MONSTER


 30.君が代は、


 の右眉根が上がった。しかし一瞬で元に戻る。リヴァイがつめていた息を吐き出した。

「…恩赦か、」
「そうだ」

 端的な指摘に頷きつつ、視線は相変わらずを見る。親子ほど年の離れた二人ほんの刹那、仇敵のようににらみ合った。やがて、男が傾けがちだった首を正す。

「王命により軍へ志願し、見事訓練課程を終えた罪人は犯した罪を購ったとする。…まぁ、成り立ちからして適用されることの少ない法だが、機能それ自体は生きている。特に君は、調査兵団の一人を奪った。わが身を呈して補充に努めれば、この恩赦は恐らく罷り通るだろう」

 リヴァイが黙ったまま腕を組みなおした。エルヴィンが少女の瞳を深く覗き込む。

。君には徴収兵としてまず訓練兵団へ入団してもらう」

 穏やかに語るエルヴィンのこの言葉にも、は微笑を崩さずにじ、と耳を傾けている。両者はそのまま、再び相手の反応を待つ構えを取る。ややあって、先に動いたのはまたしても兵団団長である。薄い笑みを弛ませ、 と同じ微笑を模る。

「君にとっても、そう悪い話ではないだろう。期間は他の志願兵たちと同じ三年、カリキュラムや待遇も全て同期たちと同列に扱う。君が洩らしでもしない限りそうとわかることはないから、そこは安心して欲しい。同年代 の子達が沢山いる環境だ。きっと素敵な友人も出来ると思うよ」

 滑らかに語る口調は一旦そこで途切れた。締め切られた室内は話し声が途絶えた途端、息が詰まる。シンと静まり返る中、互いの呼吸の音だけを聞きながら、暫し。向かい合う二人は無言で視線を遊ばせている。が瞬きをするたび、片目しかない顔の上で上向いた睫がひっそりと震える。わずかに、埃が付着している。そこを見遣りながら、エルヴィンが薄く息を吸う。

「だが、君が訓練兵団を無事卒業した時に、他の同期らと同じように所属を選ぶことは出来ない。君には必ず調査兵団へ所属してもらう」
「わたしを?」

 小首を傾げが問う。表情は変わらない。だが声音に僅か嘲笑が混じる。端から馬鹿馬鹿しいと言いたげなその言葉にも、エルヴィンは特に反応を寄越さない。兵団団長は再び、相応の年齢が刻まれた顔へ穏やかな笑みを張り付かせた。

「君は、どうやら死を忌避しているらしい」

 節くれだった指先が顎を撫で、そのまま喉元を辿り、首筋を軽く揉み込む。少し腰を浮かし、固い椅子に座りなおす、その一連ですら滑らかだ。高い鼻梁が息継ぎに伴って膨らむ。

「勿論、君だけじゃない。普通の人間なら多かれ少なかれ誰だってそうだろう。マリア陥落後は特に、そういう切迫した感情を隣人と捉える機会も増えただろうしね。我々調査兵団も同じだ。いや、より顕著といってもいい 。死にたくない、生きたい、そういう思いを抱きながら日々巨人どもと戦っている。なぜなら我々は誰一人として安穏とは死ねないからだ」

 の首が垂直に戻った。エルヴィンが指を組みなおす。

「この兵団へ所属すれば最後は必ず巨人に食われて死ぬ。例外はない。無論私とてそうだ。いずれは生きたまま四肢を引きちぎられるか、それとも頭から噛み砕かれるか、じわじわと嬲るように腸から引きずり出されるのか 。いずれにせよ、あのひどい臭いのする口の中で息絶える。個々の技量によって遅いか早いか、それが変わるだけに過ぎない。最たるものが彼だ。君をこんな風にした男、人類最強と呼ばれる彼はそう簡単には死なないだろう。だが、いずれ死ぬ。例外はない」
「…勝手に殺すな、」
「まぁ、不確かな未来の話さ」

 だが、いずれ来る。そう言い於いて、エルヴィンは改めてに向き直る。横たわる少女の肢体を白々と眺める。リヴァイには覚えのある目だ。馬や立体機動装置を改めるとき、この視線になる。使うに値する具合かを値踏みする目だ。やがて、薄い吐息が落ちる。

「君は恐らく、そう優秀な兵士にはなれまい。怪我の回復力はみたところ並、総体力は平均よりやや劣るだろう。訓練如何でその辺りは改善されるかもしれないが、君の年頃に飢餓を体験すると筋力もつきにくい。せいぜいが身の軽さを生かしての馬術や立体起動だろう。であれば、団内では陽動か霍乱を担ってもらうのが妥当だ。自らを囮にして巨人の注意を最大限逸らし、輸送物資や陣形を守る最も危険で消耗の激しい班だ。一回の壁外調査で彼らの凡そ三分の一は帰らない。だがなくてはならない班だ。君には是非、ここで活躍して欲しい」

 滑らかに言い切る口調に口を挟む隙はない。す、と息を継ぐ。その間でさえ、誰もなにもいえない。

「この班は、君に殺されたルカがいた班でもあるんだ」

 惜しいね、と今度視線は悲しげに伏せられる。

「彼は優秀な兵士だった。生い立ちや素性はどうであれ、斥候と対巨人戦では実に頼もしい存在だったよ。その彼も、調査兵団の不文律に違わずやはり死んでしまった。ただし、巨人ではなく君に殺された。さぞ無念だっただろう。軍人が死場と定めた戦事以外で死ぬなど、甚だしく無意味で、愚かなことだ。そしてその張本人たる君は、ともすれば殺人という第一級の罪で裁かれようとしている。通常なら極刑は免れまい。それは、卑怯だと思わないかい?」

 の笑みが消えた。代わりのようにエルヴィンが微笑む。今迄で一番、深い笑みだった。

「君には是非戦場で死んで欲しい。縊死や斬首などとつまらない死に方ではなく、生きながら肉を食まれる凄絶な死を遂げて欲しい。あっさりと初陣で散るのか、もしくはしぶとく生き永らえるのか、それは君に任せよう。 私は見てみたいんだ。君がそれほどまでに固執する、生きたいという思いの力がどれ程のものなのか。是非とも私に見せてくれないか。それはきっと、この長い戦いの糧になるだろう」

 しばらく、誰もなにも言わなかった。微笑むばかりの兵団団長へ、二対の瞳が向けられている。色の違う瞳に応えることなく、暫くを微笑で返した本人は、やがてさて、といい、それまでの表情を引き締めなおした。唇を真一文字に引き絞り、固く頷いてみせる。

「長々時間をとったね。私の話は以上だ。今はまず難しいことはさておいて、よく養生してくれたまえ」

 もういくよ、といい、屈強な身体が滑らかに立ち上がった。殆ど音もない。一度、なにもいわないの旋毛辺りを見下ろしてから、きびすを返した。二の腕にある重ね翼の縫い取りが光る。修繕が繰り返された兵団の上着をなびかせ、戸口へ向かう。目で追うリヴァイに微笑みかけながら、取っ手に手をかけた。

「お前はもう少しいるだろう?」

 決まりきったことのように言い切り、返事も待たずに戸を開けた。現れた見張りの兵士が拳を左胸に叩きつけ敬礼するのに軽く頷いて返している。

「ねえ」

 よく響く声は、退出しかかっていた兵団団長の身柄を押し止めた。気安く肩越しに振り向く男を、少女が切り込むようにして下から見上げる。

「あんた何考えてんの?」
「…さて、」

 問われた男が空を見て顎に手をやる。何だったか、と呟きながら考える素振りを見せたあと、陽の光を浴びた 柔和な笑みを浮かべ、またを見た。

「君達の祈りの言葉。いい言葉だ」

 そして暇の挨拶をし、金の髪は日の光が強い廊下側へ溶けるように消えていった。






「…ふ、ふっ、ふふふふふっ、」

 エルヴィンが姿を消して、暫し。無言が渦巻いていた室内に突如音が持ち上がった。リヴァイがを見る。 少女は侭なるほうの腕を取り上げ、口元に沿え、笑いをこらえている最中だった。捉えかねたらしい吐息が漏れている。

「…お前にとっちゃ笑い事か?」

 リヴァイの台詞に視線が返る。ふん、とひとつ、小さな鼻が膨らんだ。

「クソ野郎がむかし言ってたことを思い出したの。まさにその通りで、なんかウケた。気に障ったならごめん」

 抑揚の一切ない言い方にリヴァイの無言が返る。気にした風もないが、はぁ、と肩を竦めた。

「あー、まじ肩こった。ねえ、もう話は終わりでしょ。とっとと出て行ってよなんでまだいるの? ウザいんだけど」
「まず、」

 語尾に被せて一言、そして一歩踏み出される。そのまま、もはや耳慣れした軍靴の音も高らかに、へ近付いてゆく。そして彼女を痛めつけた蹴りが再度振るわれた。標的は寝台だ。不穏な音が轟く。

「その口の利き方だ。直せ。今ここからだ」
「…厭って言ったら?」
「殴る」

 間髪いれずに返った言葉にが鼻を鳴らした。

「死ねよおっさん」

 ドヂッ、と殴りつけられた枕がなった。羽毛を通り越し寝台の枠まで衝撃が抜けたらしい。拳の肉と硬い枠がぶつかる音だ。顔すれすれを通った軌跡にが睥睨を返す。

「二度はないぞ。直せ」
「どうしてですか?」

 小首を傾げ、が言った。少したどたどしい、澄んだ声音。壁外に出る前の彼女のトーンだ。リヴァイが拳を取り上げ、振りながら、鼻を鳴らす。

「俺はお前より遥かに偉い。軍は規律と階級と節制だ。まずそれを叩き込んでやる。傷は根性で治せ」
「まあ、そりゃ大変。ご苦労様ですこと」

 懲りずに口を開く彼女の顎を掴み乱暴に上向かせる。よく似た瞳同士がぶつかった。

「いいか、よく聞けクソガキ」

 間近からの凄みにも、片目しかないの瞳は変わらない。不穏な光を孕んだまま見つめ消してくる幼い目を睨み降ろし、リヴァイの顔に影が落ちる。

「俺は今でも反対だ。ガキでも女でも関係ねぇ、お前みたいなやつはとっとと殺しちまったほうがいい。あの気 狂いの言うとおり、お前は手のつけようの無い化け物だ。生かしておいたら、どうせその内手に負えなくなる。…俺はそう言った。覆したのはエルヴィンのクソと、」

 指に、力が込められる。肉のない小さな顔を突き破りそうなほど、五指が食い込んでゆく。の目は不動だ。

「ルカの野郎だ」

 が突然犬のように首を振った。固い指の指があえなく外れる。赤く刻まれた爪あとを気にした風もなく、再び表情の消えた顔で彼女は稚く首を傾げた。

「金髪?」
「…あいつの最後の台詞だ」

 肺に血が溜り器官を圧迫したのだろう、聞き取りにくい声だった。口にはせず、そう反芻するリヴァイもまた、表情の消えた顔でを見下ろす。満身創痍の少女は臆することなく彼を見返している。目晦ましの薄皮一枚の下で猛り、燃え燻る炎を孕んだ目だ。これが消える日は、来るのだろうか。それは自問に等しい。ただ彼は言ったのだ。


 目です、兵長。

「彼女の、目、兵士の目だ。…きっと、向いてる、」

 俺よりも、


 ―――そういい、圧し掛かってきた身の重さを、今でも鮮明に覚えている。リヴァイがを掴んでいた手を開き、また握った。短く整えられた爪がそれでも強く掌に刺さる。

「軍人の今わの際の言葉だ。尊重してやるさ。…お前を鍛えてやる、徹底的にな」

 死ぬ気でやれ。
 リヴァイが吐き捨て、そのまま、言葉は途切れた。あとは、彼らだけが共有する特有の瞳が口ほどに物を言いあう。笑いを収めたは立ち塞がるように佇むリヴァイを見つめている。取り繕う気を捨てたのか、片目ですら何が言いたいか明確にわかるほどの視線だ。睥睨する少女に怒れる兵士長。奇妙な組み合わせがしばし、無言で対峙する。降り注ぐ陽光に雲がかかったのか、室内を一瞬の影が過ぎる。閉じた窓硝子が吹きすさぶ風の振動で揺れ、キキ、と僅かに鳴った。
 やがて、今度先に動いたのはだった。一度肩を竦めて顔を傾ける。首を逸らして顎を天に向け、盛大に鼻を鳴らしてみせた。

「まあ、いいか。わかった。…あ、わかりました」

 何度か頷きながらしおらしく言い直すが油断なく光る瞳は変わらない。リヴァイの目が鈍く瞬く。

「…何を考えてる、」

 ふふ、と少女が笑った。

「この馬鹿みたいな流れが何処から始まったのか思い出してる」

 今度、リヴァイの拳は動かなかった。得体の知れない薄笑いを見下ろし、探るように見つめたままだ。が肩を揺らした。

「途中まで順調だった。でも結局こんなことになってる。ルカ・ティランもひとつ。わたしがしくじったのもある。でも、多分、あいつ。あれだな」

 あれ、そう彼女が指すものはひとつしかない。曲がりなりにも言わんとする相手は兵団団長である。リヴァイが口を開きかけるが、何を言わずにまた閉じる。また殴られるかもしれないけど、と少女が笑う。

「今のでよくわかった。あんた何も分かってない。そんなおめでたいやつに口きいたって無駄だし、もう死んだ奴の願いとか聞かされてもまじ困る。わたしと金髪は他人じゃん。あんたもそうでしょ。それともなに、軍人同士って多少くち利きゃ全部友達なの? だとしたら超ウケるんだけど」

 黙りこむリヴァイの反応を見て、暫し。あれ、とが微笑んだまま首を傾げた。

「今度は怒んないんだ。意外」
「…俺が何をわかってないだと?」
「全部」

 くすくすと笑う少女の髪が、彼女が動くたびに流れるように動く。少ない光を反射して流れる毛先が肌を刺激 するのか、細い指が落ちかかる前髪を鬱陶しげに掻き回した。雑に乱れた毛束はしかし、時がたてば重力に従い自然と揃って下を向く。また伸びたらしい透き通るような黒髪は絡まることなく元に収まった。そこまで、リヴァイの言葉は無い。むずがゆいのか、相対する少女は今度、当て布をされた半顔を乱暴に掻き毟りだした。

「あの男がただの報復でわたしを兵士にすると思うの」

 ガリ、ガリ、と指が皮膚と、そこに貼られたガーゼを掻き毟る。肉に食い込むのも構わず、短く切られた爪が 何度も皮膚を掠め、生まれた赤い筋が濃くなってゆく。
 怪物は、と涼やかな声が響いた。

「本当の怪物は、怪物らしい顔をしていない。笑いながら殴ったり、泣きながら舌を出したり、そんなことは決 してしない。それは、おもてには出てこない、我々の眼には映らないから。覗こうとしてもこちらを向かない、 見つめられても気づかないから。言葉を聞くころには遅すぎる、その時は既に食われているからだ。身も、心も 」

 ベリベリッ、と派手な音と共に、の指がついにサージカルテープを引き剥がした。そのまま、巻かれた包帯も止め具を無視して頭から抜いてしまう。残る眼帯をも外し取り、丸めて纏めたそれを寝台脇へ無造作に放り 投げた。

「むかしクソ野郎に言われた台詞。ね、ウケるでしょ」

 あらわになった少女の顔がリヴァイに向き直った。赤黒く腫れあがった皮膚に治りかけの紫斑、擦過傷が鍬で 掻いたように顎から頬を走る。瞼は溜まった血を抜かれたのか、わずかに縫合の跡がある。直視しがたい惨状の中、変わらぬ二対の黒い瞳がリヴァイを見る。ギョロ、と蠢いて、虹彩に点となって燈る光がちらついた。

「だからあんたは怖くない。あいつに比べたら、あんたは化け物みたいに強くたってただの人だ。怪物にはなれない。…わたしに毛布をくれたしね」

 黙りこくるリヴァイに向け、がにこりと微笑んだ。はにかんだ、少女らしい笑顔だ。一瞬だけそう遠くな い記憶が脳裏をよぎり、やがて消えた。

「じゃ、これからよろしく。おじさま?」
「……兵長と呼べ、」

 苦い言葉に被さるようにして、澄んだ少女の笑い声が響く。





ー第一部・了ー


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