茨城は何とか例の先輩の無茶ぶりを乗り切り、翌日晴れて非番の日を迎えていた。仲良くなった三匹の動物たちから一緒に天界へ遊びに行かないかと誘われたが、惜しみながらも断った。今日はどうしても行きたいところがあるのだ。
慣れない電車の移動に四苦八苦しながら、ようやくたどり着いたのは衆合地獄である。相変わらず、見渡す限り人・人・人、人の波だ。圧倒されるつつも、気を取り直して歩を進める。日中ではすれ違う人々にぎょっとされる深編笠姿も、ここの住人は特にリアクションをせず素通りである。他人に興味がないか、キテレツは見飽きているのだ。
テクテクと慣れた道程を進んだ茨城は、やがて本通りからはずれ、薄暗い裏道に入った。ネズミやあの虫が気配に驚いて去っていく中を、なんと言うこともなく進んでゆく。見るからにぼったくり臭いバーや常連以外お断りのスナックを越えると、そこは派手なキャバレーの裏口だった。白漆喰の壁のなか、ぽつんとある小さな木戸を叩く。誰だ、と野太い声が返る。
「こんばんは、茨城です」
「…あら!」
驚きの声とともに、カタンと木戸の鍵が外された。被っていた笠をはずし、礼を言いながら茨城が戸を潜ると、むくつけき大男が満面の笑みで両腕を広げていた。彼はそのまま華奢な茨城を笠ごと抱きしめる。
「ほんとに茨城じゃない! 久しぶりねぇ、元気だった?」
「はい、おかげさまで息災です。五十鈴さんもお変わりなく」
特に抵抗もしない茨城はくすくすと笑った。抱擁が終わり、茨城が首を傾げる。
「すみれさんはいますか?」
「いるけど、ショーの真っ最中よ」
「まあ、すみれさんが踊るなんて。なにかあったのですか?」
「まあ、ね。いいから、中で待ってなさい」
歯切れ悪く言った相手の言葉で、茨城は何かを察知したらしい。まさか、と見透かすように建屋を見上げる。
「いらしているのですね」
ぽつん、と呟いた茨城の言葉に、出迎えた一角の鬼は苦虫を噛みつぶした顔をする。
「相変わらず下品な女連れで無茶な遊びをしてるわ。ロビンもギズモも泣かされちゃって、仕切直しでママが踊ってるの。ほんと、いやな男よ」
「…すみません」
「やだ、何であんたが謝るの!」
よしよし、と無骨な手が優しく頭を撫でる。茨城は儚く笑った。
「夫ですから。…向こうはどう思っているか、わかりませんんけれど」
茨城は五十鈴に促されるまま、キャバレー・ハッテンの控え室ですみれを待っていた。出番のないキャストや化粧直しに訪れた彼女らが、とっかえひっかえ茨城を歓待する。気のいい彼らの前では顔を隠す必要もない。茨城はクリアになった視界の元でにこやかに談笑していた。
「茨城!」
うれしそうな歓声とともに、サンバダンサーも真っ青な衣装のすみれが駆け込んできた。あちこちに宝石を縫い止めた赤いハイレグに、背中には羽毛で造られた大きな羽が生えている。頭には金銀財宝をあしらったティアラ、メイクは京劇のような隈取りの大迫力だ。手術をしていないすみれは完全な男性体だが、不思議と衣装に違和感がない。彼女はそのまま、しなやかな腕を茨城に巻き付け、ぎゅーっと抱きしめるのである。
「なによアンター! ひさしぶりじゃない!元気だったの!?」
「はい、元気です。すみれさんもお元気そうで何よりです」
「当たり前じゃないオカマは健康第一よ!でもアンタ、相変わらず細っこいわねぇ! ちゃんと食べてるの?」
「食べてますよ。少し太ったくらいです」
「嘘仰い! 喧嘩売ってんのアンタ!」
話しながらすみれがくるくると回転するので、茨城もつられて回りながら笑う。狭い控え室で暴れる彼らをほかのオカマたちがママ危ない!と口やかましく窘め、ようやく回転は停まった。すみれが笑う茨城の両頬に手を当て、むに、と抓る。
「阿修羅様は優しい? 今度はうまくやってるの?」
「…実は、」
「ん?」
「……辞めてしまいました」
「はぁ!?」
この驚嘆は周りにいたオカマ全員の声である。茨城が申し訳なさそうに俯いた。そんな茨城を控え室の椅子に座らせて、すみれはその傍らに膝を着いた。俯く顔をのぞき込みながら、慎重そうに尋ねる。
「また何かあったの? 厭なことでもされた?」
茨城がぶんぶんと首を振る。
「いいえ! 阿修羅様はとても親身にわたくしを慮ってくださいました。誓って妙なことはありません」
「じゃあどうして!これ以上ない働き口なのに!」
「そーよそーよ!アタシが行きたいくらいだわ!」
「お黙り!」
野次を飛ばすオカマを一喝したすみれが、再びじっと茨城を見つめる。茨城は言いにくそうに口を何度か動かして、やがて消え入りそうな声で呟いた。
「やっぱり、あきらめきれなかったんです…あのヒトを」
「まあ…、」
すみれが何もいえず、それだけ呟いて眉尻を下げる。なんて一途なの、と周りにいるオカマが最速でもらい泣きし、アイラインとマスカラの溶けた黒い涙を流している。すみれが再び茨城を抱きしめた。よしよし、と頭を撫でる。
「アンタの良いところね。こうと決めたら一途で頑固。でも悪いところでもあるわ。あんな男、よしなさいって言ってるのに」
「…、」
「今日もさんざっぱら暴れて、さっきやっと帰ったわ。大枚はたかれても礼儀のないコはお断りよ。本当はね。最近は頓に酷くなってきてるし…」
「アタシ、化け物っていわれて笑われたわ!」
「そんなの序の口よ! アタシなんか、いきなりなんか物真似しろって無茶振りされて、やったらやったで似てないからってビールぶっかけられたわよ!」
「引き連れてる女も最悪よ!女に生まれたことを鼻にかけてろくに努力もしてないくせにさ!」
そーよそーよ! と出るわ出るわの不平不満である。キャストたちの野太い悲鳴を、すみれが再びお黙り!と一喝して辞めさせる。
「でも好きなのね」
立ち上がり、俯いた茨城のつむじを見下ろしながら、すみれがいった。シン、と静まり返る室内で、やがて、茨城が頷く。
「はい」
茨城が顔を上げ、すみれを見つめる。すみれが目元を人差し指で拭う仕草をしながら、難儀なものね、と言った。
「そんなものアタシたちオカマだけで十分なのに、困ったコだわアンタって」
「でも嫌いじゃないわよ!アンタのそういうとこ!」
「がんばるのよ茨城! 負けちゃだめ!」
代わる代わるの大歓声に、茨城ははい、と大きく頷いた。
「それで、今アンタ何してるの? またどこぞでバイトでもはじめたの?」
すみれが手近の椅子に座りなおしながら言った。ほかの面々は三々五々、解散の呈である。キャバレー・ハッテンの営業は続いており、表に出るもの、帰宅するものと様々だ。すみれは基本夜の営業には出ない。今し方は裏方にこもり、帳簿をつけたりキャストのシフトを作ったりと、主に事務仕事に徹している。今夜のショーは本当に特別だったのだ。茨城は手みやげに持参した修羅界特製の唐辛子せんべいを差し出しながら、はい、と切り出す。
「実は、契約社員ですが獄卒になりました。阿修羅様が推薦状をお書きくださったのです」
「あらお堅い商売ね! 真面目なアンタにはぴったりかもしれないわね。どう、楽しい?」
「そうですね、順調、とは言いがたいのですが…」
「あら、またなの」
すみれが片頬に手を当て、ほう、と溜息を吐いた。茨城が申し訳なさそうに肩を落とす。
「今度こそ、と思っていたのですが…、面目ないことです」
「アンタが悪いんじゃないわよ。どうしようもないこともあるわ」
アタシらみたいにね、とすみれがせんべいをかじりながら言った。
「でもじゃあ、顔が割れるのも時間の問題じゃない?」
「あ、それは今のところ大丈夫です。普段はあれを被っておりますので」
あれ、と壁際においた深編笠を指さす。すみれがちら、と視線をやり、急須からお茶を注ぐ。湯呑みを茨城に差し出しながら肩をすくめた。
「ふーん、なんだか無骨ねぇ、もっといいものなかったの?」
「いろいろ試しましたが、完全に顔を覆うとなるとこれがぴったりでした。ちょっと重くしてあるので、風に飛ぶこともないですし」
「そう? なんか今日怪しい男二人がアンタのこと探りにきたわよ? 叩き出してやったけど」
「え」
茨城がぱちくりと瞬いた。すみれがシートタイプのメイク落としで慎重に顔を拭きながら、なんだかねぇ、と虚空を睨む。
「いやにちぐはぐな二人組よ。片方はちょっと頼りない感じで若かったけど、もう一人はあれ、完全に筋モンね。目がハンパなかったもん。ガタイもいいし、隙もなかったし、オカマに臆したりもなかったわ。ねえロビン?」
同じくメイクを落としていたロビンが振り返る。一日の疲れにまみれた中年男性がうん、と首を縦に振った。
「むしゃぶりつきたいほど男っ前だったけどねぇ、なんだか怖かったわ。アタシのこの体に見向きもしないし」
「そりゃてめえ偽モンじゃねーか、調子のんなよ」
「やだ、ママこそ男になってる!」
いきなりドスの利いた声を出すすみれに、ロビンがこわーい、と慄いた。茨城が誰かしら、と困り果てた様子で頬に手を当てる。
「特に思い当たる方がいません…、」
「だから怖いって言ってんの。アンタ、拉致られでもしたらどうすんの。気をつけなさいよ」
「…はい、気をつけます」
茨城が力強く頷いたのを見届け、すみれも微笑んでウインクを返す。
「じゃ、辛気くさい話は終わり。アンタ明日も仕事でしょ?」
茨城の肯定を見届けてから、すみれが立ち上がった。
「じゃあもう帰りなさい。駅まで送ってったげる。着替えてくるから待ってて」
茨城は言われたとおり、先ほど店内へ入った木戸の外ですみれを待っていた。地獄の夜は生ぬるく、暑くも寒くもない。四季の概念があるかは微妙だが、桜も咲くし、雪も降る、つくづく不思議な世界である。ぼんやりと空を見上げると、いよいよ一日で一番の大盛り上がりを見せる繁華街のあかりが暗雲立ちこめる空に反射し、ピンクや黄緑などの派手な光が撒き散らかされていた。あまり美しいとは思えないが、不思議と落ち着く光景である。
「おまたせ!」
茶目っ気たっぷりに言いながら木戸をくぐり抜けてきたのは、目の覚めるような美青年である。ボブの髪を軽く括り、藍の小袖に黒の長羽織を羽織っている。胸高に締めた帯は濃紫、ちらりと見える羽織の裏地は紅鹿子だ。まあ、と茨城が驚いた。
「男装なさったのですか。珍しい」
ちなみに彼女は本気である。すみれがからからと笑った。
「だってねえ、普段のアタシとアンタじゃ、男が言い寄ってきてうざいでしょ。アンタもその野暮なもの、とっとと被りなさい」
「はい」
つられて笑った茨城も素直に笠を被る。視界はすっぽりと慣れた薄暗さに包まれた。そして、なんやかやと話しながら歩き出す。大通りにでてしまえば駅までは一本道だが、いかんせん人が多すぎる。喧噪を嫌い、二人は遠回りの裏道をにじりにじりと進んでゆく。
獄卒かぁ、と色っぽく歩くすみれが呟いた。
「ここにきた最初、びーびー泣いてたあんたとは大違いね」
ふふと茨城が笑い、笠ごと頭をかいた。
「お恥ずかしい…、よくすみれさんに一喝されましたね、簡単に涙なんか流すな、と」
「そうよ、女の涙は特別なの。オカマと違ってね」
すみれが素足に履いた下駄がカランコロンとなる。
「まあ、いい仕事にありつけたじゃない。今度は男も女も多いからすぐ馴染めるわ。朝早いなんてアタシには絶対無理だけど」
「また遊びに来てもいいですか?」
「勿論、大歓迎よ。みんなも喜ぶわ」
歩調を合わせて進む二人の目に、終電間近の駅が見えてきた。終電を気にするものはあまりいないのか、以外にもこの時刻は人影もまばらだ。切符を買う茨城に付き添い、改札前で手を振りあう、その時である。
「…あれ、もしや茨城さんですか」
抑揚のない低い声に二人が振り向けば、そこにはぐでんぐでんの枳殻を担いだ鬼灯が佇んでいる。