MONSTER


 29.俺の名を言ってみろ


 開け放たれた窓から澄んだ風が吹き込んでくる。観音開きになる大きな窓からのぞく空は一面の青一色だ。棚引く雲もない。びゅう、びゅう、と強めに行き交う風の音が、の鼓膜をくりかえし擽った。それで、目が覚める。
 何度となく瞬かせた視界に、薄く光が馴染んでゆく。焦点が合えば、陽の光が強い分室内は少し薄暗い。だからこそ余計に、晴れ渡る蒼穹は沁みるように焼きついて離れない。起き抜けに飛び込んできた景色を眺めて、しばし。濁り、澱んでいた瞳に光が点る。そのまま目だけを動かし、やがて、ち、と舌を打つ。途端、戸口の辺りからため息が漏れた。

「起きて早々それか。クソガキ」
「…何の用?」
「叩き起こそうとしてた所だ」

 取り付く島もない舌鋒のまま、気配は戸口から動くことはない。ただ刺さりそうなほど射られる視線が明確にを捕らえている。少女は一つ溜息を吐き、高めの枕に上半身を預けて窓側を向いたきり、そちらを見もしない。吹き込む風が清潔な上掛けを撫でてゆく。
 ちょうど、ことの日から二週間後の午下りだ。三日間昏睡状態だった彼女が目覚め、絶対安静を五日ほど経て、今に至る。右腕各所の複雑骨折に、肋骨を二本、頬骨と鼻骨、大腿には罅が入っている。打撲は身体中、顔周りが特にひどい。左目は今もまともに開けられず、眼帯とガーゼで厳重に封じられている。
 手当てを受けた当初、あからさまな暴行の痕跡に説明を求める声があったようだが、それも今では立ち消えている。他の帰還兵と共に彼女が向かう予定だった内地の出発日はとうに過ぎていた。傷は深いが、口がきけないわけではない少女は現時点までそのことには特に言及していないという。治療の指示にも素直に従い、支給される食事も頓着なく平らげる。ただ、雑談や質問には一切答えず、人好きする笑みでにこにこと笑うだけ。大抵は、無心に窓を眺めている。その先には、日々平穏を取り戻してゆく街並みと空がある。
 王命により施行された作戦は見事成功を遂げ、人類の未来は延長された。逼迫していた領土問題は表面上解決し、食糧供給難も順調に通常ラインへと落ち着いていっている。徴兵制度をある程度の年齢で区切った為に必然的に親を亡くした戦争孤児が増加したが、これも貴重な人夫として数多ある引き取り手の元へ分散していった。この後は生産者への道を行くか、志を高く志願兵となるかは、制度上は本人の意思へ委ねられる。
 ローゼ、シーナの混乱も日に日に薄くなり、街は活気を、人々は笑顔を取り戻しつつある。あの雨の日々が嘘のように、最近は毎日、穏やかな晴天が続いている。
 ほの暗い室内には暫く沈黙が降り、やがて、戸口に立つリヴァイが腕を組みなおした。

「じきエルヴィンが来る。それでお前の処遇も決まる」

 が鼻を鳴らした。

「あっそ」
「余裕だな」
「ほう」

 僅か、リヴァイの目が細まった。コツ、と指が肘の辺りを叩く。

「ならまぁ、精々祈ってろ」

 この言に、少女は思わずといった呈で噴出した。

「またそれか。その台詞流行ってるの?」
「また?」
「あの金髪も同じこと言ってた」

 ピン、と室内に見えない糸が張り巡った。一変した空気の中、やおらが振り返る。顔の半分をガーゼに覆われ、額には包帯、僅かに見える皮膚は赤黒い。リヴァイを見るなり、露出した瞳がやんわりと弓形を描く。

「このわたしに祈れってさ。生き延びられるようにって。皮肉よねぇ、言った自分が死んでりゃどうしようもないっつーの」

 言いきるなり、今まで何度も耳にした澄んだ少女らしい笑い声が響く。対するリヴァイは黙り込んだまま、変わらぬ目つきでを見ていた。不穏な色同士の瞳が静かに交錯する。
 音といえば風が吹くばかり。この対峙は思いのほか長く続いたが、終わらせたのはリヴァイだった。組んだ腕の片方を取り上げ、ざらついた掌で顎を撫でる。視線ははずさないまま、ぬるい瞬きをひとつ。

「あの男…、カルノ・コンフューザを騙っていたあいつも、お前が嗾けたんだな」

 は何も言わずに小首を傾げ、微笑む。短い髪が風に煽られ、虫のように蠢いた。

「口振りがまったく同じだ。相手を挑発して出方を見る、ってか。ガキらしい端的な考えだ。俺が短慮からお前を殺しちまったらどうする」
「簡単よ。返り討ちにしてやる」
「あの男もお前が殺したのか」

 ふと、の視線が外れた。小さな頭が不安定にゆらゆらとめぐり、また開け放たれた窓の方向を見やる。姿勢からして少女の位置から見えるのは空ばかりのはずだ。薄青から群青までの鮮やかなコントラストが、まるで切り貼りされているかのように写る。ピピピ、と僅かに鳥のなく声。それもすぐ風に掻き消されてゆく。

「いい天気」

 先程より、伸びやかな声が落ちる。出会い頭の頃の声だ。続けざま、長い溜息が落ちた。

「やっと晴れたなぁ…、わたしは、雨は嫌いだな。濡れると寒いし、苔は不味い」
 
 その言葉を、反芻する間はなかった。風の音ばかりだった室内にコンコン、と控えめなノックが響く。兵士長が腕を解き、振り返った。ややあって、扉が滑らかに開く。

「遅くなってすまない」

 変わりはないかな、と穏やかな声と共に、話題の待ち人が供も連れずに姿を現した。整えられた金の髪にけぶる緑青の瞳も相変わらず、きっちりと着こんだ団服には乱れも隙もない。外側では戸口脇に歩哨として立っていた兵士が一人、無言のまま敬礼を取っている。彼にひとつ肯きを返してのち、調査兵団団長、エルヴィン・スミスはゆっくりと入室を果たした。後ろ手に閉められた戸の脇にはやはりリヴァイが佇む。も首を巡らせ、適当に置かれていた椅子を手ずから曳く彼に視線を送っている。ひとつしかない粗末なそれを寝台脇に備え付けるなり、よいしょ、との掛け声ひとつで気安く腰を下ろした。
 僅かに微笑むと視線を絡ませる。身体中至るところに当て布をされた少女をしげしげと観察した後、やがて、彼もうっすらと笑みを返した。

「こうして顔を合わせるのは久しぶりだね。顔色も随分良くなった」
「おかげさまで」

 返事を期待していなかったのか、兵団団長が僅かに目を見開く。しかし次の瞬間には先ほどよりも朗らかに微笑んだ。

「なるほど。報告どおりの子みたいだ。いや、少し驚いたよ、最初の頃とは随分と印象が違うからね。傷の具合は平気かな?」

 今度、返事はなく、は曖昧に微笑んだままエルヴィンの視線を受け止めていた。団長も特に何も言わず、暫く物言わぬにらみ合いが続く。やがて、ふう、とどちらともなく穏やかな吐息が流れた。エルヴィンが口を開く。

「俄かには信じがたいことが立て続けに起きている。何処から掘り下げるべきかすら難しい。詳細不明の岩がある宗教集団縁だったこと、中で生存していた人員がいたこと、そしてそれを纏め上げていたのが、君のように年端もいかない子供だったこと。これが、その際たることだと思う。極限の状況下とはいえ、よく人心を掌握できたものだ。何か秘訣があるのかな」
「ご用件は何ですか?」

 前後に構わずものを言うに、思わずといったようにエルヴィンが苦笑する。

「まあ、そう焦らずに。君が素直に話してくれるとも思っていないよ」

 ふふ、と語尾にすら笑いを滲ませる仕草に戸口に立つリヴァイが僅かに目を細める。再び沈黙したの顔をのぞき込みながら、順序良くいこう、と穏やかな声が響く。

・ヨルム。旧シガンシナ区近郊バルトロイ村出身、八三三年生まれ。両親共に農夫、志願歴や前科はなし、…これが、今回の作戦で出兵するに当たり機関へ提出された君の素性らしい」

 滑らかな口調と穏やかな声が、依然風の吹き込む室内にも良く響く。エルヴィンが指を組んだ。

「しかし、不思議でね。これに限らず、君たちの事は調べれば調べるほど不審な点ばかりが出てくる。まず第一に、バルトロイという村は存在しない」

 ピク、との瞼が痙攣した。それは一瞬で、片方だけ露出した瞳は何事もないかのように静かな瞬きを続けている。いや、とエルヴィンが唇を舐めた。

「今のは語弊があるな。厳密に言えば、バルトロイという名の集落は存在する。しかしそこは元々村ではなく、王都商会が地方への商材を輸送する際に使う、いわば中継地の名だった。人の行き来はあっただろうが、生活区域としては登記されていない。そしてここから当時頻繁に搬入出されていたものが現在は商会関係者のみが利権を預かる希少鉄鋼だ。奇遇にも、我々が持ち帰った大岩の破片にはこれが多分に含まれているらしい。さて、これはどういうことか。君は何を知っている?」

 が首を振った。

「何も」
「そうか。では今の話、特に自分の出身地が存在しないという事実についてはどう思う?」

 一度視線を逸らし、が虚空を見上げた。唇は微笑を象ったまま、しばし考えるそぶりを見せる。
 やがて、半顔だけを晒す少女が再びエルヴィンに向き直った。

「悲しい」

 この言葉を受け、薄暗い中で輝くような緑青の瞳がゆっくりと細くなった。

「君は賢い」

 僅か、満足感が混じる声だ。薄く開かれた唇が滑らかに開閉する。

「大勢の人々を操っていたのも君で間違いない。年齢や見た目など些細なことだ。確信したよ、君が今回の根源だ」

 が溜まらずといったように笑い声を上げた。いつもと同じ、耳になじむ軽やかな声だ。しかし場違い感は否めない。エルヴィンの瞳が油断なく光るのを見つめ返し、彼女は小首をかしげる。

「わたしは何も知らない、ついさっきそう言ったはずですけど」
「それも真実だろう。だが恐らく半分だ。君自身が知らないことと知っていること、そのどちらもが混在している。知っていることだけでも話してくれればいいが、君はそれをするつもりはない。何故か、それが君にとって不都合だからだ」

 兵団団長が、腿の上置かれていた腕を取り上げ、指を組んだ。相応に荒れた指が分厚い掌に重なって折れる。

「君が少しでも顛末を話せば、我々が入手できていない情報が開示される。そこを辿ればあるいは真実にたどり着くかもしれない。たどり着けはしなくとも、現時点で不明な事柄についてある程度の解明はなされるだろう。それを不都合ととる理由は何か? 君は知られたくないんだ。"・ヨルム"の仔細を」

 人差し指が同士が擦りあうようにして蠢く。はそれを見、微笑を解かない。

「この混乱期において駐屯が管理する戸籍は確かに欠損がある。だがどうやら、彼らにとってこれは些細な問題らしい。今回の徴兵行為ではっきりしたよ。手段はともかく、二十万を越す人員の身元を割り出すのに不足がないとはそういうことだ。無論、出兵を余儀なくされた君の身元もぎりぎりに提出された。それが先程の内容だ。何故、出身と銘打たれた中継地バルトロイは村落に形態を変えたのか。ここを突き詰めれば、自ずと透けてくるものがある。駐屯、あるいは憲兵と懇意の王都商会、ウォール教の前身である宗教集団、そして何より、カルノ・コンフューザの存在だ」

 ふ、と短い息継ぎが入った。リヴァイが黙ったまま、間隔の長い瞬きを続けている。

「王都商会はバルトロイを商業拠点として使用していた。宗教集団は活動に必要な人員の確保に奔走していた。宗主カルノ・コンフューザはマリア陥落の前に行方不明になっていた…、この断片的な情報が複雑に絡み合い、君はあそこに入れられていた。自主的にではなく強制でだろう。死亡した他の人々も同じだ。そこでなにが行われていたか…、ここまでの仮説を踏まえてならば、それは想像に難くない。口にするのはよしておこう」

 が一度、ニコ、と笑みを強くした。頬に薄く刻まれた笑窪は程なくしてまた薄くなる。エルヴィンの視線がそれをなぞる。

「そして、君は出てきた」

 が少し顎を引いた。露出した目渕に睫毛の影が溜まる。

「同じように監禁されていた人々の怯え方と君の本質的な人となりから察するに、あの男、主立って反抗的な態度を見せていたカルノ・コンフューザも、君の指示で動いていた可能性が高い。彼は盛んに、商会へ連絡を取れと叫んでいた。その名を出せば何らかの接触があると踏んでいたのだろう。それが果たされたかどうかは今更振り返ったところで確認は困難だ。だが、ひとつだけ確かなこと。それが君の戸籍だ」

 エルヴィンが唇を僅かに舐めた。再び、僅かな息継ぎが入る。

「君の名は君自身の口から聞かされ、公的書類での確認は不可能だった。しかし、出兵に当たり戸籍の上表は必須だ。やむなくか故意か、君の申告内容に基づいた戸籍が作成された。そして君は先の作戦において、"・ヨルム"として出兵し、帰還した。この記録は何よりも優先され、手筈で言えば君はこのまま東方側領土へ送られるだろう。そして、徴兵や巨人といった脅威から遠のき、比較的安穏な人生が約束されてゆく」

 指が解かれた。再び腿の上に戻った指先が、トンと一度、硬い筋の上を叩く。

「それを為すには、それまでの君を知るだろう人間を一人として生かしておくわけにはいかない。穴倉で怯える人々を支配し、君臨し、蹂躙していた人物が自分だと露見するわけにはいかない。だから殺した。一人残らず。君にとって領土奪還作戦は命を賭した勝負であり、都合のいい舞台だった」

 エルヴィンが僅かに背筋を正しなおした。彫りの深い顔に載る瞳が光る。

「君は、やりなおしたかったんだ。はじめから全部、何もかも。持てる全てを捨ててでも」

 ビュウ、とひときわ強く風が吹き込んだ。突風のように差し込んだそれは少女に被せられていた上掛けをめくり上げ、三者の髪を弄び、散々暴れた後に霧散する。きっちりと分けた髪を軽く撫でつけながら、エルヴィンがリヴァイを振り返った。

「窓を閉めてくれ。少し冷える」

 指名された兵士長は目付き鋭く黙ったまま壁から背を浮かし、寝台を迂回して窓辺に立った。やや喧しい音を立てて窓枠は揺らされ、やがて乱暴に閉められる。ガラスが僅かな振るえを残しながら共鳴するのを背に、リヴァイは再び壁際に戻った。
 むき出しになった少女の下半身へ、兵団団長手ずから捲れた上掛けを正してやる。粗末な病院着は変わらず、枯れ木のような手足に眩しく光る白い包帯が頑丈に巻かれている。血は滲んでいないが、両足共に添え木が固定され、特に右腿は付け根から足首まで固められている。僅かに隙間から垣間見える皮膚はどれも青や紫色だ。酸鼻を極める有様に、エルヴィンの目がすいと細くなる。

「こんな風になりながらも、君は一人生き残った」

 再びと目を合わせ、生真面目な顔が真摯に言う。

「ここまでのすべては、あくまで私の想像や仮説にすぎない。君が常軌を逸した精神力の持ち主と仮定した話だ。無論、不審な点は幾つもあるし、疑うべき余地も残されている。恐らく一連に関与しているのも君一人ではないはずだ。だが、各々を紐付ける確たる証拠はなにもない。今後君が語りでもしない限り、これ以上あの岩や死んだ人々、その目的、存在しないはずの村や消えた宗教家の思惑について追求することは出来ないだろう。君の勝利だ」

 この言葉にも、の表情は動くことなく、先ほどと同じいっそ穏やかな微笑を続けていた。否定もせず、肯定もしない彼女の意向を観察して、暫し。静まり返る室内で軍人二人の視線が少女に集中する。その沈黙を破ったのは、やはり兵団団長である。
 彼は、と目を合わせたまま、やおら軽く首をかしげた。さて、とそれまでとは打って変わった声で言う。

「そして、ここからが私の本題だ。君は我が団のルカ・ティランを殺害した」

 言うなり、無骨な指が団服の胸元を探る。やがて現れたのは三者三様に見覚えのある、あの小銃だった。

「照合は既に完了した。ルカの心臓を貫いていた弾丸は間違いなくこの拳銃から放たれたと。そしてこれは、君が領土奪還作戦時に王都商会の寄贈品から拝借したものだ」

 そうだね、と念押しのように語り掛ける。少女はいまだ無言だ。気にした風もないエルヴィンが、古ぼけた筒身を指先で撫で付ける。

「理由の如何は一切問わず、王より授けられし兵団員の殺害は第一級の罪だ。このまま君は、領土奪還作戦の英雄から一転、軍人殺しと罵られる罪人に身を窶す事になる。…そこで、提案なんだ」

 はじめから今まで、一切に穏やかさを崩さない男の目に別の光が点る。内側から光を当てたようなそれは、底まで透かせそうな深い緑青の中で、鈍く、得体の知れない瞬きを散らす。肉の癖に硬そうな唇が両端をあげたまま、再びゆっくりと開かれる。

「兵士にならないか?」



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