第七話


 官吏のお達しは明日明後日にでもくるかと思いきや、あれから数週間経った今なお、特に音沙汰なしである。さすがは地獄の筆頭補佐官殿、あの涼しげな相貌で日夜尋常ではない仕事を捌いているのであろう。凝る性分なのかお眼鏡に適う人材が見当たらないのかは不明だが、彼自身は己用の丁稚や小間使いを囲っていないらしい。秘書や補佐すらいない状況での官房長官がどれほどのものかは推して知るべし、である。
 さぞや、と同情しこそすれ、晴れて通常業務に戻ることとなった枳殻にとってはただただ堯幸だった。面倒事はごめんだ。日々の業務に刺激ややりがいなど必要だとは思わないし、責任や抜擢など煩わしいだけだ。ただ漠然と、なんの波も色もない平和な毎日だけが続けばいい。
 さて、問題の彼女、と呼んでいいのかは未だ不確かだが、件の人物は早速旃荼処にて勤務を始めている。最初の挨拶の時にはそのキテレツな格好に従業員一同度肝を抜かれたようだが、慣れてしまえば些細な問題、と言う風に処理されたようだ。そして、その次にくる疑問がもっぱら問題であった。
 なぜ彼女は顔を隠しているのか。
 実は指名手配犯説、やけどや事故などで顔に負った傷を隠すため説、ブスを気にしている説、邪気眼説、などなど、まことしやかに様々な憶測が飛び交っている。特に、朝から昼までを担当するパートの女性たちには格好の噂の種となっていた。
 ある時、パート女性の一人がどうやらたまりかねたようで、直接本人へ尋ねたらしい。なぜ顔を隠しているのかと。
 そのときの答えは面接の時と全く同じ、「訳あって二目と見れぬ顔をしている」とのことだった。
 しかしそこで引かないのが子持ち女性の強さというか何というか。訳とは? 二目と見れぬとはどれくらいか?誰にも言わないから自分だけには見せてくれるべきではないか?と詰め寄ったらしい。まさかの追求に困り果てた茨城が答えに窮し、弱りきっていたところを、どうやら他の男性獄卒が庇い、さらにそのパート女性を叱ってしまったという。
 これがどうやらいけなかったようだ。その日を境に、茨城は女性陣の反感を買ってしまったのである。
 だが、引き金は前述の通りだが、原因はどうやら違う。漏れ聞こえてくる不平を拾えば、やれ誰それに荷物を持たせていただの、やれ現場監督があの子にだけ飲み物をごちそうしただの、要するに、嫉妬だ。そして何かにつけて詰られる茨城をまた他の男性陣が庇うため、事態は悪化の一途である。
 無理もない、と枳殻は思う。同じ部署とはいえ、慣れるまでは昼勤の茨城とはあれ以来二三度挨拶を交わした程度だが、それでも折に触れ気になってしまうくらいだ。頻繁にあう人間はさぞや、だろう。
 彼女はかわいい。文句なく。それは容姿ではなく、言動や仕草のいちいちである。嫌味なく話し、淑やかによく笑い、些細な気配りも欠かさず、おまけに仕事熱心だ。毎回メモを取り、わからないことはきちんと訊き、逐一礼を言う。その一連に男女の差はないと思うのだが、どうやら同性はそう感じないらしい。女性陣は茨城の言動を媚びととり、男性陣はけなげととる。茨城は、本人の望むと望まないとに関わらず、瞬く間に職場の男性票を獲得してしまったのだ。
 かわいそうにな、とは思うものの、具体的な解決案が見いだせない。誰も悪くないからだ。まぁ、件のパートさんはどうかと思うが、あれも一つのきっかけにすぎないだろう。そもそもの問題は顔を隠す茨城にあり、それを許した官吏にある。しかしその茨城にも事情があり、彼女は正当な方法で職を志願し、今があるのだ。となるとやはり、諸悪の根元はこうなることを予測できなかった鬼灯にあるのだろう。
 しかし官吏殿はいかんせんお忙しい。地獄の中でも窓際に当たる旃荼処をそう気にしてもいられないだろうし、茨城の現状も知らないのだろう。
 さあ、どうしたものか。
 枳殻が一人悶々と考えている間にも、日々は愛憎渦巻きながらすぎてゆく。






 旃荼処は他の主な地獄と同じく、ごつごつとした岩場の荒れ地が広がっている。遠く剣山が四方を囲む、墨を刷いたような濃灰色の丘陵が長く続き、時折凹凸の激しい妙な形の大岩が道ばたに現れる。木々はなく、空は鬱蒼と灰色だが、昼夜は日々きちんと巡っている。茨城が最初に地獄へ訪れたとき、ここにも光があるのか、と驚いたものだ。
 その彼女は一人、細い小川のそばで獄卒の道具を磨いていた。この小川はどうやら三途の川の支流の支流に当たるらしく、きらきらと澄んだ川の底に、時折遺品の時計や六文銭が見える。今は昼勤獄卒の休憩時刻に当たり、亡者たちの往来も呵責もこのあたりでは行われていない。時折赤や紫の雷鳴轟く曇天さえ気にしなければ、まるで静かな小春日和のようなのどかさだった。
 杵や斧にこびりついた血糊を小川で洗い流し、教わったとおりの手順で磨く。斧はともかく、杵は元は白木だったろう木製の為、洗い終われば手早く乾かさねばならない。しかし、年季の入った杵はまだまだ後ろに山と詰まれていた。理由は言わずもがな、である。
 当の本人は、相変わらずがっちりと頭部を覆う深編笠の下、どんな表情かは見えないながら、割と楽しげに作業を行っている。細く、白い指が水面をそっとなぞり、そのまま、掌に溜めた清水を刃に掛けては流し、掛けては流しを続けている。桜貝のような爪で時折頑固なこびりつきを削るのも厭わない。

「あ、虫」

 言葉どおり、いつのまにか足元に見慣れぬ虫がいた。握りこぶしより少し小さいくらいの大きさで、頭はカブトムシ、胴体は芋虫に足をつけたような形をしている。ブイブイ、と妙な鳴き声をあげて、臭いを嗅ぐようにしながら茨城の足元を這い上がっている。
 一般女子なら悲鳴を上げる場面だろうが、彼女は頓着なく濡れた手を拭ってから両手で虫を掴む。そのまま掌に載せ、つんつんと指で突付く。虫は特に嫌がるそぶりもなく、掴まれた状態で大人しくじっとしており、相変わらず妙な鳴き声をあげている。

「なんていう虫かしら…」

 というか、虫かしら、と呟きつつ、矯めつ眇めつ角度を変えて捕まえた虫を眺めている。ブイブイ、といい続ける虫がふいに先ほど見せた臭いを嗅ぐ仕草をしながら、茨城の指に頭を近づけてゆく。

「危ないですよ」

 突如、低い声と共に茨城の手からひょいと虫が持ち上げられた。声の主はそのまま、掴みあげた虫を岩場のほうに置き、ごく近くでパンパンと手を叩く。音に驚いたのか、虫は慌てたように何処へともなく逃げていった。

「あれは針口虫と言いまして、肉食の甲虫です。普段は亡者に群がるんですが、お腹が空くと鬼も齧ります」

 去る虫を見届けながらの台詞である。呆気に取られていた茨城はその台詞で我に返り、慌ててしゃがんでいた身を起こした。

「官吏様、」
「鬼灯で結構です」

 その言葉どおり、現れたのは鬼灯である。彼は茨城に向き直り、なんという風もなく虫を握っていた手を取った。

「噛まれませんでしたか」

 取り上げた白魚のような手を感慨なさげに眺めている。茨城が慌てたように頷いた。

「あ、はい、特には…」
「無用心ですねぇ。というか、女性であの虫をつまみあげる人をはじめて見ました」
「その…珍しくて、」
「虫がお好きなんですか?」

 茨城の手を離し、手ごろな岩場を指し示しながらの鬼灯の台詞である。茨城は暫し逡巡したようだが、素直に促された岩に腰掛けた。その隣に鬼灯も続く。どうやら彼は答えを待っているようだ、そう察した茨城が口を開く。

「元々山育ちでしたので、子供の頃は珍しい虫や動物を探すことが娯楽だったのです。年が上がるにつれ咎められましたので控えていたのですが、ここは、此処にしかいない生き物が沢山ですので、つい…」
「なるほど。ナウシカみたいですね」
「なうしか?」

 妙な切り返しに首を傾げる茨城になんでもないと手を振り、鬼灯は金棒を傍らに立てかけながら続ける。

「地獄には確かに此処にしか生息しない生き物が多い。基本的には言葉を解するものが多いので問題ありませんが、先程のように危険な虫も沢山います。慣れるまでは無闇に触れないほうがいいですよ」
「はい…、申し訳ありません」
「ああ、怒っている訳ではないので。元々こういう顔なんです」
「…まあ、」

 ふふ、と聊か緊張していた面持ちの茨城がようやく小さく笑った。被った深編笠ごと手を当て、くすくすと笑う茨城を黙って眺める鬼灯に、ややあってから笑い終えた彼女が頭を下げる。

「危ないところを助けて頂いたのですね。どうもありがとうございます」
「いえいえ、御安い御用です」
「官吏様…、いえ、鬼灯様は何故こちらに?」

 茨城の問いに鬼灯が肩をすくめた。金棒の先に括りつけた荷を指差しながら、滑らかな岩に背を預ける。

「出張の帰りです。ちょっと遠出していましてね、そのまま閻魔殿に戻る予定だったのですが、旃荼処に用があったことを思い出しまして。それでたまたま通りかかったのですよ」
「まあ、では急がれなくてよいのですか?」
「帰ったらやることが山積みなのは目に浮かぶんですが…、かれこれ三日ほどぶっ通しで働いているので、これくらいの休憩は許されるんじゃないでしょうか」
「み、三日…それは大変ですね…」

 戦慄したらしい茨城から同情とも尊敬とも取れる溜息が漏れる。首の付け根を揉みながら、鬼灯がああ、と続ける。

「茨城さんのことも気になっていたのでちょうど良かった。どうですか、旃荼処には慣れましたか?」

 この問いに、茨城は深編笠ごと力強く頷いた。

「はい。皆さんとてもよくしてくださるので、毎日新鮮で楽しいです」
「そうですか、それは良かった。何か困っていることなどもありませんか?」
「いいえ、特には。ありがとうございます」
「何かあれば仰ってくださいね。善処しますよ」
 
 鬼灯が鷹揚に頷き、会話は一旦そこで止まった。辺りは特段の物音もなく、そよそよと静かに風が吹くだけである。どちらともなくぼんやりと景色を眺めるだけだったが、やがて鬼灯が思い出したように手を打ち、首を傾げた。

「しかし、地獄の生き物が珍しいということは、こちらに来てあまり長くはないということですか?」
「あ、はい。そう、ですね」

 突然切り替わった話題に、茨城が少し驚いたように顔を上げた。弾みのように頷き、胸の前で両手を握る。鬼灯は顎先に手をやりながら、再度無表情なまま首を捻った。

「ご出身は近畿と仰られてましたが、修羅界の前は衆合地獄にいらっしゃったんですよね。地獄にはいつお越しになったのですか?」
「それは…その、」

 鬼灯の言葉に茨城が口ごもる。その様子に、尋ねた張本人はおや、と純粋に不思議がった。特に勘繰るための質問ではなかったのだが、と茨城の出方を待つ鬼灯の前、心なしか俯いた茨城が何事かを口にしようとしたときだった。

「ちょっと茨城さん!? どこ行ったの!?」

 大きな女性の声が岩の向こうから轟いた。はっとした茨城が立ち上がり、慌てて出て行こうとする。その寸前で鬼灯の存在を思い出したのか、無言で一本指を編笠の前で立て、その後は両手を地に向けて何度か振った。恐らく、"静かに"と"ここにいて欲しい"という旨のジェスチャーだろう。鬼灯が良くわからないまま親指を立てたので、茨城はぺこりと頭を下げてから今度こそ走り出した。残された鬼灯は先ほどの茨城の動きを何度か再現し、なるほどわからん、と思い直して腰を上げた。いちおう、気配を消し、足音も殺したまま岩陰から盗み見る。

「すみません、お呼びでしょうか」

 そういって茨城が駆けつける先には、三人ほどの女鬼が山と盛られた杵や斧を手に取り眺めている。うち一人が振り返り、腕を組みながら鼻を鳴らした。

「私たちが上がりの前にコレ片付けて頂戴って言ったでしょ! なのに半分も終わってないじゃない、どういうこと?」
「申し訳ありません、慣れないもので…」
「その割りに休憩してたでしょ! いい御身分だわ、全く」

 怒れる中年鬼の後ろで、同じ年頃の鬼二人が口元に手を当て、ホホと笑った。
 
「私たちが若い頃はねぇ、先輩の言付けも終わらない内に休憩なんてしたらそりゃァぁあ怒られたものよぉ」
「いい時代よねぇ?」
「ねぇえ、黙っていれば殿方が助けてくれるんでしょうしねぇ」

 茨城は特に何も言わず、黙って頭を下げ続けている。その礼はいつぞや見たとおりの完璧な角度で、一部の隙もない。それがまた癪に障るのか、三人はそのまま何度か小言を繰り返したが、素直に謝り続ける茨城にどうやら根負けしたらしい。最初の一人が腕組したまま、フン、と鼻息荒く吐き切った。

「ともかく! 仕方ないからコレ全部明日までに綺麗にして、ちゃんと元通りに仕舞っておいてね! じゃなきゃ明日の仕事が出来なくなるんだから。わかった!?」
「はい、必ず」
「言ったわね? じゃあ頼んだわよ? できませんでした、じゃ済まないからね」

 茨城が下げていた頭を上げ、力強く頷いた。

「はい。お任せください」

 それを聞いて満足したのか、三人は目配せして笑いあい、やがて挨拶もそこそこにきびすを返した。その後姿が旃荼処の勾配に消えて見えなくなるまで見送ってから、ようやく茨城が肩の力を抜いたらしい。ふう、とかすかな溜息が聞こえた辺りで、鬼灯が岩陰から出てきた。
 振り返った茨城が編笠の小首を傾げる。表情は見えないのに、何故か微笑んでいるとわかる仕草だった。

「それでは鬼灯様、わたくしは仕事に戻ります。お声をかけていただけて嬉しかったです」

 ありがとうございました、とまた綺麗に頭を下げた。鬼灯は暫く何も言わなかったが、ややあって、頷いた。

「そうですね、御互いがんばりましょう」
「はい」

 頷きあい、挨拶を交わして、金棒を担ぎなおした鬼灯がきびすを返した。そのままテクテクと進み、やがて、歩を緩めた。立ち止まり、振り返る。案の定、その背が見えなくなるまで見送るつもりだった茨城がこちらを見ており、振り返った鬼灯に対して再度きょとんと小首を傾げた。

「茨城さん」
「はい、」
「何か、困っていることはありませんか?」

 茨城は暫く無言だった。ややあって、思いついたというように両の手を打った。

「それでは一つ、お願いがございます」
「なんでしょう?」

 促す鬼灯の前、彼女は先程と同じように人差し指を立て、内緒話をするように深編笠の前に持ってくる。

「この先、旃荼処でどなたかにわたくしの居場所を尋ねられても、知らぬとお答えくださいな」



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