた頃にはもう遅いが、叫んだ口を思わず両手で塞ぐ。しかし、目の前でやり合う男共にはどうやら関係ないらしい。
 阿修羅王がイライラと手のひらで葉巻の火を潰す。

「お前、何が言いたいんや。下らん話はせんのとちゃうんか?」
「ええ。これは大事な話ですので。茨城さんの夫はあの朱点童子で相違ありませんね?」

 重ねて言う鬼灯に、阿修羅王はしばらく黙った後に頷いた。

「そうや。あのスケコマシのいけ好かんクソ餓鬼が、茨城が心底惚れた男や」

 言い切ってから、はぁ、と阿修羅王がしみじみといった溜息を吐いた。どうやら自分の台詞に呆れたらしい。

「なんでよりによってあんな男をなぁ…、他にもっとええ男が山のようにおるやろ。こればっかりはわしがなんぼゆうても聞かん。ほんま、強情でええ女や」
「ですが、そうなると一つ問題が」

 しみじみと語る阿修羅には目もくれず、鬼灯が淡々と言って人差し指をたてる。阿修羅が憮然とした顔で顎をしゃくった。

「なんや」
「茨城さんが朱点の妻だというのなら、現世で無法を成した悪鬼もあの方ということになる。私は今日それを確かめに参りました」
「はぁ!?」

 今度こそ枳殻が詰め寄った。上背のある鬼灯の肩になりふり構わず取り縋る。

「ど、どういういことですか!? あのヤンキーっぽい女じゃなくて茨城さんが犯罪者!? いや、ていうか朱点童子が旦那ってなんすか? じゃああのイケメンは!?」
「最初に疑問を感じたのはいつぞや衆合であの方とお会いしたときです。まあ、アナタには後で追々説明します」

 そういって枳殻の手を払い、鬼灯は再度阿修羅に向きなおった。阿修羅王は特に何もいわず、肘掛けにもたれ掛かって頬杖をついている。鬼灯が枳殻に捕まれたあたりの着衣を直しながら、そもそも、と続ける。

「"いばらき"という名を聞いた時、我々獄卒が考えつく相手は通常ただ一人です。最初から気になってはいたんですよ。頑なに顔を隠し、既婚者ということも伏せる。職を転々と変え、最後には地獄を離れて修羅界へ身を隠した。端から見れば逃亡ととれませんか?」

 しばらく、阿修羅は沈黙した。指輪のはまったゴツい手で髭の濃い顎を撫でさする。

「…わしが茨城を推薦した。それを不服っちゅうんか」
「いいえ、ただ疑わしきは罰せ、というやつです」
「いやそれ間違った日本語ベストスリーじゃ…」

 置いてきぼりだった枳殻が辛うじて突っ込み、やや立ち直る。しかし相手方二人はどこ吹く風で鷹や虎の如く身構え、襖の登り竜のように隙無く睨み合ったまま、リアクションはない。音がしそうなほど緊迫感募る場面で、それ以上何も言えない枳殻の脳はめまぐるしく動き、今の今まで鬼灯から語られた単語単語を反芻する。
 茨城が、あの赤毛ヤンキーの、嫁…?
 しかも心底惚れてる、だと……?
 いや、ない。
 ないない。絶対ない。ないぞ! ないったらない! まさか、何かの間違いだ…!
 枳殻が場も忘れて半笑いで首を振る前、にらみ合いを切り上げた鬼灯がなおも淡々と言い募る。

「獄卒とは、地獄において重要な責務を負う公務員です。どんな思惑が有ってのことかはわかりませんが、その公僕に身分不確か、ましてや犯罪者など、到底迎え入れるわけには参りません」
「ほう!」

 阿修羅が銅鑼声で吼えた途端である。ガシャン!とガラスの割れる派手な音があがった。身構える枳殻が音の方へ目を遣ると、デキャンタとワイングラスが粉々に砕け散っている。葡萄酒が血のように滴ってゆく。

「ようほざいたのぉ! おんどれ嵩が鬼の分際で、このわしに説教する気ィか!?」

 そういって、拳を振りあげ、いかにも重厚そうな傍らの卓に叩きつけた。途端、ものすごい音と火花が弾け、卓は見事にまっぷたつである。その音を聞きつけたのかどうか、先ほどまでぴったりと閉じられていた後ろの襖が喧しい音を立てて豪快に開き、わらわらと強面の面々がなだれ込んでくる。

「頭ぁ!なんぞありましたか!?」
「このクソガキ共が無礼でも言いよりましたか!」
「おいコラてめーらァ! 頭に舐めた口きいてんじゃねぇぞ!」
「殺すぞコラァ!!」

 表で遭遇した黒服はなんだったのか、現れた全員がド派手で胡散臭いスーツ姿で、口々に喧しく罵りながら威嚇してくる。ぎゃああ!と思わず悲鳴を上げてとびすさる枳殻をよそに、官吏は未だ涼しい顔である。がなり立て、囲み込んでくる集団を掌で制しながら、鬼灯が変わらぬ呈で激高する阿修羅王を見上げる。

「誤解なさいませんように。今のはあくまで、茨城さんが茨木童子だったら、という話です」
「ぁあ? おどれが今そう言うたんやろが!」

 文字通り火花を散らし、犬歯をむき出して怒る阿修羅王に、いえ、と鬼灯が首を振る。

「私自身、今日まで自分なりに彼女を見た結果、どうもそれは違うだろうと判断しました。先日我々の管轄で"茨木"と名乗るいかにもな方が現れましたし、その女性も自分こそが茨木童子だと言っていた。そもそも、あの聡明そうな方が如何に昔とは言えそんな黒歴史があるようには思えません」
「せやからなんや!」
「では、彼女はいったい何者なのか」

 鬼灯がまっすぐに腕を上げ、そのまま、五指をそろえて阿修羅を示す。

「それをご存じなのは、彼女をコチラへ推薦したアナタ様でしょう」

 指し示された怒れる阿修羅王は、暫く何もなにも言わなかった。ただじっと文字通りの火花を迸らせながら、微塵の怯みすら見せない鬼灯を睨んでいる。やがて、焦れたらしい取り巻きが頭ぁ!と再度叫びあげた。

「こいつら要するに、オレらの茨城にいちゃもん付けに来よったんすか!?」

 一人がそう言った途端である。ぁぁああああッ!? と先ほどよりも喧しい大ブーイングが飛んだ。オレら? と枳殻が狼狽する前に、青筋を浮き上がらせた修羅界の面々が鬼灯に殺到する。

「ふざけんなよ! 地獄のクソ共はなぁんもわかんねーのかよ!? 」
「あんっっっないいコ探してもどこにもいねーよ!化石だよ!シーラカンスだよ!」
「お前等の目は節穴かコラァ!!」
「ぃやかましいんじゃぁボケェエエ!!」

 他の誰よりも大きな、阿修羅の一喝が屋敷中に轟いた。それだけではない。鬼灯の胸ぐらを掴み拳を振り上げていた者も含め、激高していた修羅界の何名かが突然発火し燃え上がる。溜まらず悲鳴を上げて転げ回る彼らを見下ろし、阿修羅王は依然腰掛けたまま、足下に転がった卓の残骸をガンと蹴り上げた。

「大体おどれら誰が入っていい言うたんじゃ!? ぁあ!? ひっこんどれボケが!」
「ゲホッ、いや、頭、でも、」
「なんやお前、ワシに二度言わすんか?」
「い、いや、なんもないっす! すんませんでした!」

 ガキン、と噛み合った牙同士に再度ちらついた火花をみて、炎にまみれてもほぼ無傷らしい彼らは飛び上がって後退する。鬼灯と枳殻を憎々しげに睨めつけながら、覚えてろよ!との捨てぜりふを忘れない三下達を変わらぬ無表情で見送りながら、鬼灯が乱れた袷を正し肩を竦めた。

「頑丈ですね。さすが修羅界」
「いやその一言では説明つかん一連全て超常現象でしょ…」
「阿修羅王は神族ですからね。その眷族の方々も我々よりは格上ですよ」

 この台詞に、当の阿修羅王の鼻が鳴った。

「棒読みかい。ちぃとも思てないことを口にするのは好かんな」
「いえ、本心です」

 ブンブン、と掌を振って答える鬼灯に再度鼻を鳴らし、阿修羅は再び椅子に深く沈み込んだ。長くゴツい足をぞんざいに組み、不機嫌そうに沈黙する。鬼灯が再びぴしゃりと閉じられた襖障子を眺め遣りながら、しかし、と誰にともなく口にする。

「こちらでも彼女のサーガは健在のようですね」
「(サーガて…)オレらの茨城、って言ってましたもんね…」
「当たり前やろ」

 ピン、と人差し指をはじきながら、椅子に凭れる阿修羅が言った。

「お前ら、今まで茨城のなにを見てたんや? ああなるのが当たり前の女やろが」

 指先から生まれた小火は、あっと言う間に卓の残骸に燃え移った。火種は瞬きする間に焔となり昇華する。ごぉ、と霧散する熱風が軽く肌を嬲るが、絨毯やその他のものには焦げ一つ寄越さず、後には塵一つ、灰一抓みも残っていない。三昧真火という、目的だけを髄まで焼き尽くし、水では消えない原初の炎だ。帝釈天に敗れ修羅に墜ちたとはいえ、未だに火の唯一神と崇められる実力は相応のようだ。ゴクリ、と枳殻が生唾を飲み込む。しかし、怒りがひと段落したらしいヤクザは今度、物憂げに虚空を見上げて乙女のような溜息をつくのである。

「やっぱりお前らんところになんかやったんが間違いやったんじゃ。あいつは死ぬまでここに居ったらよかってん。そしたら、なーんも心配せんと暮らしていけたはずや。ほんで、ほとぼりが冷めたら、どこぞでわしがこれでもかいうくらいエエ男を見繕たってな、ガキの二、三人とっとと作って、普通の女の幸せを掴めたやろうに……はぁ」

 まるですっかりしょぼくれる親戚の親父である。鬼灯が突如申し訳ありません、と謝罪した。

「やはりお連れするべきでしたか」
「当たり前やボケ。ほんで、アイツは元気でやっとんのか?」
「はい、概ね。そこかしこでモテモテですよ」

 ね、となぜか鬼灯が枳殻に話を振ってくる。いやいやいやいや! と枳殻がブンブンと首を振るのへ、阿修羅王が鋭い視線を投げて寄越した。

「なんやガキ、お前茨城に惚れとんのか」
「え、いや、その、いや、惚れてるといいますかその、あれです、えーと」

 しどろもどろではっきりしない枳殻に些か苛ついたらしいが、結局阿修羅王は眉間にしわを寄せるだけで何もいわずにスーツの内ポケットを漁る。再び葉巻ケースを取り出し、火をつけた。

「お前、茨城のツラは見れたんか?」
「え!? いや、一度も…」
「ないんか。お前はどうや」

 語尾は鬼灯に向けてだ。官吏もありません、と首を振る。阿修羅王がふーっと煙を吐き出しながら再び枳殻に向き直った。

「ツラもわからん女に惚れたんか。何でや」
「何で、って…、そりゃぁ…」

 端的に問われ、枳殻が冷や汗をかきながら必死で考える。そういやなんでだろう。というか、そもそも自分は茨城に惚れているのか? まぁ、好きか、と問われれば好きだ。だがそれが何故、といわれれば、正直返答に困る。
 葛藤する枳殻を見下ろし、阿修羅が大きく鼻を鳴らした。

「言っとくがな、アイツはまさに"二目と見れぬ顔"やで。その辺よお踏まえて答え」

 マジか、とちょっと衝撃を受けた枳殻だったが、動揺しつつもなんとかかんとか口をこじ開ける。

「いや、顔とかそういう問題じゃなくて…せ、性格っつーか…」
「ほう。ほんならそれ具体的にいえるか」
「優しいし、控えめだし、健気だし頑張りやだし色っぽいし…?」
「なんや、ぶれまくっとるな」

 ふかした煙がちょっとした火事とみまごう位に立ちこめる。しばし阿修羅王が無言で葉巻を吸い、やがて再び掌で火を消した。ついでのように吸い殻も指で弾いて消し炭にする。最初から燃やせばいいんじゃね、と枳殻が冷静に思う前、阿修羅王が組んだ再び肘掛けにもたれ掛かる。

「じゃが、それが茨城や。程度の差こそあれ、あいつを好かん男はおらん」
「ベタ褒めですね」
「アホ。事実じゃ。アイツはそういう風にできとる。だから難儀なんじゃ」
「…? どういう意味でしょう?」

 鬼灯の問いに、阿修羅王は暫くレンズ越しに鋭い睨みを利かせていた。頬杖をついた指で器用に首筋をもんでいる。

「アイツがすみれのところにおったんは知っとるな」
「ええ、どういう経緯でそうなったかまでは存じ上げませんが」
「ほんでお前はそれが知りたいんか」
「そうです」

 鬼灯の肯定に、阿修羅もそうか、と頷いて返す。そのまま、阿修羅がおもむろにサングラスをはずし、胸ポケットにしまった。露わになって更に鋭くなった眼光で再度こちらを見渡してくる。

「話したってもええ。その代わりに、茨城をこっちに返してもらおか」
「え!?」

 驚きに声を上げたのは枳殻である。下がり気味だった体をビビりながらも前に出す。

「な、なんでですか!?」
「何でもクソもあるかい。ワシがその方がええと思ったからじゃ」
「い、いや、俺、じゃなくて僕はですね、茨城さんがいなくなるのを防ぐためにここに来たんであって、」
「知るかいそんなもん! そんなんお前の勝手やろが!」

 再びの阿修羅の一喝が熱風となって襲いかかってきた。間近で浴びた鬼灯は黒髪を靡かせるだけだが、枳殻は一気にドライアイである。目をしょぼしょぼさせながらも、でもですね! と枳殻が食い下がる。

「帰るか帰らないか、決めるのは茨城さんじゃないんですか!?」
「なんやと!?」
「だ、旦那さんの側にいたいから地獄に来たんですよね? それを邪魔する権利は誰にもないんじゃないでしょうか! そりゃ、俺にもないけど、少なくとも交渉ごとに使うなんて最低っすよ! ていうか、勝手を言ってるのはそっちでしょ!?」

 言いながら、だんだんとムカついてきた枳殻は若者らしく状況を見失いつつあった。聞き分けのねぇおっさんだな、と心の中で悪態をつき、留め金の外れた口から、でるわ出るわの理論武装である。

「大体、俺が茨城さんに惚れてるとか、そういうことを引き合いに出すあたりからしてお門違いなんですよ! こっちゃあ茨城さんを純粋に心配して、それで、なんとか力になれないかって、どうしたら今まで通り一緒に働けるかって、そう思って遠路はるばるここまで来たんすよ? それが好きとか嫌いとか、いまそういうレベルの話じゃないでしょ!? そういうの下世話っつーんすよ下世話!!」

 激情に任せて言い切ったところで、ガゴン、と枳殻の後頭部を不意の衝撃が襲った。加減はされているのかもしれないが容赦はない。脳天をつんざく激痛に枳殻が悲鳴も上げれずにうずくまった。

「部下が大変失礼を申し上げました。これにてどうかご容赦下さい。ほらほら、枳殻さんも謝って」

 鬼灯が謝罪しながら、ぐりぐり、と鋲のいかつい金棒の先でうずくまる枳殻に情け容赦ない追い打ちをかけてくる。枳殻はふぐぐ、とうなるだけで何も言わない。それもそのはず、ついでに舌も噛んでいたのだ。怒りの出鼻を挫かれたらしい阿修羅が憮然とした顔で沈黙しているのを仰ぎ見て、鬼灯が小さく肩を竦める。

「まぁ、言葉遣いはともかく、言っている内容はわからくもありません。確かに、こちらに戻るかどうかを決めるのは茨城さんです。そして彼女の現雇用主は地獄界です」
「…口出しすな、ってことか」
「そうではありません。阿修羅王のお話次第で、彼女の今後の契約更新を決める、と言うだけです」
「……ハン、」

 阿修羅が鼻を鳴らし、憎しみと愉快を込めた目で鬼灯を見下ろした。

「相っ変わらず、小賢し男やのぉ。いっぺんほんま八つ裂きにしてやりたいわ」
「私が死ねば地獄は一切立ち往かなくなりますので、ご容赦ください」
「いいよるわ!」

 がはは! と阿修羅が大口を開けて笑い声をあげた。どうやら先程までの不機嫌さは脱したらしい。ようやっと痛みも引き、ちょっと冷静になった枳殻がほっと胸をなで下ろすが、事態はそう甘くもない。阿修羅王は笑い声を下火にして、次いで実に悪そうに片方の口端を引き上げるのである。

「まぁ、ええわ。ほんなら茨城が帰ってくることを願って、教えてやろう。ただなぁ、何でもかんでもベラベラしゃべるわけにはいかん。アイツもそんなんしたら気ィ悪いやろうしな」

 フフン、と一笑いし、肘掛けから身を起こす。大粒の宝石をギラつかせた太い指を、先程鬼灯がしたように一本だけ突き立てる。

「一個だけ、エエこと教えたる。あとはアイツに直接きくんやな。言いよるかどうかはしらんで」
「構いません」

 鬼灯がいつも通りの表情で寸分迷わず言い切った。阿修羅王はそれを受け、修羅界の長らしく実に好戦的に笑い、言葉通りに一つだけ茨城について語り出すのである。



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