地獄の終電も現世と同じく各駅停車である。この時間、衆合地獄から他へ移動するものは極端に少ない。皆朝帰りを覚悟した上で夜通し遊び呆けるか、そもそも帰る気がない猛者ばかりだからである。のろのろと進む車内もほぼ人気がなく、三人がいる車両に至っては貸し切り状態である。ロングシートには枳殻、鬼灯、茨城の順に腰掛け、今のところ特に会話はない。枳殻は乗り込んだ当初はうつらうつらと船を漕いでいたが、今は完全に鬼灯へ寄りかかり爆睡している。特になにを言うでもなく好きにさせている鬼灯だが、無表情ながら確実にキレている顔とオーラに圧倒された茨城は居た堪れずに下を向き、気まずい沈黙に耐えていた。
(…どうしよう)
言いたいことがあるのだが、到底言い出せる雰囲気ではなさそうだ。プワァア、と間の抜けた汽笛が沈黙の合間を滑ってゆく。
「仕事は無事終わったんですね」
唐突に鬼灯が言った。おもわず顔を上げた茨城の先、鬼灯は向かいの車窓を眺めていて、横顔しか見えない。その内容はまさに今考えていたことだ。こちらが口火を切る事柄だったにも拘らず、後手に回ってしまったことを悔いながら、小さく喉を鳴らした茨城は恐る恐ると頭を下げた。
「はい…、結局先輩方に助けていただきました。その節はお見苦しいところをお見せしまして…」
「いえいえ」
そこでまた沈黙が降りる。ゴトゴトと線路の間隙に波打つ車内に同じく、座席も、三人もゆらゆらと揺れる。その、と茨城が呟いた。
「助けて下さったのは等活地獄のお三方でした。わたくしが居たあの道を、鬼灯様に言われて通りかかった、と」
「確かに、他部署へ見学に行くようには言いましたね」
それが何か、と返された茨城は以上を言えず、一度口ごもる。しかしやがて、ありがとうございました、と小さく頭を下げた。
「過程はどうあれ、本当に助かりました。わたくし一人では結局間に合ったかどうか…」
「それはそうでしょう。どう見繕ってもおひとりでこなす量ではありませんでしたし」
にべもない鬼灯の言葉に、茨城は苦笑したようだ。腿の上で行儀よく重ねた手を握り直す。
「やると言い切ったのに、情けないですね。もう少し工夫して励めるように致します」
「その心がけは立派ですが、素直に周りへ助けを求めるのも一つの手段ですよ。アナタが一言手伝ってくれ、と言えば、喜んで手を貸す方は沢山居るようですし」
「…そうですね」
しみじみ、といったように茨城が頷く。被った笠が動きにあわせてふらふらと傾いた。
「そのあたり、わたくしはかわいげがないのでしょう。素直に、とは目から鱗です」
この言に、鬼灯は僅かながら嘆息する。
「茨城さんは真面目ですねぇ、もっと聞き流して下さってよいのですよ」
「いえ、そんな」
「私が適当なことを言ってるだけかもしれませんし」
「適当なのですか?」
「さあ、どうでしょう」
「…ふふ、」
吐息を漏らすように茨城が笑った。笠の隙間から手を差し入れ、口元を押さえている。
「同じことを、今日ある方にも言われました。わたくしは真面目で頑固でやっかいだと。適当なことを言って下さる方が、あるいは身になるのかもしれません」
「それは先ほどの?」
鬼灯の問いに、茨城がこっくりと頷いた。なるほど、と鬼灯も得たりと軽く肩を竦める。もたれ掛かる枳殻の位置を片腕で調整しながら、車窓に置いていた視線を茨城の笠へと移した。
「すみれさんは面倒見がよいのですね」
「…お気づきでしたか、」
少し驚いた様子の茨城に、鬼灯はやや呆れ顔である。
「見ればわかりますよ。あの顔に厚化粧をすればそのままです」
「確かに…、すみれさんはお美しいですから」
些かずれた回答をする茨城に、しばし鬼灯が黙り込んだ。電車はまた一つの寂れた駅に止まる。開いた戸からふわり、と風が吹き込み、僅かに沈丁花のような香りが舞い込む。
「尤も、この方は気づいていませんでしたが。すみれさんをアナタの旦那さんだと信じてますよ」
そういって揺れが収まったのをいいことに、そろそろ堪忍袋の尾が切れたのか、鬼灯が枳殻をべりっと引き剥がした。そのままヘッドロックよろしく角ごと頭を掴み、シートの背もたれへ有無を言わさず押しつける。握力が強めな所為か枳殻が苦しげに呻いたが、結局は起きずにそのまま爆睡を続けている。
ふたりして無言で枳殻のゆるみきった寝顔を眺めていたが、やがて茨城が僅かに嘆息した。
「その方がよいのかもしれません。夫のことはあまり…、その、」
「知られたくない?」
「まぁ…そうですね」
曖昧に濁す茨城を、鬼灯がじっくりと見つめてくる。笠越しながら、その先を促されているのを肌で感じた茨城は、僅かに唇を噛む。
「立場のあるお方なのです。わたくしがここでこうしていることが知れると、恐らくお困りになるでしょう」
「おや、では旦那さんは茨城さんが獄卒になったということはご存じないのですか」
「…ええ」
茨城が歯切れ悪く明言を避けるのは、言わずもがな先ほどのすみれの忠告があったからだ。この官吏と先輩獄卒は、なにか思惑があって茨城のことを探りにきたのだ。下手なことを言ってしまわないように、間違いのないように、と苦心する茨城は、鬼灯のあ、という軽い声と手を打つ音に思わず驚き、肩を跳ねさせた。官吏は掌に拳を重ねたまま、常と変わらない色のない顔で茨城を見つめている。
「まるで尋問みたいになってますね。失礼しました、答えづらいでしょう」
「あ、いえ、そんな」
「すみれさんから聞いているでしょうが、昼間に我々でハッテンへお伺いしました。茨城さんの在籍が本当かどうか確かめるためです」
いきなりすらすらと語りだした鬼灯に驚いた茨城は、笠の下からぽかんと口を開け鬼灯を見つめ返した。声も表情も変わらないながら、鬼灯はそのまま、なんてこともない風にハッテンへ訪れた理由を語り出す。
「偶然にも、私も枳殻さんもハッテンが生物学上男性しか就業できないところだと存じておりまして、よもや茨城さんも故あって性別を隠してらっしゃるのではないかと思ったのです。しかし、女性と思しき方に改めて性別を訊くなど憚られるでしょう? それで、手っとり早く店側に問い合わせたのです。別件で衆合に用もありましたし、ついでのようなものです」
淀みない鬼灯の弁を聞いた茨城は、やや圧倒されながらも黙って頷いた。そのまま何度か頭を縦に振り、告げられた言葉を順繰りに消化してゆく。程なくして、彼女は安堵したように小さく吐息を漏らした。
「そう、だったのですか…。確かに、仰るとおりです。わたくしもご説明するべきでしたね、失念しておりました」
律儀に詫びる茨城に鬼灯がいやいやこちらこそ、と首を振る。ですが、と茨城がおかしそうに吹き出した。
「よもや殿方に思われていたなんて。そんなに女らしくないのでしょうか?」
堪えきれない様子で笑う茨城に、鬼灯が若干眉根を寄せて虚空を睨む。
「茨城さんがどうこうというより、ハッテンをはじめとした一部の方のスキルが高すぎるのです。仕草も声も女性らしい方が多いでしょう。見分けがつかないのですよ」
「ふふ、そうですね。こんなものも被っておりますしね」
そういって茨城は己の顔の周りを囲む、深編笠の表面を手のひらで撫でさすった。竹はひんやりと冷たく、丁寧にささくれを落としたよい感触がする。
「女性の身ながら、ハッテンにお勤めされていたのは事実なんですね?」
鬼灯が訊くのに、茨城は頷いた。
「短い間ではありますが、裏方で細々とした雑事を賄っておりました。勤め、と呼べるかは複雑ですが、お給金を頂く以上はどんなことであれ仕事だ、とすみれさんが仰っておりましたので」
「なるほど、これで合点がいきました」
納得だ、と言わんばかりの鬼灯の声色に、茨城もすっかり安堵した。すみれの忠告は尤もだが、どうやら取り越し苦労に近かったらしい。枳殻がムニャムニャと何事かの寝言をつぶやきながら、再度鬼灯の方に倒れ込んでくる。彼はそれを容赦なく突き放しながら、それで、と訊いてくる。
「修羅界へはすみれさんの紹介かなにかで行かれたのですか?」
完全に気の緩んだ茨城は、鬼灯のこの問いにも笑顔で頷くのである。
「はい。阿修羅王様とすみれさんはもともと懇意にされておりまして、お店にもよくお越しになられていたのです。その頃に、職が決まらなかったわたくしを紹介して下さり…」
そこまでいって、茨城ははっと鬼灯を仰ぎ見た。不思議そうにする彼に、しまったと言わんばかりの身振り手振りで慌て出す。
「失礼しました、今の言葉はお忘れ下さい」
「どの辺りを?」
「阿修羅様が地獄にお越しになるのは内緒だったのです、」
暴露の上塗りである。またしても言ってから気づいた茨城が笠の下でさぁっと青くなる。対して、鬼灯は特に感慨もなく、ああ、と頷くのである。
「まあそうでしょうねぇ、喧嘩上等の硬派な方がよその界のオカマバーで飲んでるなど、あまり外聞のいいものではないでしょうし」
「ああ…、自分のこういうところが厭なのです…」
ふぐぐ、と頭を抱える茨城を特に慰めるでもなく、鬼灯は黙って彼女が悶えているのを眺めていた。ややあって、茨城が恐る恐ると顔を上げる。両手を組み、懇願のポーズである。
「お二方とも、わたくしにとっては今生で返し切れぬほど大恩ある方々なのです。どうか、後生でございますから、先ほどのことはご内密に…」
「まあ、別に構いませんけれど」
感慨なさげに言う鬼灯に、茨城が歓喜と安堵のオーラを放つ。しかし彼女が礼を言う前、官吏は顎に手をやって、でも、と呟いた。
「それではつまらないので、交換条件にしましょうか」
鬼畜である。
交換条件、と茨城が恐る恐ると首を傾げた。
「ど、どのような…、」
「んー、そうですねぇ」
言い出したくせに勿体ぶる鬼灯に、茨城はそわそわと落ちつかなげに沙汰を待った。そして、鬼灯はじゃあ、と前置く。
「その笠、取ってみてください」
「え」
茨城が硬直した。思わずさっと両手を笠の縁にかける。鬼灯はそんな彼女を見下ろして、無表情のまま人差し指をたてた。
「実は私も気になっていたのですよ。取っていただければ、今日の話は何も聞かなかったことにします」
「…、」
「どうでしょう?」
茨城の葛藤は長かった。鬼灯が聞き返してから、彼女の手は笠を掴んでは放し、掴んでは放しを繰り返し、その間列車はゆうに三駅ほどを経過した。悩んでいるな、と思いこそすれ許す声をかけない鬼の前、ようやく茨城があの、と蚊のなく声でこぼす。
「い、今でなければなりませんか…」
「と、いいますと」
「…いずれ、これを取る覚悟ができましたならば、その時にはまず官吏様の前でお取りする、ということでは…、」
駄目でしょうか、と尻すぼみの声音にも、鬼灯は微妙な思案顔で虚空を見上げて返事をしない。んー、と考えているような、いないようなつぶやきののち、ぱちん、と指を鳴らす。
「ではこうしましょう。今は見逃す代わりに、今後私が取れと言ったら取る、というのは」
「ええ!?」
「で、この特権は三回使える、と」
状況は明らかに最初より悪くなっているのだが、切羽詰まった茨城はうう、と唸ってから、念押しのように尋ねる。
「今は、取らなくてよいということでよろしいですか…?」
「いいですよ。今はね」
「明日とか、明後日とかもないですよね?」
「ええ、必要に駆られた際にお願いしますので、その時で結構です」
「……わ、わかりました…」
躊躇いながらも、ついに頷いてしまった茨城に、鬼灯は常と変わらない顔で交渉成立ですね、とやや満足げに宣った。
「私も約束は守りますので、安心して下さい」
「…ありがとうございます」
なんだか騙されたような、そうでないような、と微妙な面もちで、しかし茨城はひとまず礼を言い、頭を下げた。そしてまた会話は途切れ、沈黙が真夜中らしいうっそりとした車内を満たしてゆく。茨城は笠の下、己の隙と浅はかさを悔い、溜息を漏らさぬように唇を噛み締めているところである。
ああ、やってしまった。
あれだけすみれに気をつけろと言われ、不喜処の三匹たちの話でも、この官吏には気をつけた方がいいという結論になっていたにも関わらず、この有様である。
(情けない…)
どうやら、無理強いする気はないらしい。しかし、いつどこでいざ取れと言われるのかと思うと、気が気ではない。ただ、相手はそれこそ気安く口を利くのも適わない、地獄の第一補佐官殿である。本来、こうして隣に腰掛けあうのですらなんだか違和感が拭えないのだ。多忙を極める彼と顔を合わせる機会自体もそうそうないだろう。
(…もしかしたら、わたくしをからかってあんな事を仰っただけかも知れないわ)
非常にわかりにくいが、その可能性もあるだろう。そもそも、たしかに妙な風体ではあるが、そこまで自分に興味を持っているようには見えない。
(そうね、きっとそうだわ。この方なりの冗談でしょう。少し怖かったけれど…確かに、優しいお方なのかもしれない)
不喜処の三匹に言われた台詞を反芻しつつ、チラ、と茨城が横目で鬼灯を伺うと、その彼はどう足掻いてももたれ掛かってくる枳殻を力いっぱい押しやっているところである。
そうこうするうちに、列車はようやく目的の駅へたどり着く。結局寝入ったまま起きない枳殻を鬼灯が担ぎ、茨城は彼のキャスケットを任され、後に続く。鬼灯は閻魔殿に居住があるというから、黒縄の官舎とはまるで逆方向である。道なりに焚かれた篝火を頼りに、三人はほぼ無言で歩いた。やがて、まず男子寮が見えてくる。守衛に状況を説明したところ、幸いにもまだ起きていたらしい枳殻の同僚数人が恐縮しつつ引き取ってくれた。茨城がそのうちの一人にキャスケットを手渡すと、相手はぎょっとしたように彼女と鬼灯を交互に見る。だが結局は何も言わないまま、獄卒たちは再び詫びと礼を言いながら官舎の中へ消えていった。
「さて、茨城さんも帰りましょうか」
「あ、もうここからすぐそこですので、」
大丈夫です、と言い切る前に、鬼灯が女子寮の方へ向かって歩きだした。茨城はしばし歩みを止めてその背を見つめていたが、やがて小走りで駆け寄り、きっかり三歩分の間隔をあけてつき従う。会話はなく、ぬるい風が時折吹き込んで、かすかに刑場から起こる亡者の悲鳴や物音を運んでくる。そして茨城の言葉通り、さほど離れていないところにたたずむ女子寮が姿を現した。
黒縄の女子寮はあまり人気がなく、篝火に押し負けそうな軒灯がぽつんとひとつ点っている。いくつかの窓にはまだ明かりが見えるが、殆どは寝入っているのだろう。茨城は玄関先まで進んでから振り返り、深々と腰を折った。
「わざわざありがとうございました。お忙しいのに、申し訳ありません」
「いえいえ、当然のことですよ」
「では、おやすみなさいませ」
「はい」
頷いた鬼灯は、何故かそのまま茨城に向かって腕を広げて見せた。そのまま、いつもと同じ真顔で茨城を見つめてくる。真意の見えない彼の行動に茨城が小首を傾げ、両者はしばし無言で向かい合った。どちらとも、相手が先に何かを言うだろうと待っているのである。時が止まることしばし、根負けしたのは茨城だった。
「…あの、なにをされているのでしょう?」
「いや、おやすみなさいと言われたもので」
「……?」
意味を取りかねる茨城がますます首を傾げる。鬼灯が、ほら、と腕はそのままで続けた。
「先ほど、すみれさんとの別れ際にはやっていたじゃないですか」
「…あ、は、えぇ!?」
そういえば、すみれには軽く抱きしめられていた。思い出した茨木が頷きかけ、素っ頓狂な声を上げた。
「いや、あれが修羅界風の別れの挨拶なら、是非私もお願いしようかと…」
「ち、ちがいます! あれはすみれさんの癖のようなものです!」
「なんだ、そうでしたか」
残念です、と舌打ち一つ、ちっともそう聞こえない声で言いおいて鬼灯が腕をおろした。茨城は衝撃に胸元を押さえて三歩ほど後退する。その彼女に今度こそ、ではおやすみなさい、と告げて、官吏はくるりときびすを返した。茨城が固まっている間に、歩幅の大きい彼はすたすたと進み、やがて見えなくなる。
軒先に取り残された茨城は、しばらく鬼灯が消えた先の暗がりを眺めていた。先ほど自分で想像した彼の人となりを反芻し、やがてぽつり、とこぼす。
「やっぱり、よくわからないわ…」
つぶやきは風に乗り、密やかに消えてゆく。