昼日中に勃発した黒縄地獄内・社員vsパートの戦いは熾烈を極めた。双方決して譲らぬ心構えでお互いの不満をぶつけ合い、言ってはいけないレベルのことも勢いに任せてぶちまけあう。結果、元々限界近くまでひび割れていた亀裂は決定的なものになり、漂う雰囲気の修復は困難なレベルにまで落ち込んでいった。
枳殻は鬼灯に言われたとおり、しばらくは無益な戦いを傍観者とレフェリーの気持ちで見つめるだけにした。一歩退いた身軽な身でお互いが言っていることを纏めると、要するに社員はパートのわがままに耐えかねており、パートは社員の使えなさに堪忍袋の尾が切れているらしい。どっちもどっちだと呆れはしつつも、少なからず感心してもいた。
新卒そこそこの自分からすれば、程度の差こそあれ、一定のレベルで仕事を捌く彼らは手慣れていても熱意ややる気からは程遠く見えた。もっと有体に言ってしまえば、つまらない連中だな、と思っていたのだ。毎日毎日、代わり映えのしないことを繰り返してゆくうち、そこそこに出世して、偉そうになってゆく。きっとそれが普通なのだろう。嫌悪に近いものを抱きこそすれ、だからといってどうこうするつもりも無い自分も、遅かれ早かれああいう風になっていくのだろうと、そう思っていた。
でも、先ほどの怒鳴り合いを聞く限り、なんだかそんな単純な話ではないらしい。怒気にまみれたきつい言葉の応酬は、裏を返せばそれほどの思いがあるということである。熱意とか、やる気とか、コレはそんな次元の話じゃないようだ。ならば一体彼らの怒りと諦観の真意は何処にあるのか。眉根を寄せて考え込む枳殻ががなりあう彼らを睨んでいると、ようやっと上長が青い顔で走ってきた。我に返った枳殻が疲れた息を吐き出して視線を切り上げる。そして、これまた鬼灯の言うとおりに速やかに状況を報告するのである。
一連のもめ事勃発をなるべくオブラートに包んで言い、茨木嬢の刃傷沙汰についてはまるっとなかったことにした。ただ、ちょっと頭のアレな人が乱入し、すったもんだの末に鬼灯が無事退けたということにして、上長もそれで納得したらしい。茨城のことはどう説明しようか、と悩んでいたのだが、どうやらその辺りは先に鬼灯が手を回してくれていたらしく、聞いているよ、という一言で終わった。その上長の口から彼女はしばらく本殿の勤務になると告げられて、一同はそれぞれに微妙なリアクションを披露した。男性陣は至極残念がり、女性陣はまた贔屓か、と歯噛みしている。
その後は三々五々に解散となり、枳殻はひとまず先ほど茨城をはぎ取った先輩連中に詫びに行った。二、三の小言と容赦ない一発を食らい、晴れて無罪放免となる。体育会系はこのあたり苛烈だが、分かりやすくて助かるのである。ついでに、茨城は確かに衆合にいたが飲みには行っていないと訂正もしておいた。此処までやれば十分だろう。
「いってぇ…」
殴られた頬をさすりながら、枳殻は夜勤明けの身を引きずって官舎を目指す。幸い、後数日すればまた非番だ。その時には、茨城の様子を見に行くつもりである。
別れ際の彼女は、なんだか随分しょんぼりと落ち込んでいた。勝手な印象だが、茨城は所作や風情こそ儚げなものの、中身は案外ガッツのある女子だと思う。今まで誰に何をいわれてもまっすぐに背を伸ばし、へこんだり、しょぼくれた様子を見せたことはなかった。その彼女が一目でそうとわかるほど落ち込むなんて、よっぽどあの茨木嬢の来襲が堪えたに違いない。
まあ、自分が行ってどうなることでもないだろう。それどころか、彼女にしてみれば関係ない自分が口を挟むなど、傍迷惑な話かもしれない。だが、やはり此処まで付き合った身だし、自分は彼女の先輩に当たるわけだし、職場の同僚としても、ちょっとくらいは心配しても罰は当たらないだろうし…と、悶々と頭を抱えているうちに、見慣れた寮の自室にたどり着く。そのままウンウンと唸りつつ、着替えもせずに寝台へ飛び込んだ。
地獄の夜も吹けた頃、歓楽街は目にまぶしい光に溢れていた。キャバレー・ハッテンの今日の営業も概ね恙無い。すみれは最近落ちてきたような気がする視力を気にしながら、収支の帳簿をつけつつ算盤を弾いていた。顔には赤縁にチェーンをつけた細いフレームのめがねが載っている。ひのふの、と調子よく計算を続ける彼女の元へ、ママァ、と一人のオカマがやってきた。
「ちょっといーい?」
「なに、しょうもないことだったら張っ倒すわよ」
顔を上げずに切り返すと、相手はいやぁん、といちいち科を作って盛り上がっている。暫く放置すると、なんかね、と真顔に戻った相手が何事もなかったかのように続きを話し出す。
「ママにどうしても逢いたいってコが来てんの。何回か断ってるんだけどぉ」
「じゃあ断り続けろ。それでもテメー男か」
「やだ! ママだって身体は男じゃない! いや、じゃなくてぇ、なんかえっらい男前が、茨城のことで話があるなんていうもんだからさぁ」
「はあ?」
すみれが手を止め、顔を上げた。どうやら本当に困り果てているらしいオカマが人差し指同士を突付き合わせ、唇を突き出している。はぁー、とすみれが長い溜息を吐いた。
「茨城のことを聞いてくるやつはたたき出せっつってんでしょ。どうせまた勘違いストーカーか、あのクソ女の手下よ」
「んー、なんかね、違うみたい。上司だ、とか言ってて…」
「ん?」
「今、ロビンとギスモが相手してるんだけど、なんか全然間が持たないの。あたしらじゃ無理よーぅ。ね、ママお願い!」
パン、とオカマが懇願に手を打ち合わせる前に、すみれは椅子を蹴立てて立ち上がった。
帯の位置を正し、袷を直して髪を整えてから、猛ダッシュで着物を捌き店内通用口の戸を開ける。薄暗くもきらびやかな店内が目に飛び込んでくる。客の入りは上々で、今はショーも終わり、ゆったりとした漫談の時間帯だ。あちこちで野太い歓声が上がる中、ひときわ静かな奥座席が有る。あそこか、とめぼしをつけて近寄ると、既にウイスキーの空瓶がごろごろと転がる席のど真ん中で、今は焼酎を手酌で飲む人相の悪い鬼が居た。
「こんばんは」
「…やっぱアンタか」
背の高い座席に肘をつき、まるで接客中の態度ではないそれですみれが舌を打つ。先ほどのオカマが言っていたロビンとギズモの姿は既にない。すみれがチラ、と辺りに視線をやると、遠くのほうで手を振る二人の姿が見える。バツの悪そうな様子とテヘペロをした顔から見るに、どうやらこの鬼神に推し負けたようだ。フン、と鼻を鳴らしてすみれがどっかりと席に座る。
「何の用よ。こちとらアンタと話す事なんかこれっぽっちもないけれど」
「まあそう仰らず」
そういいながら、今日は変装をしていない鬼灯が空のグラスになみなみと焼酎を注いだ。流石に官服は脱いでいるが、ごく普段着らしい目立たない着流し姿だ。キャストと客の立場が逆のことにすみれの自尊心が刺激されたらしい。実に不本意ながら鬼灯の手から瓶を奪い、ほぼ空になっている彼の器を満たす。乾杯はせず、暫く二人とも無言で杯を煽った。暫くのち、で、とすみれが切り出す。
「茨城になんかあったの」
「ちょっと落ち込んでいらっしゃるようなので、そのお話で参りました」
「落ち込んでる? 珍しい」
小首を傾げながら、すみれが肩を竦める。鬼灯がグラスから口を離し、珍しいのですか、と訊いてくるのへ、すみれが当然のように頷いた。
「あのコは根性のある子よ。あんまり口に出す性格じゃないけど、こうと決めたら何であってもやり通す。オカマ顔負けの肝っ玉よ」
「ああ、なるほど。確かにそんな感じですね」
「そんな子を落ち込ませるなんて。やっぱアンタんとこはブラック企業ね」
この言葉に、いえいえ、と鬼灯が手を振った。
「随時昇給あり、有給・寮完備、アットホームで明朗快闊な職場ですよ」
「いってな」
ハ、とすみれが笑い、再度焼酎に口をつける。鬼灯はグラスを置き、腕を組んで背もたれに凭れ掛かる。
「では前置きはコレくらいにして。今日、朱点童子の奥方である茨木童子が、ウチの茨城さんを襲いに来ました」
「ちょ、それホント!?」
すみれがダンッ、とグラスを机に叩きつけて身を乗り出した。鬼灯が軽く頷く。
「ものすごい剣幕で刃傷沙汰になりかけましてね。追い払いはしましたが、いずれまた近いうちに来襲するでしょう。あ、今のところは閻魔殿へ避難していただいているのでご心配なく」
「そう、…ひとまず礼を言うわ」
苦虫を噛み潰したような顔ですみれがそういった。その矛先はどうにも馬が合わない様子の鬼灯ではなく件の烈婦のようで、あのクソメス、と口汚く罵っている。
「また性懲りもなく出張ってやがんのね」
「お知り合いですか」
「知り合いなもんですか。向こうに迷惑掛けられてるだけよ」
すみれが袂をあさり、ジッポとタバコケースを取り出した。どちらも揃いの革張りで、銀には蝶と薔薇の彫金が施されている派手な粋物だ。細いタバコを取り出し、荒々しく火をつける。
「あんたも見たならわかるでしょ、どがつくほどの嫉妬深い女でね。旦那の浮気相手をあちこちで探しだしては物理的に潰して回ってんのよ。思い込みも激しいからとんだ勘違いで襲われる子も多いし迷惑してんだけど、あのドラ息子の嫁だからね。ここいらの連中はみんなおいそれと手なんか出せやしない。烏天狗警察なんてクソの役にも立たないしさぁ」
「まぁ、彼らも努力しているようですけど」
「色町とアレは結果が全てよ。まとにかく、最悪の女ね。茨城も苦労して逃げ回ってたのに…やっぱり獄卒なんて止めるべきだったかしら」
「何故、茨城さんは茨木童子から逃げ回っているのでしょう」
「はぁ? そりゃアンタ、あの子は、」
そこまで言って、すみれはタバコを吸う手とともに口を動かすのをやめた。しばらくじっと鬼灯を眺め、やがて再びすぅう、と深くタバコを吸い上げる。婀娜っぽく口から細い紫煙を吐き出しながら、危ない危ない、とすみれが呟いた。
「えげつないわねぇ。コッチが油断してるときにさらっと訊いて来るんだから、危うく余計なことまで喋っちゃいそうよ」
「さすがですね。大体の人は今の流れで口を滑らせてくれるんですが」
「性質悪いわ」
ふぅ、とすみれが軽く鬼灯に煙を吹きかけた。官吏はそれを何処吹く風で往なし、置いたグラスを再度取り上げて焼酎を口に含む。すみれが口の端を少しあげて笑った。
「でも、ちょっと見直したわ。獄卒なんてみんな似たようなモンだと思ってたけど,アンタ中々ブッ飛んでるわよね」
「そうですか」
「茨城の事もとっとと見限ると思ってたけど」
三分の二ほど吸い切ったタバコの吸殻を、クリスタルのカットも美しい灰皿に押し付けながらすみれが皮肉げに笑った。鬼灯は顔を向けずにグラスを煽りながら、いえ、と無表情で言う。
「今時珍しい真面目な方です。向上心もありますし、きちんと働きたいという意思を持つ方を無碍にするのは阿呆のすることですよ」
「そんな阿呆が多いのよ」
「そうかもしれませんね」
すみれがじっと鬼灯の顔を見つめる。
「アンタ、あのコの事情でも聞きに来たわけ?」
「それもありますが、別件もあります」
「そ。じゃあその別件とやらだけを聞かせて頂戴。アタシからあのコの事はなぁんにも話さないわよ」
「やはりそうですか」
鬼灯が無表情で何度か頷いた。すみれはそんな彼を再度鼻で笑う。うーん、と鬼灯が表情を変えないまま首を傾げ、再び空になったグラスを机に置いた。途端、すみれがさっとグラスを取り上げ、備え付けのワゴンから新しいグラスを出す。心地よい音を立てて丸くカットされた氷をいれ、並々とウイスキーをそそぎ入れた。マドラーでかき混ぜ、滴を拭く。すっと鬼灯の前に差し出すまで、一連すべてが美しい流麗な動きである。
「いっとくけど高くつくからね」
「存じております。しかし不思議です」
「なにが」
「いえ、所作が茨城さんと全く同じだなぁと」
この言に、すみれはフフンとふんぞり返った。
「当たり前でしょ。あのコにお酌を仕込んだのはこのアタシなんだから」
「しかし全くテンションが上がりません。それどころかダダ下がりです」
「うるせーよ黙って飲め」
「で、話は変わりますが」
いきなりの男声に全く動じることもなく、鬼灯は言われるままグラスをとり、度数の高い酒を水のように口づけながら、ついでにように切り出した。
「朱点童子はよくこのお店にいらっしゃるのですか」
「…へ? そっち?」
面食らったらしいすみれがきょとんと聞き返す前で、鬼神は瞬きで肯定してくる。やや面食らいながら、そうね、とすみれが頷いた。
「まあ、よくっていわれちゃ微妙だけど。来ることは来るわよ。ホントは出禁にしたいけど」
「それはやはり、態度の問題で?」
「決まってんでしょ」
なるほど、とつぶやき、鬼灯がグラスの残りを煽って飲み干す。おかわりを次ごうとしたすみれを制し、では、と続ける。
「支払いはいつも現金ですか? ツケではなく」
「まあそうね、払いはいいわよ。親のお金で羽振りもいいから単価の高いものじゃんじゃん頼んで暴れて帰っていくのよ。その点ではまぁ絞り甲斐のある奴だけど」
「父親が来ることはありますか?」
「それはないわね。あの狸親父はオカマに興味ないみたいだし、こないわよ」
「なるほど」
「なぁに、変なこと聞くわね。用事ってそれなわけ?」
すみれが微妙な顔で言うのに、鬼灯は真顔で頷き返す。
「はい。こちらも色々ありまして、朱点童子とその父親を以前から烏天狗警察とともに追っているのですよ」
「へぇ、どんな理由で?」
「それはもちろん、」
鬼灯がキセルを取り出し、そのまま手早く火をつける、ふう、と息を吐きながら、すっと切れ長の目ですみれをみる。
「秘密です」