ようやく非番になった枳殻だったが、連日連夜の疲れもあってか、すっかり寝過ごしたのちに閻魔殿へ飛び込んだ。既に地獄の陽は高く昇り、官吏や亡者でごった返しの大賑わいである。こうなるともう、いかな獄卒相手といえど、ヒト探しは容易ではない。そもそも茨城がどこへ配属されたのかすら知らないわけだが、何せあの目立つ見た目である。誰であっても尋ねればある程度のことはわかるだろう。
そう思い、早速目に付いた相手に声をかけてみるのだが、状況はあまり芳しくなかった。さきほどから知らない、今日は見ていない、ごめんなさい急いでるんで! の三拍子である。本部っつーのはこれだから…、と息を吐き吐き半ば無意識に進んでゆくと、足はどうにも慣れた道ばかり選んでゆくらしい。はたと気づけば内殿へ入り、あと少しで閻魔大王の間にたどり着く内廊に佇んでいる。このまま先まで突き進めば、十中八苦今日もあの顔の怖い官吏殿がいるに違いない。
ワサビとカラシをいっぺんに頬張ったような顔で逡巡することしばし、やがて、深く長い溜息を吐いたのち、枳殻はそのまま、前へと足を動かし始めた。嫌みやからかいの一つや二つを受けてでも、彼から茨城の場所を聞いた方が確実で手っとり早いだろう。しかし、気が重いものは重い。何せあの官吏の毒は半端ない。確実に相手の内腑を抉り、それがまた長く尾を引くのだ。もやもやと展開や嫌みの口上を予想するにつけ、また胸の重いものがせり上がる。それは再度、はぁあ、という長い溜息になった。
「やだなぁ…またなんかえげつないことでも言われるんだろうなぁ…」
「たとえば?」
「性懲りもなくきたんですねこのむっつり野郎、とか? ってうわああああぁぁっ!」
なんつーお約束!と叫んで、枳殻は茨城のために持参した手みやげを放り投げてとびすさる。そこには案の定件の官吏殿が佇んでおり、いつも通りの睨んでいるのか眠いのか、亀のつり目の無表情である。先程までちらとも気配を感じさせなかったくせに、現れたとたんの存在感だ。鬼灯はそのまま、枳殻が落とした風呂敷包みをひょいと拾い上げ、埃を払いながら逃げ腰の彼に渡してやる。
「ご機嫌伺いですか。見上げた心意気ですねこのむっつり野郎」
「性格悪ィ…!ほんと性格悪ィ…!!」
「アナタが言ったんでしょう」
枳殻が歯噛みしながらしぶしぶと包みを受け取った。ちなみに中身はお菓子だ。万国共通女子受けのいいマカロンにしてみたのだが、今の一連であの繊細な造形が無事かは危うい。はぁあ、とまたしても溜息をつき、改めて鬼灯をジト目で睨んだ枳殻があれ、と疑問符の声を上げる。
官吏殿はどこかへ向かう途中なのか、肩に担いだ決まりの金棒の先に軽い荷が括りつけられている。軽装ながら、官服もなんだかいつもと違いよそ行きだ。
「どっか行かれるんですか?」
思ったまま首をひねり尋ねる枳殻へ、鬼灯は軽く頷いて返す。
「はい、ちょっと修羅界へ」
「へーそれは遠いところへ…って、え!?」
「いいリアクションです」
枳殻の反応にそう返し、では、と官吏は会釈してそのまますたすたと進み出した。いやちょっと待て、と思いながら枳殻が慌てて追い縋る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、え、まさか茨城さんのことで!?」
「まあ、そうですね」
「そっ…、え、いや、じゃ、じゃあ俺も! 俺も行きます!」
気づけば、枳殻は力任せにそう叫んでいた。そして忽ちに躊躇と後悔が逆戻りするようにして口から胸へと突き抜けてゆく。
所詮、自分と茨城は職場上での付き合いに過ぎない。もっと言えば、こんなにも気になっているのは自分だけであって、彼女はこちらの名前すら、正しく認識しているかすら危ういのだ。それを踏まえて、茨城はこれ以上の詮索を、果たして許してくれるのだろうか。この葛藤を正しく見抜いたらしい官吏は肩越しに振り向き、いつも以上に玲瓏な瞳でとっくりと枳殻を見つめてくる。
「アナタが来て、どうします。言うまでもないとは思いますが、私は前以上に彼女の事情を暴くつもりですよ。元々そういうのがお嫌いだったんじゃないのですか?」
「それは、まぁ…、」
そのとおりである。でも違うのだ、正しく言うと、ちょっと違うのだ。枳殻が頭の中でなんとか綺麗な言葉を見繕っている前、鬼灯がやおら嘆息した。振り向きかけていた身を正面へ戻す素振りを見せる。
「誤解されませんよう。責めるつもりはありません。むしろ、一般的な処世術としてはアナタが正しい。その葛藤を培ってこられたご自身のスキルに自信を持つべきです。熱くならず、本気にならず、斜に構えて画一的な落としどころを見極めるのも気概のいることですし」
言葉どおり、その声音には侮蔑や嘲笑の類は一切含まれていなかった。だが何故か、鬼灯のこの言葉が怒りとは別に枳殻の脳を焼いた。焼ききれた頭はせっかく整えかけていた言葉を霧散させて、衝動のままに信号を送る。
「俺、行きます! いえ、連れてってください、お願いします!!」
跳ね上がるようにして腰を折り曲げ頭を下げ、枳殻が声高らかに叫ぶ。その勢いはそれまで忙しなく行き交っていた獄卒たちの足を止めるほどである。だが、いかにも若者らしい何某かの向かい合う相手が第一補佐官殿とみるや、内殿勤務で磨き上げられた彼らは光芒一閃、光より速く視線を逸らし、何事もなかったかのようにして去ってゆく。鬼灯は何もいわない。枳殻がそのままの体勢で叫ぶように続けた。
「俺、黒縄をよりよくしようとか、そういうことぶっちゃけあんま考えてないです。でも、少なくとも、茨城さんが来てくれたおかげで、なんかちょっとマシになりました。きっと俺だけじゃない。俺らみんな、よくわかんないけど、ちょっとマシになったんですよ。だから今まで陰口ばっかだったけど、あんな風に言いたいことも面と向かって言うようになったんだと思います。それがいいとか悪いとかじゃない。けど、きっとなんかがある。俺はそれが知りたい。それには彼女が必要なんです! 余計なことして嫌われても、まぁ、厭ですけど、でも、俺めっちゃがんばります!」
我ながらむちゃくちゃだ、と頭を抱えたくなりながらも、枳殻は大声で言い切って、そのまま鬼灯の沙汰を待った。官吏はお約束のように聞こえないふりをして立ち去ったり、いつぞやのように寝をやっているということもないようだ。何か、思案をしている気配を感じる。まさに沙汰を待つ沈黙の前、ごくり、と枳殻の喉が鳴る。
「支離滅裂ですが…、」
ウッと慄く枳殻の前、鬼灯が僅かに首肯した。
「なんとなく言いたいことはわかります。あの剣幕の怒鳴りあいが長時間続いたとあれば、その後の雰囲気がどうなったかは想像に難くありませんしね」
「それは、今後、うまくやります!」
「では、それは茨城さんのことがなくても可能ではありませんか?」
「駄目です! ここまできたら、あの、あれです、寄りかかった船です!!」
「寄りかかってどうするゆとり」
は!?と枳殻が顔を上げた。素早い鬼灯の突っ込みも、どうもピンときていない様子で狼狽えている。今度こそ官吏の本気の嘆息が落ち、ややあって、彼は頷いた。
「まぁ、いいでしょう。そこまでいうのであればついてきて構いません」
「えマジすか!?」
まさか、この読んで字の如くの鬼上司を説得できるとは、露とも思っていなかった枳殻が思わず叫んだ。何か言いたそうな、しかしよくみるとそうでもなさそうな怜悧な面が一時口をつぐんだが、ややあって、再びしっかりと縦に頷いてみせる。
「マジです。むしろ、その方がいいのかもしれません。私だけで話を聞くと、どうも配慮に欠ける恐れがありますし」
「? というと…、」
「好意を持っている方が親身になって話を聞く方が、より効率的かもしれないと言うことです」
「ここここここここ好意っていやいやいやいやなにもそこまでつーか好意っつーかこれは先輩として当然っつーかむしろヒトとしていや俺ヒトじゃないけど」
「ではとっとと行きましょうか。日帰りにするつもりなので、そのままで結構ですよ」
わたわたと忙しなく手を振る枳殻には目もくれず、鬼神は今度こそ再びスタスタと歩き出した。一人で葛藤していた枳殻が我に返り、慌てて後を追う。その寸での所で手の中の荷を思い出し、あ!と素っ頓狂な声を上げた。鬼灯は一応歩を緩め、視線だけゆるりと投げて寄越してきた。
「あの、すんません。せめて挨拶だけでもしてきていいですか? ここまで来たし、その、これも渡したいし…」
そういって、先程放り投げた包みをおずおずと差し出す枳殻に向かい、官吏はぽんと掌を打つ。
「ああ、そうでした。言い忘れていましたが今ここに茨城さんはいませんよ」
「はぁ!?」
「今日はお休みです。で、出かけられたようです」
「また!? あ、そうか、旦那か…!」
ぺしっ、と枳殻が己の額を叩き、そのまま頭を抱えた。鬼灯は特に何もいわずに黙ってその姿を眺めている。やがて、はっとしたように枳殻が鬼灯をみた。
「でも、危なくないですか? あのヤンキー女が道中また襲ってきたりしたら、」
「まあ、平気でしょう。アナタのいうところの旦那さんが迎えに来てましたし」
「え」
「ちなみに今日は気晴らしにショッピングらしいですよ。仲睦まじいことですね」
「え゛」
うぇえ゛、と枳殻が喉元を押さえてヒキガエルのような声を出す。鬼灯は暫くまるで毒殺最中のような人相の枳殻を眺めていたが、ややあって今度こそきびすを返し、わき目もふらずに進み出した。
地獄と修羅の行き来自体は容易だが、いかんせん距離的に遠いことは否めない。多忙の官吏殿はとっとと行って帰ってきたいのが本音である。その後ろを、今度こそ無口になった枳殻が微妙な顔で続く。修羅界に赴くとは即ちその首領である阿修羅王との謁見である。それにしては着の身着のままでよいのだろうかという訴えが頭の片隅から上がったが、間もなくして黙殺された。上司がいいといっているからいいのであろう。若干自棄になっていたとき、ああ、と前をゆく鬼灯がついでのように口を開く。
「枳殻さんは修羅界は初めてでしょう」
「はぁ、まぁ…、ていうか、行った奴なんてそうそういないんじゃないすか?」
「確かに。修羅界と銘打ってはいますが、事実上阿修羅王の居住ですからね。では一応注意しておきます」
「注意?」
服装はともかくとして、礼儀とかそういうことか? と枳殻が首を傾げる。それなら恐らく問題ない。目上の人に目通り願うとき、無難に切り抜ける最大の術は口を利かないことだ。黙っていれば誰かが勝手に喋って自滅するか上手くいく。この場合、鬼灯という上司がいるわけだし、特に話す機会などもないだろう。そう高を括っていた枳殻を知ってか知らずが、ええ、と鬼灯が続ける。
「修羅界は一筋縄でゆくような処ではありません。特に、阿修羅王は己にも周囲にも厳格な方です。そこにたどり着くまでも、着いてからも、不作法を働くと」
「働くと…?」
片棒を担ぎなおしながら、鬼灯が内廊の戸を押しあける。
「死にます。フツウに」
六道とは六つに分かたれた界の総称であり、転生とはこの界へそれぞれの業に従って生まれ直し、また堕ちることである。地獄はその再下層、現代風に言うと地下に位置する罪と罰の世界だ。その上を餓鬼、畜生と続き、人界と天にほど近いところに、雷鳴と暗雲、極彩色に輝く七虹に彩られた修羅界がある。
修羅界は帝釈天と争い続ける阿修羅が己のためだけに作り上げた界である。そもそも阿修羅は現世で悪鬼王と誤解されがちだが、元をたどれば天に属する歴とした神族だった。ある日、彼が目に入れても痛くないほどかわいがっていた娘が突然妊娠を告げるや家を飛び出し、そのまま相手の男の処へ居着いてしまう。世に多くの父と同じく、文字通り怒髪天を突いた阿修羅は娘を孕ませた男、同じく神である帝釈天に戦を仕掛け、応戦した彼らの一派と争い続けるうち、釈迦を初めとした天部衆の反感を買うことになる。しかし彼はそこで矛を収めるどころか、日和見の天界を飛び出し、己が執念の赴くまま業の世界を作り上げたのだ。
故に、常に争いを求める心のものがここへ堕ちる。
「一説では帝釈天が無理矢理娘を手込めにしたとされてますが、お嬢さんは昔から相手の男とつきあっていたらしいんですよ。何せ元々父親と折り合いが悪かった相手だったので、中々言い出せなかったようですね。で、まあ、成り行きとしておめでたになり、ようやく打ち明けたら頭ごなしに大反対。そこで説得するどころかキレて出奔するところが血の絆を感じます」
「…めっちゃくそ詳しいっすね……」
「当時私はすでに地獄にいましたから。あの時の一大ゴシップでしたねぇ、懐かしい」
「…ていうか、なんでそんなに余裕なんですか……」
枳殻がひきつった小声でそういった。二人は先ほど六道間を走る特急に乗り、一応停まる修羅界で降り、今は目的である阿修羅王の居住前に佇んでいる。そもそもこの界は阿修羅の住処と行って相違ない。それしかないのだから、降りたら目の前、は当たり前である。しかし問題はそこではない。この外観である。枳殻が首を上に傾け、壮大な大門を見上げながら、ぼそり、と呟いた。
「俺、鬼灯様がフツウに死ぬっていう意味、違う風にとってました…、これフツウに死にますねマジで」
「だから言ったでしょう」
平然と答える鬼灯の斜め後ろで、再び枳殻が生唾を飲み込む。その彼らの前に聳える建屋はこうだ。
身長の二倍はある塀は終わりが見えず、もれなく外側に僅かに反り返っている。正面、段差五段ほどの御影石の階段を上ると、杉の一枚板で作られた見上げるほどの大きな正門が待ちかまえる。滑らかに瓦の布かれた切妻屋根のある棟門だ。今は左右に開かれ、白く美しい玉砂利の道が先に続き、遠く、果てには立派な屋敷が見えている。正門から屋敷までは一本道であり、余計な植木や回遊路などは一切見あたらない。広大な土地は清々しいまでの見晴らしである。
そして一際目を引くのは、この表札だ。表札、と言っていいのかどうか、門の外側向かって右あたりに、分厚い焼板に太く、力強い字体で「阿修羅組」とある。ここまでくればもうあれだ。あれしかない。仁義とか任侠とかを重んじながら大抵のことを暴力で解決するあの方々のお住まいだ。そして決定打のように黒スーツサングラスの大鬼二名が、先ほどから異邦人であるこちらを明らかに注視し、威嚇している。片方がスーツの胸ポケットに手を入れたあたりで、鬼灯が歩を進めた。ヒィイと枳殻が恐れを成す間に、恐れ入りますが、と強面に声をかける。
「先般ご連絡させて頂きました鬼灯と申します。阿修羅王にお目通り願えますか」
鬼灯に声をかけられたスーツは特に何もいわず、そのまま無言で胸元を探り、二つ折りの携帯を取り出した。どこかへかけ、何事かを小声でやりとりしている。もう一人はビビりまくる枳殻をじっとみつめ、微動だにしない。さっそくついてきたことを後悔し始める枳殻の前、どうやら話が付いたらしいスーツがバチン、と携帯を畳んで仕舞った。
「着いてこい」
端的な渋い台詞である。鬼灯がどうも、と軽くいなしてそのまま歩を進めるので、枳殻も頭の中で叫びながら足を前に動かす。階段を上がりきり、大門を潜る。その間にも視線は四方八方から寄せられているようである。
門前の二人はどうやら見張りのようで、潜ったとたんにまさにどこからともなく、という風に同じ風体の男二人が現れる。そのまま、鬼灯の前、枳殻の後ろにつき、屋敷までの道なき道を進む。玉砂利が歩く度に軽妙な音を立てて散らばり、人界に似た明るい陽光の中白く輝いている。足下には落ち葉一つ、枯れ草一つ見あたらない。これでもかと言うほど整備された庭である。庭と呼んでいいのかどうか、庭ってこんなに睨まれながら歩くところだっけ、と枳殻が魂をとばしかけている間に、屋敷正面へ到着する。
屋敷も一際大きな構えだ。遠目に見たときは古びた屋敷にしか見えなかったが、さぞかし梁も立派だろうと感じさせる年季の入った建築である。おそらく何層か階が積まれているのだろうが、近づきすぎると見当もつかない。そして、これまた大きな玄関が到着と同時に絶妙なタイミングで静かに開く。どうやら、中は中でまた別の者が案内するようだ。前と後ろについていたスーツがすっと横に離れ、そのまま、入室する鬼灯と枳殻の一挙手一投足を注視している。
「こちらへどうぞ。阿修羅様がお待ちです」
今度現れたのは、お仕着せの女中服を上品に着こなした女鬼である。額に三双の角を戴き、僅かに白髪交じりの黒髪をすっきりとまとめあげている。やや年かさだが、おそらく枳殻の母よりは若い。いかにも出来るといった風なその女は僅かに口角をつり上げ、二人に視線を投げた後に、くるりときびすを返す。
室内は意外にもやや洋風である。段通の赤絨毯が隙間なく床を覆っており、扉も引き戸ではなくドアだ。入ってすぐ、廊下は前、左右とに別れ、一行は左へ曲がる。閻魔殿にこそ劣るが、その先は果てが遠い外廊下だ。直進すると今度は右に曲がり、その後二度、三度と廊下は蛇行する。そのうち、屋敷の奥まったところへ入ったらしく、硝子越しに僅かに見える景色は一変した。先ほどの殺風景さとは打って変わって、庭木や置石も雅な庭園が現れる。恐らく私的な空間なのだろう。すでに帰り道はわかるか危うい。そういう風にできている屋敷なのだ。
痛む胃を押さえながら更に進み、やがて、両開きの襖戸が現れる。ご丁寧に八方睨みの龍が墨絵で大胆に描かれており、その左右には赤備えの甲冑が控えている。女が何事か声をかける。程なくして、襖が内側からあけられた。どうやら次の間らしく、八畳ほどの空間の奥、また襖障子がある。表と違い装飾も控えめなその戸を、中に控えていた男二人が左右に押し開いた。
帰りたい。マジ帰りたい。くるんじゃなかった。ちょっとがんばろうとか思うんじゃなかった。
扉が開いた瞬間、枳殻は走馬灯のごとく、ちょっと前にカッコつけた自分を思いだして、その頭をかち割りたくなっていた。
奥の間は広く、葬式でも披露宴でも何でもござれの畳間である。その上に、緋色の絨毯を敷き、籐の低い椅子に腰掛ける人物がいる。傍らには黒壇の卓子、その上に硝子のカットも美しいデキャンタが載る、中身は日に透けて輝く葡萄酒だろう。揃いのワイングラスに注がれ、今は、椅子に座る人物がゆっくりと口に含んでいる。
「お連れいたしました」
案内役の女がそういい、三つ指そろえて額付いた。ゆっくりと、椅子に腰掛ける人物がこちらをみる。