この茨城のお願いを、真意は読み取れないまま了承した鬼灯だったが、その理由は程なく知れる。
「鬼灯様、お疲れ様です」
「はいお疲れ様です」
「あの、ご存じでしたらで結構なんですが…、茨城さんの」
「存じません」
「……そうですか」
擦り寄ってきたのは若い鬼獄卒だった。彼は言い切る前に切り捨てた鬼灯の顔を見て、それ以上は詮索せず青い顔のまま立ち去る。ちなみに、これで七人目である。
鬼灯が旃荼処へ赴いたのは茨城とは別件のことだった。あの時、彼女に会ったのは本当にたまたまだったわけだが、これは思わぬ所で一部署の闇をみたかもしれない、と思案顔である。
旃荼処の財政破綻は根が深い。それはいろいろな理由を以てしての現状であるが、根本的な原因はその成り立ちにある。
地味なのだ。圧倒的に。
かつて十六あった小地獄が次々と閉鎖され、残るのが旃荼処と残り二つの計三カ所だけである。そのうち一つ、等喚受苦処(とうかんじゅくしょ)に至っては「嘘」と「邪見」によって落ちるところとなっており、もはや黒縄の掲げる「盗み」の地獄とは全く関係ない。ブレブレなのだ。そのぶれが起きる原因も、地味だから目立たないしとりあえずここでいいだろう、というなんとも酸っぱい理由である。
このあたりは定例会議で何度も議題にあげている。「嘘」は大叫喚地獄の範疇であり、「邪見」は焦熱地獄が持ち回っている。しかしこの二カ所はいつの御代も常に繁忙で、これ以上の部署増設や役回りは難しい。逆に人手が欲しいくらいだと喧々萼々だ。散々融通は利かせているはずなのだが、こればっかりは独断で押し進めるの訳にも行かず、それこそ何十由旬もじっくりと時間をかけて切り崩していくしかない山である。
鬼灯が激務の終わりに旃荼処へ寄ったのは、そのあたりの話しがあったのだ。あとは、いっこうに降りない予算に文句をぶーたれている中間管理職に一発見舞ってやろうと思ったからである。鬼灯の思うこの"一発"というのは温情で、という意味合いだったのだが、先ほど茨城に会い、気が変わっていた。
「うわ、鬼灯様?」
まだ若い鬼の厭そうな声に振り返ると、果たせるかなそこには枳殻が通りかかったところである。これから仕事なのか、私服のまま荷を担ぎ腰ごと引けている。今時の鬼らしく、熱意があるのかないのかよくわからない人となりである。鬼灯はちょうどよいと片手をあげた。
「枳殻さん、実は探していたのです。ちょっとお話が」
「なんすか…、俺今から仕事なんですけど」
「例のアレです。明日にでも向かうのでそのつもりで」
「えっ!?」
ぎょっとした枳殻が思わずと言ったように叫ぶ。その己の声で我に返ったのか、彼は周りを見渡してから若干身を低くした。
「そりゃまた急な…、なんかあったんですか?」
「先ほど茨城さんに会いまして」
「……ああ、」
その一言だけで粗方を察したらしい。現代っ子は軟弱だが頭はいい、と言うのが最近の新卒に関する鬼灯の評価である。その現代っ子代表は眉根を寄せ、何ともいいがたい微妙な表情で乱暴に頭を掻いた。
「まあ、なんていうか、面倒くさいことになってますもんね。なんか目撃されたんですか」
「昼間に使った呵責の道具を一人で磨いていらっしゃいました。明日までに全部、らしいです」
「うっわぁ…えげつなくなってら……」
うげぇ、と口元をひきつらせる枳殻だったが、ん?と首を捻り、その後鬼灯にうろんな視線を寄せた。
「そこまで知ってて放置したんですか?」
この言に、鬼灯は思わずため息をついた。担いだままの金棒で乱暴に首の付け根をたたく。
「仕方ないでしょう。私が手を貸せばそれこそ火に油ですよ。それに彼女、…彼女か? まあ、あの方は特に手伝いは必要でないと言い切りましたし」
語弊はあるが、似たようなものだ。茨城は助けを乞う代わりに、自分の周りに誰も近づけるなと言ったのだ。鬼灯は無表情のまま小さく鼻を鳴らした。
「剛毅な方です。さすが修羅界出ですね。売られた喧嘩は買うようですよ」
この言に、枳殻は未だ微妙な表情だ。首を捻り捻り、あごに手を当て虚空を睨んでいる。
「…そうかなぁ…? 言えなかっただけとかじゃないですか? 俺はまぁ男だからあれですけど、下っ端は毎日わりといろんな無茶言われますよ。でもどんだけ辛くたって先輩とか上司に手伝ってくれなんて言いにくいし、最初は自力で頑張ろうとか思うじゃないすか」
「それです」
「!?」
突如、鬼灯が担いでいた金棒を枳殻の鼻先へ突きつけた。黒鉄の表面をびっしりと覆う錨が何とも生々しい。
「アナタがた旃荼処が地味でぱっとしないのはその暑苦しいまでの上下関係です。ただ、ヒエラルキーが明確に形成されているならともかく、その序列は年長者・もしくは先輩という非常に曖昧なカテゴリーで分けられている。だから鬱屈がたまるんですよ。その矛先が更に下の者に向き、最下層に位置するものはひたすら序列があがるのを待つ。抜け出すことに必死になる所為で、同僚間の連携も生まれにくい。そして自然と派閥ができ、排他的になるんです」
「…よくわかんないすけど、俺怒られてる?」
「実力主義は、それはそれでやっかいなところがあるんですがね。逆に言えば年功序列にいいところもある。しかしそれは旃荼処には当てはまらないでしょう。職位ある者が下の者を御しきれていない状況では権威は空回りするだけです」
「えーっと…ようするに、」
枳殻がさりげなく金棒の矛先から逃げつつ、人差し指をたてて話を区切る。
「茨城さんがいびられてるのはうちが地味で陰湿な所為だと」
「有り体に言えばそうですね」
鬼灯がうなずくと、枳殻がなんとも言い難い顔でこちらを見つめてくる。その顔はありありと"ごく普通の感想じゃねーか"と物語っている。この獄卒はわかりにくいようで、思っていることすべてが顔にでているのだ。鬼灯が金棒を地に下ろしながら首を振った。
「誤解のないように。それが悪いと言っているわけではありません。ただ、その体質が災いして旃荼処の堕落に繋がらないように善処したいというわけです」
その分かりやすい顔のまま、枳殻が嫌々と言ったように口を開く。
「うちの財政難と、茨城さんの正体に何の関係が?」
「大いにあります。旃荼処は今、無駄な人員を雇う余裕など一切ないのです。不安要素がある方には退いて頂くのが道理でしょう」
「はぁっ? それって、」
思わずと言ったように吠える枳殻を鬼灯が片手を振って制した。
「私の采配ミスです。礼儀正しい方なので女性受けはいいと思ったのですが、思うより魔性が強かったらしい。見通しが甘かったと猛省しきりです」
この言に、枳殻は目を丸くして驚いている。彼が口をつぐんだのをみてから、鬼灯が続ける。
「どうやら、ご本人も媚びを売らずに正々堂々を貫くタイプのようですし、原状の回復は今すぐには困難でしょう。であれば、配置を変えて差し上げたいのですが、」
「…経歴詐称疑惑が邪魔をする、」
「そういうことです」
鬼灯が肯き、地につけたままだった金棒を改めて肩に担ぎ直した。枳殻は成る程、と呟き、うんうんと何度か首を縦に振った。しかし、またすぐ首を捻りだした。眉根を寄せ、こめかみを指でかいている。
「うーん…、じゃあ、詐称だったとしてもそうじゃなくても、茨城さんは此処からいなくなるってことすか」
「そうなりますね。遅かれ早かれ衆合には赴くつもりでしたし、予定調和でしょう」
難しい顔をしていた枳殻が鬼灯の肯定を受けるや、深く長い溜息を吐いた。
「そうかぁ…、まぁ、しかたないっちゃそうなんすよねぇ…」
明らかに残念そうなその様子に、鬼灯はおやと首を傾げる。
「微妙なリアクションですね。何か問題が?」
「そりゃーありますよ、すっげー残念です。折角俺らみんなやる気だそうと思ったのに、いなくなるなんてなぁ」
「…そんなにですか?」
胡乱な鬼灯の言葉に、枳殻がちっちっち、と指を振った。懐かしい仕草だ。
「鬼灯様は信じられないかもしれないですけどね、茨城さんが男だなんて絶対あり得ないですよ。とにかくあの子、むっちゃくちゃ可愛いんですもん」
「へえ」
無感動な鬼灯の相槌もなんのその、枳殻は拳を握り、身振り手振りで切々と茨城をほめあげてゆく。
「なんつーか、けなげっつーか清楚っつーか儚げっつーか、男が勝手に夢見てる女の子をそのまま体現した感じなんですよね。こんな子マジでいるんだ、みたいな。気も利くし、意外に体はエロいし、とにかく旃荼処の男連中全員骨抜きですよ。なんていうか、あんな子に頑張れっていわれたら空も飛べそうな感じです」
鼻息荒く言い切った枳殻をなんと言うこともなく眺めていた鬼灯だったが、やがてふっと息を吐き、きびすを返した。
「一つお忘れのようですが、女性であること前提ならあの方は人妻ですよ」
「そーーなんだよなぁあああ! いや忘れてないですよ! そこが一番重要ですもん! つーかマジ信じられねぇ、旦那って誰なんすか!?」
「さあ、そういえば存じませんね。あの方はいま単身者用の女子寮に入寮されてますし」
「別居!?」
チャンスありか!?と頭を抱えた枳殻が空を向いて吠えた。それをよそに、鬼灯が暇の挨拶をしてそのまま歩を進めてゆく。先ほどより色濃くなった思案顔で、空いた手で顎に手を当て虚空を睨む。
「…面白いものですね。相手を知る上で一番重要なツールが隠されているのに、立ち居振る舞いで余人を骨抜きにする、と。やはり恋愛は顔じゃないというのは真理かもしれません。それともあの方が独特なのか…」
ぶつぶつ呟いて去ってゆく鬼灯の背後で、あ!と枳殻が声を上げた。片手を挙げ、呼び止めてくる。
「鬼灯様! オレ茨城さんの手伝いに行っていいですか!?」
「駄目です」
「はぁ!? なんでですか!」
「アナタこれから仕事でしょう。他人にかまける余裕はないはずです。私情は許しませんよ」
「冷てぇ…」
歩を緩めず背中越しに返す鬼灯に、最後枳殻が捨てぜりふのように仕事の鬼、と呟いた。地獄耳の彼は漏れなく拾い、肯いて返すのである。
「鬼です」