閻魔殿内社員食堂は、獄卒であれば24時間利用可能の食堂である。堂内は中々に広さもあり、値段もリーズナブルな各国料理を多種多様に扱っている。味も申し分なく、お茶は無料で飲み放題とあり、どの時間帯もそれなりに人が集まっている場所だ。その食堂が今、官吏一同勢ぞろいの超満員である。長卓をつなげて並べた上に、湯気の立ち上がる鍋と各種料理が出揃っている。いつもはご法度のアルコール類をはじめ、ジュースやお茶も潤沢に並ぶ。箸や口こそつけないものの、集まった人々は隣や対面の者同士と言葉を交わし、わいわいがやがやと騒がしい、すっかり宴会の様相である。その様子を、食堂一番奥の上座に陣取る横にも縦にも大きな人物がぐるりと見回し、満面の笑みを浮かべて杯を取った。
「みんな集まったみたいだねー! よし、乾杯しよう!」
「はい。では皆さん、御好きな飲み物を各自ご用意ください。用意が出来たら待機。わかっていると思いますが先に飲んじゃ駄目ですよ」
大人物の隣でテキパキと指示を出す人こそ、例の美貌の官吏殿である。各テーブルの要所に用意された飲み物を絶妙に配置された注ぎ屋の官吏が動き、実に素早く皆々の杯を満たしてゆく。全員に行き渡ったか、と鬼灯が首をめぐらす横で、同じように枳殻も額に手で庇を作りながら追随していた。しかし、彼の用途は配膳の行方ではない。あの奇怪な被り物を探しているのだ。
「来てないっぽいですね、彼女」
「まあ、自由参加ですからね。こういう集まりが苦手な方もいらっしゃいますし」
相変わらずにべもない。しかし言っていることはもっともである。少し残念に思いながら枳殻も手酌でビールを注いだ。その横では毛玉三匹がぎゃんぎゃんとやかましい。
「鬼灯様ー!おなかへったよぉおお!まだぁ!?」
「ちょっ、シロやめろって!恥ずかしいだろ」
「俺寿司食いたいなー寿司ちょっと遠いなー桶ごと持ってきていいかなー」
それぞれ犬、雉、猿の声である。犬は言わずもがな、シロというあの白犬だ。他、雉と猿はシロの昔からの馴染みらしく、それぞれ雉はルリオ、猿は柿助と名乗った。なんと彼らは揃ってあの有名な桃太郎のお供だったという。むっちむちの身体を見る限り眉唾物だが、鬼灯が頷いていた辺り本当らしい。当の桃太郎は今別の職場へ単身赴任中とのことで、不在だ。他の官吏に負けず劣らず騒ぐ三匹を何とはなしに眺めている枳殻の横で、全体を見渡していた鬼灯がおや、と声を上げた。
「枳殻さん、お待ちかねの彼女がお見えですよ」
「え、」
あそこ、と鬼灯が指差す先に、確かに間違えようのない寸胴形の竹編笠が見える。入り口から入ったはいいが、あまりの人の多さに躊躇しているらしい。真新しい支給の官服の袖を握り、きょろきょろと所在なさげに辺りを見回している。その周囲は突如現れた得体の知れない人物にぎょっと身を引き、当然といえば当然だが、席を促すようなそぶりはないようだ。
俺が呼びに言ってきますよ、と振り返った先、鬼神は姿を消していた。あれ、と再度首を巡らし茨城の方を見ると、既に鬼灯が彼女に何事かを話しかけている。
「は、はえぇ…」
圧倒的瞬間移動に枳殻が慄いている間に、茨城を伴った鬼灯が戻ってきた。あれー!と同時に声をかけたのはシロと上座の人物である。
「あのときの妙なお姉さん! お姉さんも合格したんだよね! おめでとう!」
「あー!話は聞いてるよ、君が例の被り物の子ね! こっちこっち、せっかくだからこっちにおいで!」
毛玉と大男にいっぺんに詰め寄られ、深編笠が思わずといった風に仰け反った。しかし、意外に気丈らしい彼女は踏みとどまり、顔は見えないながらも、やはり礼儀正しく腰を折るのである。
「茨城と申します。このたびは御招きいただき、ありがとうございます。すみません遅れてしまって…」
「いーよいーよぉ、ホラ座って! 何飲む? ビールでいいかな? 最初だしね!」
言われるまま彼女は、シロと大男の間に腰掛けた。テーブルを挟んだ向かいに鬼灯と枳殻が並ぶ配置だ。杯を渡され、有無を言わせぬままビールを注がれている。酒飲めるんかな、と枳殻が思う前に。どうやら全員に杯が行き渡ったのを見届けたらしい鬼灯が声を上げた。
「はい、皆さん静粛に。乾杯前に閻魔大王のご挨拶があります」
大王、どうぞ、と鬼灯が水を向ける。言われて、先ほどから上機嫌らしい大男が嬉しげに頷いて立ち上がった。背丈は優に2メートルを越え、釣気味だが大きな目に鷲鼻、貫禄ある髭もたっぷりと蓄えた見上げるような大男である。ずんぐりと太い指に埋もれそうな肺を握り締め、前に進み出る。ごほん、と咳払いを一つ。
「えーでは、僭越ながら…、新入社員の皆さん、入社おめでとうございます! かくいうワシが閻魔です。現世組のみなさんも名前くらいは耳にしたことはあるんじゃないかな? えー、皆さんには、これからは獄卒としての自覚と熱意を持ってどんどん職務に励んでいただき、ゆくゆくはこの地獄を背負って立つ一員に」
「はい、カンパーイ!」
「!?」
突如鬼灯がぶった切った。動揺する枳殻をよそに、動物たちと官吏の面々は慣れたように、カンパーイ!! と揃いの大音声である。そのまま、雪崩のように宴会が始まった。先ほどよりいっそうにぎやかに食事に話にと各々楽しむ歓声が上がっている。
鬼灯も席に着き、閻魔大王も戻ってきた。その表情は両極端である。
「ひどいよ鬼灯君…毎回毎回おんなじことしてさ…」
「え、毎回やってんすかあんなこと!?」
「引っかかるほうが悪いんですよ。あと話が長いんです」
料理が冷めるでしょう、といいつつ、鬼灯は小皿に取り分けたエビチリを口に運んでいる。暫くいじけていた閻魔大王だったが、気を取り直したように何やらシロ達と話している茨城に笑顔で向かい直った。切り替えの早い性質である。
「茨城ちゃん、ていうんだってね。じゃんじゃん食べてね! 何がいいかな? お寿司? 中華? 鍋もあるよ〜!」
「あ、ありがとうございます、その、自分で…」
「いいからいいから! はい!」
戸惑う茨城の手に、山のように盛られた料理が手渡される。言葉どおりに寿司、中華と多彩で、まだほこほこと湯気が立っており、見るからにおいしそうだ。取り分けた小皿を次々と手渡してゆくやり取りを黙って眺める枳殻だったが、やがてはっ、と気がついた。彼女はあの笠を被ったままでは料理は食べられまい。
(食べない、って選択肢はないだろ新入社員に…、と、いうことは、取るのか!あれを!)
ビールに口をつけたまま、思いのほか早く巡ってきた機会に枳殻がひっそりと興奮する。どうやら、周りの面々も同じような気持ちのようだ。獣は正直に身を乗り出して見ているし、閻魔大王は早速といったように箸を差し出している。鬼灯だけが我関せずといったように次から次へと料理を口に運んでいた。意外に大食いのようである。
割り箸を受け取った茨城が、礼を言いながらそれを二つに割った。エビシュウマイの盛られた小皿を取り、いただきますと呟いてから、被った笠の縁に手をかける。
そのまま、ズッ、と笠の位置を前にずらした。
空いた隙間から箸を運び、何の問題もなくシュウマイを口に運んでいる。行儀よく静かに租借してから、どうやら閻魔に向け微笑んでいるらしい。
「とっても美味しいです」
「そう…そりゃあ、よかったよ…」
あからさまにがっかりした様子である。深編笠が不思議そうに首をかしげている。少しも顔が見えないのに、案外感情というのは伝わるもののようだ。いつの間にか寄せ鍋をよそっていた鬼灯が椎茸を取り上げながら鼻で笑った。
「単純すぎるんですよ、アナタ方は。そんなあっさり上手くいくはずないでしょう」
「あ、てことは鬼灯様もちょっとは気になるんだぁ?」
「オスとして当然のことです」
鷹揚に頷く鬼と犬のやり取りを、どうやら不思議そうに見つめていた茨城だったが、気を取り直したようにビールの中瓶を手に取った。水滴がキンキンに冷えた茶瓶の表面を滑り落ちてゆく。
「どうぞ」
「わ、どうもありがとう」
瓶の口を差し伸べた先は既に空になっていたらしい閻魔の杯である。トクトクトク、と耳に心地よいなんとも食欲を刺激する音が流れる。注ぎ終えた杯は、綺麗に七対三の黄色と白に分かれている。閻魔が早速口をつけ、勢いよく飲み干した。ぷはぁ、と顔をはなす頃には、先程の落ち込みも何のそのの上機嫌である。
「いやぁ、やっぱお酌っていいよねぇ。なんだか味も違うように感じちゃうなぁ!」
「(単純…)はあ、よかったっすね」
「あ、よろしければ、どうぞ」
「え」
茨城の、恐らく顔の正面が枳殻へ向いている。両手で握った瓶ビールの注ぎ口も、どうやらこちらを示しているようだ。俺か!と覚醒した枳殻が慌てて残りを飲み干して、空になった杯を茨城の手元に向かって差し出す。そして再び、瓶口が杯に口付けた。
…閻魔大王、馬鹿にしてごめんなさい。
そう懺悔したくなるほど、なんとも色っぽいお酌なのである。少し身体を傾けながら、そうっ、と中身を注ぐ手つきと、捲れた袖から見える細い手首が堪らない。僅かに覗く肌はみなほんのりと桜色で、透ける様に白い。思わずまじまじと彼女を凝視してしまい、お酌が終わっているのに気づかなかった。突然べし、とまだ箸包に入ったままの割り箸で額をはたかれる。犯人は隣に座る鬼灯である。
「むっつり野郎」
「なんてこというんすか! 違いますよ!」
あわあわと慌てる枳殻を後目に、鬼灯はそのままごく自然に茨城の酌を受けている。三度、美しく注ぎ終えた彼女は止めのように懐紙を取り出し、水滴を拭って瓶を置いた。驚嘆すべき美しい作法である。
閻魔大王と動物たちがそろってほぇ〜っと息を吐いた。
「いいねぇ、正に絶滅危惧種の大和撫子だよ! なんだか思わず拝んじゃうねぇ〜!」
「すてきだねぇ〜お姉さん、なんかセレブって感じ! それって例のラーメン屋さんに習ったの?」
「ラーメン屋さん?」
唐突すぎるシロの言葉に、茨城がひょこっと首を傾げる。春巻きに辛子をつけていた鬼灯が手をぶんぶんと振った。
「シロさん、阿修羅王です」
「あ、それそれ。阿修羅王さん。その人に習ったの?」
「ああ」
合点がいった、という風に茨城が小さく淑やかに笑った。おそらく口元に当たるだろう位置に袖元を当て、反対の手で袂を押さえている。
「いいえ、違います。あちらでは本当に雑用ばかり行っておりましたから」
「雑用?」
「ええ。炊事や洗濯、お屋敷とお庭の掃除、などでしょうか。本当に何でもやるのです。自分の手が空いたらすぐ人手の足りないところに回りますし」
「そうなんだぁ、大変そうなお仕事だねー」
「修羅界は、その、いつも大賑わいと申しますか…人手不足なので」
歯切れ悪く締めくくる茨城の向かいで、鬼灯は蟹の足を剥きながら軽く頷いた。
「まあ、大規模抗争中ですからね。まさしくてんやわんやでしょう」
「あそこも長いよねぇ、もうどれくらいだっけ?」
「ゆうにウン千年ですよ。私が補佐官になった頃にはもう始まっていた気がしますね」
「肉うま!超うま!」
会話はカオスだ。シロが小皿から焼き鳥をくわえ上げ、はぐはぐと咀嚼しだした。それを何ともいえない表情で眺めながら、ルリオが咳払い代わりのようにバサリ、と一度片羽を広げる。
「抗争、ってことは、戦争中なのか?」
「ええ。帝釈天一派と阿修羅王勢力の二極ですね。血で血を洗う大戦争中ですよ」
「そんなところからきたのかぁ、娘さん根性あるな!」
「あ、ありがとうございます」
柿助が杯を片手に赤ら顔で叫んだ。流石猿、できあがるのが早い。ルリオが器用にシーザーサラダのクルトンだけを摘みながら、すでに日本酒を升で飲む鬼灯に首を向けた。
「しかし、何だって戦争なんかしてるんだ。そういう業の界なのか?」
「ああ。ルリオさんたちは天界にいらっしゃいましたしね」
ご存じないでしょうね、と言いつつ彼は焼き蛤を取り上げた。どんだけ食うんだこの人、とどん引きするのは枳殻である。鬼灯は至極まじめな顔で剥き身を口に含み、むぐむぐと咀嚼してから口を開いた。
「阿修羅王には舎脂様、というご息女がおられます。一人娘のその方を幼い頃から大層かわいがっていらっしゃったのですが、ある日その娘さんが常日頃から気に食わなかった男とデキて駆け落ちしたのです。で、全面戦争と」
「私怨じゃねーか!!」
茨城が心なしかうつむいた。微妙な心境なのだろう。
「修羅界はそもそも阿修羅王が帝釈天一派と争う為だけに作られた世界です。そこから"争いの絶えないところ"という意味で六道の一に数えられるようになったんですよ」
「誕生理由が家庭問題の世界…」
「世の大抵のことは、くだらないことがきっかけですよ」
そう締めくくるなり、彼は今度焼きそばに手をかける。紅しょうがをよける鬼灯の手つきを見ているのか居ないのか、視線の読めない茨城がずらしていた笠の位置をそっと戻した。
「舎脂さまはよくご子息を連れて里帰りをされ、勘当を解かれようと尽力なさっているのです。でも、阿修羅王はそれを門前で追い返すことの繰り返しで…」
「あの方は今のようになる前から武闘派で頑固な昔気質でしたよ。ご息女も父親似なんでしょう。あと千年はこの状態が続くほうに賭けます」
「…やはりそうでしょうか…」
深編笠があからさまにしゅんとしてしまった。どうやら、義に厚いところもある娘らしい。慌てるのは気の優しい年長者である。閻魔大王がぶんぶんと両手を振って上座から身を乗り出してきた。
「あーあーあーあー! えーっとつまり、やっぱり茨城ちゃんはしっかりした娘さんってことだね!お酌なんて完璧だし! 阿修羅王も鼻が高いだろうねぇ」
「大王、話し聞いてましたか? そこで習ったものではないって仰ってたでしょう」
「そうそう、それ! お家の人が厳しかったとか?」
唐突な問いながら、気を引くには成功らしい。顔を上げた茨城が首を捻った。
「どうでしょう…一般的だと思いますが…、あ、ですが、お酌の仕方はアルバイト先で学びました」
ポン、と手を打ちつけ、そう言った声は上調子である。バイトが楽しかったのかな、と思いつつ、枳殻は鬼灯に押しつけられた紅ショウガ山盛りの焼きそばに取りかかった。これは焼きそばと言うより、もはや紅ショウガである。頬張りながら、バイトかぁ、と再び盛り上がる集団に向け、耳だけを傾ける。
「きれいな注ぎ方ですとか、始まりから終わりまで美しく見える所作、などですね。いつもまだまだだって叱られてばかりでしたが」
「そう? 全然そんなことないけどなぁ。なんていうか、手つきに風情があるよね。ねぇ鬼灯くん」
「ええ、テンションあがりますね」
「うんまあ…君は全くそうは見えないけどね…」
「ふふ、そういっていただけると嬉しいです。少しは身に付いているのでしょうか」
上品に笑う茨城につられたように、閻魔も笑う。というか、デレデレである。すっかりこの娘に骨抜きにされたようだ。質問は続く。
「でも、そんなこと習うなんて変わったアルバイトだね。仲居さんとかかな?」
「いえ、お店です。ご存じでしょうか?"キャバレー・ハッテン"というのですが」
ブファアアッッ!と枳殻が盛大に噎せた。
「げぇっほゲッホゲホッげほっ!」
「えー!?ちょっと大丈夫!?」
水、水!と慌てる閻魔と獣たちを後目に、茨城が素早く立ち上がった。取って参ります、といい残し、今なお料理が運び出されてくる厨房の方へかけてゆく。いささか乱暴に枳殻の背を叩きながら、鬼灯が無表情のまま息を吐いた。
「慌てて食べるからですよ。お好きなんですか、焼きそば」
「(あんたが寄越したんだろ…)げほっ、ちが、そうじゃなくってですね……、」
辛うじて口に含んだ焼きそばのリバースだけは防いだが、どうやら気管に大ダメージを負ったらしい。あえぐ枳殻の背中を最後に一発とばかりにはたき、鬼灯が鷹揚にうなずいた。
「まあ、言いたいことはわかります。私も驚きました」
「少しも驚いてるようには見えないんすが…」
「驚天動地とはこのことですね」
「ねーねー、なんのはなし?」
シロが鬼灯の袖を引いた。その頭をなでながら、鬼灯がいすに座り直し、再び箸を取る。
「"キャバレー・ハッテン"。衆合地獄にある、風俗店の名前です」
「え!? あの子ホステスさんだったの!? あんなおとなしそうな子が!?」
人は見かけによらないなぁ〜!と驚く閻魔大王をよそに、鬼灯は次にエビの天ぷらを取る。しっぽから口に含み、咀嚼しながら、彼は緩く首を振った。
「問題はそこではありません。あの店のキャストは全員男性です」
「は?」
「俗にいうオカマバーなんですよ。"キャバレー・ハッテン"は」
時間が止まった。