「足を折るか」
その声は唐突に、伏せられたルカの背後から響いた。しゃがれた男の声。何度か聞き覚えのある声に全員の視線が向かう。最初、反応したのはだった。薄い笑みのまま軽く頷く。
「それがいいかも。三人がかりでも辛そうだし」
「腕は?」
「任せるわ。無駄に苦しませる必要はないわよ」
ルカの後ろで、男が頷いたらしい。圧し掛かっていた重圧がふと軽くなる。だがすぐに、右足に厭な重みが掛かった。膝の裏側を踏みつけられている。無意識にもがく足が両手に握り締められたのを感じる。
「やめろ!」
抜け出す隙を伺っていたルカの体が再び猛然と暴れだした。顎をそらせ、叫ぶ。立体機動では四肢を無尽に使用する。特に、反動を殺し壁を蹴りあがるのに脚力は必須だ。このままでは、
めりっ、と骨が軋んだ。関節ではない。ちょうど腓骨のあたりだ。めぎっ、ミシッ、と枯れ木を砕くに似た音がして、骨が、ゆっくりと曲げられてゆく。
「ぐ、がッ、」
背筋から脳天を駆け上がる衝撃にルカがうめく。叫び声を上げなかったのは肺の辺りまで圧迫されている所為だ。痛みはすぐにはやってこない、だが来れば、鼓動と共に蔓延ってゆく。脂汗が全身に噴出した。奥歯をかみ締め、再び顔を上げた。どうやら両足までとは考えていないらしい。表情の変わらないを睨む。
「痛い? ごめんね」
そりゃ痛いよね、そう呟き、ルカの背後を見遣る。足の上から立ち上がり、少女の近くへやってきた男はそのまま俯きがちに佇んでいる。痩せぎすの中年の男。あれだけ、暴力的だった男だ。
「あとは?」
静かに、少女に尋ねる。彼女は笑顔で首を振った。
「もういいわ。ありがと。あとは全員で飛んで、それでおしまい」
「そうか」
「うん。ご苦労様」
「うん」
うん、と頷いて、黙った。痩せぎすの、無精髭が目立つ長身の男。ルカが見つめているのに気づいたがふと振り返り、さて、と口にした。
「さよならね、ルカさん。言い残すことがあるなら聞くわよ。多分忘れるけど」
「お前、お前、ら、は、なんだ、なんなんだ、何なんだ一体!」
「? …ああ、これ?」
これ、といって、無造作にカルノ・コンフューザの袖を引く。男のほうは無反応だ。されるがままで、あらぬほうをみている。暮れてゆく陽に翳る街並みに、もうもうと棚引く硝煙の幕、立体機動で動く影ももう見えない。建屋を焼く火炎が花のように咲いている。
「名演技だったでしょ。お陰でいい目晦ましになったわ。まあめちゃくちゃ痛かったけど」
そんな背景を背負い、少女はくすくすと笑う。悪戯がばれた子供となんら変わりない、しかし、後ろめたさすらない、無邪気な顔で。
「…全部、嘘だったのか。本当に全部、」
「だからそう言ってるでしょ。しつこいな」
「ッ何故だ!?」
「何故って」
肩を竦める。
「わたしがこうだってばれたら、出来ることも出来なくなるでしょ」
ぺろ、と舌を出して、取り上げていたカルノの腕を今度は乱暴に引いた。強くとはいえ、少女の力だ。せいぜい大の大人がたたらを踏む程度。しかし、カルノ・コンフューザはそのまま倒れこみ、の前で膝を突いた。両手を投げ出し、四つん這いの姿勢をとる。その姿は、あの岩を出た直後の彼らと同じだ。立ち位置が入れ替わっていることを除けば。が鼻を鳴らした。
「この男は最初からこうよ。蹴れといえば蹴るし、言えといえば言う、黙れといえば黙ってたでしょう? わたしは、理不尽な暴力に怯え、それでも従う、健気で可愛い哀れな女の子」
「…お前は、何がしたいんだ、」
「それはさっき言ったわ。同じこと何度も言うのは好きじゃない」
胸に手を当て、三文芝居の謡のようにが言う。その時、オーーーンというひときわ大きい巨人の咆哮が轟いた。建屋を駆け上がり、びりびりと肌を痺れさせる。縁にも地鳴りのような振動が伝う。が背後を振り返った。短い髪が風に煽られる。ルカを瞠目させたあの瞳で破壊されてゆく街を見下ろし、やがて、ここまでね、と呟いた。
「時間切れよ、ルカ・ティラン。もうちょっと話してもよかったけど…」
ドン、ドン、と激突音と共に塔が揺れる。業を煮やした巨人が体当たりを始めたようだ。この量であれば、調査兵団の掃討対象になりうる。煙弾さえ打ち上げれば人は来るだろう。市民兵の作戦行動は日没までだ。年端もいかない少女が独り、こんなところに居れば、よほどのことがない限り兵団員は心を動かされる。
「それが狙いか…、」
ルカの呟きに、もうの返答はなかった。彼女は無言で顎をしゃくった。ルカを押さえつけていた男二人が意図を汲み、荒い息を繰り返す兵士を無理やりに立たせる。片足に走る痛みに顔を顰めながら素直に従うルカに片眉を上げつつも、が微笑んだ。そして、蹲ったままのカルノへ目を向ける。
「立って」
返事がない。やや間があった。唐突にの足が翻る。棒のような足が四つん這いの男のわき腹を蹴りつけた。肉を打つ音が響く。痩せた男の体がよろけた。
「早く」
返事はない。再びの足が男を蹴りつける。威力はあまりない。ただ、行為それ自体に意味があるのだ。やがて、聞こえてきたのは、啜り泣きだった。
「…、」
嗚咽の合間に、男が少女を呼んだ。振り上げた足を降ろし、が首を傾げる。男が顔を上げた。涙と洟で汚れきった顔が子供のようにすすり泣いている。歪んだ顔で、四つん這いのまま進み、佇む少女にすがりついた。
「お、俺は、俺は、死に、死にたくない、」
が笑みを収めた。泣きつく男を無言で見詰めている。
「ど、どうしても、どうやっても、忘れられないんだ。どうしたらいい? どうしたら助かる? あんなふうに落ちて死ななきゃ、俺はやっぱり助からないのか? なあ、教えてくれ、教えてくれよ! 教えてくれ! 俺はどうしたらいいんだ!!」
叫ぶ男を見つめながら、ルカが動くほうの足を確かめた。今か、と逡巡し飛び出しかけたところで、の顔が素早くこちらを向く。後ろ手に両腕を取る男が身を固くしたのがわかった。先程より拘束が強くなる。その事実より、ここまで警戒心を保つ少女の胆力にルカが言葉を失った。最初からずっと、彼女から立ち上るように漂う気配がある。それは、その小さな体からは考えられないほど猛り、燻っている。が再びカルノに向き直った。す、と小さな手を持ち上げ、涙でふやける男の瞼に宛がう。
「目を瞑って」
オオーーーン、と再び巨人が哭いた。地鳴りが響き渡る中、少女の声は澄んで響く。
「ほら、暗い。暗ーい、でしょう。暗くて何も見えない。何も聞こえない。わたしたちはいつでもあっという間に、あそこに戻ることができる。眠る時も、瞬きする時も、瞼が下りればすぐそばにやってくる。何度でも何度でも、何度でも」
あなたが生きている限り。
「…ああ、」
呟いた男の両手でよろよろと持ち上がり、すがるようにして、瞼にある少女の手を包む。現れた瞼はいまだ閉じたまま、涙を流し続けている。そして、カルノの顔に笑みが広がった。
「そうだな」
も笑みを返している。いつもと変わらない、いっそ自愛に満ちた優しげな顔でにこ、と笑み、そして、男に立つように促した。今度素直に従った男が立ち上がり、ルカに向き直る。洟をすすりながら、いまだ涙の流れるその顔に先ほどの恐慌はない。憑き物の落ちたように穏やかな顔で、拘束される兵士に寄り添った。
が一歩、退く。道を明けたのだとわかる。
「…やめろ、」
ルカが口を開いた。聞こえていないのか、脇を固めた男に引きずられるまま、団子のようにして四人の男が進んでゆく。
「なぁ、目を覚ませ! こんなことをして何になる!?」
返事はない。微笑んだままのの脇を過ぎ、縁の終わりが近付いてくる。全力でもがく兵士を押さえつけ進むのは三人掛かりでも骨が折れる。ましてや、痩せぎすに衰弱した人員ではなおのこと。だが、一歩一歩、確実に終わりは近付いてくる。
「あの子供の、なにがそんなに、何がそうさせる!? 子供だぞ!? 世迷いごとなど黙らせればいい!」
荒い息を吐きながら絶叫するルカに、同じく息を乱れさせたカルノが初めて顔を向けた。流れ落ちる涙の粒が滴る汗と合流する。
「無理さ」
ぐ、と脇を占められた。関節は全て固められている。膂力だけではこの拘束は振りほどけない。頭の冷静な部分がそう語りかけてくる。
「俺らはみんな、死ぬしかない。あいつがそういうなら、そうなんだ」
視界に、塔の下が写り込む。夥しい巨人の数だ。大小、さまざまな表情が、一心不乱にこちらを見つめている。手を伸ばし、もがき苦しみ、渇望するようにしてこちらを見る。縋っているようだ。ルカのつま先がついに縁のふちを超える。
「目を、目を覚ませ!」
顔を逸らし、全員を見る。その全ての顔が涙で濡れている。こらえきれない嗚咽を漏らしながら、もがき続けるルカを抱え、四人が佇む。風が強くなってきた。カルノが顔をめぐらせる。を振り返ったらしい。
「ありがとう」
すまなかった。
続けざまそう謝罪した男に、は笑みを返しただけだった。ルカが叫ぶ。
「カルノ・コンフューザ!」
ず、と体が前に倒れこむ。残る足で必死で踏ん張るルカに耳元に、荒れた、しかし吐息のような声が滑り込んできた。
「俺は、カルノなんて名前じゃねぇよ…」
「…なんだと、」
虚を突かれた言質に一瞬ルカの動きが止まる。思わず肩越しに相手をみる。その時だった。
「さようなら」
トン、とあまりにも軽い衝撃だった。もみじのように小さな感触が、背を押した。