第十五話


 朝だ。
 むくりと身を起こした枳殻は、窓から差し込む陽の光に目を細めながら、ぼーっと虚空をにらみつけていた。硬直することしばし、ゆっくりと首を巡らしてあたりを確認する。ここは間違いなく寮の自室である。そのまま己を見下ろすと、昨日着ていた外出着の小袖がしわくちゃに寝乱れている。足下にはぞんざいに置かれた鞄、キャスケットがあり、あの一日はどうやら夢ではないらしい。

「おれどうやってかえってきたんだっけ…」

 喋ったとたん、こめかみに鋭い痛みが走る。うなりながら頭を抱えて、ひとまず立ち上がった。異常に喉が乾きを訴えている。備え付けの水道からコップに水を注ぎ、ふらふらになりながら口を付けていると、コンコン、と戸がノックされた。

「ふぁーい」
「お、起きてるか。開けるぞ」

 そういうなり、ガラガラと引き戸が開けられ、入ってきたのは先輩数人だった。手狭な一人部屋に大の男が集まると途端にむさ苦しい。なんすか、と枳殻が水を飲みながら訊くと、早速寝台に腰掛けた先輩の一人がおまえさぁ、と興奮気味に言う。

「覚えてねーのか、昨日のこと」
「いや…、ちょっとぼんやりとしか…、え、な、なんかまずったんすか俺」

 わざわざ言いにくるなど、よっぽどの事があったに違いない。焦った枳殻が訊くのに、銘々に好きな位置へ陣取った彼らが揃って顔を見合わせる。その顔は少し同情的というか、不憫なものを見る目だ。やがて、うち一人が言いにくそうに口火を切った。

「おまえ、昨日鬼灯様に抱えられてここまできたんだよ」
「うぇえッ!?」
「茨城さんも一緒だったけど…、おまえ何してたわけ?」
「え、うそ、まじすか、え」

 ぜんぜん覚えていない、と口にしたところで、薄ぼんやりと記憶が浮かび上がってきた。しばらく無言で頭を抱え、細く頼りないその糸をたぐり寄せていると、確かに茨城を見た、気がする。それで、そのそばには確か…

「あーーーー!!!!」

 突然大声を上げた枳殻に驚いた先輩数人がビクッと肩をはねさせ、そのままうるせぇ!と枳殻を小突く。すんません、と謝りその拳を避けながら、枳殻は口元を手のひらで覆い、身を屈める。勘違いしたらしい先輩ズがとっさに身を引いた。

「お、おい、吐くなら便所行けよ!」
「あ、いや、ちゃいますちゃいます、ていうか、えー…」

 そうだ、そうだった。茨城の旦那とやらに遭遇したのだった。そこでなにやら鬼灯と静かな言い争いを始めたところまでは、辛うじて思い出した。しかしそこからは完全にブラックアウトである。

「先輩、俺完全に寝てました…?」
「寝てるっていうか、落ちてるっていうか、五体倒置の勢いであの鬼灯様に担いでもらってたよ」
「うわぁああああああああ…」

 再び頭を抱えた枳殻が膝から崩れ落ちて蹲る。そんな枳殻を哀れみの目で見遣りながら、先輩たちが枳殻の肩を叩いた。

「よりによって鬼灯様になァ…、お前、死んだな」
「遅いだろうけど、いちおう謝りに行って来いよ…」
「…そうします……」

 幸い今日も夜勤だ。閻魔殿まで行ってから出勤しても十分間に合うだろう。そう考えてから、枳殻は再び恐る恐ると顔を上げた。

「っていうか、茨城さんも居たんですよね…?」
「いたよ。で、おまえらなにしてたわけ?」
「あー…、俺は、鬼灯様の付き添いで衆合に行ってました。で、そのまま飲む話になって、たしか帰りの電車で茨城さんに会ったんですよ」
「はぁ? 茨城さんが衆合にいたの? なんで?」
「さあ、それは…」

 旦那さんに会いにじゃないすか、と言いかけて、枳殻は口を噤んだ。どうやら茨城は既婚者ということをあまり公にはしていないようなのだ。ここで余計なことは言わないほうがいいかも、と思い、黙り込んだ枳殻は、幸い不審には思われなかったらしい。そんな彼の前で、先輩連中の話題は茨城のことへ移っている。

「意外に飲みに行ったりするんじゃないか? 昔の友達とかとさ」
「え、まじかよ。じゃあ誘ってもいいんじゃないか?」
「でも俺こないだ、勇気を出して携帯番号聞いてみたんだよ。したら携帯持ってないってさ。どうやって家族とか友達と連絡取るんだろ」
「そりゃオメーが厭だから嘘吐いたんだろ」
「はぁ!? そんなわけねーだろふざけんな!…ふざけんな……」

 相変わらずモテモテである。彼らの多くが夜勤メインの勤務者であるにも拘らず、朝昼勤務者の茨城の名はこんなところまで通っている。かわいい子が居る、と聞いて見に行き、その風体に最初は引くのだが、言葉を交わすうちにすっかりメロメロに落ちるのである。つくづく、恐ろしい女性だ。

(でも、なんで旦那さんと暮らさないんだろ)

 てっきり遠くに住んでいるとか、あまり仲が良くないとか、そういう理由があると思っていた。しかし、昨日見た限りではとても親密そうだった。ならば一緒に暮らし、夫の居る身だと公言したほうが余計なトラブルに巻き込まれる可能性も少なくなるだろう。なのに何故。

(もしかして、やっぱり魔性の女なのかな…)

 他人の心の内など推測するしか他ない。そしてそれを判断する材料は,外見や言動などだ。その上で茨城は貞淑とみなされているが、果たしてそれは事実なのか。それは本人のみぞ知るところである。
 信じてあげたいけれど、何を信じてよいのかわからない。枳殻の心には、昨日聞いた前職関係者の証言が色濃く落ちていた。






 その後、ひとっ風呂を浴びてさっぱりした枳殻はそのまま閻魔殿へ向かった。相変わらず人の出入りの激しく、にぎやかな大門を抜け、まっすぐ亡者の列を追い越して閻魔大王の座す本殿へ向かう。今日はいつもより込み合っては居ないようで、人ごみを身軽に交わした枳殻は呆気なくなにやら閻魔大王と話し合っている鬼灯を発見する。顔を見た途端、とてつもない緊張に襲われた彼が思わず渋面を作って歩む速度を緩めたところで、目ざとい官吏がこちらを向いた。巻物を巻きなおしながら、平素と代わらない無表情で呼びかけてくる。

「枳殻さんじゃないですか。どうかされましたか」
「あ、いや、その、昨日のお詫びに…」
「ああ、そんなことですか。別に構いませんよ」

 軽く言い切った官吏は、言葉どおり怒っている様子も無く、いつもどおりの素っ気無さである。冷徹な彼らしくさぞかし厳しい御叱りが待っていると覚悟していた枳殻は、その妙なまでのあっさりとした態度に思わず口をあけた。

「え、それだけすか?」
「どういう意味です」
「いや、ほら、反省してるなら証拠として血の池地獄でも遠泳して来いとか言われるんじゃないかと…」
「いいですねそれ、ちょうどむしゃくしゃしていたところなので錘でもつけてやっていただきましょうか」
「うそですすんません! 昨日ともども大変失礼しました! あとごちそうさまでした!」

 大声で言い切った枳殻が直角に腰を折った。体育会系らしい挨拶である。鬼灯はそれを見て鼻を鳴らすだけだが、高座でなにやら判を押していたらしい大王がなになに?と声をかけてくる。

「どしたの? なんかやらかした?」
「なんでもありません。大王は四の五の言わずに仕事してください」
「四の五のって君ね…、えーと君、枳殻君だっけ?」
「あ、はいそうです」

 鬼灯の一閃も受け流し、気安く声をかけてくる人物は相変わらずでかい。黙っていれば迫力ある人相に人のよさそうな笑みを浮かべて、やっぱり、と頷く。

「最近の鬼灯君のお気に入りだよね。どう、順調?」
「順調、といえば、まぁ、それなりに…?」

 ちら、と鬼灯の顔を伺うが、彼は特に何も言わず黙々と書類整理を続けている。聞いているのかすら危ういが、下手なことは言わない方がいいだろう。しかし、慎重なのは枳殻だけらしい。

「聞いたよぉ〜昨日二人して飲みに行ってたんだってね? いいなぁ、わしも行きたかったなぁ。何で誘ってくれないかね?」
「仕事の終わりに話の流れでそうなっただけです。わざわざ示し合わせて行ったわけじゃないですよ」

 やはり聞いていたらしい。的確に両断する彼の切り返しにも全くめげず、閻魔大王はでもでも、と続ける。

「あの子も居たんでしょ? あのかわいい子。なんだったっけ、茨城ちゃん?」
「いや、一緒には飲んでない…」
「あの子かーわいいよねぇえ〜!あんな子が傍でやさしーく補佐なんかしてくれたら、わしも仕事がんばっちゃうかもしれないんだけどなぁ〜」

 枳殻の弁解は聞かず、語尾は鬼灯に向けて言い切った大王だったが、嫌味を向けられた官吏殿は全く何処吹く風で書類を渡しに来たほかの官吏の応対をこなしている。流石鋼の精神、と枳殻が退室するタイミングを計っていると、ぐぬぬ、と懲りない大王がさらに言い募る。

「鬼灯君もさ、何となくあの子には優しいよね。気に掛けてあげてるみたいだし? 困るよね〜私情を挟んじゃ業務に支障が」

 びゅん、と何かが飛来し、閻魔大王の頬すれすれを掠って大理石の床に落ちた。高い音を立てて跳ね転がるそれは、今しがた書類の受け取りにサインをしていた鬼灯発の万年筆である。
 そのまま、固まる周囲もなんのその、何事もなかったかのように袂から予備の筆を取り出した鬼灯が業務を再開した。すらすらすら、と筆が走るささやかな音がする。

「うん、まぁ、わしには君が必要です…」
「お褒め頂き光栄ですよ」
「(褒めてねぇ…)…あ、じゃあ、俺はこれから仕事なんで、これで…」
「ああはい、わざわざご苦労様でした。茨城さんにもよろしく」

 鬼灯がそういって枳殻をねぎらい、再度大王と鬼灯に頭を提げた枳殻がきびすを返そうとした、まさにその時である。

「ちょっとあんたたち、今いばらきって言った?」

 良く通る女の声に場の全員が振り向く。ひっそりと列を成し順番を待っていた亡者を押しのけ、巨漢の牛鬼を二名従えた金髪の若い女が仁王立ちでふんぞり返っている。猫目で化粧も濃いきつい顔立ちだが、中々の美女である。肌も露な装束のその女は何もリアクションを起こさない一同に苛ついたのか、行儀悪く舌打ちしてちょっと! と毛を逆立てる。

「人のはなし聞いてンの? いばらきって言ったのかって訊いてるんだけど!」
「言いましたけど」

 すらりと答えたのはやはり官吏殿である。おおぅ、と枳殻が感動していると、フンと鼻を鳴らした女が更に詰め寄ってくる。

「で、その女今どこにいるわけ」
「此処には居りません」
「だから、どこにいるのよ?」
「というか、どちらさまですか?」

 鬼灯の平坦な切り返しに、それまで成り行きをぽかんと傍観していたほかの官吏が我に返る。

「そ、そうだそうだ!ここが閻魔殿と知っての狼藉か!」
「いくらのんきな閻魔様でも無礼千万だぞ!」
「暢気って…」

 置いてけぼりの最高責任者を他所に、警備に当たる強面の鬼も出張ってくる。また面倒事かー!と枳殻がじりじりと後退する前で、女はフン!と再度鼻を鳴らしてふんぞり返った。その額には二双の角が生えている。

「あたしは茨木、茨木童子よ。本物のね!」
「偽者が居るんですか」

 すかさずの突っ込みにだから!と苛立った女が更に鬼灯に詰め寄った。相手を知らぬのか、そのまま彼の胸倉を掴みあげる。

「それを探しにきたらアンタらが話してたから聞いてるんでしょ!とっとと教えなさいよ!」
「(ヒィイイイ血の雨が振る!)ちょ、ちょっとお姉さん、落ち着いてくださいよ!」
「うっさい、ガキは引っ込んでな!」

 枳殻の嘆願は唾棄すべき勢いで切り伏せられた。周りがあせりを通り越して真っ青になるのも何処吹く風で、細腕に袷を抓り上げられている鬼灯は特にどうといった風もなく、では、と質問を続けている。

「アナタが朱点童子の奥方の茨木童子、というわけですね」
「そうよ、よく知ってんじゃない」

 え、と枳殻が目を見開いた。それと同時に衆合地獄で垣間見た派手な男の容姿が蘇り、目の前の美女と照らし合わせて、なるほど!と合点が行く。どこからどう見ても似合いの派手な成金ヤンキーカップルである。
 しかし名を茨木とは。どうも字は違うらしいが、あの奥ゆかしい茨城とはまるで正反対の容貌である。残酷な偶然もあるもんだ、としみじみと枳殻が目の前の美女を眺める。一方、自分のことを知っている相手に満足をしたのか、茨木と名乗る美女はひとまず鬼灯から手を離し、フフン、と鼻を鳴らした。どうも癖のようだ。

「知ってンなら話は早いわ。アンタも鬼ならあたしに協力しといて損はないはずよ。とっとといばらきと名乗る女の居場所を教えなさい」
「まぁ、教えて差し上げなくはないですが」
「何よ?」
「何故、いばらきと名乗る方をお探しなんですか?」

 最もな疑問である。そうだそうだ、というか鬼灯様に何たる事を、と他の鬼が野次を飛ばすが、後ろに控えた筋骨隆々の牛鬼がブオゥ!と吼え、なよい文官を黙らせる。口をへの字に曲げた美女が、般若の形相で虚空を睨みあげた。

「決まってんでしょ! あのクソ馬鹿が他所に女を作っちゃいばらきって名乗らせてるもんだから、いっこいっこ潰して回ってんのよ!」
(ん…?)

 いま、何か、重要なことを訊いた気がする、と枳殻が眉根を寄せて思案に沈む。その前でですが、と鬼灯が変わらぬ声で言い募る。

「アナタの言うその浮気相手のいばらきさんが、我々が今話していた方と一致するとは限らないでしょう」
「そんなことどっちでもいいのよ!一旦会ってあたしが見極めるわ!白なら殴る、黒ならもっと殴る!」
「物騒な」

 吐き出すように言った鬼灯だったが、やがて、まあいいでしょう、と嘆息交じりに続けた。

「我々が言ういばらきさんは獄卒です。今は、黒縄地獄でお勤めですよ」
「ちょっと、鬼灯様!?」

 ゲロってどーする!と焦る枳殻が詰め寄るが、後の祭りである。その様子を真実らしいと取った茨木嬢はニヤリと婀娜っぽく笑い、長い金の髪を背に払いながら、満足げに鼻を鳴らした。

「どーもありがと。世話掛けたわね、壊したものがあったら衆合の朱点宛に請求しといて頂戴!」

 行くわよ!と取り巻きに声をかけ、見事なモンローウォークで踵を鳴らし去ってゆく。嵐のような入退場である。なんだったんだ、とやっとざわつき始める周囲を他所に、目を吊り上げた枳殻が鬼灯に詰め寄った。

「何考えてるんすか!? あんな物騒な女を茨城さんに近づけるなんて!」
「ここは閻魔殿です。騒ぎを起こす場ではありません」
「だからって、アンタ官吏だろ! 部下売ってどーすんだ!」

 見損なった!と吐き捨てた枳殻が鬼灯に背を向けて走り出した。若さからか、あっと言う間に殿内を走り抜け、見えなくなる。あーあ、と閻魔大王が嘆息し、見事な紫壇の机の上で行儀悪く両肘をついた。

「怒らせちゃった。意地悪しなきゃいいのに」
「してません。向こうが勝手に誤解しただけです」

 誤解されやすいんですよね、私、と鬼灯が枳殻が消えた方を眺め遣りながら言った。その台詞に閻魔大王は半笑いである。

「それに気づいていながら改めようとしない処が、君の君たる所以だよ…で、どうするの」
「行きます」

 間髪入れずに言い切ったと同時に鬼灯は書類を裁ききり、決裁可の文箱へ納める。そのまま、円柱の陰に立てかけてあった金棒を担いで、では、と閻魔に挨拶をする。

「小一時間ほど出て参りますが、くれぐれもさぼったりなさいませんように」
「わかってるよぉ、鬼灯君こそがんばって!」

 ヒーロー遅れて参戦する!ってやつだよね、とニコニコ顔の閻魔をしばし眺めていた鬼灯だったが、やがてくるりときびすを返した。そのまま進み、離れたところで、ぼそりと呟く。

「もし、少しでもさぼった形跡が見られたら、その時は彼女に胸倉を捕まれた鬱憤分もあなたに払ってもらいます…」
「わし関係なくない!?」

 ていうかやっぱりムカついてたんだ…、と閻魔が慄くのを後目に、今度こそ鬼灯はスタスタと出ていった。



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