第六話


 引き続き、宴会真っ直中の閻魔殿食堂内である。周囲の喧噪をよそに、閻魔大王周辺の空気は凍り付いている。

「…まさかぁ」

 ややあって、閻魔大王がポツリといった。

「同じ名前の別のお店とか、でしょ。もしくはホラ、裏方かなんかだったとかさぁ…」
「そうかもしれません。ですが、そうじゃないかもしれません」
「君って奴はいつだって冷静に刺してくるよね…」

 鬼灯の至極もっともな発言に閻魔がうめく。

「ていうか、何で君オカマバーの店名なんか知ってるの…?」
「付き合いですね。どっかのアホがのんびり机仕事だけをしている間に外交もせねばならないもので」
「………」
「言い難い空気ですが俺は先輩の付き合いで行ったことがあるからです…」

 恐る恐るといったように枳殻が手を上げた。鬼灯が心得たように頷いている。

「結構有名な店ですよ。あの界隈では珍しく狐ではなく鬼が経営していますからね」

 彼は茨城が消えた方向を見ながら、再度並々と清酒がつがれた升を傾けた。こころなしか、つり目が伏し目がちに鋭くなっている。

「性別を超越した生き物にはほかにも心当たりがありますので、それはそれでかまいません。問題は、採用に当たって提出された書類に偽りがあったかもしれないと言うことです」
「まあ、性別偽装っちゃ偽装っすね…マジでそうなら」

 枳殻が喉元を押さえながら青い顔で言った。それに対して、鬼灯が掌をぶんぶんと振る。

「それだけじゃありませんよ」
「ん? というと?」
「彼女、と言っていいかわかりませんがまあともかく、茨城さんは書類上、既婚者です」
「…はぁぁああっ!?」

 今度こそ、枳殻が椅子を蹴立てて立ち上がった。周りが一時盛り上がりを止め、なんだなんだとこちらを見る。しまった、と思う間もあればこそ、衆目を片手を挙げて制しながら次いで立ち上がった鬼灯が、枳殻の両肩をつかんで無理矢理に座らせた。ものすごい力である。ぎゃああ!と今度は悲鳴が上がった。ますます注目を浴びる両者に代わり、慌てて閻魔が愛想笑いで鎮火に回った。何でもない何でもない、とくり返しながら、手頃なテーブルに座り直し、そこにいる連中とたわいない話を無理矢理に始める。その甲斐あってか、ぱらぱらと解かれてゆく視線の網を後目に、枳殻は問答無用で机に突っ伏した。

「折れた…ぜったい折れた……」
「ゆとり世代は柔ですね」

 鬼灯が真顔で言った。鎖骨を押さえながら、何とか身を起こした枳殻が口をひきつらせている。

「ゆとりは関係ねぇ…ていうか、さっきのマジすか」
「マジです。配った履歴書のコピーにあったでしょう。読んでなかったんですか?」
「う、まぁ…、あんまり…」
「まったく」

 やれやれ、と鬼灯がため息を吐く。そのまま、考え込むように顎先に手を当てた。

「女性であれば問題ありません。女性でなければ、性別と婚暦の虚偽申告です。地獄は今のところ同姓の婚姻を認めていませんし」
「女性で婚暦詐称って言うのは…?」
「そんなことをする理由がないでしょう」
「…確かに」

 両手を組んだ上に顎を乗せた鬼灯が、困りましたね、と平素と同じ低音で言った。

「その辺りも考慮して採用した節もありましたし…、しかし、面と向かって"あなたは女性ですか?"と訊くのも気が引けます。今の時代訴訟になりかねない言葉ですから」
「シロさんがわかったりしませんか? 犬だし」

 枳殻に水を向けられたシロは舌を出したまま首を振った。

「あのお姉さんはメスの匂いがするけど、オカマかどうかまではわかんないなぁ。あの人たちもメスのにおいがするんだよ」
「ああ、香水かな。じゃ、やっぱ本人確認しかないか…?」
「ほかに一つ、方法があることはあります」
「え?」

 それってどういう…、と枳殻が聞き返したあたりで、シロがあっと声を上げた。その声に両名ともつられ振り返ると、お盆にデキャンタとグラスを乗せた茨城が、空を舞うルリオとともに小走りで駆け寄ってくるところである。見かけないと思ったら、どうやら着いて行っていたらしい。

「すいません、お待たせして」

 背の高いガラス瓶を乗せているというのに、危なげなく運びきり、卓の端に盆を置いた。枳殻の前にグラスを置き、そのまま隣に腰掛け水を注ぐ。そして、所在なくテーブルに投げっぱなしだった枳殻の手を取った。細い指が掌にグラスを握らせてくる。

「どうぞ」
「あ、どうも…」
「ゆっくりお飲みくださいね、大丈夫ですか?」

 たおやかな指先が遠慮がちに背中をなで、戦々恐々と水を飲む枳殻を、恐らくだが笠の中から見つめている。一切の表情が伺えないのに、体中から労りの念が見えた。それがまた、場の雰囲気を微妙にさせている。

(この水、レモン水だよ…)

 ほんのりと立ち上がる清涼な果汁の香りが胃に優しい。恐らく、厨房に頼みでもして搾って貰ったのだろう。少し遅かったのはこの所為か。

「よかったですねぇ、枳殻さん」

 官吏の棒読みが鼻につく。図らずも上司を睨みつけてしまったが、相手はどこ吹く風だった。まだ心配そうな茨城に向き直る。

「茨城さん、私にもいただけますか」
「あ、はい、どうぞ」

 先ほど清酒を入れていた升を差し出して言う鬼灯に、茨城が頷いてデキャンタを傾ける。酒と混ざるだろ、と思わなくもないが、そのあたりは適当らしい。気にした風もなく口に含んでいる。

「レモン水ですね」
「ええ、胃が荒れているときはこれが一番かと…お嫌でしたか?」
「いえいえ、油ものばかり食べていたのでありがたいです。こういった事も例のお店で学んだんですか?」
「はい。お酒や濃いものを召し上がった方にはこれが一番だと」

 鬼灯の労いに、茨城は明らかにほっとしたようだ。そのまま、彼らは何事か雑談を始めた。枳殻は言われたとおり、ゆっくりゆっくりと水を飲みながら、改めて首から下の茨城を眺める。
 竹製の深編笠は茨城の首から鎖骨のあたりまでをすっぽりと覆っている。そこから始まるのは着物の袷、肩の先端であり、当たり前だが後はほかと変わりない人型だ。肩幅は狭く、薄い。乱れなく着付けられた体は頼りなく、華奢といって差し支えないが、よくよくみれば女性特有の丸みは意外にはっきりと露わになっている。帯で締めているから尚更強調されるのか、本人の貞淑な雰囲気とは異なり、何ともけしからん身体つきである。これが作りものだというのなら、これから女と名乗る生き物のなにを信じればいいのかわからなくなる。しかし、作り物ではなかったとすると、彼女は人妻というわけだ。

(どっちに転んでも微妙じゃねーか…)

 物思いに耽っていたのが悪かったらしい。横目で見ていたつもりがガン見していた枳殻は突如、眉間に本気のチョップを喰らった。

「おいむっつり野郎、何度も言わせないでください」
「…すいませんでしたそれを言わんといて下さい……なんすか」

 ちかちかする視界を宥めながら問えば、鬼灯は振り切った腕を静かにおろした。茨城がおろおろと両者を見比べている。

「ですから、茨城さんの配属先は黒縄地獄ですので、アナタは先輩に当たるんですよ、と。何か言うべきことはないですか?」
「ん、んん? そうすね、といっても俺もまだ入ったばっかですし…」

 んー、顎に手を当て首を捻る枳殻に向かい、茨城が背筋を正して座りなおした。

「気をつけておくべき事などはありますか?」
「気をつけること…んー、あー、夜勤がありますね。まあそりゃどこも一緒か。あとは、だいぶ体育会系なんですっげー挨拶にうるさい…」
「ああ、それですね」

 枳殻が言い切る前に、鬼灯が手を打ちつけた。長卓がずらっと並ぶ食堂内を見渡し、やがて、一角を指さす。

「あのあたりに座ってらっしゃるのが黒縄地獄の関係者です。確かに枳殻さんの言うとおり、ほかと違って上下関係がいささか厳しい所です。挨拶しておいて損はありませんよ」
「はい、是非行って参ります」

 茨城が強く頷いて立ち上がった。枳殻がつられたようにグラスに残る水を一気に飲み干す。

「あ、じゃあ俺もいちおう…」
「シロさん、ルリオさん、ついでに不喜処の方にも紹介してあげてください」
「いいよー!」
「おう」

 腰を浮かせかけた枳殻をさりげなく制し、代わりに動物たちを促す鬼灯の真意が見えず、枳殻は中途半端な姿勢のままでとどまった。その間に、茨城が二人に腰を折り、陽気な動物たちに先導されながら去ってゆく。残されたのは男二人と高鼾を掻く猿一匹である。

「話の続きですが」

 枳殻に座るように促しながら、再度升を取った鬼灯が言う。しかし、注ぐ中身は茨城が運んできたレモン水だ。どうやらお気に召したらしい。

「些細なことですが、知ってしまった以上は看過もできません。早いうちに白黒はっきりさせましょう」
「…性別ですか。で、さっきいいかけてたのって?」
「前職へ問い合わせます」
「修羅界に?!」

 最後の言葉は枳殻ではなく、どうやら一巡して戻ってきたらしい閻魔大王である。元鞘に収まるように上座へ座り、どこからかもって来た鯣をかじっている。聞いてたのか、と驚く枳殻とは対照的に、鬼灯は首を振るだけである。

「いえ、キャバレー・ハッテンへ。その方が早いですし」
「あ、そっか。なんだびっくりした〜、なるべくあそこには行かないでほしいんだよねぇ、心臓に悪いからさ!」
「私もなるべく行きたくはないですね。まあ、衆合地獄には別件で伺おうとしていたところですし、ちょうどいいと言えばちょうどいい」
「? なんかあったっけ?」
「…この間お渡しした書類に全部書いてありますよ」
「えー教えてよぉ」
「何でもかんでも人に訊かない!」

 お母さんか。
 鬼灯が一喝するが、齢ウン千年である閻魔大王はすねたように唇をとがらせるだけである。微妙な主従、とすっかり蚊帳の外で傍観している枳殻に向かい、鬼灯が改めて視線をよこす。

「と、いうわけで、近いうちに時間を作ります。使いを出しますので、その際はまた閻魔殿までいらしてください」
「え!? 俺も行くんすか!?」

 思いかけずと言ったように叫ぶ枳殻に、鬼灯が平素と変わらぬつり目で睥睨する。

「当たり前でしょう。というか、アナタにはこの一連について真っ先に動いて貰わなければ困ります。旃荼処の人手不足解消のために尽力してるんですよ」
「いやまぁ…そりゃそうなんすけど…、でも、俺の今回の話って面接官までじゃなかったかなぁ、なんて…」
「そのアナタが面接で可を五連打した方がキナ臭いんでしょう」
「うぐ」

 ばれていた。

「公務員なんて何でも屋です。やれと言われたことには逆らわない!」

 ぐうの音もでない正論に、枳殻が情けなく返事をして机上に突っ伏した。すぐそばで、鬼灯君お母さんみたーい、と言った閻魔大王が殴られる鈍い音がした。



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